朝にperformance shellのジャケットを着れば

marmotのGORE-TEX performance shellのジャケットを着ているんですけれど、なかなか良いんですよ。もともとperformance shellですし、しかも型落ちで買ったので、値段もそれほど高くはありませんでしたし、もう数年は着ているのですが(いやもちろん、印度の行者でもあるまいし、数年間脱がずに着続けているわけではありません)、だいぶお気に入りです。

何かね、ああ、もう死んでも良いなあ、って思うんですよ。そういうことってありませんか? こう、良い音楽を聴いたり、温かいお湯を飲んでほっと息をついたり、やけに綺麗な夕日を見たり、道を歩いている蟻を眺めたり、performance shellを着て、雪のなかを歩いているのに身体はぽかぽか暖かかったり。もう、そういう一瞬が一度でもあったら、いまこの瞬間、スイッチを切ってしまっても良いかな、と思ったりするのです。それはちょっとしたプラスのお話だけれど、マイナスでも同じだと思うんです。ああ、頭が痛いな、吐きそうだな、いまちょっと吐いたな、飲み込みなおしたは良いけど喉が焼けそうだな、とか。何だか、そんな瞬間が妙に愛しくて可笑しくてってこと、ないでしょうか。

ちょっと飛ぶけど、自我って、たぶん、そんなに大したもんでもないんですよ。もちろん、だからって悟ったりできる訳ではないし、いろいろ苦しんだり恐れたり悲しんだり悩んだりするし、下らない、価値のない自我なんてものに引きずられる、そんな矮小な在り方にこそ愛しさを感じたりもするんですけど。でも、やっぱりそんな大したもんじゃない。だから、一つでも何か、ああ、良いなあ、という一瞬があったら、いや、ただ「ああ」っていう一瞬があったら、それでけっこう、存在したことに対するつり合いは取れるのかなあなんて思います。

生きていることの喜びって何でしょうね。けっこう、生きているってしんどいですよね。罰ゲームだから投げだすわけにはいかないけれど、それにしても、いろいろ勘弁してくれよ、と正直思うことばかりです。だから、ぼくらは偽物の救いとやらを持ちだしてくる。そしてもちろん、偽物の救いなんて何の役にも立ちはしません。だいたい、ぼくらの争いなんて、この偽物の神をぶつけ合うことでしかなかったりします。でもそれなら、ほんとうの救いって何でしょう。ぼくは、それは存在することそれ自体のよろこびだと思うんです。砂漠で水がなくて太陽に焦がされて、ああ、俺は水がなければ生きていられないんだな、凄いな、大したもんだな、面白いな! と思って死ぬこと。それが存在することの喜びです。

存在しないことへの恐怖を超えてぼくらに与えられるのは、存在が必ず失われることへの恐怖です。救いなんて、最初から最後まで、どこにもありはしません。にもかかわらず、ああ、俺は確かに在ったんだ! という驚き、その眩く燃え上がる0次元のきらめきにこそ、存在するぼくらの救いはあります。

まあ、それが真実だとかいうつもりはなくて、それが真実だと思っている訳でもなくて、だけれども、まだ暗いうちにperformance shellのジャケットで身を固めて外へ出て、吐く息が白かったりして、でも身体は暖かかったりすると、どこかで笑いながら、夕べに死すとも可なり! なんて思ったりするのも確かなのです。

老象のように

××先生、などと書かれたメールに添付されたレポートを受け取り、他人を偉そうに評価をする。正直、そんなことを平常心でやれるような人間は、みなどこか異常だとぼくは思います。もちろん、それでお金をもらう以上、ぼくだってプロとしてきちんと仕事はこなします。けれども、やはり、反吐を吐きそうになります。では、評価などやめて、全員に優をつければ良いのかといえば、そういうことでもないのです。

ルールを表面的には莫迦にしつつ、結局のところ、そんなルールによって成立しているこの社会で自分が生きていることに何の疑問も感じない。もらえて当然のクリスマスプレゼントのような人生。気に入らないプレゼントであればサンタが悪い自分の人生。そんな連中には、ただひたすら、嫌悪感しか覚えません。

ぼくは、下らないルールだと分かっていて、なおそのルールに自分を合わせ、所詮はゲームだよなどと嘯きつつも適当に、あまりにも軽々と自分を合わせ、けれども内臓は捻じれて腐って、それでもへらへら笑いながら生き残っていく誰かさんが好きです。ぼくは、下らないルールを軽蔑し、憤怒と諦念をもって自らをシステムから排斥し、やがて老象のように誰も知らないどこかへと消えていく誰それさんが好きです。

評価などやめ、いっそのこと全員を不可にしてしまう。あるいは全員を優にしてしまう。それはそれで、お話としてはおもしろいかもしれません。だけれども、所詮、そんなことをしても、それはこのぼくの物語にしかなり得ません。ぼくは、単なる舞台背景に過ぎない。だからけっこう、反吐を吐きつつ、極々常識的に成績をつけたりします。けれども、勝手な言いぐさであることは承知でいえば、優がつこうが不可がつこうが、そんなことは、みな、些事です。

けれども、もしほんとうにそれが些事なら、なぜぼくは反吐が出そうになるのでしょう。思うにそれは、つまるところ生きるということは、些事の連続で、しかし同時に反吐が出るようなことの連続でもあるからです。

* * *

ずっと昔、最初の大学にいたころ、定期試験のときに、ふと、すべてが莫迦莫迦しくなったのです。その講義の先生が、テスト用紙を抱えて大教室に入ってきたとき、ぼくは隣に座っていた相棒に、――ああ、えっと、俺、帰るよ。と言いました。そうして先生と入れ違いで教室を出て行き、

……出て行き、結局いまだに、どこかをうろうろと歩き回っています。

シャッターを切る

街に出るたびに、そこに氾濫する暴力的に発信される暴力的な内容の信号に撃たれ続け、心身ともに疲れ果てます。疲れ果てますが、疲れた部分を遮断してしまえば、自分の内側は守ることができます。でも、「内側」なんてほんとうにあるのでしょうか? 無いような気もします。無いような気がしつつ、それでも「外側」を切り離していくうちに、いずれはすべてがなくなってしまいます。基本的に、ぼくは人間を信用していません。生きるのって大変よね、などと口で言っても、所詮はまともに就職をしてまともに結婚をして、あるいはまともに表通りを歩ける連中など、糞のようなものです。そしてもちろん、何だかんだと言いつつも、へらへら笑って生き残っているこのぼくもまた、同じように糞野郎です。

糞野郎同士、仲良くしなければなりません。仲良きことは美しきかな、です。白樺派だってそういっています。A面B面。クラウドリーフ君っていつも何言っているのかよく分からないけれど義理でつき合ってあげているのよ。どうもありがとう。

けれども、ただへらへら笑っているだけではありません。最近疲れてしまっていたので、しばらく研究もお休みしようかな、などと思っていたのですが、どうもなかなか、そんなに甘くはありません。ここ数年、自分が追いかけているナニモノかに対して名前をつけようと苦労していたのですが、ほんの数日前、それをようやく見つけることができました。これでまたしばらくは、研究を続けるしかないようです。

研究なんていうものは、いつも書いていることですが、魔術と同じです。魔法を使えない人間、ただ知識とロジックを弄ることができるだけの人間に、研究などできるはずもありません。そうして、もしそれが魔術であるのなら、相手の真の名前さえ知ってしまえば、そこで勝負はついたも同然です。

とはいえ、問題は、相手もまた、ぼくら人間の真の名前を知っているというところにあります。

* * *

とてもあたりまえのことだけれど、最近、あらためて腑に落ちたこと。

多くの人びとが、パシャパシャパシャパシャ、あらゆる眼前のものごとを写真に撮っていきます。それは、時折いわれるようにその対象を所有するためなのでしょうか。どうも違うのではないかと感じるのです。撮った写真は、永遠に残ります。しかしそれは、被写体を永遠に所有したいということの表れではなく、その永遠性を反射させ、「撮っている自分」に永遠性を付与しようという欲望の表れなのではないでしょうか。撮ってしまった写真を多くの場合見返すことがないのは、ぼくらが撮っているものが、本当はそれを撮っているぼくらでしかないからなのかもしれません。

けれど、そんな永遠性など、所詮まやかしにすぎません。だからぼくらは、その幻影が薄れてしまわないように、不死への欲望に突き動かされ、シャッターを切る指を止めることができなくなります。一口飲めば、一秒命が伸びる生命の水。それが事実だとしても、そうであれば、ぼくらの不死の生は、ただひたすら生命の水を飲み続けることに費やさなければならなくなります。

シャッターを切るとき、写真がぼくらに与えてくれるのは、ほんとうは、死です。世界に向けてシャッターを切るたびに、世界は死んでいきます。撮っているぼくらも死んでいきます。シャッターを切るたびに、ぼくらは何度でも新たに死に直しています。だけれども、それもまた正しくはない。生も死も、所詮は言葉でしかありません。二元論というのは、どうにも胡散臭い印象をぼくらに与えます。シャッターを切るときのカシャッという音。それが、その薄っぺらい二元論をぺしゃんと押しつぶし、その瞬間だけ、生と死がぐるぐると煉りこまれ一様になりけれど無限の複雑さを秘めた、世界のほんとうの姿をぼくらに垣間見せるのです。ぼくのいうコミュニケーションというのは、要するにそういうもので、要するに、それだけのものです。

クラウドリーフ君っていつも何言っているのかよく分からないけれど義理でつき合ってあげているのよ。どうもありがとう。

calling

仕事を終えて家に帰り少し身体を休めると、別の仕事を片づけ始める。0時を過ぎ、気がつけば1時を過ぎている。2時になり、眠気を覚ますために洗面所へ行き、電気もつけないまま凍るような水で顔を洗う。そのまま、窓越しに届く街灯の微かな灯りに浮かび上がる、鏡に映った自分の輪郭を眺めている。3時を過ぎ、布団に潜りこむと、しばらく真暗な天井に向けて突きだした手の甲を眺め、それから、ほんの少しだけ眠りにつく。

目覚ましをかけた3分前に、必ず目が覚める。枕元の湯冷ましで頭痛薬を飲む。脳に痛みを感じる神経はない、と、いつかどこかで読んだ、嘘か本当かも分からない言葉を思いだす。いつもと変わらない朝。けれども、そろそろ、いろいろな嘘が破綻しているのを感じる朝。

存在しない神からの召命がある限り、きみの身体にはどこからか熱が流し込まれ続ける。熱がある限りきみは動き続ける。そしてそれはもちろん祝福では、ない。

* * *

ひさしぶりにぼくは、コーヒーを飲みたくなる。本物のコーヒーではなく、インスタントの、甘くてぬるい、絵具のような泥水のような、あれだ。けれども風邪をひいてしまい、裏手の山を登ったところにあるコンビニまで行く気力がない。身体のなかで熱をおこせない。古いセーターを二枚重ねて着、しかたなく本物の コーヒーなどを飲みながら、紙のノートに鉛筆で字を書いていく。誰にも届かない呼びかけ。ぼくが書きたいのは、どこにも届かないことでよってのみどこからも届かなかったところへ届く言葉だ。本物のコーヒーは熱いほどだけれど、ぼくの望む味ではない。

手元においたPHSが着信を告げ、震える。かかってくるはずのない相手からの、数年ぶりの着信。通話ボタンをそっと押す。スピーカーの向こうから届くホワイトノイズ。無言で耳を澄ませ、数分後にそっと切る。

* * *

ぼくはきみにはなれない。きみはもう誰にもなれない。きみに呼ばれなかったぼくが、いつまでもきみの呼び声でない呼び声に耳を澄ませている。身体のなかからとっくに熱は失われているけれど、存在しない神に対する戦いにおいては、すべてが逆転する。

だから、届かない声は、きっときみに届く。きみではない誰かから、ぼくではない誰かに。

a dreamer

彼女は、毎晩悪夢を見る。どうしてだかは分からない。もちろん、きみたちの収入が互いに不安定であったり、研究が進んでいなかったりと、不安になる要因は幾つもあった。けれど、それにしても彼女は悪夢を見過ぎていた。きみたちはいつも、手をつないで眠った。とはいえ、眠るのは彼女だけで、極端に眠りが浅く短いきみは、彼女の手の温かさを感じながら、何をともなくいつまでも待ち続けていた。時折、彼女の呼吸が乱れると、きみは彼女の手を握る力を少しだけ強める。大丈夫だよ、ぼくはここにいるよ。そうすると、彼女の寝息は再び穏やかになる。そうやって、彼女を悪夢から守るために寝ずの番をするのが、きみは好きだった。彼女を守れているという実感を得られる、それは数少ない時間だったからだ。

それでも、すべての悪夢から彼女を守れるわけではなかった。ほんのわずかな隙をついて、悪夢は彼女を襲う。それはきっと、彼女の才能なのだ。そうである以上、それは本人にはどうしようもなく、逃れようもない。才能というのは、大抵の場合はその持ち主を不幸にする。徹底して凡庸な人生を送ってきたきみは、そう思う。夜が明け、彼女が目を覚ます。彼女は疲れ切った顔に、それでも柔らかい笑みを浮かべ、ありがとう、ときみに言う。そっと、つないだ手に力を込める。その手を握りかえす。コーヒーを淹れるよ。そう言って、きみはベッドを離れる。

風の音が、きみは恐ろしかった。どうして、と問われれば答えに窮するのだが、とにかく、それはきみにとって耐えがたい恐怖だった。夜中、真暗な大気を風が震わせ、どうどうどうどう、空全体が振動する。毛布にくるまったきみは、ベッドの外に拡がる虚空に耳を澄ませ、身を震わせる。きみは気が狂いそうになり、彼女の身体を抱き寄せる。強く抱きしめた彼女の温かさと柔らかさを感じている間だけは、その恐怖に耐えることができる。彼女は目を覚まさず、それでも無意識に、きみの頭を胸に抱いてくれる。

彼女の悪夢は、大抵は分かりやすい、グロテスクでおどろおどろしいものだった。あるいは単純に誰か大切なひとが死ぬような夢もあったし、自分が追われたり、傷つけられたり、殺されたりする夢もあった。けれどもいちばん彼女を恐れさせたのは、傍からすればそのどこが悪夢なのか、よく分からないものだった。たとえば眩しいばかりの月明かりの下、古びたアパートの中庭で延々ジャグリングをしている男の夢、そしてたとえば、海岸に、赤や黄色といった原色に染まった、幾人かの人間の遺体が打ち上げられる夢。話を聴くだけであれば、そのどこがそれほどまでに彼女を脅かすのか、理解するのは難しい。けれどもそういった夢を見ると、彼女は飛び起き、数秒の失見当のあと、必死にきみにしがみついてきた。その凄まじく早く打ち続ける鼓動を感じながら、きみは彼女の髪を撫で続けた。

ほとんど眠らず、眠ったとしても一切夢を見ないきみは、夜の底に鳴り響く地鳴りのような風の音に怯え、彼女の手を握る。悪夢に嵌りこんだ彼女は、夢のなかに差しのべられたきみの手を必死に握り、きみのいる世界へ戻ろうとする。きみたちは、互いに助けあっていた。根本的な救いにはならなかったとしても、確かにきみたちは、互いを必要としていた。

きみは夢を見ない。自分を凡庸だと思っているきみは、だけれども、決して凡庸などではなかった。いっさい夢を見ない人間など、果たして本当に存在するのだろうか。――だから、もしかすると……。彼女の寝顔を眺めながら、きみはふと思う。――きみこそが、ぼくの夢なのかもしれない。あるいはぼくがきみの夢なのか。朝になれば消えてしまう迷妄に過ぎないのは分かっている。それでも、きみは不安になり、彼女をそっと抱きしめる。彼女は眠ったまま軽く身じろぎ、きみに身体を添わせる。

夜に、目が覚める。きみたちを脅かすものに、きみはじっと眼を凝らし、見張り続ける。

きみに伝えたい沈黙

最近、LifeLogに関心を持っている。その概念は、ぼくらの持っている技術と不死への欲望の、ひとつの見事なまでに醜く美しい到達点だ。そこに人間は存在しないが、その人間の非在にこそ、人間の匂いが色濃く残されている。

技術について語るとき、結局、(技術論者、反技術論者を問わず)技術の次元にとどまった議論にしかならないのは何故だろう。そこには常に、人間の持つ悲しみ、希望、愚かさ、そして恐ろしいまでの高慢がともなう。けれども、多くの研究者がそれを見ようとしない。

だいぶ前に投稿した論文の査読結果が戻ってきた。ぼくとしてはかなり自由に書いてしまった論文なので、リジェクトされたらされたでしかたないね、と思っていたのだけれど、意外にも高く評価されていて、ちょっと嬉しかった。ただ、査読者のコメントのなかで、筆者(ぼく)はバタイユ的な非知へと傾きすぎているという指摘があって、確かにそうだよね、とぼくは思った。

友人の彫刻家が一時期帰国して、ほんのわずかだけれど、共に過ごす時間を持てた。ぼくは最近、研究というものが持つ枠組みに息苦しさを感じることが多い。――研究って、学会発表とか論文とかでしか表現できないんですかね、もっとこう、ライブハウスとか、いやどこでもいいんですけれど、アートってことではなくて、でも何か、みんなの耳や目や肌や魂に直接伝えるようなかたちで表現できないんでしょうか。そんな、訳の分からないことを彼に訊ねた。――分からないけれど、やってみればいいじゃない。そう、彼は答えた。

大学で喋るのは楽しい。大学というシステムはまるで糞のようだけれど、ぼくはやっぱり、若い子供たちに語りかけるのが好きだ。でも同時に、語るのではなく、沈黙する講義があったっていいのにな、とも思う。瞑想とか、そういう下らない話ではなく、ただたんに沈黙する。別に、そこから何が生まれる訳でもない。ただ、ひたすら沈黙をする。じっと、耳を澄ませる。そうしてもちろん、何も聴こえてはこない。そういう講義を、いつか、ぼくはしてみたい。

研究をする、ということは、自分にしか見えていない光景を見ること、そしてそれを、他のひとに伝えるということだ。ぼくの見ている非知の世界を、きみにどうやって伝えられるのだろう。分からないけれど、でも、やってみるしかないのだろう。

ひああふたあ

用事がなければ延々部屋に篭り続けるクラウドリーフさんですが、今年は(まだ終わってはいませんが)けっこう旅行に行きました。とはいえ、どこに行っても何を見ても、何を食べても何をしても、いっさい覚えることのできない彼のことです。そもそも本当に旅行に行ったのかどうかさえ怪しいのですが、まあ、それはそれでどうでも良いことです。

ともかく、つい先日、相棒とふたりで、丸の内に近いあの駅の、改装したばかりのあのホテルに泊まってきました。いまはそこそこ混んでいるようですが、予約開始とほぼ同時に申し込んだときには空き部屋はじゅうぶんにありました。

駅全体が改築されたということもあり、たくさんの見物客が写真を撮っています。ぼくらはドームに面した側の部屋をとったのですが、ドームを撮ろうとする人びとの焚くフラッシュで、部屋が明るく照らされます。バッバッババッバッバババッ。部屋に入り、ほっとくつろいでカーテンを開けたぼくは、眼下に蠢く無数のカメラとフラッシュに恐れをなし、すぐにカーテンを閉じます。部屋の電気をすべて消し、相棒と二人でベッドの上に身体を伏せます。少しでも顔を上げれば、天井を撮る人びとのレンズに撃ち抜かれます。もともと写真が苦手なぼくらにとって、これは予想外の危難です。しかし厚いカーテンを閉めてしまえば、もう部屋はシャンデリアの人工的な明かりに照らされた、面白くもない空間でしかありません。薄いカーテンだけを閉め、二人で寝転がったまま、高めの天井を眺めます。薄暗い部屋を、外のフラッシュの光が断続的に照らしだします。

最近、どこかへ泊りにいくと、相棒は「年をとったらまた泊まりに来ようね」といいます。彼女の言いたいことは、何となく分かる気がします。

どこからか、電車の行き来する音が、音というより振動として伝わってきます。ホームのアナウンスが、何を言っているのか分からないままに、ぼんやりと響いてきます。外からのフラッシュは相変わらず、音もなく、ぼくらが並んで眺める天井を一瞬白く浮かび上がらせます。

やがって眠ってしまった彼女の隣で、やはりうとうとしているぼくは、もうまるですっかり、余生を通り抜けて来世の自分を眺めているような心持になっています。