メジンペンギロと魔法の国

忙しい忙しいなどと言いながら、紙粘土で遊んでいました。最初はペンギンを作ろうと思っていたのですが、春先に庭に来ていたメジロを偲び、途中から方針転換。しかしその転換も遅すぎたようで、ほとんど緑のペンギンになっています。隣は彼女の作ったコアリクイ。粘土を手で捏ね何かを作ると、不思議に、その人の魂の形が現れてしまったりします。ぼくの魂、緑ペンギン。

あと、自分の研究サイトをようやくSSL/TSL対応させ、ついでにスマートフォンにも対応させました。まだ最低限のレスポンシブデザインでしかないのですが、大事なのは中身なので、とりあえずはこんなもので良いと思っています。ABOUTから行けますので、良かったら見てみてください。いや面白いものでもないのですが。

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だけれども、ぼくはスマートフォンってやはり好きになれません。一応、ぼくは組込系のプログラマなので、仕事となると最低限ノートパソコンがないとどうしようもない。だからスマートフォンに求める機能って通話が主になります。それ以外のことは普段持ち歩いているノートでできてしまうから。そしてこの通話に関してはPHSと比べてほんとうに酷い。VoLTEとか、スペック上はPHSより良いんだよなどと言われてもぼくは絶対に信用しない(ドクサ)。いや実際ぜんぜん違いますよね。どのみちいったんデジタル変換されたものだから偽物の音声だと言われればそれはそうなのですが、それにしてもあまりに切り貼り感が強すぎます。人の声を雑に輪郭線で切り抜いて、こちら側に持ってきてペタっと貼って、はい、これがあの人の声ですよと澄まし顔でのたまうスマホが憎い。ぼくはスマホが憎い!

もちろん、しょせんそれは技術的な問題に過ぎないので、リソースを気にしないのであればいずれは解決されるかもしれません。ぼくは別に反技術主義者ではないので、そうなったらなったでありがたいことです。でもどうでしょう。リソースは常に限られているし、だからこそアーキテクチャとアルゴリズムが重要になるのです。

あるいはまた、音質が悪いというのも悪いことではないのかもしれません。最初から最高品質の通話が可能だったとすると、もしかするとぼくたちはそのとき、そのデジタル変換を通した音声をその人の声そのものと何の違いもなく受け入れてしまうかもしれない。いや、対面で聴く相手の声だって空気を介在しているでしょ、というのであれば、それはあまりにデジタル化に対して無防備すぎるようにぼくは思うので、そういう偽物時代を体感しておくということには、それなりの意義がある気もします。でも、これもどうでしょう。それなりの音質でさえ、ぼくらはすぐに慣れてしまうかもしれないし、それが普通になってしまうかもしれない。ぼくらが本来優れた耳を持っていたとしても、酒場の腐れはてた音楽を聴いて育つモーツァルトになってしまっては万事休するわけだ(サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫)。

またまた他方で、最初から通信だと割り切ってしまえば、音質の悪さなんてものはどうでも良いのです。以前にkickstarterで入手したWiPhone(https://www.wiphone.io/)、これはWiFi経由で通話するためのモバイルフォンですが、機能的には大したものではありません。それにWiFiという既存のインフラに依存しているという点でも、個人的にはあと一歩だと思っています。それでも、ぼくは最近「修理する権利」に興味があって、といってもだいぶ上っ面だけの適当な興味ですが、でも、これって大事よね、とけっこう真剣に考えています(修理する権利についてはこんなサイトも面白いです(https://www.repair.org/))。で、話が長くなってしまったけれど、こういうデバイスであれば、通話品質とかはあまり重視しません。

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つまるところ、音質は最初から良い方が望ましいのか、徐々に良くなっていく方が望ましいのか、音質が悪くても自分の手が介在できる余地の残されている方が良いのか。脈絡なく矛盾したことを書いているようですが、自分のなかでは明確な判断基準があるのです。端的に言えばそれは、そこ(そのデバイスが生み出す場)に魔があるかどうか、です。自然が生み出す魔法とは同じようで違い、違うようで同じな、人間の欲望が生み出す技術という固有の場における固有の魔法。ぼくの経験上、従って非常に偏った見方であることは認めた上で、現状の、システムによって与えられた、切り貼りされたデジタル音声を相手の声だと漠然と信じこみ疑問も覚えない人びとは、そこに立ち現れている魔に対して極めて無感覚な場合が多いように思うのです。それを感じ取れるのであれば、相手の声と聴きまがわんばかりの音に魔を感じ取ると同時に、バリバリカクカク、戯画のような音にもまた、魔を感じ取るでしょう。そしてその魔の根っこを探っていくと、辿り着くのは、その場を生み出す技術を生み出す人間の魂が抱えている欲望、人間自身にさえコントロール不可能なその欲望の根源的な渦巻きであるはずです。

そしてそれは、音だけではなく、VR/ARのような視覚であっても、あるいは3Dプリンタによって生み出されるフィギュアへの触覚であっても、結局同じなのではないでしょうか。解像度の精細さではなく、魔が立ち現れるかどうか。そしてそれは、技術を、外から与えられたものとしてではなく、人間の魂から生み出され、分かち難く分かたれたものとして受け入れることによってのみ可能になるのだとぼくは思うのです。

こういう訳の分からない話を書くの楽しいなあと、明日の仕事から目を背けつつ元気に生きています。

beyond, beyond

少しずつ自分の活動を――というほどのものでもないのですが――ここに集約していこうと思い、とりあえずInstagramとnote、研究サイトへのリンクを追加しました。あと、できればいずれ同人誌も表紙くらいは載せられればなあと思います。instagramはいつのまにかログインしないと大きなサイズの写真が見られなくなっていますね。そういう囲い込みは反吐が出るので、いつか気力が湧いたら写真もぜんぶこのブログに移そうと思います。でも問題は気力が湧かないということです。魂はいつだってびよんびよん元気にどこかを跳ね回っていますが、精神と身体は所詮肉の問題なので、この世のしがらみで年々重力がつらくなっていきます。noteは地味に本紹介を続けているので、良かったら覗いてみてください。

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昨日は仕事帰りに駅で彼女と落ち合い、もう遅かったので駅前のスーパーでお弁当を買い、家に帰ってから二人でベランダに出て食べました。小さなライトを手許に置き、小さな小さなベランダでひっそりこっそり。そんな風にすると、出来あいのお弁当もなかなかおいしく感じます。食べた後片づけをしてから、ひさしぶりにミラーレンズを引っ張りだして、丸く浮かんだ月を撮りました。この巨大な岩石の塊が宙に浮いているって、感覚的には不思議です。地球の大気という海の底の底からういよんういよんと電波を飛ばし、しばらく月と交信をしてから部屋に戻りました。

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どうということのない話。紙粘土を捏ねてペンギンの形を作りました。表面の凸凹を削ろうと思い、どこかにしまった篆刻刀を探して段ボールをひっくり返していたら、ミック・カーンのCDが出てきました。ぼくの好きな数少ないミュージシャンの一人。ひさしぶりに聴くとやはりそのベースは最高です。あまりに最高だったので『ミック・カーン自伝』(中山美樹訳、RittorMusic、2018年)を入手しました。ぼくはいつもならアーティストの自伝なんて読まないし、作品とその人を結びつけるような手合いを嫌悪するのですが、これは本当に良かったです。要するにぼくは、ミック・カーンという人間そのものが好きだったんだと思います。この自伝はいつかnoteで紹介するかもしれません。

ミック・カーンを知らない方は、ぜひyoutubeでD.E.P.の”Mr. No Problem”を検索してみてください。これ、どういう経緯かは知らないのですが(ぼく自身はJAPANやその後のJBKなどにおけるミック・カーンを主に聴いていたので、D.E.P.はずっと後になるまで知りませんでした)、メンバーが均等に映っているバージョンと、ミック・カーンにフォーカスしているバージョンがあります。どちらも本当に良い雰囲気です。前者では特に土屋昌巳のパフォーマンスに華があって素晴らしい。だけれども後者のミック・カーン版も、ミック・カーンがそれはそれは楽しそうに演奏していて、観ているだけで幸せになります。演奏ってこういうものだよな、と思います。

ずっと昔、二つ目の大学に居たころ、同じ時期に入学した神学生たちが中心になって讃美歌を演奏する管弦楽サークルを作り、何故か、その大学の学生でもないのに彼女も参加してチェロを弾いていました。何しろ彼女に対する異様な執着心しか取り柄のないぼくなので、気がつけばコントラバスを入手し、そのサークルでびよんびよんと演奏をしていました。当時は当時で楽しかったけれど、いまなら、もっと、ベースを演奏することそのものを楽しめるような気がしています。

好きだった何か、数少ない仲間だった誰かが少しずつ減っていく、年を取るというのは生き残るということで、寂しいことばかりです。でも、かつて在ったものたちが残していった可能性を、身勝手ながらも引き受けざるを得なくなるというのは、きっとそれはそれで、楽しいことです。存在するということは、楽しまなければならないということです。でもそれは義務ではなくて、いや義務なのかもしれませんが、でも、すべての上位に在る魂にとっては、そんな言葉を軽々と超えて、いつでもびよんびよんと楽しんでいるようです。

Always halfway

同人仲間から同人誌の7号が届きました。今回はちょっと薄めなのですが、それもまた引き締まった感じがして気に入っています。ぼくは論考と小説を載せていますが、論考が素晴らしい(笑)。『神無き世界の名探偵』というのですが、タイトル、良いでせう。自分でも(自分だけは)非常に気に入っています。最近は自分の神学的傾向を隠さなくなってきています。小説の方は『人形のための祈り』。これも傑作です。いや真面目に。

言葉というのは面白いもので、毎回何かを書き終えると、明らかに自分の能力を超えているなあと感じます。もちろん、凡庸が服を着て脱いで歩いているぼくの才能など、たかが知れてはいます。それにしても、あるいはだからこそ、言葉というのは凄いものです。だからいつも、もうこれ以上のものは書けないよなあと思っているのに、それでもまた藻掻いて足掻いて何かを書くと、自分を超えたものになる。それは自分の才能ではなく、言葉の力なんですよね。そしてこれもまた言うまでもなく、それは何かの基準があってそれを超えているとか、あるいは他の誰かと比べて優れているとか、そんな優劣の話ではなく、ぼく自身を超えたものになるというだけのことでしかありません。けれどもそれこそ不思議で、途轍もないことです。そうじゃないでしょうか?

いずれにせよこの同人誌、なかなかレアなので、もし水戸芸術館か茨城県近代美術館に行くことがあれば、ミュージアムショップを覗いてみていただければ幸いです。まだ置いてもらっているのかどうかは分かりませんが……。

仕事はとにかくどたばたしていますが、どうにかやっています。今度は新しい言葉を覚えなければならなくて、あと、これは研究の方ですがヘブライ語もやり直そうと思っているので、なかなか大変です。今年はひさしぶりに依頼論文とか所属している研究所の紀要とかではなく、査読論文を書こうとも思っています。これって要するに何をしているのでしょうか。自分で自分の人生を悩むほどナイーヴではありませんが、他人に説明するのは意外に難儀です。

何で勉強をしているのか、何を勉強しているのかがまったく分からなくなってしまっていちばん最初の大学を中退して、唯一の才能であったプログラミングで食べるようになって、というかそれで食べざるを得なくなって、24時間プログラミングのことばかり考えなければならない状況に数年置かれるなかで――何しろ夢の中でもデバッグしていたのですから――改めて自分が言語そのものに興味があることに気づいて、だったらいっそのこと非常に古い自然言語から学んでみようと思ってとある大学の神学科に入って……、いまでは環境哲学/メディア論研究者を名乗っていますが、自分のなかではここに至るまでのはっきりとした道筋があります。でも、ヘブライ語を学ぶことと環境問題について考えること、道端で干からびたミミズに神を見ることと現代メディア技術について考えること、何がどうつながっているのかって、なかなか伝わらないと思います。それに、結局すべてが中途半端だと言われれば、それはそうかもしれません。

だけれども、中途半端って、悪いことではないと思うのです。自分が進んできた道と先行きは自分にさえ見えていれば良くて、論文やら何やらは、ある意味においてその途上にある自分自身の心象風景をスケッチした旅行記のようなものです。ぼくの見ているものが漠然とでも伝わり、面白いと思ってもらえれば、それで十分です。それに、これだけ分断と憎悪が激化している時代において、中途半端であることって大事だよねと、中途半端な人生を送って中途半端な研究者になったぼくは思います。研究者っぽい言葉遣いというのは苦手ですが、だからこそ語れるものがあるし、伝えられる先がある。それは確信しています。

これはもう何年も前に出した研究会誌の表紙をデザインしたときの元データになった〝Digital Embryo〟という作品です。最近泣く泣くスマートフォンに切り替え、ホームの背景画像を何にしようかと悩んでいたときにふと思い出して引っ張り出してきました。Processingという言語で作ったのですが、この言語とても可愛いのでお勧めです。それはともかく、これを銅版画でリメイクしようと思っていて、ただ銅版画に転写するだけというのもつまらないので、kickstarterで入手したXPlotterで原版を作ってみようかなとか、どのみちすべてにおいて中途半端な技術しかないのですから、その組み合わせから何を生み出せるのか、いろいろ楽しく考え中です。いやちゃんと研究もしていますが、自分の手とデジタルを重ね合わせて固有のメディア空間を作り出してそこに何かを存在させる行為だって、ぼくにとっては研究のひとつの在り方なのです。

メディアって要するに中途半端なところに在るものですし、メディアに満たされたこの世界も、だから、中途半端なものなのではないでしょうか。ぼくらは誰も神のように苛烈にはなれないし、線を引くことさえできないし、引いたら必ずミスるけれど、だからこそ、中途半端であっても、見よ、それは中途半端に良かった! そして、それで良いんだと思います。

貫通

ふたたびひさびさのブログ更新です。とはいえ何か特別なできごとがあったわけでもなく、ひたすらひたすら、平凡な日常が続いています。最近は出社することも増えてきて、電車の行き帰りでだいぶ本や論文を読んでいます。何しろ通勤時間が長いので、読む時間はたっぷりあります。往復で5時間半を超えるくらいの通勤時間の内、4時間半以上は電車のなかですので、それを利用しない手はありません。ところがしばしば頭痛を発症してしまい、文字が読めなくなってしまいます。正直これはダブルミーニングで痛い。

頭痛は何をきっかけに始まるのか良く分かりません。もちろん、ストレスや寝不足、疲労などから起きることはありますが、それだけではない。最近気づいたのですが、どうやら情報量が多いものを目にすることもきっかけのひとつらしいのです。だから本もそうなのですが、確実にやばいのは人の眼です。他人の眼を見てしまうと、よほど調子のよいときでない限りまず確実に頭痛が始まります。ぼくが対人恐怖症の気があるからかもしれませんが、人間の眼って、物凄い情報量を持っていますよね。それを見てしまったぼくの目から送られてくる情報に対して脳が過負荷となり、頭痛が起きる。ライアル・ワトソンのイカのように、ぼくの目もまた、ぼくの脳と精神には不釣り合いに高機能すぎるのかもしれません。無論、ぼくもわざわざ他人と目を合わせようなどとはしませんが、しばしばこちらの方をじっと見てくるひとっているじゃないですか(この発言の時点でちょっとアレですが)。視線というのは視野周辺にあっても強力なので、もう疲れてしまうし脳は発熱するし、困ります。

先週から後期の講義が始まりましたが、オンライン講義というのは、いまひとつ気分が盛り上がりません。無論、自分の感情など問題ではなく、与えられた条件で良い講義をするのは当然です。けれども、やはりオンラインというのはどうも苦手です。講義の良さとは何によって測れるのか、いろいろな考え方があるでしょう。ぼくの場合はライブ感がけっこう命で、だからやっぱりリアルな場で語るのが好きだし、そこから見えてくるものが大事だよねと思っています。もしかすると、とある学生が突然ぼくを刺しに走り寄ってくるかもしれない。その緊張感がライブであることを、そしてライフを実感させるし、まあそんな話、どうでも良いですね。とにかく、人の眼を怖がる対人恐怖症のぼくが言うのも何ですが、講義は、ぼくは、対面でなければなあと思うのです。

友人の彫刻家に、オンライン講義だといまひとつ乗れないんですよねと話をしていたとき、彼が、オンラインによって表現が根本的に変化するということに対して――善悪の問題ではなく――あまりに無頓着なアーティストが多すぎるよね、と言っていました。それはとても良く分かるのです。オンラインはオンラインのメリットデメリットがあるとか、その利点を生かしてどうこうとか、時代の変化が云々とか、そういうこととはまた別に、それはそもそも完全に別の何かであるということ。その何かが何なのかについて、ぼくらはまだほとんどまともに議論をしていないし、議論をする土台さえ持っていないと、ぼくは感じています。

彼女とふたりで、ひさしぶりに美術館に行ってきました。東京都写真美術館で開催中の「エキソニモ UN-DEAD-LINK」。エキソニモは世界的に見ても注目すべき最先端、最深部に位置するアーティストだとぼくは思っていて、この展覧会も観る価値は絶対あるので、興味のある方にはお勧めです。ぼくらはちょっと用事があってすぐ近くのホテルに泊まっていたため、朝、開場と同時に行き、比較的のんびりと観てまわりました。観客もほとんど居ないなか、珍しく恐怖も怒りもなく、人間の生や技術、そして美について、ぼんやり考えながらうろうろしていました。UN-DEAD-LINK、タイトルが素晴らしいですね。デッドリンクのさらに向こうにあるもの。直観が、言葉にできないリアルの総体を感じ取ります。でも展覧会のサブタイトル「インターネットアートへの再接続」、これはあまり良くない。勝手な想像ですが、これはエキソニモが考えたサブタイトルではないような気がします。良くないというか、単純に理に落ちている……。理に落ちるところに美はありません。

最近CDコンポを買いました。どうってことのない話なのですが。それで引越し時に片づけてしまっていたCDを改めて引張りだしてきて、ひさびさに音楽を聴いています。1980年代から90年代のアルバムを聴いていると、その音色だけで、ああそうだったよねと、形にならない記憶を思い出します。恐怖と切望。既に当時そうであったもの、いまとなってはそうなったもの。大学の部室で講義にも出ずに音楽を聴き、夕方彼女が部室に来て、うだうだとした時間を過ごして。当時から対人恐怖症だったぼくですが、けれども、そのときのその場のすべてを覚えているし、そのときそこに居たすべての人の表情と息遣いを覚えているし、そしてそれは、いつまでもそこに在ります。

インターネットになんて何にもないよね、と、技術者でありメディア論研究者であるはずのぼくは彼女に言います。そこには道に落ちているひとつの小石に刻まれた情報の百万分の一もありませんし、インターネットなんて、ほんとうは無くたって困らない程度のものでしかありません。だけれどもそれを言うのなら、ぼくらが発するすべての言葉だって、すべての本だって、すべての記憶だってすべての××だって、たいした情報量があるわけではありません。問題はそれが世界を内包しているかどうかであって、その背後、あるいはその裂け目の向こうがどこへつながっているのかなのだとぼくは思います。

何だか最近このブログ暗いですね。次は明るい話を書きましょう。頭痛で穴だらけの脳みそには陽ざしが燦々と降り注ぎ、何てったってそこは常に能天気。

本を読まないということは、そのひとが孤独ではないという証拠である。

タイトルは太宰治『人間失格/グッド・バイ』(岩波文庫)から。

そんなこんなで、noteを始めました。いま出版文化の置かれている状況が非常に悪化していて、できる範囲でやれることをやろうと思ったのです。ですので、noteの方では原則的に出版支援用のリンクと、この本良いよねとぼく自身がお勧めできる本の紹介文に限定して投稿しています。もしよろしければ覗いてみてください。

https://bit.ly/2W7Tqf7

多様性というのは、そしてその維持は、人間にとってはほんとうに難しいことです。ぼくらは多くの場合自分にとって価値があるかどうか、役に立つかどうかで判断してしまって、その背後にある、それらを支えているネットワーク全体には目が向きません。だけれども何かが終わったあとに残されたものが目に見える範囲では変わらないように思えても、結局それは普段から声が大きかったりしたものが図太く残ったからそのように見えるだけで、現実には手遅れなくらいにモノカルチャー化してしまっている。それでも人間は生きていけはするのでしょうが、ぼくは嫌だな、ということです。

あとは、それとはまったく関係なしに、人生もそろそろかたちが見えてきたし、少しくらいは石の下から這い出さないとな、ということもあります。

最近は(というよりも、あまり理解されないのですが昔からずっと)民主主義に関心を持っており、次の研究テーマはもっと直接的に民主主義について、その原理について考えたいなというのと、あとはメディアアートについてもまとめたいので、そういった系統の本の紹介が多くなるかもしれません。それ自体ぼくというフィルターを通して偏ったものですし、出版文化の多様性とか言っているくせにどうなの? と言われればその通りです。しかしまあ、本の紹介って他にもたくさんあるので大丈夫です。それにぼくはやっぱり偏屈なので、ぼくにとっては紙の無駄にしか思えない醜い思想に基づいた本の紹介のために俺の人生一秒だって無駄にしたくないなということがあるので、それはそれで仕方がありません。どのみち、そういう醜い思想に基づいた本って、これからますますのさばるものでしょうから。

いま文化全体が弱っているし、少なくともぼく自身民間で食べてきた人間なので、芸術というのはそういう俗世の状況とは関係なしに、真に美しいものは残るんだよとか、そういう主張には同意できないし、好きではありません(そういう考えが間違っているとは思いませんが)。必死に足掻いて、お金の勘定をして、ある点では社会に迎合して、そうやって必死に生き残るなかで、いま生きている人間にとって意味のある美が、コミュニケーションが生まれるのだと、ぼくは思います。

ミノムシワークス

このブログでは、ぼくはなるべく時事的な問題については書かないようにしています。あるできごとが生じたとき、それぞれのひとが置かれた状況によりそれをどう捉えるかはまったく異なるし、そもそも「捉える」などと客観的に言えないほどの苦しみや恐怖を感じているのであれば、そこでぼくが何か共有し得るような言葉を書けると思うこと自体が驕りです。それでも、確かにそこには共有し得ること/ものがあるし、同時に、あたかも誰もが共通して経験しているかのように思えるその時事的な事象そのものにではなく、むしろどうということのない個人的で淡々とした経験のなかにこそ、その共有し得ること/ものの本質的な形があるのではないかと考えたりもします。

あるいは単に、ぼくはあまり強い人間ではないので、こういうときに交わされる強い言葉にはあまり接近できないだけかもしれません。その事象が大きければ大きいほどそれについて交わされる言葉は強いものとなるし、それは、少なくともその半分は正しいことでさえあります。要するに、いつまで経ってもこのぼくが社会的な意味での大人になれないだけなのでしょう。

四月の頭にようやく草稿を書き上げ入稿しました。ほぼ三カ月の遅延ですが、どうにかこうにか書き上げることができました。と言っている傍から、ぼくなりの言葉でいまぼくらが直面している民主主義の危機をどう考えているのかを書かねばなと思い、編集者の方にお願いをして少しだけ書き足し、再入稿しました。民主主義の危機などというとすぐに政治的な云々という対立構造を押しつけられてしまいそうですが、そうではないとぼくは思います。それは政治などよりももっと根源的な、あるいは政治というものこそが僕らが思っているよりももっともっと根源的な、きみと私の関係にあるものです。

きみは存在しているかい? おかげでぼくも存在しているよ

それがきっと、あらゆる存在に対する無条件かつ無限の責任の根源にあるものです。けれどもぼくらは無限には耐えられない。そこから様々な苦しみや悲しみ、様ざまな物語が生じていきます。それがぼくらの創世神話で、その根本にあるのは諦念と、恐らく、自分の死と引き換えにすらできないほどの狂気に満ちた愛です。

そんなことをつらつらと書き足しながら、ついでに、引用文献のチェックもし直しました。もともと彼女が彼女のお祖母さんと一緒に暮らしていた家の改築が終わり、いまはようやく必要な本をすべて本棚に並べた部屋で過ごしています。食い扶持を稼ぐための仕事は在宅勤務となってしまったため、収入的には大幅ダウンですが、原稿を書くという点では良かったのかもしれません。生まれて初めて、ぼくの脳内にあったすべての本のマップを、現実の本棚に具現化することができました。これは想像以上に楽しいことでしたし、完全に具現化することなどは無論できないので、その過程では現実との折り合いをつけなければならず、これはなかなか誰にも伝わらないのですが、ほんとうに吐くかと思うような苦痛もありました。

ともかく、その部屋の中心に立ち手を伸ばせば、インターネットなどなくとも、あらゆる必要な情報に手が届きます。今回の原稿は、これでとりあえずは一段落です(もちろん、この後大量の赤が入ったゲラが戻ってくるでしょう。それも楽しみなのです)。それでも、まだまだ書きたいことはいくらでもあります。それが具体的な言葉になるまでは、他の人たちが書き、書き残した大量の言葉たちのなかで、ゆっくりぼく自身の言葉が結晶化していくのを待つより他はありません。結晶化などという綺麗なものではなく、無数に散らばった言葉の断片のなかをもそもそ動き回りつつ、気に入ったものを自分の身体に纏っていく、言葉のミノムシのようなものかもしれません。いえ、ミノムシだって、もちろんとても美しいものです。とてもとても美しいものです。

草稿をチェックする際に、ネット上の記事を参照している箇所についても確認をしました。この数年の間に書いてきた論文がベースになっているので、幾つかはもう古すぎ、ページそのものがなくなってしまっているものもあります。たかだかテクノロジーに関する幾つかの記事が消えてしまったところで、どうということはないのでしょう。それでも、ネット上の情報というものの消えていく早さを、改めて実感しました。そういえば、この在宅勤務の合間にひさしぶりに覗いてみたぼくが好きだった幾つかのブログも、その大半がもう消えてしまっていました。ブログという言葉自体、もう何やらノスタルジックでさえあります。

それは個人のスタイルの問題で、あるいは社会的な戦いの問題で、強い言葉が決して悪いわけでもないし、誰かが価値判断をできるものでもない。それはむしろ、絶対に必要なものでさえある。だけれども、それでも、ぼくは静かな言葉が好きです。怒りも悲しみもすべて含め、できる限り静かで、叫んでいても静かで、血を流していても透明で、そういう言葉たちが好きです。けれども、そういう言葉たちが書かれていたネット上の場所が、あるときふと訪れると、もう無くなっている。もともとそれは、そうなるからこそ美しい言葉だったのだから、どうしようもないことです。そしてそれは、人間もまた同じです。

別に誰かよりも優れているわけでもなく、ありふれた能力のひとつに過ぎませんが、ぼくは、百の言葉を読み、一の言葉を書くことができます。というよりも、それしかできません。どんな状況でも、どんな激情を抱いても、結局のところはそれができるだけです。在宅勤務になり一日中家に籠っていると、家の外で誰かが話していたり、歩いていたり、その度に怖いなあ、怖いなあと感じます。インターフォンが鳴れば、出るには死ぬる思いで気力を奮い立たせる必要があります。それでも、callingばかりはこちらから切るわけにも、出ないわけにもいきません。外の気配に怯えつつ、出社もしないので無精ひげを生やした中年の男が「お外が怖い」などと言っていることのシュールさに思わず笑いつつ、だからこそ見えるものを書けるうちに書いておこうと、既に在る言葉たちの力をミノムシのように拾い集めつつ、こっそりひそひそと生きています。

網戸越しに見える遠くの木々

仕事帰りにいま住んでいる町を歩いていると、時折ケーキを買うことのあるケーキ屋さんがまだ開いていました。もうそれなりに遅い時間なのですが、そういえば以前、ガラス扉に書いてある営業時間が長いことに驚いた記憶があります。最近、毎週金曜日の夜には、彼女とふたりで「生き残った記念日」を開催しているので、きょうはケーキを買って帰ろうと思い、お店に入りました。そのお店はもうだいぶお年のご夫婦が営んでいるのですが、きょうはおじいさんが店番です。うーん何にしようか悩みますねえ、などと話しながら選んでいると、おじいさんがぼくに、曇っていますか? と尋ねてきました。そういえば、遥か遠く海沿いの工場を出たとき、もう真暗で、月と星がきれいだったのです。だからぼくはおじいさんに、いや、曇っていませんね。ここの空は見上げなかったので分かりませんが、私の職場の方はきれいに晴れていましたよ、と答えます。するとおじいさんは笑って、いえ、ショーケースのことです、といいます。なるほど、ショーケースは一部が水滴で曇り、ケーキの幾種類かはよく見えません。ぼくも笑ってしまい、笑ってしまい……、いえ、このお話、特に落ちはないのです。ぼくはケーキを二つ買って帰りました。

落ちがないまま、ぼくらの日常生活は続いていきます。ここ数ヵ月は原稿を書くという点では非常に厳しい環境にあり、新しい文章を書いているかというと、普段に比べると十分の一がせいぜいです。年を取るにつれ、雑事ばかりが増えていき、しかもそれは単なる雑事ではなく、布団越しの重いパンチのように徐々に気力と体力を奪っていくような雑事です(いつか書こうと思いますが、怨念の籠った脅迫状のようなものを受け取ったりもしました。とても悲しいお話です)。

それでも、同人誌仲間のひとりの人間関係のおかげで、この数ヵ月の間に、二つの美術館のミュージアムショップに、ぼくらの同人誌を置いてもらえることになりました。そのうちの一つには彼女とふたりで泊りがけで覗きに行き、あたかも無関係な人間のようなふりをしつつ、おや、素敵な同人誌だねえ、これは買わざるを得ないねえ、などと絶叫しつつ一冊購入し、売り上げに貢献してきました。

それからもう一つ、企画書を送った出版社に目を止めてもらえ、本を出せることになりました。ほんとうは叢書として企画していたものですが、研究仲間はそれぞれのタイミングもありますし、研究者としても出版社としてもそれぞれに独自のスタイルがあります。それが合っているところと出会えることになったので、叢書ではなくなりましたが、結果的にはお互いにとって良かったと思います。こういうのって、やはり縁ですし、僥倖です。

ぼくの本についていえば来年中には出版したいので、予定としては年末までに原稿を仕上げなければならず、冷静に考えるとかなりやばい状況のような気もしますが、今年の最後のころには新しい家の本棚の部屋ができているはずなので、お休みの日にはそこに籠って、ぼくが見るこの世界の在り方をじみじみ書いていこうと思います。

本というものは、いうまでもなく、独りで作ることのできるものではありません。良い論文を書けばそれが本になって、しかも良い本になって、とは、ぼくは考えません。そうであるのなら、それは原稿だけ剥き出しで電子書籍か何かにして、Amazonででも売れば良いのであって、かつ、それは決して悪いことではない。けれども、それはぼくにとっての本ではない。古いタイプの人間であるぼくは、本は、やはり紙であり匂いであり、デザインであり、重みであり手触りであり、フォントであり、余白であり、それらすべてです。ページを捲るときの音、それを読む環境、そのすべてです。筆者だけではなくそれを見いだした編集者、デザイナー、DTPの担当者、流通業者、書店の人も、いえもっともっとたくさんのひとたちすべてからなる途轍もない総体の焦点として、ある一冊の本は現れます。

そういう本を作りたいなあと思います。そうはいっても、結局のところぼくにできるのは原稿を書くことだけです。ロジカルなだけのものではつまりませんし、小説になってしまってもいけません。そのどちらでもありどちらでもないような世界を書くこと、あるいはそのように見えている世界を書き表すこと。そしてそれを伝えること。どこまでできるかは分かりませんが、哲学というのはだいたいにおいて喰っていくには向いていないもので、それならせめて、ぼくにとっても、一緒に本を作ってくれる人たちにとっても、そして何よりそれを読んでくれるひとにとっても楽しいものになってくれるよう、地道に書いていこうと思います。