鳴り続けている

いまぼくは、非常勤で技術者倫理を教えています。教えているって嫌な言い方ですね……。とはいえお金をもらっている以上職務としては教えないといけない。一緒に考えようっていうのも何だかピンとこないし、未だに自分のスタンスが良く分からないままにやっています。成績をつけるというのも意味が分からないし。大学ってもっと自由なところで良いと思うのですが、現実的には難しいです。あと、卑怯な手段で単位を取ろうとする学生は、やはり醜い。中退すればいいのにと、悪意ではなく単純にそう思います。恐らくそれがいろいろな意味で最後の機会だから。

ともあれ、技術者倫理というとけっこう枠が決まっていて楽じゃな~い? みたいなイメージがありますが、いやあるのかな、けれどいちばん最初にプロフェッションについて話すとき、いつも苦労するところがあります。それはプロフェッションとは何かというお話。ぼくはナイチンゲールの〝Notes on Nursing for the Labouring Classes〟からの引用、といっても『誇り高い技術者になろう[第二版]』からの孫引きですが、次の箇所を使います。

何かについて「職業的使命感」(calling)を感じるとはどういう状態だろうか。それは、何が正しく何が最善かについての自分自身の高い理念(high idea)を満足させるということであって、それをやらないと誰かに「見咎められる」からやる、というようなものではないのではないか。この情熱こそ、靴屋から彫刻家にいたるまでのあらゆる人が、適切に「職業的使命感」に従うために持っていなくてはならないものではないか。(中略)そして、もし看護師が、自分自身の理念実現のために患者の面倒を見るのでなければ、外からどんなに言っても彼女にそう思わせることはできないだろう。

黒田光太郎、戸田山和久、伊勢田哲治『誇り高い技術者になろう[第二版]』名古屋大学出版会、2012

この教科書とても良いので、技術者倫理をやるときにはお勧めです。ともあれ、ここでナイチンゲールが〝calling〟と言っているものを、訳者の戸田山氏は「職業的使命感」と訳している。これはまったくその通りなのですが、ナイチンゲール的にはストレートに考えれば「召命」です。しかしこれでは多くの日本人には直感的に伝わらない。だけれどもぼく自身にとっては、この「召命」が決定的に重要になります。何度も書いていることですが、ぼく自身は信仰の対極に位置するような人間ですけれども……。

少し前にひさびさに研究仲間とのんびり話をする機会があり、そこで音楽の話が出ました。彼はもともとバンドでピアノをやっていて、いまでも演奏会をやっているという面白いひとなのですが、そこでカール・リヒターのトッカータとフーガ二短調の話が出たときに、確かに彼の演奏には神が――といってもぼくらはともにクリスチャンではないのでその空白を通してしかそれを知ることができないにしても――存在しているよねと、お互い深く頷く場面がありました。

これはなかなか普段ひとに伝わることがなくて、だいたいぼくが博士課程のときにいた研究室なんてマルクスがベースですから、っていうかぼくは(中退しなかった)二つ目の大学は神学士なので何でマルクス系なんかに行ったのだろう。とてもとても良い研究室でしたけれども。そう、だから伝わる必要はない。でも伝わるとやはり面白い。リヒターの演奏には神が居る。間接的にぼくはそれを感じる。けれどもそれは、リヒターを、彼の演奏を通して間接的にということではなくて、ぼくには決して知ることができないそれそのものがそこに顕現していることを、繰り返しますがその空白を通して直接にということです。Karl Richter、Toccata & Fugue In D Minorで検索していただければ、どこかで動画が見られるかもしれません。真に驚くべき存在。

他方で、ぼく自身を含めもし信仰がないのであれば、callingはやはりただ電話の呼び出し音でしかない。そしてそれでもなお、リヒターが信仰の極北としてその演奏を遺したように、神を――いうまでもなくこの場合の神とはアニミズムとはまったく別の、峻厳苛烈な唯一神を指しますが――持たない誰かもまた、人間としての何らかの極北に到達することはできます。もしそこに絶対的な空白との、魂を懸/賭けた闘争があるのなら、そこにはやはり途轍もない美と畏怖が生まれるでしょう。

と、そこまで深刻な話でなくても単に「この音楽良いよね!」ということでもぜんぜん問題なくて、たまたまひさしぶりに坂本龍一のアルバム『左うでの夢』を聴いていたら、「あ、これcallingじゃん!」というのがあったので、そのお話を。『左うでの夢』は1981年のアルバム。もう40年以上昔のものとは思えない、時代を超越した音楽です。と同時に、この時代のテクノの音って凄く懐かしい。いまこういう音ってないのではないでしょうか。あ、いかん、話がずれる病が。このアルバムに「Tell’em To Me」という曲があって、この歌詞、昔ぼくは凄く怖かった。曲調も怖いのですが、当時ぼくはchrysanthemumという単語を知りませんでした。歌詞も知らずただあやふやに聴き取るだけだったので、坂本龍一の歌う「yellow chrysanthemum」というのを、何か全身黄色い毛がもさもさ生えているイエティみたいな生き物の母親(しかもそれは母親的なものの元型でさえあるような……)だと思っていました。少し離れたところに山脈の見える茫漠とした荒野、そこに立つ一軒の家。ふと窓の外を眺めるとイエローなchrysanteマムがニヤニヤ笑ってこちらを覗いている。そしてただひたすら、彼女の物語を異言語で物語っている。途轍もない怖さです。あ、ぜひ、正しい歌詞を探してみてください。

ともかく、『左うでの夢』、名盤ですがちょっと怖い感じの曲も含まれています。電話に話を戻すと5曲目の「Relâche」。ノリが良い曲にも感じますが、けれども……。

ここでは電話の呼び出し音が背後で断続的に鳴り続け、最後はそれで終わる。誰も居ない部屋、たぶん殺風景な、そこでただ鳴り続ける呼び出し音。これもまたちょっと怖い感じの曲で、電話の本質が感じられる気がするのです。それは誰かと誰かをつなぐものではなくて、むしろその断絶を表すためにこそ鳴り続けるものだという……。

次は細野晴臣の『S・F・X』。これは1984年。これもまた凄いアルバムです。YMOの『BGM』や『テクノデリック』が好きであれば『S・F・X』と『フィルハーモニー』(1982)はお勧め。でもそれが好きな人ならお勧めするまでもなく持っていますのであまり意味がない。で、このなかの「3・6・9」でも呼び出し音が鳴り続けています。

追記:呼び出し音じゃないじゃん! これ掛ける側のジーコロ音だ! いやそれも違うか? ぼくにはもう何も分からない……。まあいいや。

これは坂本龍一の不気味な感じとはまた違って、恐怖と狂気に満ちた呼び出し音。そしてそれがだんだんエスカレートしていきます。この曲は藤幡正樹がSIGGRAPHで展示した映像作品につけた音楽とのことで、ぼくは観たことがないのでいつかどこかで探したいと思っています。ぼくがこの曲を持っているのは上記のように『S・F・X』で、アルバムジャケットはこんな感じ。大事に扱っているのですが、ぼくの長い人生と一緒にあちこちに行ったのでだいぶぼろっちくなってしまった……。いつかもっと年をとって引退したら、こういうのも手入れをしたいなあ。

最後はやはり高橋幸宏でしょう。これはちょっと新しくて1992年のアルバム『NEUROMANTIC』から。これまた極めて傑作です。まさに(ギブスンの『ニューロマンサー』の解説にある言葉を借りれば)ニュー・ロマンスな時代を体現したような、人間的なロマンティックさとテクノロジーが見事に美しく融合した、他に類を見ない音楽になっています。その3曲目、「Connection」。

とてもポップで、高橋幸宏らしい切なさがある曲です。ここでの電話の呼び出し音は坂本龍一や細野晴臣のそれとは異なり、あくまで普通の生活を送る普通の人が好きな人に電話をして、どうかつながっておくれ、電話に出ておくれ……、という、本当に良い曲です。いやこれ歌詞とかしっかり読んだらぜんぜん違う内容の歌なのかもだけれど、歌詞って読まないから……。ダメな人間なんです……。ともあれアルバムジャケットもとてもニュー・ロマンス(「ロマン神経症」)。ニュー・ロマンスについてはギブスン『ニューロマンサー』の解説で山岸真が書いている文章が素晴らしい。

が、なによりそれは、〝ニュー・ロマンス〟であるべきだ。社会も科学も文化も、確実にこれまでと違ったものになりつつあり、それによって人間そのものも変わっていく、そんな新しい時代の小説、あるいはSF。/本書はその胎動を告げているのである。

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986、p.451

「小説、あるいはSF」を音楽に置き換えれば、これはまさに『NEUROMANTIC』のことになります。

電話の呼び出しとしてのcallingは、むしろ信仰がないぼくや(あるいはきみもまたそうであるのなら)きみの方が、そこに込められた人間の、あくまで人間としての狂気や恐怖、そして切望を感じ取れるのかもしれません。ただいずれにせよ言えるのは、ここで挙げた3曲すべて、どこか懐かしい響きがあるということです。ぼくは新入社員のころ電話に出るのが本当に苦手でしたし、それはいまでも変わりません。携帯(スマホではなく携帯をぼくはメインで使っています)に着信があると、だいたい即座に着信拒否です。坂本龍一に倣い、FXXK OFFの精神。

そんな電話嫌いのぼくにとっても電話はやはり面白い。例えばキャロリン・マーヴィンの『古いメディアが新しかった時 19世紀末社会と電気テクノロジー』(吉見俊哉、水越伸、伊藤昌亮訳、新曜社、2003)を読むと、当初電話というものが伝統的なコミュニティを破壊するものとして恐れられていたということが書かれています。自著から引用しちゃいましょう。いやらしい宣伝。ぼくはいらやしい人間なんだ。

トム・スタンデージが電信について語っているように、あるいはキャロリン・マーヴィンが電話について詳細に論じているように、かつてそれら最新のメディア技術は、現代におけるインターネットと同様、共同体を破壊する可能性を持つものとして恐れられていた。だが、いま博物館かどこかで電鍵を目にして、あるいは黒電話を目にして、そのような恐れを抱く者がいるだろうか。それは決してノスタルジーなどではなく、何かがいかに素早く現れたとしても、やがていつかは後からやってきた歴史が追いつくことになるという、単純な事実を意味している。/むろん、だからといって、私たちはただ時間の経過を待てばよいということではない。永遠と無限の幻想を私たちに与え、永遠と無限に対する私たちの欲望を加速させるデジタル化は、私たちから歴史性そのものを失わせるだろう。だがそこで与えられる永遠と無限には、救済ではなく、底なしの飢餓だけが満ちている。

吉田健彦『メディオーム』共和国、2011年、p.246

いい文章ですね。このブログを書いているのと同一人物とは思えない。ぼくも思えません。でも要するに、どのようなテクノロジーであっても、人間はそこに記憶を、時間を降り積もらせる可能性があるのだということをぼくは考えていて、それができて初めてそれは人間の道具になる。人間が道具になるのではなくて。細野晴臣、坂本龍一、そして高橋幸宏の凄いところは、テクノロジーを人間の楽器にしたことです。それは誰もができているようで実際はぜんぜんそんなことはない。ただただ機械の音がするだけなら――無論、それを意図的にするのであればまた別ですが――それは機械にやらせればいい。電話もそうです、応答するだけならAIのエージェントにでもやらせておけばいい。そうでないところで初めて狂気を、恐怖を、あるいは愛を伝えられる/伝えられないということが可能になる。

「携帯電話の中により神を見る」(ケヴィン・ケリー『TECHNIUM テクノロジーはどこへ向かうのか?』服部桂訳、みすず書房、2014、p.409)などという戯言など話にもなりません。神が居るのならそれはcallingです。そして居ないのであれば、そこでは電話がいつでも、誰かから誰かに向けて鳴り続けているのです。

本の表紙とつっかえ感

ちょっと、本の表紙について感じることが連続したのでそれについて。といいつついきなり脱線するのですが、昔、ぼくがまだ新宿御苑の近くで働いていたころ、あああの頃は正社員だったのだなあ、気がつけば身分証さえない人間になってしまいましたが、しかしそもそも身分証って何でしょうね。突然の激怒。身分証明については橋本一径『指紋論 心霊主義から生体認証まで』(青土社、2010)がとてもお勧めです。埋め込みができないのでリンクを。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=1720

都市化が進むなかで、誰が誰であるのかを保証することが難しくなっていく。そこで紆余曲折を経て指紋による認証技術が登場するのですが、当然そこには管理/監視されることに対する反発も生まれる。しかしそれに対して、「もしあなたが善良な人間であるのなら、指紋を取られる(管理/監視される)ことのどこに不都合があるのか」といった議論が出てくる。例えばいま、もはや監視カメラなんて当たり前の時代ですよね。ぼくが若いころはまだ街に監視カメラが、なんていうとけっこう反発があって、ぼくもカメラを見つけるたびに中指を立てていました。それは見られて都合が悪いとか良いとかとはまったく別の次元において、人間は私としての/私であるという秘密を持っても良いのだという信念に基づくものです。まあ、個人的な意見です。防犯云々、犯罪捜査云々という主張にいっさい理がないと思うわけでもありません。とはいえ、究極の監視社会を描いた傑作SF、小川哲『ユートロニカのこちら側』(早川書房、2017)(https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000021299)には、監視テクノロジーに頼り切っているため、警察機構に属しているにもかかわらずもはやまともな捜査技能すら持っていない人物が登場します。実際、ぼくらの社会もそうなるかもしれません。

そしてまた、或る意味において身分保証の究極のかたちはこれです。究極というよりは象徴か。Wiredの記事です。「サム・アルトマンの虹彩スキャンシステム「Orb」進化版は、玄関先まで“宅配”されるようになる――「Orb」を使った野心的なプロジェクト「ワールドコイン」(現在は「ワールド」)が描く未来。それは、すべての人が「Orbによる認証」を受ける世界だ。」(https://wired.jp/article/worldcoin-sam-altman-orb

私が私であることを証明することとデジタルテクノロジーの関係性。これはぼくが生きていれば三冊目の単著くらいにこのテーマで書こうと思っているもので、めちゃくちゃ面白いので、ぜひ出版社の方はお声をおかけください。もう絶対売れます。ビルが建ちます。街ができ、国ができ、国境を巡り争いが起き、やがて地球は劫火に包まれ人類は滅びます。

とはいえ、これらはすべて脱線です。そうそう、ぼくがまだ御苑近くで働いていたころ、仕事帰りにてくてく永田町の方まで歩いて行ってこれまた仕事帰りの彼女と落ち合い、再びてくてく新宿方面に戻って帰って、などということをしていました。いまでもそのくらいの体力はありますが、もう人混みが怖くて精神的にはできないですね。ともかく、新宿駅近くまで行くと当時はヴァージンレコードがありました。ああ、こんな記事がある。

https://ascii.jp/elem/000/000/322/322592

で、彼女としばしばここに立ち寄ってはうろうろしていた。ヘッドフォンが壁に備えつけてあって、アルバムそれぞれの冒頭を少し聴くこともできたりしました。ぼくはそこで初めてライヒの音楽に出会って衝撃を受けました。あれは(いまはもう好きではなくなってしまったけれど)フィリップ・ジャンティ・カンパニーの舞台を初めて観たときくらいの衝撃だった。でもこれもまた脱線の脱線。フロアには幾つか金属製のカーゴがあり、そこには安売りのアルバムがぎゅうぎゅう詰め込まれていました。それを二人で漁ってジャケ買いをするのがぼくらの楽しみだったのです。安かったしね。当然誰だかも分からない、しかも海外のミュージシャンのアルバムなので外れることもありましたが、どちらかといえば当たりが多かったように思います。無論、いまでもそれらは手元にあります。

ジャケ買い。CD然り、そして本もまた、ぼくはしばしばそれをします。独立系の……というのでしょうか、いわゆる大手ではない出版社の場合、装幀に凄く凝っているところが多々あり、それは本当に素晴らしい。それこそが文化だとぼくは思うし、それが失われていくとしたら途轍もなく寂しい。そのくらい本の表紙というのは大切なものです。わ、いかんな。何だか文章が真面目な感じになってしまっている。

ともあれ、これでようやく本題ですが、最近幾つか本の表紙について「ほほぅ」と感じることが連続したので、それについて。おお、冒頭に戻りました。まず第一にウィリアム・ギブスンがblueskyにていまのハヤカワの『ニューロマンサー』(黒丸尚訳、早川書房)の表紙についてコメントしていたもの。お、blueskyの投稿は埋め込みができるのだなあ。

I’ve never seen this particular cover.

William Gibson (@greatdismal.bsky.social) 2024-12-21T05:40:59.574Z

この表紙も悪いくはない……悪くはないです。いやむしろ格好良い。でもぼくは、やはりこっちの方が良いのです。モザイクのかかった男性像。いいですよね、このどうしようもなく滲みだす80年代感。ニューロマンス。

そして次は神林長平『永久帰還装置』(ソノラマ文庫、2002年)。前回も書きましたが、これ本当に面白いのでお勧めです。神林長平はぼくのなかではものすごく大きい存在で、彼のテクノロジー観、コミュニケーションに関する思想には相当影響を受けています。プログラマとしても、研究者としても。それで、永久帰還装置、紹介したのはいいけれど絶版じゃないよねと心配になり検索してみたら現行版の表紙が出てきてちょっとびっくり。ぼくが持っているのとはぜんぜん違う……。あ、これハヤカワか!

画像はhttps://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000610746/から引用。

ぼくが持っているのは上記の通りソノラマで、その表紙はこれです。

うーん、やっぱりこっちの方が良いなあ……。何かハヤカワの表紙だと男女のバディ物で恋愛絡みで……みたいな印象があるけれども、でもって確かに表面的なストーリー自体はその通りなのですが(そしてその部分も面白い)、でも本質はタイトル通り「還ること」についての滅茶苦茶ハードな物語なのです。昔ぼくは神林長平の『戦闘妖精・雪風』をタイトルしか知らないときに、ミリタリーオタク的なアレなんじゃないのぉ? と勝手に想像して疑っていたのですが、実際にはこれほど機械と人間のコミュニケーションについてハードに問うことを貫徹した物語ってないです。本当にすごい作家です。

最後はこれ。ジェイムズ・シュミッツ『惑星カレスの魔女』(鎌田三平訳、創元SF文庫)。といってもこの本自体について話したいのではありません。いやこの本面白いですよ。古き良き時代のほのぼのスペースオペラ。いまはちょっと時代的にこういうストーリーって書けないかもしれませんが、疲れちゃったときとかぼくは時折読み直しています。でもこの表紙はちょっと問題で、女の子誰だよ状態なのです。全然、小説内の描写と違う。宮崎駿がどういう意図で、あるいはどういう指示を受けてこれを描いたのかは分かりませんが、これはない。でもこういう、内容と違うだろうっていう表紙ってすごく多いですよね。何なんだろう……。まあでも良いです。

[本日発売]ジェイムズ・H・シュミッツ/鎌田三平 訳『惑星カレスの魔女【新版】』(創元SF文庫)商業宇宙船の若き船長が救った異星人三姉妹は、超能力を持つ“魔女”だった!?ヒューゴー賞候補作ともなったユーモア・スペース・オペラの傑作を新版で。www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784…#創元SF文庫

東京創元社 (@tokyosogensha.bsky.social) 2024-12-18T04:06:31.833Z

問題はサン・テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳、新潮文庫)で、ぼくの持っているのは1995年の57刷のものですが、その表紙がこれ。

他方でいまの版はこれ。うーん……。

画像はhttps://www.shinchosha.co.jp/book/212202/から引用。

表紙が宮崎駿で、解説もしているとのこと。読んでいませんし読むこともありませんが、宮崎駿が悪いとかダメだとか、そういうことでは全然ないのです。そしてこれは偏屈な人間の懐古趣味でしかないかもしれないです、自分が最初に手にしたバージョンの表紙がいちばんだという……。でもやはりそれだけではない。表紙って、その本の世界に入るための入り口ですよね。でも、それが適切なものでないと、扉を通るときに「お、身体がつっかえた」みたいになってしまう。そして物語ってデータではなくて具体的なモノ、媒体なしにはあり得ないものですから、そのつっかえ感は現実の感覚だし、だからやっぱり、表紙は重要なのだと思うのです。昔、ぼくらがヴァージンレコードでジャケ買いしてもそれほど外さなかったのと同じように、そういう表紙があると、いいなあ。

闘争コミュニケーション

例えば、ぼくは通勤に往復で五時間半前後かけています。だいたいにおいて行きも帰りも遅延するので実質的にはもう少しかかっているでしょう。しかしその間にいろいろ考えることができますし、本を読むこともできるので、それほど悪くはありません……いや、悪いですよどう考えても。物凄いストレスがかかります。毎朝三時間自己暗示をかけ、おしまいに「父さんの行った道だ! 父さんは帰ってきたよ!」とかパズーの真似をしつつ叫んでから出発します。そのストレスの大半は何かといえば、人びとの魂の形が見えてしまう苦痛ですほらまた変なことを言い出した。でもこれ「物語」ですから、大丈夫ですから、凄く大丈夫。とにかく、だから、そういった魂の、しかもぼくにとってちょっと耐え難いような形のそれらと格闘しなければならない……だってものすごくうるさいから……自分の魂を守らないと……などと意味不明な供述を……。

まだ幼稚園にも入っていないようなころのお話。毎晩毎晩、ぼくは「目が痛い、目が痛い」と言っては泣いて、そのたびに母がぼくを負ぶって家の前の川沿いを歩いたそうです。病院に連れていっても原因になるようなものは何もなく、「この子は神経質なんじゃないですか」と医者に言われた母は激怒したそうな。結局原因はいまでも分かりませんし、頭痛は生きている限り悪化する一方です。けれども天使のようだったぼくも既に薄汚れたおっさんとなり、頭痛で倒れてよだれを流しながらも「なあにこんなもの人類に対するハンデさ」とか譫言を言いつつニヤニヤしている。たださすがにこの年になると頭痛を引き起こすきっかけのようなものは幾つか(あくまでも幾つかですが)分かってきて、一つは湯気です。湯気!? そう湯気。あとは尖ったもの。これが問題で、文字もダメになるときがあります。文字って尖ったところがあるじゃないですか。彼って良い年なのに尖ったところがあるじゃないですか。これが始まるともう本も読めません。あとは眼。他人の眼を見ると一気に頭痛が始まるので、ぼくは人の顔を周辺視野でしか捉えられません。これはコミュニケーションにとってはかなり致命的です。始まってしまったときの対策としては目を瞑る、瞼を強く押さえる、などがありますが、ひとと話しているときに突然指で目を押し付け始めて「うがああああ! こんにちは」とか[絶筆]

でもまあ大丈夫です。別にこれが本筋ではなくてですね、まあ要はコミュニケーションって大変よねというお話です。じゃあしなければいいじゃない、という訳にもいかなくて、基本は生存競争。というよりももっと根源的なもので、〝存在〟競争のようなものです。意味が分からないけれど。でもどうでしょう。神林長平の傑作、といっても傑作がたくさんあるのでそのうちの一作ということですが、『永久帰還装置』。これはとても面白いエンターテイメントSFでありつつ、神林長平特有のコミュニケーションを巡る物語でもある。その一節。

〈コミュニケーションは他者との格闘だ〉とわたしは言う。〈おまえはあらゆる生命体が備えているその能力、その使い方、それによる闘争の凄まじさがわかっていない。人間の脳が巨大なのは、それに勝つためなのではない。その闘いのストレスに対処するためなのだ。それに関してまったく無知なおまえは、生命体ではないな。ギブアンドテイク、ということがわかっていない。自分も相手に食われる存在だ、という意識が備わっていない。奪うだけでなにもかも手に入ると思い込んでいる、そういうおまえは、そうバグだ。〉

神林長平『永久帰還装置』ソノラマ文庫、2002年、pp.227-228

まさにこれなんですよね。そしてこのコミュニケーションはあらゆる次元において発生し得る。この世界に在るというだけで避けがたい闘争です。もちろん、単純に勝てばよいとかいうお話ではなくて、生命体が存在するという、その原理です。だからハードだし、とはいえ、だから生きているということでもある。ぼくはいつでも、仕事先から帰ってくると「生きて帰ってきたお祝い」をしています。

また別の闘争。花田清輝の短編に『七』というのがあって、これタイトルが良いですね。花田清輝は評論が知られていますが、短編もとても良いです。同じく下記講談社文芸文庫所収の『悲劇について』も名品です。で、この『七』もまた或る種の闘争についての物語。七という数字に異様なまでに魅了されている主人公ペーテル。隠遁者のような生活を送る彼の手元には美術品として名高いエルトリアの花瓶がある。そしてあるときベルリン財界の大物マックスがそれに目をつけ、金に糸目をつけず買い取ろうとする。ペーテルは最初のうちはマックスの申し出を無視し続けるのだが……、という、不思議なストーリーですが魅力的な短編です。そしてこれはお互いの存在をかけた闘争――ではなく、実は闘争にすらならなっていないということの恐ろしさを描いた物語なのです。

最終的にペーテルは死に、マックスはペーテルの「七」への執着を利用して策略を巡らせ勝利したことを誇ります。

――取引には調査が必要だよ。マックス・シュルツは徹底的に調査する。結果のわからない仕事に手は出さない。/――命の取引きには、なおさらのことじゃ。

花田清輝『七/錯乱の論理/二つの世界』講談社文芸文庫、1989年所収、p.45

けれどもマックスはここで、そもそもペーテルにとっては命さえ問題ではなかったことにまったく気づいていません。マックスは初めにペーテルがお金に対していっさいの価値を見出していないことを知り(だからこそ自分の最大の価値観であり自分自身の価値の裏付けでもあるお金を否定されたマックスはペーテルに殺意を抱くのです)、そしてペーテルが「七」のみを至上の価値としていることに気づいてさえいるのですが(だからこそマックスは「七」をルールに組み込み、ペーテルの選択を完全に制御できると確信するのです)、それにもかかわらず結局は「七」を道具としてしか理解できず、命のやりとりをしかけ生き残ることを勝ちだとしてしまった。それはこの社会においては、あるいはマックスの世界においては勝ちかもしれないけれど、でもペーテルには何も、まったく何も届いていないのです。その断絶。しかしこれはぼくらの日常に極ありふれた闘争の一つの元型でもあります。

だからまあ――なにが「だからまあ」なのかは不明なまま人生は過ぎていくのですが――いつでもへとへとです。でもそのへとへと具合が自分でも面白くって、だいたいいつでもニヤニヤしています。昨日は解題のゲラが届き、いつもよりさらにニヤニヤしながらチェックをしています。単著原稿の方も調子が戻ってきましたし、だからまあ、やっぱり来週もまた、父さんのように生きて帰ってこなければなりません。

追記:『永久帰還装置』、「帰還」を「機関」と誤字っていました……。これ気をつけていてもやってしまいます。還らなきゃならないのに。すべては還っていくし、還さなければならないのに。そもそもぼくはこのタイトル、時折『永久帰還刑事(えいきゅうきかんデカ)』と何故か言っちゃったりして、もうアレです。でも傑作。

Read it, Want to weep.

ここしばらく集中して書いていた草稿がほぼできあがり、少しだけほっとしました。今回は自分の単著の原稿ではなく、ある翻訳書の解題なのですが……、とここまで書いてそういえばそもそも解題って何だ? と思い調べてみたら、いやこれ、ぼくの書いた内容は解題なのだろうか……。ちょっと心配になってきました。でも編集者さんからはGOサインをいただけたので、大丈夫でしょう。というか大丈夫です。名文です。Read it, Want to weep.

「Read it, Want to weep.」というのはウィリアム・ウォートンの『クリスマスを贈ります』(雨沢泰訳、新潮文庫、1992年)の解説から。『クリスマス…』は名著です。これは裏表紙のあらすじから引用。「第二次大戦中、はからずも無人の城を占拠し、ドイツ軍と対峙することになった少年兵たちが体験した、寒さと恐怖と空しさと、そして無意味な死」。この突き放した感じ。実際、そうなのです。「無意味な死」。どこか明るくさえある青春小説でありつつ、徹底して乾いている。乾いてしまう。小説冒頭に置かれている詩を、最後まで読んでからぜひ読み直してほしいのです。物語の最後で描写される世界はひたすら「無意味」で、あるいはもはやそれすら超えてただひたすら乾いてしまった「ぼく」の視線だけがある。あるのはただ、死、そのものであって……。冒頭の詩はこのラストと見事に呼応している。だから実は「Read it, Want to weep.」はあんまり適切だとは思えないのですが、でもほんとうに読んでほしい一冊です。

ウィリアム・ウォートンは、え、嘘でしょ!? Wikipediaで日本語の記事がありませんが、とても優れた作家です。映画『バーディ』は有名ですが、その原作を書いています。あとは『晩秋』も映画化されていますね。それからこの『クリスマスを贈ります』。本人は『クリスマス…』の解説によればそうとう奇天烈な方のようで、これもちょっと面白い。残念ながら2008年に亡くなっています。

むしろ、さあまた話がずれていくのですが、「読んでほしい、泣けてくるから」にふさわしい小説といえば、ぼくはジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(高橋源一郎訳、新潮文庫、1991年)を想起します。これはもうほんとうに泣けてくる。主人公の焦燥感、虚栄心、絶望、そして最後に訪れる微かな救いの気配……。これも名著です。で、この小説は文体がちょっとめずらしく、「きみ」が主人公として語られています。第一章「午前六時。いま、きみのいる場所」から。

またここへ来てしまった。きみは何もかも台無しにしてしまった。もう行く場所はどこにもない。

だけれども、これは別段奇を衒ってとか、文体実験としてではないのです。そうではなく「読者と「直接取り引き」をするためにどうしても必要な手段」(「訳者あとがき」より)なのです。これはきみの物語なんだ、ということを一切の介在物なしに表現する。「80年代アメリカ青春小説の金字塔」というのは嘘ではありません。

話はだいぶずれましたが、今回の解題も「きみ」の物語で始めています。結局、これがぼくのスタイルなんだなと改めて思いつつ書いていました。いやしかし本当に解題なのか……? まあいいや、とにもかくにもこういう機会をいただけるのはほんとうに有難いことで、ぼくのように無名の、しかもパーマネントでもない研究者に声をかけていただけるのは……語彙の少なさが露呈しますがほんとうに有難いことです。いや、同じ言葉を繰り返して強調するのもレトリックさと嘯く程度には薄汚れている。というよりも汚れている。いや汚れてはいないです。ちゃんと洗濯している。

けれども、つい先日どこかへ行きまして、どこへ行ったのか思い出せないのですが、そこで突然ジーンズの膝が破けました。ちょっと、破けてはいけないような場所で破けた気がするのですが、記憶が封印されているようです。ともかくこれでもうぼくが持っているジーンズはあと一本だけ。靴なんて一足しかない。Tシャツは高校時代に買ったのがいまだにあるし、着られます。自分でも何が何だか良く分からないのですが、しかし一つだけ言えるのは、もう怖くて買い物に行けないということです。裾上げとか刈上げとかもみ上げとか意味が分からない。どうしたら良いのでしょうか。

例えば近所の食堂に行くとします。喫茶店でも良いです。チェーン店とか混んでいてそもそも近寄れないので個人のお店。美容院でも床屋さんでも良いです。で、店主さんとお話をしたりする。そうすると演技モードがオートで始まり、架空の人格が応答し始めます。相手が求めている人物像を演じてしまう。それはそれで良いのですが、問題は記憶力がほぼないということです。だから次にそのお店に行ったとき、相手の反応を見ながら前回どんな人物を演じていたのかを手探りで再現していかないといけません。そもそも人物を演じたのかどうかも怪しい。土星人だったり。いやきみは土星人を差別するのか、土星人だって人物だろう。とにかくもう何も分からない。そうするともうそのお店には行けません。基本、地元のお店を利用したいのですが、でもこうなってしまう。ぼくはこれを「焼き畑式地産地消」と呼んでいます。

そんな感じでコミュニケーションは非常につらい。その昔、まだ博士課程にいたころ、研究室の先生の講義でTAをしたことがあります。で、お昼休みにご飯を一緒に食べに行くかいと言われ、他にもゼミ生がいたのでみんなで行くのかと思い、ほいほい行きますなどと答えてしまった。ところが他の子たちはお弁当があるとか言って、言いやがってですね、先生とぼくだけで大学前のお蕎麦屋さんに行くことになりました。そもそもぼくは博士課程からその研究室に入ったので、あまりじっくり先生とお話したこともない。先生も一生懸命いろいろお話してくださるのですが、何しろコミュニケーションの反物質からできているという噂のあるぼくです。先生の専門は公共圏論とかコミュニケーション論でこれはもう対消滅するしかない。

でもまあ研究のお話はできますので、そのとき先生が仰ったのが、きみも他者論ばかりではなくてせっかくプログラミングなどもしているのだから情報系の議論も取り入れたらどうかな? ということでした。実際、当時のぼくはバトラーの可傷性(vulnerability)の議論に強く影響を受けていて、というかいまでもこれがぼくの技術論の根幹にあるのですが、ゼミとかで公共圏における言語的コミュニケーションについて議論しているのに、ぼくだけ「コミュニケーションが持つ根源的暴力性が……」とか、ヤクでもやっているのかみたいな目つきをして呻いている。これじゃあ困ります。なので情報系。ぼくもぼくで例によってオートモードになり「そっすね! 情報系織り交ぜてvulnerabuleに行っちゃいますか!」とか、これ何が憑依しているのか。

けれどさすがに恩師の言葉は先見の明があって、恐らく、あの蕎麦屋での会話があったから、いまでも研究を続けられているのだと思います。本質的なところでテーマなんて変えられません。恐らく、それは何かから与えられたものなんです。でもそれをどう表現するかというのは無限に選択肢があって、これが大変です。それを見つけるのには幸運が必要だと、ぼくは思います。このときの先生の(苦し紛れだったかもしれませんが)アドバイスによって、語りたいことを語る枠組みはかなり拡がったなと、あとになってからしみじみ思いました。

そんなこんなでですね、明確に自分の研究テーマがこれだ、というのはけっこう難しいのですが、難しいなりに技術論ではある。なので今回の翻訳書の解題にも声をかけていただけたのですが、要するにただの偶然と幸運のみ。どこまでやっていけるのかは分かりませんが、体調不良で今年の大半を潰してしまった身としては、書きたい言葉を書けるというだけでも嬉しいものです。書誌情報が公開されたら改めて広告いたしますので(売れてほしい!)、その際にはぜひぜひお読みいただければ。嘘じゃなくて、泣けてくるから。

デジタルの向こう側

「ぼくはハンバーガーが食べたい、ぼくはハンバーガーが食べたくない」という言葉があって、ぼくにとってはけっこう大きい意味を持っています。単純に言えば人間は相反する感情や意思を同時に持ち得るということを表しているだけなのですが、けれども、或る言葉が誰かにとってどれだけの重要性を持ち得るのかというのは、その言葉に付随する様ざまな背景によっても決まりますよね。だから共有することは難しいかもしれません。莫迦みたいに聴こえるかもしれません。とはいえ、矛盾したものを矛盾したままで抱え続けるというのがぼくの信条、というか信念、いやいや性質でして、それを明確に意識したきっかけの一つです。

などと言いつつ、実はこの言葉、どこで読んだのかがはっきり思い出せません。ぼくの記憶ではルディ・ラッカーの翻訳本のどれかだったはずなのですが……。きょう彼の本を読み直してみたのですが、ちょっと見つけられませんでした。けれど読み直しを通して、改めてラッカーの面白さを思い出せました。そうそう、若かったころのぼくはずいぶん影響を受けていたのだなあ。

ここから脱線するのですが、ラッカーは工作舎の『アインシュタインの部屋』(エド・レジス著、大貫昌子訳、1990)にもちょこっと登場する数学者です。ここでラッカーはプリンストン高等学術研究所に居たゲーデルに会いに来ている。このシーンはラッカー自身によって『無限と心』(好田順治訳、現代数学社、1986、出版社には既に情報がありませんでした)でも描かれていますが、相当オカルトです。「ゲーデルとの会話は、非常に直接的精神的感応の伝達のように感じられた」(p.177)。ゲーデルが抱える世界に対する恐怖心と猜疑心――それはやがて彼自身を殺すことになるのですが――そしてラッカーの空気の読まなさがストレートに表現されていてとても面白い。この本、翻訳に難ありすぎてお勧めしにくいのですが(そもそもこの本持っている方、ぼく以外には一人も出会ったことがありません)、ラッカー好きなら必読書です。翻訳が凄すぎて難物ですが……。とにかくこの辺りの本、高校時代のぼくはすごく影響を受けました。世界は謎に満ち溢れていて、いつかは自分もそういう謎を解く天才たちに交じって研究するのじゃとか思っていた。いやはや。まあ、いまはそんなんでなくても研究っていうのはできるということが分かったので、無駄な半世紀ではまったくないのですが。工作舎とか本当に良いですよね。楽しい思い出。いま読んでも面白いし。遡るとブルーバックスとかにも影響を受けたのかもしれません。これは小学校とか中学校くらいのころか。岩崎一彰氏の宇宙のイラストを見て天文学に憧れたりしていました。野山を駆け回りツチノコとバトルをしていた自分と、本だけあれば満足していた自分。どちらの記憶が正しいのかは分かりませんが、人生なんてそんなものです。さあどんどん話がずれます(大丈夫です、ちゃんと戻ります)。つい最近、といってもいつのことかもう思い出せませんが、島を買おうと思って公的競売の情報を眺めていました。もちろんそんなお金はないですよ? 3万円くらいで買えないかしら。でもってカエルやトカゲや鳥の天国にする。「死ね」と内なるブラック・ジャックが突然叫びます。「この空と海と大自然の美しさのわからんやつは――生きるねうちなどない!!」(『宝島』)。自分だけの世界を持ちたい――それは我執としての自我であったり近代的自己に基づいた私的所有の話であったりではなく――そういう気持ちはあります。そうだ、昔父とイギリスのとある地方を歩いていたとき、あれはぼくが十歳くらいでしょうか、廃墟のようなお城があり、それがけっこう(ぼくには、ではありませんが)買える値段だったのを覚えています。もちろん、維持費などを考えれば現実的ではないのですが。だけれども、まあ、それは良い記憶です。そうそう、なんで岩崎氏からこんな話になったのかというと、岩崎氏の「宇宙美術館」が競売に出ていたのです。寂しいですね……。

話がずれることでは定評のあるぼくです。言葉だけではなく実人生でさえどこかにさまよいだしてしまい、つまるところ、いまだにこんな人生です。だけれども、だけれども、ぼくには力業という武器がある。なので力業で話を戻します。

ぼくの数少ない才能のひとつにプログラミングがありますが、いやまあ、才能といったって「アリを眺めるのが得意です!」みたいな感じで、あまり実社会では役には立ちません。それでも、一時期はひたすら0と1だけの世界を生きていて、それでどうにかこうにか生き延びていたのは確かです。それがなければ……。

世界って怖いじゃないですか。突然ですけれども。ぼくは怖いです。意味が分からない。それでもあらゆることがもし0と1に還元できたら、その奔流が見えるようになったら、もしかするとぼくはその流れを読み取ることができるかもしれないし(そのくらいには自分の才能を信じていたのですね、若かったので)、ぼく自身もまた0と1に還元できるのであれば、世界をそこまで恐れる必要もなくなるかもしれない。そしてある程度は実際にそうなのです。

「なぜおれにあの娘を見せつけるんだい、こん畜生。それも繰り返し、繰り返し。おれを引っかき回しやがる。あの娘、殺したのはおまえだろ。千葉で……」/「いいや」/と少年は言う。/「冬寂か……」/「いいや。あの娘が死ぬのは眼に見えてた。きみが時おり、巷の舞いにパターンが読み取れそうに思っただろう。あのパターンは本当なんだ。ぼくはね、ぼくなりの限られたあり方で、複雑にできているから、そういう舞いが読める。冬寂よりずっと上手さ。ぼくはあの娘の死を読んだ。《安ホテル》のきみの棺桶の扉についていた錠前の磁気符号にも、ジュリー・ディーンの香港のシャツ仕立屋との取引口座にも、ね。腫瘍の影が、走査像を見る医者にとって明々白々なのと同じこと」

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986、pp.421-422

これはギブスンの『ニューロマンサー』ですが、いうまでもなく、ニューロマンサーは人間が0と1のパターンだと言っているのではありません。超越的なAIでさえ、あるいはだからこそ、マトリクスに、すべてを数え上げることができるマトリクスに連れてきたその殺された娘を見つつ「でも、あの娘の心はわかるまい」(p.420)と言います。しばしば『ニューロマンサー』を、あるいは主人公のケイスを単なるデジタル主義のように捉える読解があり激怒を通り越して絶望するのですが、そうではありません。あれは、人間はデジタルでは表現できないものをどうしようもなく抱えているということ、そしてデジタルのなかにさえ分からないもの(=生)があるということを美しく描いた唯一の物語なのです。三部作の他の物語はあれだけれど。

例えばラッカーはセルラー・オートマトンについて説明するとき、しばしばスティーブン・ウルフラムを参照しています。ウルフラムもやはり天才ですし、これまた一時期、ぼくは滅茶苦茶ウルフラムの世界観に影響を受けていました。しかしウルフラムの場合は世界を0と1で捉えられるという思想が非常に強い。いやそうだとしても、それは単にそれでおしまい、それですべてが表現できるということなのでしょうか。どうなんだろう、と、ぼくはだんだん感じるようになっていきました。というよりも、ギブスンやラッカーを読んで共感するのは、まさにそこの部分なのです。

ゲーデルの定理とチャーチの定理をもたない世界は、すべての属性が加算的な世界であろう――いかなる種類の人間活動にも、結果が善であるかどうかを判定する決まったコードがあることになるだろう。そのような世界ではアカデミーは何が芸術であったかということや何が科学であったかということに関して判定を下すことができるだろう。創造性はアカデミーの規則に達するかどうかの問題になるだろうし、落選作品展覧会はゴミだけしか含まないものになってしまうだろう。/しかし[…]私たちの世界は有限なプログラムや有限な規則の集合以上に果てしなく複雑である。あなたは自由だ、あなたは実際に生きている、そして次に自分が何を考えるかを言いあてることもできないし、過去の足跡をはねのけて好きなときに新生活をはじめてはならないという理由も存在しないのだ。

ルディ・ラッカー『思考の道具箱 数学的リアリティの五つのレベル』金子務監訳、大槻有紀子、竹沢攻一、松村俊彦訳、工作者、1993、p.304

ラッカーは数学者です。どこまでも。だからと言って良いのかどうか分かりませんが、まあ、だから彼は0と1を信頼している。というよりもそれに拠って立っている。数学的センスがまったく欠落したぼくには想像もできないレベルで。けれどもそれはすべてがクリアになるということをまったく意味していません。むしろ逆なのです。だからこそ、分からない。だからこそ、自由がある。

ここで、もう一度問おう。リアリティとは何か? それは、不可逆な次元をもつフラクタル・セルオートマトン(CA)による圧縮不可能(incompressible)な計算である。そしてこの巨大な計算はどこでおこなわれているのか? あらゆるところで、である。私たちはそれからできているのである。

同書、p.393

これは例えばダニエル・ヒリスの名著『思考する機械コンピュータ』のラストにも通じるところがあります。ヒリスもまた、コンピュータがロジカルなものであることを大前提としたうえで、コンピュータ(マシン)のロジカルな海のなかに拡がる可能性を信じ、感じ取っているひとです。

私は、知性の源を侮辱しようとして「脳はマシンである」と言っているわけではない。私は、マシンの能力の潜在性を認めようとして「脳はマシンである」と言っているのである。人間の頭脳は我々の想像以下のものではなく、マシンは我々の想像をはるかに超えるものである。私は、そう信じている。

ダニエル・ヒリス『思考する機械 コンピュータ』倉骨彰訳、草思社、2000、p.272

いずれにせよ『思考の道具箱』、これはあの時代、工作舎でなければ出せなかった本でしょう。こういう、いやこの本でなくたっていいんです、ある瞬間その本があったから救われた何かというのは確かにあって……、それは音楽でも演劇でも何でもいいんです、でも確かに在る。そしてもし本がそれであったのなら、かつ、「この私」が救われたなどという下らない話ではなく、あくまでどこまでもその本こそが先に存在して、それが誰かに語りかけたその誰かがきみであったのなら、きみはきっと本読みなんです。ぼくはそう思います。

ぼくはいま、技術とは何かということを、人間存在と不可分なものとして考えています。そして人間が在るということがあらゆる他者なしにはあり得ないものである以上、それは倫理でもあります。つまり人間存在=倫理=技術ということです。それは技術礼賛でも技術批判でもなくて、ただひたすら人間はそうでしか存在し得ないものとしての原理です。無限の可能性があるのなら、そしてあると思うのですが、それは虚構としてのロマンティックで素朴な人間性には見いだせないだろうし、まして電通的な謳い文句に塗れた楽観的テクノロジストの無責任な夢想にもないでしょう。いま、ぼくはラッカーともヒリスとも思想上の立場は異なりますが、けれども彼らが見ているものの千分の一くらいは分かるし、共感もするのです。

論文とか学会発表とか、どうしてもあれかそれかになります。それはそれで仕方がありません。「生きて在ることって……何でしょうかね……」などと言っていたら研究にはなりません。「技術には……あれもあり……これもあり……」それでは困ります。それでも、そういった曖昧で漠然としているように思えるそれは、単に総体であるからそう見えるだけなのではないかとぼくは思います。同時に、だからこそその総体がもつ巨大な質量は、それ自体で分裂しようとしつつも強大な引力を持ち得る。それを表現し得る文体を、あるいは構造を超えた構造を表現しようとするのは、まあたかがぼく程度の才能ではその実現可能性はたかが知れていますが、それでも楽しいことです。

ほんとうに、楽しいばかりの人生です。

差異

ブログ、というともう既に死語であるようにも思えますが、ぼくにはやはりこの形式が合っています。blueskyなどのSNSは、何かを紹介するのには良いのですが、それ以上のことはどうしてもできません。根が長文派。だらだらと喋って何か雰囲気が伝われば良いよね、という感じで生きてきました。といっても友人などほとんどなく、部屋に籠って耳を澄ませていればそれで充分満ち足りてしまう性格なので、基本は独り言――というか既に居ない誰かさんたちと、あるいは本と会話をして、それで満足です。そうしてそういった会話を書き留めたりもします。大学時代はいまほどデジタルデバイスがなかったので、東芝ルポで打って印刷した原稿がいまでもどこかに大量に残っています。

その後デジタル化して、打ち込んだデータはHDDやSSDに保存されているのですが、これが問題で、データがあまりにも大量にあるためどこに何があるのかがさっぱり分かりません。おまけにそれらのデジタルデータは石英ガラスにレーザーで刻んだものであるはずもなく、いつダメになるか分かりません。デジタルデータの永遠性というのはただの虚構で、あるのは複製が(ユーザーレベルの作業としては)容易だというつまらない事実のみ。保存という点においてはいまだに紙の優位性は揺らがないとぼくは思っています。まして本に至っては……。まあまったくの別物で、紙の本が電子書籍に置き換わることはないでしょう。紙の本がなくなるということはあるかもしれない。もしかすると。でも置き換わることはないです。置き換わったと思う人びとが増えるということはあるでしょう。残念ですが。

それはともかくデジタルデータ。何のかんの言いつつ、別にぼくは反技術主義者ではないので記録はどんどん残します。ずっと昔、といってもたかだか20年ちょっとでしょうか、それが「ずっと昔」になってしまうところがデジタルの恐ろしさですが、ぼくが最初にブログを書き始めたのはMicrosoftの〝theSpoke 〟というコミュニティサイトでした。theSpokeなんてどなたもご存じではないでしょう!?(突然の興奮) で、ここでプログラミング言語、特にc言語に関する文法上の変な抜け穴のようなものばかりを書いていた。そのあとはてなに移って、オフ会とかにも行っちゃったりして……。当時出会った皆さんはお元気でしょうかね。とても面白い経験でした。もうそういったことはぼくの人生においてはあり得ませんが……ひとの目を見ることさえできないようなぼくがオフ会なんぞに行っていたのですから、まあ人生における特異点ですね。

それはともかく、再びデジタルデータ。昨日、ふいにtheSpokeのことを思い出して、当時何を書いていたかなとバックアップデータを探し始めました。実際にはこの「theSpoke」という名前さえ思い出せず6時間くらい悩みに悩んでようやく思い出せたのですが。そしてその名前を手掛かりにデータを探したらはてな時代のものも出てきて、しばらく眺めてぼんやり笑っていました。こんな時代もあったんだねえ。でも当時からまったく進歩していないねえ。しかしとにかく、かなり最初のころから粘着質に神に絡んでいたり、無駄に長文をだらだら書いていたり、三つ子の魂百までです。

ぼくのいちばん最初のお話というのは、最初の大学のとき、授業にも出ないで、近くのマクドナルドの二階で大学ノートに書いたものでした。走ってくる幸運の女神をバットで打ち返すとか何とか、そんなお話。意味が分かりませんね。それでそんなものをちょこちょこ書いていたら、あるとき彼女に「きみのお話は説教くさいんだよね」と言われて、そうか、説教くさいのはダメだよなあと思い、ヒマラヤに行って桶屋をひらいて、桶を買いもしないでかぶってばかりいるイエティと結婚するとか、なんかそんなお話を書いた記憶があります。これもまた意味が分かりませんね。

けれども今回没にしたお話の中にもやっぱり変だなあと感じるものもありまして、例えば登場人物が全員猪八戒の西遊記。三蔵「これ悟空よブヒヒ」悟空「なんですかお師匠様ブヒブヒ」八戒「ブホッ!(饅頭が喉につまった)」そんな感じ。あとはハードボイルド垢太郎。冒険を終え村に帰った垢太郎だが、しかし老いた両親はすでにこの世を去っていた。垢太郎は苦しかった旅を思い出す。そして仲間たちのことを。石コ太郎は家業の漬物石を継いだ。御堂コ太郎はただ御堂を担いでいるだけの変人だった。苦しかったことも楽しかったことも、いまはすべて思い出でしかない。垢太郎は風呂に身体を沈め、旅の疲れを取った。その後彼を見たものはいない。みたいな。何かもの悲しいですね。

何かね、こんな文章ばかり出てくる。そうでなければ神に絡んでいる。変なひとですが、オチもなにもないこういう文の断片、断片の堆積に、おそらくぼくという人間が表れているのだと思うのです。どうにも、短文は苦手です。しかし本題はこれではなく、ようやくここからなのですが、はてな時代に書いていたブログにカフカの『変身』とブルトンの『シュルレアリスム宣言』の翻訳を比較するというのがあったのです。これ意外に面白かったのでここに一部転載します。『宣言』はともかく、『変身』はラストに触れているので未読の方はご注意ください。

+(以下抜粋)

まずはカフカの『変身』。虫に変身するのは有名ですが、最後まで読むとこれが極めてシンプルな家族の物語であることが分ります。グレゴールの身に起きる変身が不条理であるが故に、物語の最後、彼が居なくなった後の開放感溢れる明るい家族の姿が痛切です。現代日本に生きるぼくらの少なからずが、きっとグレゴール的なものを抱えて生きているのだなあとぼくは感じてしまうのです。翻訳の比較は物語冒頭とラストで。出版年は初版とぼくが持っている版が違う場合は両方を載せています。

『変身』高橋義孝訳、新潮文庫、1952(1997)から。

ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。

それから親子三人はうちそろって家をあとにした。数ヶ月以来たえてなかったことである。三人は電車で郊外に出た。電車の中には三人のほかに客はだれもいなかった。暖かい日がさんさんとさしこんでいた。ゆったりとうしろによりかかりながら、三人はこれから先のことをあれこれと語りあった。よく考えてみれば一家の将来もそうわるいものではないということが判明した。[中略]三人がこんなふうにおしゃべりをしているうちに、ザムザ夫妻は、しだいに生きいきとして行く娘のようすを見て、娘がこの日ごろ顔色をわるくしたほどの心配苦労にもかかわらず、美しい豊麗な女に成長しているのにふたりはほとんど同時に気がついた。ザムザ夫妻は、しだいに無口になりながら、また、ほとんど無意識に目と目でうなづきあいながら、さあそろそろこの娘にも手ごろなお婿さんを探してやらねばなるまいと考えた。降りる場所に来た。ザムザ嬢が真っ先に立ちあがって若々しい手足をぐっと伸ばした。その様子は、ザムザ夫妻の目には、彼らの新しい夢とよき意図の確証のように映った。

次に『変身・判決・断食芸人ほか二編』高安国世訳、講談社文庫、1971から。

グレーゴル・ザムザはある朝、たて続けに苦しい夢を見て目をさますと、ベッドのなかで自分がいつのまにか巨大な毒虫に変身しているのに気づいた。

それから三人はそろって家を出た。それはもう何ヶ月ぶりのことだったろう。やがて彼らは郊外へ出るために市電に乗って走っていた。車内は彼らのほかに乗客がなく、あたたかい日ざしがいっぱいにあふれていた。三人はのびのびと足をのばして座席によりかかり、将来の見通しについて話し合った。よく考えてみるとそれはけっして暗いものでないことがわかって来た。[中略]そんなふうに話をしているうちに、しだいにいきいきとしてくる娘を見ながら、ザムザ夫婦はほとんど同時に、彼女が最近、頬が青ざめるほどいろいろとつらい目にあって来たのに、いつのまにか美しいふくよかな娘に育っていることに気づいた。だんだん口数すくなくなりながら、そしてほとんど無意識に目を見かわしてうなづき合いながら、ふたりは、娘ももう立派な相手を見つけてやらなければならぬ年ごろだと考えた。そうして、やがて目的地に着き、娘がいちばんに立ち上がり、若々しいからだを伸ばすのを見ると、ふたりにはそれが彼らの新しい夢と善意との確証のように思えた。

最後に『カフカ小説全集4 変身ほか』池内紀訳、白水社、2001から。

ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。

それから三人そろって家を出た。もう何か月もしたことがなかったことだ。そして電車で郊外へ出かけた。車内は彼ら親子だけで、あたたかい陽射しがさしこんでいた。三人はのんびりと座席にもたれ、将来の見通しを話し合った。よく考えると、現状はさほどひどいものでもないのである。[中略]そんなことを話し合っているうちに、ますます生きいきしてきた娘をながめていて、ザムザ夫妻はほぼ同時に気がついた。いろんな辛いことが、頬をこけさせていたが、にもかかわらずいつのまにやら、めだって美しい、ふっくらした娘になっていた。夫妻は口数が少なくなった。ほとんど無意識のうちに、たがいに目で了解し合って考えていた。そろそろ娘にいい相手を見つけてやるころあいだ。電車が目的地に着いて、娘がいちばん先に立ち上がり、若いからだで伸びをしたとき、それが二人には、自分たちの新しい夢と、たのしいもくろみを保証しているような気がした。

ぼくの記憶の中では、「一匹の巨大な毒虫に…」だったのですが、いま改めて読んでみると、高橋訳と高安訳の混合になっているのですね。カフカの翻訳と言えば池内氏が有名ですが、こうしてみると確かに池内氏の訳はやわらかい。カフカの物語は不条理なだけではなく、どこか非常にユーモラスなところもあるので、ぼくは氏の翻訳はとても好きです。

次いでブルトンの『シュルレアリスム宣言』。もし最も好きな本を三冊選べと言われたら間違いなく入るのがこのシュルレアリスム宣言です。もちろん岩波文庫版。あとは『人間の土地』と、『ポラーノの広場』かなあ。うーん、うーん、悩むなあ。まあいいや。で、このシュルレアリスム宣言には思い出があって、ぼくは昔、とある芸術系の大学を受けたのですが、二次の面接でとてもとても不のつく愉快な経験をしました。面接官の多くがそれと名の知られた人たちだったのですが、その半分の態度が極めて悪いのです。不貞腐れているのか酔っているのかやる気がないのか単に性格が悪いのか。ぼくは普段、他人のことをあまり悪く言っていないと思います。たぶん。恐らく。そうだといいなあ……。けれども、あれには参りました。芸術家を名乗るなら常識や礼節から外れた態度をとっても良いとでも思っているのでしょうか。ばかばかしい。人に対する思いやりや礼儀というのは、大変な労苦をともなって初めて身につけることができる偉大な能力なのです。たらたらした「芸術」とやらを作っているような浅薄な連中が、肥大化した自己愛だけを後生大事に抱えてふんぞりかえっている。醜いですね。おお、いまだに激怒している。芸術っていうのは、断言するけれど、そんなものでは決してない。自分の魂を神と世界に対して叩きつける覚悟がないのなら、そんなものには糞ほどの価値もないのです。そんなやつがですね、他の先生がぼくに対して何かを質問なさっていたときに突然割り込んできて、「ところでブルトンの『シュルレアリスム宣言』についてはどう思う?」とかおほざきになられたわけです。思わずそいつに向かって「生きろ!(反語)」とか思ってしまいましたよ。

翻訳の話からずれてしまった。話を戻します。『シュルレアリスム宣言』ですね。これは申し訳ないけれど、やはり巖谷訳が抜きん出て素晴らしい。「生はべつのところにある」。初めてこの文章を読んだ時は、陳腐な言い方ですが本当にぞっとしました。「生はべつのところにある」。ではいまぼくが生きているのは、本当の生なのでしょうか? これほど美しく、けれど厳しく恐ろしい言葉を、ぼくは他に三つも知りません。本当の生とはいったいどこにあるのでしょうか。ぼくらはそこに辿りつけるのでしょうか。

『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』巖谷國士訳、岩波文庫、1992(1992)

シュルレアリスムはいつの日か敵にうちかつことを私たちにゆるす「不可視光線」だ。「おまえはもうふるえてなんかいない、わが痩軀よ」。この夏、薔薇は青い。森、それはガラスである。緑の衣におおわれた大地も、私には幽霊ほどのかすかな印象しかあたえない。生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。

『シュールレアリスム宣言集』森本和夫訳、現代思潮社、1975(1999)

シュールレアリスムは、いつの日か敵にたいする勝利をわれわれにおさめさせてくれることになる「見えない放射線」なのである。「やせっぽちの骸骨よ、お前はもう慄えてはいない」。この夏、薔薇は青く、森はガラスである。緑の衣につつまれた大地は、わずか幽霊ほどの印象をしか私に与えない。生活するとか、生活するのをやめるかいうことは、まさに仮想の解決である。実存というものは、もっと別のところにあるのだ。

『シュールレアリスム宣言』稲田三吉訳、現代思潮社、1961(1964)

シュールレアリスムは、われわれがいつの日か、それをわれわれの敵のうえにさし向けることのできる「不可視光線」である。「人間よ、お前はもう恐れおののく必要はないのだ。」今年の夏、バラは青い色をしている。森は、ガラスでできている。緑のなかに敷きつめられた大地は、幽霊と同じように、ほとんど私に印象をあたえない。生きることも、生きるのをやめることも、ともに想像の中でだけの解決にすぎない。生活は、もっと別のところにあるのだ。

最後のは、今回京都へ行った際に、京大の近くの本屋で購入したものです。現代思潮社からは二種類翻訳が出ているのですね。でもどちらもシュールレアリスムになっている……。

シュルレアリスムと言えばぼくは生田耕作が好きでして、『黒い文学館』(中公文庫)で彼が書いている「ブルトンから得たところは一口で語りつくせるものではなく、ブルトンの言葉をじかに聞く以外に途はないが、敵をつくる生き方を教わったことも大きな収穫の一つである」という言葉には強く影響を受けています。敵をつくる生き方! 難しいけれど、必要なことです。わあ、でもいま改めて読んだら、生田氏、巖谷氏のことを批判している。なんてこったい。

まあでも、そんな感じで幾つかの翻訳を比べてみると、それぞれの特徴が明らかになって面白いです。ぼくはあんまり翻訳にはこだわらない性質なのですが、そう言いつつも、やはり好きな翻訳者というのはあって、それは文章力はもちろん、恐らくその人の感性と原著者の感性が一致したときに生まれる緊張感やドライブ感、レトリックが生み出す急激なカーブにも揺るがない剛性などが心地よいということなのかもしれません。

+(以上抜粋)

そうですね……、あと、これを書いたときはあまり意識していなかったのですが、紙の本という物理的な媒体の面白いところは、版元によってまったく異なる「もの」になるということです。そしてもっといえば、同じ版元、同じ版、刷であっても、時を経て、人の手を経て、まったく異なるものになっていく。デジタルにもその可能性はあるけれど、やはり紙の本にはとうてい敵わない……、というよりもやはりまったくの別物です。だから、探してみると本棚には同じ原著のいろいろな翻訳バージョンがあるのですが、それぞれに読んでいて楽しいし、手に取っても面白い。ひとつひとつに固有の記憶が刻み込まれています。

でもそれを強く感じるようになったのは、ぼくの場合はですが、電子書籍なるものが出てきてからかもしれません。「オフ会」なんてものに死ぬる思いで参加したのも、当時はいまよりももっと現実/ネットの差みたいのが社会的にあったからだろうし(いま若い人が「オフ会」という言葉を仮に使うとしても、そこに与えられた重さは恐らくぜんぜん違うものなのでしょう)、ブログを長文として意識するようになったのもその後SNSがぐぐっと出てきてからのことでしょうし……。

まあ、そんな感じです。嘘じゃなくて、いま書いている原稿のベース、こんな雰囲気のものになります。こういう断片を積み重ねていって、徐々に助走を重ねて加速していって……。そう言いつつ既に十数年助走している彼は、再びどこかに走り去っていった。

リアリティ

最近、ふたたび写真を撮るようになり、といってもぼくが撮れるのは人間以外のものに限られるので小さな虫とか草とか石とか落ち葉になるのですが、とても楽しい。小学生みたいだな。もう少し寒くなると蚊も出てこなくなるでしょうし、そうしたらいまのように痒い痒いと言いながら茂みに紛れて撮ることもなくなります。とにかく、そういう小さなものを撮るのが好きです。普段ぼくらが見過ごしてしまいがちな世界も、そこに焦点を当てて固定すると、当然ですがそこにも美があることに気づきます。善悪を超えた美しさ。存在することの確かさといっても良いかもしれません。いえ、最初からそれらは見えているし、ぼく程度の腕ではむしろその1/1000も写して残すことはできないのですが、わずかに撮れたその写真によって、ぼくが観ている風景を共有することができる。それはとても面白いことです。

ぼくは自分の専門を環境哲学/メディア論と(一応は)名乗っています。ただ環境哲学というのはあまりメジャーではなく、基本的には環境倫理などと類縁的なものとして扱われることが多い。それはそれで間違いではないでしょう。いずれにせよそういったジャンルの研究者たちをずいぶんと見てきましたが、これは批判というよりも疑問として、彼ら/彼女らはあまり小さな景色に関心がないように思えるのです。例えば学会の大会があったりして、研究者たちがぞろぞろ集まってくる。そういったときに足下の蟻んこや落ち葉を見ている人ってあまり居ないのです。いやこれではぼくの方が変な人かもしれませんが、けれどもやはりどうにも肌が合いません。だってきみら環境とか生命とか言ってんじゃん、と思ってしまうのです。人間中心主義を乗り越えるなんて大前提で、もう乗り超えた顔をしている。でもきみら足下見ていないじゃん。落ち葉踏んでんじゃん。

話がマクロだとかミクロだとかではなくて、ではお前は一つも命を奪ったことがないのかなどということでもなくて、その言葉、その立ち居振る舞いにリアリティがあるかどうかなのです。どうしても、ぼくはそこを見てしまいます。最初からウルトラな議論をしているんだぜというのであればそれはそれで構いません。でも生命について少しでも考えるのであれば……。足下を見てくれよと、ぼくはいつも思っていました。

あるいは、例えば環境破壊とか何とか、まあ何でもいいですがそういう議論になるとキリスト教の影響がなどという話が出てくる。そしてたいてい創世記が参照され、人間中心主義がうんたら……などとなります。それはそれで一つのストーリーにはなるでしょう。だけれども……。たとえば

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』マタイによる福音書5章39節

彼ら/彼女らはこの言葉をどう思うのでしょうか。ぼくは自分の論文において(これを言うと毎回意外な顔をされるのですが)常に民主主義について考えてきました。とはいえ、「主義」という言葉には違和感があるので、より人間の本質から生み出されるものとしての「根源的民主性」といったりもしますが、いやまてよ、論文で本当にこの言葉使ったことあるかな。まあいいや。どのみち「民主」という言葉もまた難しいし。しかしいずれにせよ、マタイのこの箇所には、或る人間が自分自身の一切から手を離す途轍もない覚悟が――覚悟するのが〝自分〟であるが故にこれもまた矛盾なのですが――示されています。恐らく、ここにしか、いや他のあらゆる信仰でも文化でも文学でも何でもいい、とにかくこれによって示される在り方にしか可能性はない。ぼくはそう思います。だからぼくは常に怖い。だいたいいつもちびっています。

ぼくは一体何を言っているのでしょう? ぼく自身には分かります。分からないということも含めて。しかしそれを表すには数万の言葉が必要で、しかもそれは結局、数万の言葉では表現できないことを表現するための数万語です。だからお互いに伝わらないし、別段、それはそれで構わないのです。ただ、リアリティのないあらゆる語りには、決して力は宿りません。

blueskyで良い映画の紹介を――といってもわずか数百文字での紹介に過ぎませんが――していて、きょうはLocal Heroについて書きました。これとても良い映画なのでお勧めです。ぼくはこういう単なる紹介が好きで、ただ単に面白いよ、面白いよね、面白いのか、ということをしたい。そこに、我田引水で自分の研究にむりやり接続して暴力的な解釈をしたり、知識の量を誇ったり、ほんとうにそういうのは嫌なのです……。自然につながるのはいいのです。それは凄く良い。そういう研究を私はしたい。けれども、まあぼくの狭く短い経験ですが、純粋な愛を持って映画や文学を語れる研究者を、ぼくはほとんど知ることがありませんでした。じゃあ研究者以外ならいるのかというとそれはそれで難しいですが、けれども、あの異様な特権意識のようなもの、知識マウント、自己が常に先に来て作品はその自己の閉じた眼差しの対象でしかないという異様な酷薄さ、それはやはり研究者特有のものではないかと感じていました。

例えば……今回Local Heroを観ていてあらためて気づいたのは、主人公をサポートする現地支社の社員Danny Oldsenを演じるPeter Capaldi、どこかで見たことがあるなあと思ったらケン・ラッセルの『白蛇伝説』、これ本当に変な映画で、あの時代だから作ることのできたものだと思いますが、そのAngus Flint役だったとか、あるいはホテルオーナー兼会計士であるGordon Urquhartを演ずるDenis Lawsonはスターウォーズで最後まで生き残るパイロット役の人だったとか(子供心にも人がどんどん死んでいくのが嫌だったので、生き残った彼のことは非常に印象深かったのです)、この年になってはっと思い出して一致するような発見があって、それが凄く面白い。でもそれって、そこで伝えたいことって、ぼくが子どものころに、あるいは若いときに観た映画があって、その埋もれていた記憶がふと甦っていま・この瞬間と繋がって、そこから一気に沸き起こる諸々の想念があって……、その全体の雰囲気なんです。知識とかどうでもいい。

なんかね、そういう話をしたいのです。でもって、ぼくにとっての環境哲学とかメディア論とか倫理とかって、そういうことなのです。例によって何を言っているのか分かりませんが。あ、なんか暗いままで終わってしまっ [ここで通信は途絶している。]