ハックルベリー

例えば、自分自身に電話をかけることを考えてみます。いや考える必要はないですね。かけちゃいましょう。いまちょっとかけてみます……。「ただいま電話にでることが……」という自動メッセージが聴こえてきます。callingって、ぼくにとってはかなり重要な単語です。召命。同時に、ただ単に電話の呼び出しでもある。ぼく自身は常に存在しない神との闘争に明け暮れてここまで生きてきました。すべてはやはりそこに戻っていく。やがていつか自分が死んで存在しない神の前に立ったとき、何を語れるのか、何を叫べるのか。すべてが論理的に矛盾しているのですが、しかし在るということは、つまるところ矛盾の総体だということでもあります。ぼくにとって、だからcallingというのは……。

とはいえ、自分自身に対して電話をかけることはできます。その応答が自動音声なのか話し中なのか、いずれにせよそれはそれで面白い。いま電話がブルブル震え、「さっき着信があったよ」と教えてくれました。まあ自分でかけたんだけれどさ。

ただ、個人的な感覚としては――この感覚が一般的なものではまったくないことを認めた上で――やはりcallingなり、非‐callingなりは在ってほしいのです。そこから断絶した生は、ぼくはあまり見たくないし、かかわりたくない。意識していないということではなく、それなしに在ることを、在れると思い込んでいることを当然として疑わないような在り方。それはあまりに醜く、惨いものです。

そして例によって話は飛びます。ぼくはホワイトハッカーという言葉が嫌いなのです。薄気味が悪い。いま適当にネットで検索してみましょう。日立ソリューションズのページがトップに出てきました。これ、もちろんどのサイトでも構いません、本質的なところではどうせみな同じような内容になるでしょう。

上記のページでは、ハッカーというのは本来価値中立的で「コンピューターやインターネットなどについて高度な知識や高い技術を持っている人」を意味するとあります。なるほど。そしてホワイトハッカーとは「知識や技術を善良な目的のために利用する人」である。これ当然ですが何も間違っていません。上記のページ全体としても非常に良くまとまっています。そしてホワイトハッカーの仕事として、次にはこう来ます。「例えば、国や企業のウェブサーバーに対して不正なアクセスがあった場合、ホワイトハッカーは調査や防御対策を実施します」。

ぼくはこれが恐ろしい。なぜ国や企業への攻撃を防ぐことが善良な目的になるのか。いうまでもなく、不法な行為をしろと言っているのではありません。下らない犯罪行為のために技術を使うのだって莫迦そのものです。舐めるなよというのは、別段、社会に背けとかではないのです。反‐、なんていうのはつまるところハイフンの先にあるものに依存しているだけです。極めてダサいと思わないかい? いやぼくにとってのバイブルである『ニューロマンサー』では、ケイスはカウボーイと呼ばれますが、要するにその実態は違法行為を行うハッカーです。けれども彼の場合は、彼のスタイルを突き詰めていけばその先にあるのは、あるいはその出発点にあるのは黒丸尚さんの訳語を借りれば「凝り性(アーティースト)」であって、つまりは他に選べない生き方の問題です。

善にしろ悪にしろ、所詮は自らの外部において作られたもの、与えられたもの、あるいは強制されたものに対してそう名付けられただけのものに盲目的に尽くす、あるいは反抗する、それだけでしかないのであれば、それはハッカーというスタイルからはかけ離れたものでしょう。俺は俺だ、きみはきみだ、それを守ろう、というもっとも基本的な個人の尊厳があるのだとすれば、それを実現させ守るための腕を持つことがハッカーであるということです。独断と偏見ですよこれ。ほんとうのことをいえばハッカーの定義などどうでも良くて、ぼくはぼくでぼくなりにやるしかない。ただやはり、その盲目性にはぼくは加われない……。だから上記のページで「善悪の意味合いは含んでいない」というのは正しく、だけれども、それはもっと強い意味で、「善悪を超えて俺が俺であるための、きみがきみであるための闘争を表現する技術」であるはずです。

繰り返しますが独断と偏見です。それでも、ホワイトハッカーの大会とかコンテストとか、そういうものに若いひとたちが参加して、賞をもらったりするのを見ると、ぞっとするのです。

ただ……、もちろん、それほど単純な話ではありません。ぼくらは食べていかないといけない。どうしたって、どこかで妥協する必要があるし、あるいは面従腹背する必要だってあるでしょう。というかそれが常態ですよね、ぼくらの生活は。でも目を見れば分かるのです。ああ、こいつホワイトハッカーだ! お父さんお父さんあれが見えないの? あれホワイトハッカーやで。

ぼくはYMOが再生したときのTECHNODONってあまり好きではないのです。これ確か、当時彼女とふたりで再生ライブに行った気がする。いま確認したら行ったそうです。そうだったそうだった。だけれど、良くなかった……。あのYMOを生きているうちに生で観られると喜び勇んで行きましたが、でも、ぼくの結論としては残る曲はないなと思いました。そしてこのとき作られたビデオも本も良くなかった……。何なんだアレ……。

だけれど、本の方は幾つかとても良い箇所があります。引用してみましょう。高橋幸宏による坂本龍一評(というよりも日本の音楽シーン評)です。

教授だってアカデミー賞もグラミー賞も取って、「世界の坂本」って言われてるけど、その、日本的な「世界の坂本」っていう認知は、彼の納得のいくものじゃないのかもしれない。オリンピックのオープニングにしても、彼が一番嫌っていた、ある種、保守的な国家的作業もこなしているわけですよ。彼は闘っているんですね。

細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、後藤繁雄『TECHNODON(テクノドン)』小学館、1993、p.29

凄く難しいけれど、重要で、必要なことだと思うのです。どんな職業においても。どんな生き方においても。

別に深刻な話ではなくて。そうそう、先日、ほんとうにひさしぶりに研究会に参加してきたのですが、そこでぼくの『メディオーム』の話が出ました(議論の一環として)。それで、その本のなかでは「貫通(penetration)」という単語が重要な要素として出てくるのですが、それを聞いた研究仲間のひとりがけっこう爆笑していました。彼は詩人でもあり、さすがに言語感覚が鋭いなとぼくも笑ってしまったのですが、まあ、そんな感じです。どんな感じか分かりませんが、大丈夫。ぼくだって何も分かっちゃいないのです。

初めにマイムが

パントマイムが好きで、時折youtubeなどで良さそうなものを探して観ています。

もうすぐ後期の非常勤が始まるのですが、コミュニケーション能力に重大な問題を抱えているぼくが講義をするのは、本来であれば(『洪水はわが魂に及び』的にいえば)コートームケイな物語でしかありません。けれどもなぜかぼくは昔から演技をすることを存在の基本様態の一つにしており、偶にこれをしないと息苦しくなってしまうのです。ですので、講義はそのためのちょうど良い場になります。別段変なことをするわけではなく、外からみれば単に普通の講義をしているだけなのですが。

けれど演技をするといっても、基本的には(黙っている間も含めた)喋りが主な表現方法になります。あたりまえですよね、講義なのに無音だったら……いや、それはそれでありかもしれません。単にぼくの演技のベースは喋りにあるということ。それはお世辞にもうまいとは言えないものかもしれませんが、でもまあ、やらにゃあならぬ。存在するって、どのみちそんなものです。

とにかく、そんなぼくからすると、無音で表現するパントマイムは極めて興味深いのです。観て学べる何かがあるわけではありません。何しろモードが違いすぎます。魚が鳥を見るように、鳥が魚を見るように。いやペンギンは? ともかく、自分に取り込めない巨大な何かを観取するというのは、これ以上ない恐怖であり自由であり、要するに存在することそのものの実感に直結した喜びになります。

まあそんなことはどうでもいいですね。とにかくパントマイム。youtubeで気軽に観られるものをいくつかご紹介していきます。ちなみにぼくの数少ない友人のひとりである彫刻家は、子どものころマルソーの日本公演を生で観たそうです。「youtubeで観たってそんなもんマイムの何も分かりゃしないよ」と言われ、ぐぬぬ・ぬ、ぐぬぬ・ぬ、と、アーサー・ゴードン・ピムの物語の紛い物じみた唸り声を上げつつ泣いて退却するばかり。でも良いじゃない、youtubeだって。外に出るの怖いんだもの。

Walking Against the Wind

これはマイムじゃないだろうと言われればそうなのですが、非常に良くできた短編映画。ユーモアもありつつ、パントマイム特有の悲しみもありつつ、最後は見事に落ちがつきます。

The Mime

極めてシンプル。ラスト、パントマイミストの表情がとても良いです。

上記二つの動画はとても好きなもの。何よりもぼくが憎むのは、「マイムをしているこの自分を見ろ」という意識が露骨に見えてしまうものです。演ずるというのはそういうものではない。演技も自分も消えてしまわなければならない。話は変わりますがいわゆるハリウッドスターは別です。ジョン・ウェインとかオードリー・ヘップバーンとか。でも少しでも「俺が」というものが出てしまったら、もうそれはマイムではない。独断による断言。これほんとうにただの偏見なので気にしないでください。いずれにせよ、上の二つはそんな偏屈なぼくが観ても面白い。

だけれども、やはりそれだけではないのです。いえ、繰り返しますが上の短編、文句なく面白いし、凄いです。お勧め。その上で、恐らくマイムの究極的な到達点というのは、無音でこの世界を創り出す、そのくらいの力を持ったものであると思うのです。無音で世界を表現するということを超えて、世界を生み出してしまう。そんなん可能なの? といえば、ぼくらはそれをマルセル・マルソーを通して確かに観ることができます。

Le Mime Marceau

もはや、ぼくごときの下らない説明は不要でしょう。

と言いつつ好きなので喋ってしまうのですが、マルソーはチャップリンの影響を受けているとのこと。実際、マルソーの動きの幾つかはほんとうにチャップリンです。チャップリンの動画(できれば映画)もぜひ観てみてください。

ぼくはチャップリンも大好きですが、でも、チャップリンの場合は人間として地続きな気がします。喜怒哀楽が分かる。というか、彼がそれを天才として見事に強力に表現している。でもマルソーには人間から断絶した何かを感じます。恐らくそれは天地創造に近い……、などと意味不明な供述を繰り返しており……、近所の住人によれば普段から怪しい言動を……、云々。

不合理故に……

ひさしぶりに彼女とふたりで散歩に行きました。ぼくは最近右肩を傷めてしまい、というかアレですね、身体が不調だとかそんなんばっかですが、けれどもこれは他者に押しつけることは絶対的にないという前提の上で、ぼくはけっこう痛いとか辛いとか、いや書いたそばから何ですが自分自身のことで辛いと思うことはないな、ともかくそういうネガティブなことって、別段ネガティブには感じないのです。「わあ、ぼくは痛がっているぞ!」みたいな。ちょっとオカルトっぽいですけれども魂みたいなものがあって、それがつねにこのぼくであることを、ほんの一瞬、ただの偶然としてぼくという形があってこの世界をうろうろうろつきまわって、転んだり起き上がったりしているのを眺めて喜んでいる、そういう感覚があります。痛かったり怖かったりすればするほど、「わあ!」と思っている何か。自分についてはね。他者の苦しみについてはいまだに凄まじい恐怖があります。だからみなさん幸せに生きてください。

ともかく、うろつきまわっています。子どものころに住んでいた土地は半径10kmは歩き尽くしてしまい……、いやそう書くとぜんぜん大したことはないですね。二十年近くかけてのことですから。でもその範囲内ならどの道を見ても分かるくらいにはうろつきました。もちろん、いまとなっては山さえ削られてしまっているけれど。そのころに鍛えられた脚は、いまでもぼーっと生きているぼくの上半身をどこかへ連れて行ってくれます。

だけれども、いま、ふたりで住んでいるところは、時代が時代だから仕方がありませんが、散歩をするにはちょっと厳しいところです。家を出れば裏山があって、などということがないので、車やコンクリートや人間がたくさんのところを通っていかなければならない。電車に乗って移動したりさえしなければならない。これでもうへとへとになります。へとへとになってから、ようやく散歩が始まる。などと言いつつひさびさに散歩らしい散歩に行きました。

その日の目的の一つは尾花屋さん。東小金井にある古書店です。初めて行ったのですが、本揃えも良いし、小さいけれど密度の高い本屋さんでした。お勧めですので、近くにお寄りの際はぜひ覗いてみてください。

今回はそこで幾冊か購入。どれも良い本ですがこれは特に良い本。埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』。アフォリズム集というか、詩集ですね。後半には谷川雁との往復書簡が載っています。ここから少し引用してみましょう。

もし私達の自然も私達自身も姿も形もなくなってしまった或る天文時間のなかで、或る種の判別能力をもった何かが私達の傍らの空間をかすめすぎながらさながらガイガー・カウンターを近づけるごとくにすでに埋もれてしまった私達について何かを測定することがあるとすれば、人間とは不思議な自己否定へ向って絶えず進み行くところの不思議な運動体と見つけたり、ということになるかも知れないというのが、《自同律の不快》と《自然は自然に於いて衰頽することはあるまい》との一聯の対句の内包しているところの意味なのです。

埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』現代思潮社、1961年、pp.127-128

埴谷雄高ですね……。こういう文章を書ける人、批判ではなくていまの日本には居ないでしょう。いや、やっぱりこれは批判ですね。そして安部公房が書いていることは恐ろしいまでに正しい。

でも作家は読者なにしにはありえない。読者が生まれなかったら、作家なんかいるわけがない。

安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p.82

これはいわゆる現代文学というものが「西欧的な方法をよりどころにしているから」ではなく「植民地主義の土台にきずかれた」が故に駄目なのだという厳しく鋭い指摘をしている箇所なのですが、機会があればぜひお読みください。ぼく自身、「何とか文学フェア」とかいうものを(もちろんまずは出版社が生き残らなければ話にもならないのでそこへの批判ではなく、むしろ何よりもまずぼくら読者自身を批判的に見つめなければならないという意味で)疑いの目で見てしまうのですが、その根底には安部公房と同じ考えがあります。読者がいないということの本質に、そしてそこには間違いなくぼくら自身がかかわっているにもかかわらずそれをすっ飛ばしてなされる「正義の味方みたいな顔」みたいなものの欺瞞に、もっと鋭敏でありたい。そしてそれだけではなく、いまの日本にまともな現代文学がないことを恐れた方が良い。いや、あるとお思いになるかもしれないし、別段、ぼくが正しいかどうかなんてどうでも良いことです。

なんてことを散歩しながら考えているので、顔つきがだんだん陰鬱に、陰惨になっていく。呻き声を上げる。「おおお……」なんて苦悶しながら髪を掻き毟り脚を引きずりよろぼいつつ、彼女に「パン食べよう」と言われて川のほとりに腰を下ろして保冷剤で冷やしておいた水を飲み途中のパン屋さんで買ったきのこロールを食べつつ草むらに生えたキノコを眺めつつ(毒キノコだった)、にこにこしている。まあそんなもんです。

そうして、雨のあとでぐずぐずにぬかるんだ川のほとりを「あ、キノコ、あ、トンボ、あ、ザリガニ」なんて言いながら登山靴でぐっぽぐっぽ歩いていきます。橋の下をくぐり、道に戻る階段を上がろうとしたら、そこには高校生くらいの男女がふたり座り、語らっている。青春。そこに泥まみれで「ぐっぽぐっぽ」とか言いながら(言いはしないが)肩の痛みで眠れず目の落ちくぼんだおっさんが這い上がってくる。恐怖です。でもそれがいつか二人の良い思い出になってくれることを願いつつ、あとから来た彼女と合流し、てくてく家に帰っていきました。

坂本リンゼイ

何しろ忙しいです。体調がよくならないままに仕事はまったく終わらず、土日も何もなしにプログラムを組み続けています。けれども最初のころの憂鬱さはなくなり、いまはどことなく穏やかな気持ちで、日常感覚が戻ってきたようにも思います。恐らくそれは、毎日最低限決めた時間は原稿について考えることにしているからということもあるかもしれません。プログラミング自体は楽しいけれどやはり仕事は仕事で、仕上がらないとまずいしやばい。食っていけるかどうかに直接かかわるので気持ちも落ち込みます。でも原稿は、プログラミングと同じように書くことではあるけれどやはり違いはあり、絶対にできる、俺にしかできない、という確信があるのです。それは楽しいというよりも強迫観念なのですが、でも、在ることへの確信って結局は強迫観念しかあり得ないじゃないですか。そうでもないか。ともかく、仕事がやばいときは会社近くのビジネスホテルに泊まります。本当にお世話になっているし好きなホテルなのですが、建物はかなり老朽化していて、一晩中水滴の落ちる音を聴きながらそこでもプログラミングをし続けます。そして時間がくると頭を切り替え原稿のことを考えたりします。いえ、切り替える必要はそれほどなく、日常生活の延長に位置づけられないことは自分のなかの哲学にはしたくないというのがあるので、「まあね」とか言っておもむろに考え始めるだけです。

さて、あ、この「さて」って言葉良いですね。さて、ぼくは自己愛というものが本当に嫌いです。憎んでいると言っても良い。激しい憎悪。けれどもこの自己愛を通してしか、恐らくぼくらは自己を放擲するには至れない。だから難しい……。難しいけれども……。ちょっと突然変な話をしますが、といってもこのブログ変な話しかしていない気もしますが、ぼくは物心ついてから、神社やお寺に行ってお賽銭をお賽銭箱に入れて何かお願いするときに、世界平和以外を願ったことがないのです。いや嘘でしょ、とお思いになるかもしれませんが、いつも書いているようにこのブログ「物語」なので、まあそんな感じでお願いいたします。その上で、世界平和しか願ったことがない。といっても5円とか10円とか、そんなので世界平和を願われたって神仏も困るでしょう。だから別段、それが叶わないからどうこうということではないのです。これもまた強迫観念のお話。しかもこの男口が悪いので「できるもんならやってみろってんだいこんちくしょう!」とか祈っている。これじゃあ無理でしょう。というよりそもそも世界平和って何でしょうね。漠然とは思い浮かべられるかもしれませんが、具体的に具体的に……と突き詰めていくとどうも良く分からない。分からないままではいずれにせよ実現はできません。

ともかく、自己愛です。ぼくは自己愛が嫌いです。もうね、本当に嫌い。そして話は突然変わるのですが、サン・テグジュペリの『人間の土地』で印象深い挿話があります。ぼく自身は如何なる理由があれ戦争に反対する人間ですが、以下引用。

リフ戦争の当時、二つの不帰順山岳のあいだに位した前線陣地の指揮に当っていたあの士官のことを考えてみたまえ。彼はある晩、西方の山からおりてきた軍使の一行を迎えた。型のごとく、ともにお茶を飲んでいると、銃声が聞こえだした。東方の山岳地帯の種族が、この前線陣地を攻撃してきたのであった。これと戦うために、退去を要求する大尉に、敵軍使の一行は答えたものだ、〈今日、自分たちは、貴官の客人だ。貴官を見捨て去ることは神が許さない……〉彼らは、大尉の部下に加わって、この陣地を救ったうえで、はじめて自分たちの鷲の巣へと登っていった。
ところが、今度は、自分たちが、この陣地を攻撃しようと準備のなった前日、彼らは、大尉のもとに軍使を送り、
――先の夜、われらは貴官をお援けした……」
――そのとおりだ……」
――われらは、貴官のために、小銃弾三百発を放った……」
――そのとおりだ……」
――それをわれらに返してもらえまいか」
すると、気位の高い大尉は、相手の気高さのゆえに、自分が受けた利益を利用しかねた。彼は自分に向かって使われるであろう弾薬を、返してやった。

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、pp.191-192

また別のお話。大学時代、ぼくは常に人形劇の部室でうだうだして、音楽を聴いたり本を読んだりしていました。そしてそのまま中退することになるのですが、だからいま非常勤で講義をしていて、せこい手段で単位を取ろうとする受講生をみると、どうにも白けます。無論それはひとそれぞれで、ぼくの知ったことではありません。だけれども、ぼくはそういう醜さは嫌だ。まあいいや、大学時代の話です。で、そうこうしていると講義を終えた他の部員たちが部室に戻ってきて、そうしてまたうだうだと話をしたりする。そんなある日、いわゆるハリウッド映画について盛り上がったことがありました。といっても少人数のサークルだったのでジミジミとした盛り上がりでしたが。それは、派手なアクションシーンを観ても、そこで注目されることもなく死んでいく無名の脇役たちのことを考えるとどうしても映画に没入できない、というよりも考えてしまうので没入できない、ですね。そういうことをいう子がいました。これもまた強迫観念のお話です。ぼくはその感覚が凄く良く分かりました。ただ、ぼく自身は倫理を外付けドライブにしているような人間なので、だいたいどんなことでも「まあね」で済ませられる。もし本当にそれを脅迫観念として持っているとすると、これはちょっと人生ハードだろうなと、若く浅薄なぼくなりに懸念しました。そして実際、それはその子にとって本当に強迫観念だった。しんどいですよね。

サン・テグジュペリのお話も、もしそういった観点から見るとちょっと待ってよ、となるわけです。いや大尉は自分の美意識に従って生きたり死んだりできるから良いけどさ、下っ端の兵士からしたらどうなのよ、と。彼らからすれば銃弾なんて返さないで、いやっほう! みたいに、いやそこまでではなくて良いけれど三百発をこちらの利点として使った方が絶対に良い。生き残れる確率を上げられるのだから。

でもまあ、当然ですが、そういう話ではないのです。というよりも、その子が話していたその感覚、その根本にあるものにこそつながるものであって。「大尉」のなかにあるのは美意識を優先する自己とかそれによって犠牲となる他者ではなく、美意識それ自体です。例えばヨブ記について考えてみましょう。またヨブ記。この子はほんとうにヨブ記さえあれば機嫌よく笑っていてねぇ。で、ヨブ記の最初の方で、いきなりヨブの子どもたちが死ぬ。もう、彼ら/彼女らからしたら冗談ではないですよね。その後なんやかんやあってヨブの信仰が完成したとか、いや知るかいな、となります。だけれども、これもまたそういう話ではない。そこではある種の普遍性を帯びた「この私」の義、そのものが問われている。究極まで突き詰め透明になった、人間で在るということの条件そのもの。そこでは、だから、「このわたしが~」とか「ほかのだれかが~」とか、そういうものが潜り込む余地はない。

この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。

同書、p.204

そう、だから、そこまで行くとぼくらはきっと誰にも見られず、いや見られていても一切顧みられることなく殺されていく誰かについて、誰かとしてではなく考えることができるようになるかもしれません。毎回思うのですが、何を言っているのか良く分かりませんね。そしてこれも毎回言っていますが、それで良いんです。分かることを分かるように言うのは、それはロジックでしかありません。ぼく自身は、ぼくなりの形で強迫観念と付き合えています。だからいまもヘラヘラ笑って生きている。もしいま最初の大学時代に戻れるのであれば、もう少しましな、同意の相槌だけでもなくロジカルなだけでもない応答が、できたかもしれません。だけれどもまあ……、それもまた、ぼくにとっての強迫観念のひとつでしかないのでしょう。

あ、何だか雰囲気暗いですね。そんなことはなくて、もう滅茶苦茶明るいです。滅茶苦茶です。眩しくて何も見えない。坂本龍一の「ハートビート」っていうアルバムがありまして、これ1991年ですよ。33年前。自分で書いてちょっとびっくりしました。このアルバムも(発売後数年経っていましたが)当時部室でよく聴いていました。名盤。で、このなかに「Tainai Kaiki」という曲があって、これは本当に名曲。ぜひ聴いてくださいと言いたいところですが、いま簡単に聴けるのってデヴィッド・シルヴィアン版で、これはぜんぜん良くない。というか悪い。もう、デヴィッド・シルヴィアン特有の「俺の声を聴け、聴け、聴け!」という、そのエゴイスティックな押し売り感しか聴こえない。ぼくは「戦場のメリークリスマス」って曲も映画も大嫌いですが、それにしてもそれに歌詞をつけた”Forbidden Colours”とか聴けたもんじゃないです。阿呆か。あ、やばい、自己愛の話に戻ってしまう。

それでですね、このオリジナルの方の「Tainai Kaiki」、歌が凄く良いんですよ。坂本龍一特有の音痴なのか? みたいな、でも必死な感じで、歌とも言えない、リンボーに取り残された誰かさんの独り言のような……、と思って数十年生きてきて、つい最近知ったのですが、このヴォーカル、アート・リンゼイでした。え、これ、先入観なしで坂本龍一じゃないって分かる方いらっしゃいますか? ぼくはいまでも分からない……。アート・リンゼイだと思って聴いても聴こえない……。ぼくにはもう何も分からない……。

自己紹介的な……。

結局今回も3週間近く体調を崩していました。熱もなく、ただ咳き込むだけなのですが、夜中や明け方に目が覚めてしまうことが続き体力も削られます。ようやくほぼ復調しましたが、それにしても今年に入ってから1/3は病を得ている状態です。にんともかんとも。体調が悪いときにはお風呂に入り自分を茹で上げます。免疫力を高めるんや! などと既に手遅れ感の漂ううわごとを呟きつつ、実際には悪魔祓いの儀式のようです。しかしほぼ全身が悪魔であるぼくなので――といっても安いトランプに印刷された虫歯菌的ジョーカーのようなものですが――その儀式も結局は自分を風呂から追い立てるだけで終わります。そして体調はさらに悪化しています。

けれども悪いことばかりではなく、睡眠時間が削られた分、仕事でやばい状況のプログラミングに時間をかけることができました。いやまだやばい状況の真っ最中ですが。寝ても覚めてもプログラム。ちょっと原稿もまずいのだけれども、とにもかくにも仕事を終わらせなければなりません。ようやくここ数日で今回のプログラムの全体像を頭のなかに組み込めて、ここまで来ればあとは夢の中でも考えることはできるので少しほっとしています。あと、今回は一から作っているので、そういった意味でも楽しい。他人のプログラムのメンテナンスは、センスが違いすぎて気持ちが萎えることが多いのです。傲岸不遜で唯我独尊。

何だかんだ言って、まあプログラミングは好きです。というかこれしかできません。昔、大学中退後にソフトウェアの会社に入って、延々プログラミングをしていました。っていうかもうほんとうに延々です。当時は残業代とかばんばん出ましたし、ある時期の収入は凄かった。寿命の減り具合も凄かった。命と賃金の等価交換。いや不等価交換です。そのあと大学に入り直して、博士課程に進んで(在籍していた研究室のつきあい的に)唯物論系の学会に入ったりして、そこで語られる「労働」とかにあまりリアリティを感じられなかったのは、あのときの経験があったからだと思うし、それは結構良かったと思っています。アカデミズムに染まらないで済んだという意味で。

あ、でも、とはいえ、会社にだって馴染めなかったわけです。だいたいこの男、どこかに馴染めるなんてことはあり得ない。どこにでも溶け込むほど無個性ですが、どこからでも弾かれるほどには社会性がない。で、仕事でプログラミング漬けの日々を送るうちに、もっと知りたくなるわけです、プログラミングについて。仕事的な意味での知識や経験ならそこで身につけられるけれど、どうもそうではないぞ、と思ってしまった。自然言語に立ち戻って考え直さなければならぬ、みたいな。なのでそういったことを学べるお手軽な大学を探してそこに行きました。ほんとうにラッキーだったことに、当時の上司に当たるひとが良い意味で変わった人で、プログラム言語でだって詩を書けるぜ、ということを良く言っていました。だからぼくが大学に入り直して言語の根本から勉強し直したいっす、と伝えたら(そのときも仕事はぎゅうぎゅうだったのに)快く送り出してくれて、ほんとうにありがたかったです。

ともあれそれで学部からやり直してヘブライ語とかを勉強して、中近東文化センターとかに行って土器を見て書いてある文字が「読める、読めるぞ!」とか独りで喜んだりしていたのですが、そこで9.11が起きます。そしてイスラム教対キリスト教みたいな、あまりに浅薄で恐ろしい論調が世を覆いつくすのを目の当たりにしてしまう。ハンチントン的な阿呆な議論がまたぞろ幅を利かせてくるわけですね。そうじゃないだろう、ということから宗教論、宗教多元論、多元論と進んでいって、そんなことをしながら自分自身で腑に落ちたのは、自分が興味を持っているのは「共有するものがないものたちの間で交わされるコミュニケーション」についてなのだということでした。結局、これなんです。ぼくの根本にある強迫観念って。

コミュニケーションって、もしそれが可能なら、つまり共有するものがあるのなら、もうそれ以上問う必要はないんです。極めて乱暴に言ってしまえば。いやもちろん現実的にはそんなことはないですよ、もちろん。そこには血の滲む努力と無駄に終わる死が大量にある。でも原理的には答えは分かりきっている。そして逆に、もし共有するものがないのだからコミュニケーションもないというのなら、これまたこれ以上問うことはない。残念ながらいまの日本の、あるいは世界の状況はこれが凄く強いですよね。でも、というかだから、問う意味が生じるのは、問うことの力が生じるのは、共有するものがないにもかかわらず、それでもなお生じるコミュニケーションについてになるし、またそれ以外に真の意味でのコミュニケーションなんてないんです。ぼくはそう思います。

だから、ぼくのなかにある、機械やロジックとコミュニケートすること、石を眺めて一日ぼーっとしていること、死者との対話、過去の本との対話、何十年かかけて最近は和らいできましたが、神に対するもはやこれ信仰なんじゃないのかなとさえ思ってしまうような異様な憎悪、外に出て人間を見ることに対する極端な恐怖心、などなど、ばらばらなそれらの根本にある統一理論のようなもの、それがこの、共有するもののない他者とのコミュニケーションになります。何を言っているのか良く分かりませんね。ぼく自身良く分からない。ただ突き動かされているだけです。そしてそれで良いんです。シリアスな話ですが、でもやっている本人はシリアスとか思っていない。探求するのが楽しくないのなら、やめればいいんだから。だから毎日けらけら笑っています。「雲が・・・在る・・・! トカゲが・・・居る・・・! プログラムが・・・分かる・・・!」みたいな。いえ、もちろん何も分からないですけどね。

あれ、例によって最初に書こうと思ったことと全然違う内容になってしまった。もともとはシーレの絵について書きたくて、徹底して自己を冷たく深く凝視し続けたその最終地点としてシーレの絵は立ちあがってくるのですが、そこから特殊を通じて普遍へ、のお話につなげて、云々、みたいな。ぼくは自己愛を激烈に憎んでいますけれども、いますけれどもって突然言葉遣いがあれですけれども、突き詰めて突き詰めてそこに穴が空いて、突然果てのない空白のなかに転がり込んでしまって、そこまで行かなければ、ぼくらは誰も語る価値のあるもの、見る価値のあるものなんて作れません。いや価値なんてどうでもいい、作ることも見ることもできない。と、そんなことを書こうと思っていたのです。でも何か暗いですね。にやにやしているのに、いつでも目つきが陰惨だ。そんな変質者が、そう、私です。

バイブルを主軸として回転している数万の……

もうほんとうにこのブログ書く内容が数パターンしかないような気がするのですが、例によって頭痛が激しすぎて体調を崩しています。骨組みだけは頑丈なのですが、肝心のソフトウェアが使い物にならない。でも使い物にならないソフトを何とか動かすというのも、魂のゲームとしては面白いものです。

そんなこんなで唐突に本題ですが、ぼくはヨブ記が好きでして、これがぼくの人生の根幹をなしているといっても過言ではありませんこともありません。まあ過言1/2くらいか。とにかくとても大きい影響を受けています。いわゆる旧約の信仰の本質がここにある。いや他にもあるとは思いますけれども、とりあえず断言しちゃう。もうぼく断言しちゃう。不幸と苦痛に見舞われたヨブが神に対峙する。その瞬間、ヨブは人間としての限界を超えたhubrisに至っている。まずここにまで至らなければ神となんて対峙できないです。ちょっと話がずれますが、ナンシーにしろバトラーにしろ、やはり徹底した個がまずあって、死に物狂いの闘争があって、というか近代自体がそうなんですけれども、その上で初めて近代的な個というものに対する批判が可能になって「共」が存在論的に強固に出てくるわけです。それを曖昧な自我と自己愛から離れられない研究者もどきが……、などと書いていると逆鱗スイッチが入ってしまうので止めますが、とにかく、そこまでhubrisの高みに登ったヨブがその自己を放棄する。神の前に「自分」を投げ捨てるのです。この不可能性にこそ信仰の秘儀があるし、矛盾してはいるのですが、人間が人間であることの美しさがある。ぼくはそう思います。難しいですが……。というより、ぼくはそもそも信仰の対極に位置するような人間なのですが、それでもなおこういった感覚が共有できなければ、ほんとうのところでは研究も共有できません(無論ですが、できなくたって全然かまわないのです)。けれども安易に西洋近代を批判するひとは、やはり太宰治の如是我聞を読むべきです。

ところで、私は、こないだ君のエッセイみたいなものを、偶然の機会に拝見し、その勿体ぶりに、甚だおどろくと共に、きみは外国文学者(この言葉も頗る奇妙なもので、外国人のライターかとも聞こえるね)のくせに、バイブルというものを、まるでいい加減に読んでいるらしいのに、本当に、ひやりとした。古来、紅毛人の文学者で、バイブルに苦しめられなかったひとは、一人でもあったろうか。バイブルを主軸として回転している数万の星ではなかったのか。

太宰治「如是我聞」『人間失格 グッド・バイ 他一篇』岩波文庫、1988年、p.177

っていうと「読んでいる」とか答えるし、実際読んでいると思っているので始末に負えませんが。

ただ、ぼく自身もクリスチャンではないしユダヤ教徒でもないし、イスラエルなんて問題しかないし、ぼくなりにレヴィナスには影響を受けていますが、それでもバトラーが指摘するようにそこには「複雑かつ頑強な」異議(ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』月曜社、2008年、p.176)を持っています。それでも、なのです。

ぼく自身は未だに、あるいは死ぬまでこのhubrisにとどまり続ける人間かもしれません。だから例えばホームズの次のような言葉は良く分かる。とても良く分かる。あ、これ、仲間内で出していた『文芸夜半』という同人誌に書いた「神無き時代の名探偵」という文章からの引用です。

ホームズは探偵に科学的手法を持ち込んだが、彼を名探偵足らしめていたのはその科学的知識と手法ではなく、卓越した推理力でさえない。彼の推理(reasoning)は常に理性(reason)の届かぬ先に向かう。彼の透徹した精神はそれ故その先に現れる人類の手に余る謎をつねに観取せざるを得ないし、そこには苦しみと疑いをもたらす究極の矛盾しかない。謎を解けるから探偵なのではなく、解けないと分かりつつ避けがたく謎に呼ばれることに耐え得るからこそ、彼は名探偵なのだ。〝The Adventure of the Cardboard Box〟(邦題『ボール箱』)の最後で彼はこう語る。

「ここにはいったいどんな意味があるというのだろう、ワトスン」ホームズは供述書を置くと厳粛な面持ちで言った。「この不幸と暴力と恐怖の連鎖に、いったいどんな意味があるのか? ここには何か目的があるはずだ、そうでなければ我々の宇宙は偶然に支配されていることになるが、そんなことは考えられない。だが目的とは何だ? ここには人間の理性が決してその答えに到達できないままでいる、大きな、永遠の問いが在るのだ」

形而下の犯罪を解決することなどテクノロジーにまかせておけば十分すぎる。たかが人間の知性によってでさえもできるだろう。だがその向こうに在るものに直面したとき、それでも人間はそれと格闘することができるだろうか。とはいえ信仰を安易に持ち出すべきではない。ホームズはここで確かに神的なものについて語っているが、しかし彼が神にその答えを求めることはないし、神に赦しを求めることもない。その点で彼は、同じくcallingによって探偵であることを証しているポワロとは対極にある。

名文ですね(笑)。自画自賛。これなかなか手に入らないと思うので、もし見かけたら絶対買いです。嘘じゃなく。そう、だから……、とにかく格闘しなければならない。あらゆる物事と。そしてにもかかわらず、あるいはだからこそ、あるいはそれのみを通して、結局その格闘している自分がただの苦しみという空白であることに気づく……。そんな風にぼくは思うのです。

あれ、何か説教臭いな……。大学時代、書くもの書くものみな「説教臭い」「正論やめろ」「なんちゃってビルドゥンクスロマン」と罵倒されてきましたが、いまだにその反省が生かされていない。でもまあ、そうじゃありませんか? 主語のないままに求める曖昧な同意。

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ただやっぱり、これってちょっと極論ですよね。人間は倫理機械ではない。だからまあ……適当です。というより、ぼくなんてアレです、99%が頭痛、0.9%が対人恐怖症、そして残りの成分が「適当」ですから、本当に適当です。今回はエドモンド・ハミルトンの「反対進化」について書こうと思っていて、これぼくは子供のころに『不思議な国のラプソディ 海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)で読んだのですが、このシリーズ名品です。もし古書店で目にすることがあればぜひ買ってください。ぼくの場合は父の蔵書にありました。子供のころはだいたい父の持っている本ばかり読んでいたなあ。そう、それでこの「反対進化」もやっぱりある種のキリスト教的近代的歴史観が強烈にあって初めて逆説として、あるいは(自ら死を選ぶほどの)恐怖として理解できるのであって、云々、みたいな。

何かね、頭で分かっているだけの研究者と話したり、書いたものを読むのが苦痛なんです。最近だとラブクラフトを「SF作家」(『現代思想 2017 vol45-22』「人新世、資本新世、植民新世、クトゥルー新世 類縁関係をつくる」高橋さきの訳、p.101)だと言い放つダナ・ハラウェイの無神経さとか。

そういうことが多すぎて、だいぶ、逸脱しています。別に、それで構いません。

剰余メモ

下品な言葉というものがあって、そもそも「下品」という言葉自体がそれが指し示すものになってしまっているので――何かを「下品である」と断じられるだけの、ある種苛烈でさえある美意識を持ったひと自体が絶滅寸前な時代ですので――困るのですが、けれどやはり、少なくともぼくはそういった言葉を使いたくはないのです。ただ、それはとても難しい。ある特定の単語がそうであるのなら、それを避ければ良い。しかしどうやらそうでもなさそうなのです。ぼくのように倫理を外付けしている人間にとっては、ある特定の単語を辞書登録してしまえば良いというのは分かりやすく扱いやすい考えで助かります。そして確かにそういったものもあるのかもしれない。例えば……、といってもそれをここに書くことはできません。そのくらい、そういった言葉を使うのは嫌ですし、読むのも嫌なのです。ぼくらに与えられた時間は有限で、その時間内に読めないほど多くの素晴らしい、美しい言葉があるのだから。

それはそれとしてなぜ突然そんなことを言い出したかといえば、ひさしぶりに『方舟さくら丸』を読んだのです。言うまでもなく現代文学の最高峰。そのラストシーンはほんとうに美しい。ひたすら地下世界の描写が続き、しかも主人公はとある理由で身動きさえできなくなり、という状況が続いたその最後に地上に戻ってくる。そしてすべてが透明になり……。そこで次のような描写があります。

ひさしぶりに透明な日差しが、街を赤く染めあげている。北から魚河岸にむかう自転車の流れと、南から駅に向う通勤の急ぎ足とが交錯して、すでにかなりの賑わいだ。《活魚》の印のトラックが小旗をなびかせていた。旗には「人の命より 魚の命」と書いてある。別のトラックが信号待ちをしていた。その荷台には「俺が散って 桜が咲くころ 恋も咲くだろう」と書かれていた。

安部公房『方舟さくら丸』新潮文庫、1990年、p.374

このラストシーンはぼくにとっては衝撃でした。ぼくには絶対に書けない下品の典型であるような言葉、「俺が散って」、「桜」、「恋も咲く」、耐え難いほど醜悪です。ちょっとこれは個人的な感覚の問題なので伝わらないかもしれませんし、それで構いません。皆さんにとってもそういう言葉ってあると思いますので、それで置き換えていただければ。ぼくの場合は、こういった何とも言えずにべちゃべちゃしたマチスモって、本当に嫌悪しているのです。暴力的で小児的。ぼくの感覚のほうが病的かもしれませんし、それはどうでもいいのです。あくまでぼくにとってはそうだというだけのこと。

だけれどもこの種のマチスモが絶対悪であるというのは、ぼく自身にとってはけっこう本質的で根本的な問題ではあります。数年前、千葉だかどこかの漁港に行った折にその近くの海産物店でビデオが流れていました。延々、「マグロマグロマグロ……」と唱えつつ、その合間に(もう忘れてしまいましたが)「俺たち男が命を懸けて」とか「家族のために」とか「男の絆が」とか、まあぜんぜん違うかもしれないけれどもそんな内容の戯言が語りで挿入される。端的に地獄です。あすほう。

ところが、そういった言葉が使われつつ、『方舟……』のラストシーンは途轍もなく、恐ろしいまでに澄んでいて、希望はなく、絶望もなく、ただただ静かで美しい。それが物語の力です。世界のなかにはあらゆるものごとが存在するけれど、描かれたその世界全体は確かに美として在る。そしてそこに書かれたすべての言葉は(有限の言葉で無限の世界を創りだす以上)不可欠の要素で、だから「俺が散って」などという唾棄すべきナルシズムでさえ、いやだからこそ、このラストシーンにおいて忘れられない情景として残り続けます。

安部公房は『死に急ぐ鯨たち』で次のように言っています。

とにかく、小説の発想には原則として、スーパーに買い物に行って帰ってくるまでの間に使わない言葉は使わないように心掛けているんだ。夢の言葉ってそんな感じだろ。

安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p.149

確かに彼はそのようにしていて、それでもなお唯一無二の作家として在る。これは途轍もないことです。虚仮威しであったり、衒学的に難しい言葉を使うだけの、例えば生田耕作が言っている文脈とはちょっと違いますが「知的スノッブの糞詰り文章」(「翻訳家の素顔」)のようなもの、それは論外ですし、かといって単に垂れ流される何の力もない陳腐な言葉でもない。そんなところから世界を創る力は生まれようがない。

たまたまとある紙面で安部公房評を読みました。内容はまあ無難なものですが、評者の自己紹介欄に「インスタフォローを!」などと書いてある。『死に急ぐ鯨たち』を論評したそばからこれでは読むほうが混乱します。高等な冗談であれば救いもありますが、あるのはただ凡庸な醜悪さのみ。

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安部公房、『砂の女』、『方舟さくら丸』、小説ではないですが『死に急ぐ鯨たち』と『砂漠の思想』(これは講談社文芸文庫)、うーん、どれも素晴らしいですが、ぼくは『箱男』と『カンガルー・ノート』がもっとも好きです。特に『カンガルー・ノート』は最後の長編ということを除いても強く記憶に残り続ける作品です。新潮文庫の解説はドナルド・キーン。『反劇的人間』(これは中公文庫)における二人の対談はとても興味深いし、互いに尊敬し理解しあっている雰囲気があります。けれども『カンガルー・ノート』の解説だけは納得がいきません。ここでドナルド・キーンは次のように書いています。

[出版当時はカンガルー・ノートを読みながら何回も吹き出したけれども]ところが、二年ぶりで読み直すと、余り笑わなかった。滑稽な場面は相変わらず滑稽だが、初めて読んだ時認めたくなかったテーマは今度無視できなかった。安部さんは亡くなった。何年も前から死と戦い、この小説で死を嘲笑して、死の無意義を暗示したが、勝負は死の勝利に終わった。

安部公房『カンガルー・ノート』新潮文庫、1995年、p.215

しかし『カンガルー・ノート』において安部公房は決して「死を嘲笑」もしていないし、「死の無意義」さも暗示していないのではないかとぼくは思います。むしろそこでは、人間としての限界を超えて(不可能なものを不可能として描くという意味で)「死について描写することの無意義さ」が描写されているのではないでしょうか。おそらく、最後の一行に至るまでに書かれているのは、これまで人類が繰り返し語ってきた「死」についての物語の、ある種の……この言い方は適切ではないかもしれませんがパロディであり、確かにそこには滑稽な場面が多々ある。でもその最後の最後に、本当の最後の一行にあるのは(小説としての最後には「砂の女」のラストと同様に新聞記事の抜粋が置かれているのですが)、「怖かった。」ただこの一行です。ドナルド・キーンは、この一行を、安部公房のすべての作品の最後の最後に置かれたこの一行を、どのように読んだのでしょうか。とはいえこれは批判ではなく、恐らくですが安部公房とドナルド・キーンの関係性、そしてドナルド・キーン自身の死生観の表れでもあるのでしょうが……。解説としてはいま改めて読むと面白いです。

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いえ、いま本当に、仕事のプログラミングと、あと単著の原稿をいっしょうけんめい書いているのですが、そうするとそこからはみ出したりずれたりした思考もどんどん出てきて、大半はあっという間に記憶から抜け落ちていきますが、感じたことを残しておくと意外なところで芽が出て育ったりもします。そんなこんなでその種を残すためにブログの更新頻度が上がっています。でも本当に原稿書いているんです。嘘じゃないんです。次はエドモンド・ハミルトンの『反対進化』とフレデリック・ブラウンの『さあ、気ちがいになりなさい』について書く予定です。いやこれも原稿と関係しているんです。嘘じゃないんです……。