トークイベントが無事に終わり、ほっとしています。非常勤の講義やら(最近はすっかりやる気をなくしていますが)学会発表などでさんざん喋っているのでいまさら緊張はしませんが、けれども来ていただいたみなさんと楽しさを共有したいという気持ちは人一倍強いので、そういった点では良いイベントになったのではないかと感じています。無論ですがそれはぼくの発表が良かったからではまったくなくて、スタッフの皆さん、そもそもの中心である『修理する権利』の面白さ、もうひとりのスピーカーであった中村健太郎さんのトークの面白さに全面的に拠っています。ぼくはといえば忍びの者として目立たず突然訳の分からないことを言い出したりせず終えられただけで大成功です。いや本当かな? 本当に訳の分からないことを喋っていなかったかな? しかしすでにすべての記憶が靄の彼方なので、成功したと思い込めばそれが現実です。
けれども真面目な話、たとえばシンポジウムとかってありますよね。まだ真面目に学会活動をしていたとき、しばしばシンポジウムの企画やらにかかわることがありました。実際自分が喋ったり、提題者になったり。そういうときにいつも残念だったのは、どうしてもシンポジウム全体としての統一感を作ることができなかったなあ、ということでした。特に学会主宰のシンポなんて、喋るのも聴くのも研究者ばかりじゃないですか。そうするとどうしても皆、自分の専門の話をすることになる。全体のテーマがあってそれに合わせて喋るにしても、やっぱりそれだけでは(ぼくにとっては)どうしようもなく足りませんでした。例えばバンドとして一つの曲を演奏するような……。あるいはアルバムを作るような……。うーん、うまく言えませんが、シンポにしろトークイベントにしろ、要するにひとつのイベントな訳ですので、それを聴きにきてくれた方にひとつのまとまりとして自然に受け止めてもらえるような、そういった統一感がぼくは欲しいのです。
今回は少しそれができたような、自分としては比較的納得がいったような感覚がありました。
どうなんでしょうね、恐らくぼくは、やはり純粋な研究者ではなくて、純粋なプログラマでもなくて、楽しい物語を作りたいというのが根本にあるのだと思います。楽しいといってもげらげら笑えるということではなくて、悲しい物語だって作ったり聞いたりするのは楽しいですよね。言葉って、まったく逆の意味を持つものだし、それを使いこなせないのであれば、それじゃあ論文くらいしか書けないですよ。「苦しい」「あ、苦しいんだね!」みたいな。ぼくはそれは莫迦ではないかと思う。いやもちろん苦しいのは嫌ですが。
そう……だから……イベントもひとつの物語で、でもそれは統一感があるという意味でひとつなのであって、誰にとっても同じ物語である必要はまったくないのです。というよりも誰一人として同じ読みができないからこそ、物語はひとつの世界になるのです。
博士課程のとき以降お世話になっていた先生が、彼は恐らくただひとり、いまぼくが唯一メインで参加している研究会に対して肯定的に、しかも鋭い批判を含めたコメントを下さっていたのですが、しばしばぼくに「まずは言葉の定義をしっかり共有しなければ研究会なんて意味がない」ということを仰っていました。それはまったくその通りで、これほど必要なことはありません。ただ同時に、ぼくは言葉なんてその人の捉え方次第でぜんぜん構わないし、結論だってどう読み取ってくれても構わないとさえ思っていました。なぜならぼくが書きたいのは物語だから。世界をこういう風に見ることができますよ、面白くないですか? ということ。それが正しいスタイルだと言いたいのではなくて、ぜんぜんそうではなくて、それは結局、人間はその人が取れるスタイル以外のスタイルは取れないというただ単純な事実を示しているに過ぎません。そしてだからまあ……ぼくはいわゆる一般的な意味での「研究者」ではないのだろうとも最近思います。ネガティブな意味ではなくて。最高にポジティブな意味で、です。そもそも、この世界をこう見てみようと考えるひとであれば、もうその時点でそのひとは研究するひとだし、物語を書くひとです。
太宰の……このひと太宰のことばっかり書いていますが、まあともかく『如是我聞』は人文系の研究者なら絶対に読むべきだとぼくは思います。しかし今回は『如是我聞』ではなく「葉」から。
芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。
太宰治「葉」『晩年』(新潮文庫)所収、p.13
これも伝わらないひとには伝わらないのですけれども、ぼくにとっての研究も、できればこの域にまで達したい。そう思っています。いま、トークイベントが終わって、それこそ学会発表やらシンポやらよりもよほど準備に時間をかけて、けれどもこれで再び自分の単著原稿に戻れそうです。というか戻ります。戻る。絶対に戻るのだ。そして書きかけのまま中断していた原稿を眺めてみたらこれが硬い。何じゃこりゃみたいに硬い文章。ただ、それに気づけたということはこの遅延がまったく無駄ではなかったということの証左でもあります。だからまあ、いま、気持ちは明るいです。
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突然話が変わるようで変わらないのですが、ぼくが最初に単著を出した共和国の代表、下平尾直氏の本が出版され、刊行記念イベントも開かれるそうです。
共和国はほんとうに良い本ばかり出している稀有な出版社です。ぼくはそうとうに暗い、陰湿な、陰惨で陰鬱で湿った犬のような匂いがする人間ですが、それでもある種の希望を持ってこの社会で生き残っているのは――という割には常にニヤニヤ笑ってもいてこれまた薄気味悪いと言われる所以ですが――とにもかくにもこういった素晴らしい出版社が幾つもあるからです。思想系なんて、本という具体的な、しかも極めて幸運に恵まれれば美しく手触りの良いものに具現化されなければ、誰かになんて伝わらないです。いやそんなこともないかもしれないけれど、本とともに育ったぼくは、そう思います。
共和国はそういった出版社のもっとも先端のひとつであり、(いまでもそうですが)まったく無名だったぼくの原稿を引き受けてくださったというとんでもない出版社でもあります。下平尾さんにはお会いした数回のすべてにおいてただただ迷惑ばかりをかけ、毎回毎回その凄まじい迫力に緊張しっぱなしでしたが、ぼくが自分のスタイルをあがきながらも自覚し作れたのはこのときの経験があったからこそなのは間違いありません。その緊張は、ただ単純にぼくの筆力が未熟であるが故でもあったのですが、それ以上に、下平尾さんのようなスタイルに対して、ベクトルは違えどその絶対値として対抗し得るほどのスタイルをぼくが持っていなかったからでしょう。
いずれにせよ、たぶん共和国の本のなかでもぼくのはダントツで売れなかったのであろうなと……。全力を出したし恥じるところのない原稿だったとは断言できるのですが、でもなあ……迷惑をかけただけだったという忸怩たる思いばかりが残ります。でも『メディオーム』、良い本なので買ってください。涙あり笑いあり、最後はどんでん返しの大団円です。
いやそうではなくて、『版元番外地』、ぼくもこれから購入します。皆様もよろしければぜひ。もうこれ、絶対面白いですよ。例によって業腹ですがAmazonリンクを(kindleに飛んでしまうので、アマゾンで詳細をご覧になりたい場合は画像下のリンクをクリックしてください)。あ、ついでに『メディオーム』のリンクもはっちゃおう。ぼくはそういうやつなんだ。もうこれはしようがないんだ。そもそもAmazonで「メディオーム」って検索すると強制的に「メディウム」になって絵具とかが出てきちゃうんだもの。