歩いている影とぼくの足

帰り道、頭痛がひどくなり困りました。外に出るというのに頭痛薬を忘れてしまったのです。そういうときは心の中で目を瞑ってひたすら時間が過ぎるのを待つしかありません。ロボットのように家にたどり着き、薬を飲みしばらくしてようやく落ち着きました。痛み自体はともかく、電車での移動はぼくの数少ない読書の時間なので、そういうときにせっかく持って出た本を読めないのがいちばん困るし残念です。けれども、ただひたすら痛みを耐えている時間というものも決して無駄ではなく、あとから振り返ってみるとその痛みの塊の漠然とした記憶のなかにも、それなりに自分の研究に役立つものがあるという実感があります。ほんとかな? 無論、だからといって痛みにも意味があるなどということを普遍化するつもりはないのです。それにどのみち、ぼくの頭痛もしょせんは六、七割は市販薬で抑えられるものでしかありません。

少し話は飛びますが、ぼくは大学教員があまり好きではないのです。あるいは、あまり関心がないというべきかもしれません。それでも心から尊敬している人もまた何人か居て、その一人である牧師先生から年賀状が届きました。牧師に敬称として先生をつけているのではなく、言葉通り牧師でかつ先生だった方。もう九十歳も半ばを過ぎていらっしゃると思うのですが、極めて達筆で、衰えることのない魂の力を感じさせる文面でした。以前にも書いたかもしれませんが、彼のある日の説教をよく覚えています。ぼくが在籍していたその二つ目の大学ではいつもお昼に誰もが参加できる礼拝がありました。最初に行っていた大学でも、週に一度だったかな、そういう日があった気がしますが、それには何の関心もぼくは持てませんでした。それは端的に、その一つ目の大学に居た牧師をぼくが信頼できなかったからです。牧師というのは途轍もなく怖い職業(と言っていいのかどうかは分からないけれど)で、生半可な説教など簡単に見抜かれてしまいます。言うまでもなくぼくだって、いやぼくこそ偉そうなことなど言えないのですが。けれどもぼくが尊敬していたその牧師先生の説教は真の意味で魂が込められたもので、そういう言葉を聴くためには、そのとき、その場に居合わせなければなりません。どうしてもそうしなければならない。それは人間によって、あるいは個人の意思によって選択できるものではなくて、だからほんとうに幸運だったのだと思います。ともかくそこで彼がひとつの挿話として語ったのは、彼があるとき大きな事故に遭いそれでもほとんど無傷で生還したときのこと。それは彼の力でもただの偶然でもなく(彼にとっては)神の力が働いたからなのですが、だけれども、そこで自分にはやるべき使命があるから神に生かされたとか、これは信仰心のないぼくにはうまく説明できないのですが、そう考えてはならないと彼は言っていました。なぜなら、もしそう考えるのであればそれはすなわち、同じような事故に遭って亡くなった人びとには神に与えられた使命がなかった、自分は神にとって生かす価値があったけれども彼ら/彼女らはそうではなかったのだと、たかが人間でしかない彼がそう断定することに他ならないからです。つまるところ、ぼくらには神の意図など決して分かりません。それでもとにかく全力で、生きている限りは全力で、自分には理解できない神の意図のもとで生きなければならない。ただそれだけのことだし、同時にだからこそ凄まじく大変なことでもある。

その大変さと恐ろしさは、信仰心の対極に位置するようなぼくであっても――なんてったってマルクスとかまともに読んだことさえないのに唯物論研究協会とかに入っていたのです。もともと悪い意味ではなく義理で入っていたのでもう退会しますが――分かる気がするのです。要するにそれは、自分の感じる痛みや恐怖に対してその向こうへ穴がつながるほど自分のものとして集中しつつ、同時にその痛みや恐怖を感じている自分を、どこに行くのかは分からない大きな流れに位置づけられる小さな豆のようなものとして、遥か上空から俯瞰するということです。必然と偶然が究極的に結びつくところで、ただただ一歩一歩極小の歩みを進めること。それはたぶん、一般的な意味での研究をするということとは何の関係もないことなのだと思います。一般的に言えば。だけれども、ぼくにとってそれは生きつつ研究するという最も根本的なスタイルとして、いつでも心にあることです。

いずれにせよ、ぼくは年賀状を書かない主義なので、彼には最近の研究テーマについて書いた手紙と最新の論文を送ろうと思っています。もっとも、人間は技術によって神になることはできないというのがぼくの近頃の研究テーマなんですよと書いたところで、恐らくこれを読んでくださっている皆さんとはまた違った意味で、彼にとっては当たり前のことだと思えるのでしょうけれども。

寒い日が続きますが

カメ池が無くなってしまったので、いまは時折コイ池に行っています。
柿。
トマト。
ひさびさにICCに行き『生命的なものたち』を観てきました。面白いものが幾つかありましたがnorによる《syncrowd》は別格に素晴らしかった。
散歩のときに見つけた手袋。何故か枯れた木の枝にはめられていました。

そんなこんなで今年も終わりです。だけれどもぼくは大晦日とか元旦とか、そういうものにはほとんど関心がありません。どの一日もその一日。このひと月ふた月はひたすら身体の不調を騙しだまし過ごしていましたが、同じような毎日を積み重ね、それでも少しずつ進めていればと願っています。

とはいえ年は年。来年はできれば次の一冊を出せればいいなあ。取らぬ狸の皮算用。でも、それがあるから人間生きてもいられるのかもしれませんね。

楽しいことばかりです。嘘じゃなく。

めずらしく学会発表をしてきました。ずいぶんひさしぶりだなあと思って自分のresearchmapを見てみたら3年以上ぶりだったのでちょっとびっくり。コロナはまだこんな状況ですし、朝早くのマイナーな部会での発表だったので参加してくださった方は極わずかでしたが、それでも楽しくしゃべって議論をして、そこで突然コミュニケーションポイントがゼロに落ちたので帰ってきました。修理する権利について、いま書いている原稿の導入部みたいなことを話せたので、頭のなかをちょっと整理できた気がします。

それから、先日彼女と二人で「ふれあい下水道館」というところに行ってきました。何となく興味があり機会があれば行こうと思っていたところ。小さな建物ですが、地下深くまで降りることができ、いちばん下には現役で使われている下水道管があります。そして実際にその中に入ることができる。これはなかなかできない体験です。いえここに行けば、大雨とかで見学禁止になっていない限りいつでも観られるのですが、けれど皆さん、恐らく本物の、いままさに使われている下水道管のなかに入ったことってないでしょう? いやあ、ぼくはあるんですよねえ! と謎の自慢をしつつ、でもほんとうに面白いのでお勧めです。

こんな感じで中に入ることができます
2001年宇宙の旅みたいな赤ちゃんも居る

ここ最近は「毎日1,000文字書く」月間をしていて、これは頭痛が酷いときでも疲れて帰ってきてへとへとのときでもとにかく1,000文字書くという月間です。そのままだな。とはいえひと月やれば3万文字になるし、4か月で12万文字です。これだけあれば単行本一冊分くらいになるので、書く速度としては悪くはありません。前の単著なんて書くのに実質5年かかっていますし。問題は、頭痛と疲労と恐怖と憎悪のなかで幻覚を見ながら書いているので、あとで読み直すと自分でも良く分からないものになっているということです。だけれど、研究なんて訳の分からないものの方が面白いんです。学会発表とかはある意味エンターテイメントだから、良い意味で分かるものをやる。少なくとも本人はそのつもりでいる。それはそれでとても楽しいし、楽しんでもらえればほんとうに嬉しいのだけれど、でも本は、やっぱり魔がないとダメなんです。

あと、ここしばらく散歩のたびに寄っていたカメのたくさん居た池からカメが居なくなってしまいました。izooというところに引き取られたとのこと。いつか彼女と二人で見に行こうと思います。何匹かは個体識別ができると思うので、元気に過ごしているのを確認できればとても嬉しい。

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この数日間読んでいた本で、ある〝アーティスト〟の作品が分析されていました。ぼくは固有名詞を覚えるのが致命的に苦手なのでその〝アーティスト〟が誰だかまったく分からないままに読んでいたのですが、どうも一行一行がひっかかる。その分析にも無理があるし、そこから想像される作品自体も疑問符しか浮かばない。そしてしばらく読んでいると実際の作品の写真が出てきたのですが、それで得心しました。その〝アーティスト〟の作品、もう何年も前に彼女と二人で行った美術展にあり、そのときにも作品から漂ってくるあまりの自己愛の腐臭にうんざりしたのです。ぼくは人名や固有名詞は覚えられませんが、そういう光景は絶対に忘れません。無論、ぼくの感覚が正しいとか、そんな話ではありません。そんなことはどうでもいいのです。ただ、自分にとってこうであるという基準はやはりあって、それが(途轍もない作品に出合ってということではなく)ふらふらぶれるようだったら、研究者も本読みもやってなんかいられません。そういったある種の原器が自分のなかにまだ確固として在るのを確認できただけでも、その本を読んだ価値はありました。

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ある日、ある駅で電車が人身事故で止まっていました。ぼくが線路沿いを歩いていると、若い男が二人走ってきて、まさに事故を起こして停止中のその電車の先頭車両を見下す位置で立ち止まると「ベストポジションじゃん」などと言っていました。動画でも撮るつもりのようでした。分かりやすい地獄。でもほんとうは、何一つとして分かりません。この年になっても、何が何だか、まったく分からないままに生きています。

長靴を履いたナニカ

例によって親知らずを抜いて、いまはまだ痛くてごろごろもだえ苦しんでいます。また歯医者の話。この人いったい何回親知らずを抜いているんだろう。もはや親どころかクロマニヨン知らずくらいに行っている気もします。いや逆か、曾々々孫知らずとかかな。ヒヒヒッ! それはともかくこの前所属している研究会で司会をしました。最近は学会発表もせずに司会ばっかりしている。zoom開催とはいえ研究会の事務局がある大学までてくてく歩いていく途中、急に雨が強くなり、ずぶぬれになりました。ずぶぬれになり泣きぬれ蟹と戯れ、それで靴はおしゃかです。周囲の人びとにいくらなんでもさすがに捨てろと責め立てられ、再び泣きぬれつつ捨てました。となるともう履く靴がありません。翌日は仕事なので、仕方なく長靴で出社しました。晴れているのに、嗚呼、世界はこんなにも晴れているのに。

しかしこのブログ、靴のことか歯のことかしか書くことが無いようですが、そんなことはありません。先日『現代思想』に掲載させていただいた原稿について、とてもありがたいことに批評があったので、その応答を少し。少し、というのは手を抜いてということではまったくなく、ありがたい100%なので同意以外に書くことがないためです。蚯蚓鳴さんによるブログ「てのひらに蕃境」の記事です。

『現代思想:特集メタバース(5)』「希少性と排除にもとづくデジタル所有権vs.メタバース」「宇宙の修理とメンテナンス」

一連の投稿で丁寧に今回の特集号を紹介、解説なさっており、とても興味深いです。ですので、本特集に興味のある方はぜひ上記ブログの一連の投稿をご覧いただければ。というわけで早速ですが応答を。

著者は「神=ユーザー」を、自分の秩序を全面的に信奉する者として一様に捉えているようで、個人的には自分の手に余るカオスを好む神もいると思われますし、ときには悪神のようなクラッカーが降臨し大災害のような事態に見舞われることも事実あり、企業が強固にデザインした箱庭といえども、すべてがデザイナーのコントロール下にあるといった想定は、ややいきすぎているようにも感じられました。

http://kinjikisoul.blog.fc2.com/blog-entry-1455.html

これはまったくご指摘の通りですね。メタバース(以前に書いた通り、私はやはりこの「メタバース」という言葉はどうにも恰好悪いと思っていて、恐らく別の言葉によって表されることになるのではないかと感じているのですが、でも案外こういうのが残ったりするのかもしれませんね)がほんとうの宇宙、つまりぼくがそこで生活しているという実感を持てる宇宙になるのであれば、今回の私の論考はあまりにその分析対象が一面的すぎると思います。メタバースがほんとうの宇宙になったとき、そこには必ず他の在り方、存在の様態が生まれるはずです。ただ、いまの時点でその無自覚的なユーザー意識が内包している問題点は指摘しておかないとまずいなということがあります。この「やばいな」感が私の場合は強いので、こういうテーマで書くことになりますが、特集の良いところは他の方がしっかり他の視点での分析をしてくれるところにもありますよね。

では他の在り方とは何か? その大きなものの一つが、蚯蚓鳴さんがまさに指摘なさっているようなカオスや破壊を基本的なモードにしたものであり、大災害であり、予測できない事故や社会情勢の変化(などの諸々)だと思います。私の場合は予測不可能性やコントロール不可能性としてこれを考えますが、同じようなことです。私たちが生きている世界がまさにそうであるように、メタバースもまたそういう側面が当然のものとして現れてきたときこそ、ようやくリアリティとは何かを問える空間になるのではないでしょうか。ですので、ここでのご指摘はその通りだと思います。

それにメタバースの原住民をAIと想定するのも、現状からは乖離しています。

引用同

これもまたご指摘の通りです。そもそも私は、いまのAIがいつか、少なくとも私たちの生という現実的な時間軸において強いAIになるとは考えておらず、しょせんは計算の塊でしかないと思っています。この場合の問題は、むしろ人間の方がAIに何を要求するのか、何を見出すのか、ということになります。これは人間の欲望であり幻想の問題なので、技術とはまた別に、現実として私たちの生き方に影響を与えるでしょう。これはメタバース分析としては上記の通り一面的なものかもしれませんが、特にいまのAI言説最盛期においては必要な批判だと感じていて、今回の議論もその流れに沿ったものだということになります。ページ数が少ないのでこの辺りは全体のコンテクストが分かりにくいのが反省点ですが……。

ただ、先の自分のブログに書いた通り、これは批判一辺倒ということではなく、チープで戯画的なAIに自分の欲望や幻想を投影するというのは、凄く切実で、それは人間の在り方としてはリアリティがあるものだとも思います。そういった意味で岡嶋裕史さんの『メタバースとは何か』は良い本だと思うし、今回の私の論考はそのネガ的なものだとも思ったりしています。あ、あと、モラヴェック的な野生AI、幽霊AIについていえば、私はこういうオカルト的な怪しい話が好きなので、どうでしょうね、いつかそういうのが出てきたら面白いだろうなあ、などと妄想してしまいます。コントロール不可能性って、どこから生まれてくるのでしょうかね……。

いずれにせよ、ご指摘いただいた点は私がいちばん関心を持っているところで、出版のあてもないままに書いている二冊の本のうちの片方ではこれが大きなテーマになってきます。コントロール不可能性こそが存在の根本原理であること、あるいは何かが壊れるとき、それがある空間内での出来事なのか、それとも空間それ自体の破壊なのか(リベラル優生学に対するハーバーマスによる批判はまさにこういった問題ですし、いまなら気候変動もそうだと私は考えています)、そしてまたそれによって犠牲になる存在があるとすればその絶対的な取り返しのつかなさをどう考えるのか、などなど、いくつもの重要な問いにつながっていくものです。絶対に面白くなるのでぜひご期待いただければ……。いえ、出すあて、ないんですけれども。

そんな感じで、ご紹介、ご批判いただけるのはほんとうにありがたいことです。ありがとうございます。読んでくれている人がいるんだ! というだけでも嬉しいのですが、リアクションがあるとさらに嬉しいですね。

ボンジンナリリ・リ

何かを書こうとするとものすごい勢いで忘れていきます。電車に乗っているときに論文のアイデア、といってもせいぜい(自分が)良い(と思っているだけの)ワンセンテンスとか、あるアイデアとアイデアを結ぶルートとか、まあ大したものでもないのですが、けれどもそれを思いつくときって大抵連鎖反応が起きて複数思いつきます。そして次の駅に着くころには全部忘れています。ただ、あることが起きてそれが失われてしまったときのぼくと、最初からそれが起きなかったときのぼくはやはり違うはず。なので基本気にしません。気にしませんがくやしさのあまりいつもギチギチと歯を鳴らしています。ああ、あのセンテンスさえあればノーベル賞だって取れたのに。

そんな感じなので、ブログを書こうと思っても、やはり何を書こうと思っていたのか瞬間的に忘れていきます。確か十数秒前までは四つくらい書きたいことがあったのですが、もはや何も思い出せません。それでも楽しいことや嬉しいことはたくさんあります。いや本当にあるのかな。もう一度よく考えてみましょう。

そうだ、しばらく前にシャーペンを買いました。「カヴェコ アル スポーツ ディープレッド」というやつ。ぼくのような人間が持つにはちょっと高いのですが、でも赤ペンって何か良いじゃないですか。こう、ゲラが届いてそこに赤を入れていると、気分だけは研究者っぽい感じになれます。そもそもぼくはこの一年以上靴一足で過ごしてきたし、そういえばジーンズ以外の服も買っていないや。だからシャーペンくらいは少し高くても気に入ったものを使いたい。何しろ歯医者にさえ片道50分くらいかけて歩いていく人間なのでそろそろ靴底に穴が空きそうですが、きみ、ディオゲネスなんて樽で暮らしていたじゃないか。

で、カヴェコの前は「北星鉛筆 大人の色鉛筆 赤」というのを使っていたのです。これはすごく書きやすいし使いやすいし値段もお手頃で良かったのですが、いかんせん太すぎました。ぼくのように字が汚い人間にはちょっと使いこなせなかった。ゲラに赤を入れると肥えた元気なツチノコがのたくった跡みたいになって自分でも読めない。これはもう本当に反省点で出版社に迷惑をかけてしまいました。でもぼくの性格の問題点なのですが、途中でペンを変えるということができないのです。何なのでしょうねこれ。ともかくカヴェコです。これはほんとうに手に馴染みますし、デザインも格好良くてお勧めです。でも0.7mmの赤色シャー芯は途轍もなく折れやすい。そこだけ割り切ればこれは素晴らしいシャーペンです。そんなこんなでいまならゲラに赤を入れるのも楽しい。楽しいのでどこからか原稿依頼とか来ませんかね。来ませんね。寂しいですね。

もう一つ嬉しかったこと。ずっと昔、1990年だからもう30年以上前ですね、そのころぼくはCDのジャケ買いが趣味だったのですが、ジャケットが不思議な感じで買ってみたらとても良い音楽だったのがオランダのバンドThe Use Of Ashes AshesのThe Use Of Ashesというアルバム。

coverはThe Use Of Ashesとなっていますが本人たちが描いたのでしょうか。

ちょっとどういうジャンルか分からない不思議な感じの音楽で、機会があればぜひ聴いてみていただきたいのですが、このバンド、その後どうなったのかなと時折CDを聴いては思ったりしていました。先日ようやくネットで調べてみたらまだ活動しており、2020年に新譜が出ていました。

https://www.tonefloat.com/658402_the-use-of-ashes-burning-gnome-tf196-and-limited-7inch-single-tf197

一曲聴けますのでぜひ。といっても趣味に合うかどうかは分かりませんが……。30年経っていても曲風は変わっていなくて、それも凄く嬉しいんですよね。あ、こういうのオルタナティブロックっていうのか。

でも恐らくですが皆さん、このバンドご存じないと思います。言うまでもなく知っている俺凄いみたいなことを言いたいのではなくて、例えばThe Use Of Ashesの12曲目Where The Fish Can Sing、これなんてもう天才としか思えない素晴らしい曲なんですけれども、これだけのものを作っても、きっと世界中でこのバンドを知っている人(曲を聴いたことがある人)って、根拠はありませんがせいぜい数万人くらいしか居ないと思うのです。80億人中の8万人だとしても、10万人中の一人しか知らないということですよね。80万人いたとしても1万人に一人です。

そうして、そのようなことを考えるときにいつも思うのは、ましてぼく程度の凡才では……、ということです。自分を卑下しているわけではなくて、客観的に見てということ。カヴェコでゲラに赤を入れてわーいとか喜んでいても、いったいどれだけの人にぼくの言葉を届けることができるのでしょうか。無論、届くことが目的化してしまっては意味がないし、かといって本当に届くべき相手のもとに届けばいいんだと開き直る(閉じ直す?)こともぼくは好きではありません。

つまりは凡才なりに書き続けるしかないのでしょう。書くこと自体に悩んだことは生まれてから一度もありません。けれども、それが届くかどうかについてはいまだに何の確信もありません。

宇宙の修理とメンテナンス

カネゴンが眺めています。

というわけで『現代思想 特集=メタバース』(2022年9月号)が発売されました。ぼくは「宇宙の修理とメンテナンス」というタイトルで載せてもらっています。郡司ペギオ氏の論考など面白いものが幾つもありますので、書店で見かけたらぜひぜひ。ぼくの原稿の冒頭はこんな感じです。

メタバース。当然ここではユニバース(宇宙)が意識されている。もし私たちが何らかの信仰を持っているのなら、この宇宙を創ったのはその信仰体系における神かもしれない。ではメタバースを作るのは誰なのか。技術に支配された現代社会において、いうまでもなくそれは技術を従え神であるがごとく振る舞う私たち自身だ。それをボードリヤールに倣って世俗的な神(démiurgie mondaine)と呼んでも良い。このメタバース(宇宙)にはすべてがあり、私たちはそこで為したいことのすべてを為せる。私たちが自由を求める存在であるなら、不自由しかないユニバースからメタバースへの脱出もまた歴史的必然だといえる。

だが果たしてこの世俗的な神は本当に無から有を創り出せるのだろうか? 無論そのようなはずはない。そこには他者に対する抑圧と搾取が隠されているし、その欺瞞の上に居座りコントロールされたAIたちにどれだけ賛美されたところで、存在に対する不安と渇きが解消されることもない。本稿では近年注目されている「修理する権利」と、そして歴史学者保苅実による「歴史のメンテナンス」という概念を参照しつつ、メタバースが真の意味で宇宙になるための条件を考察する。

という感じで、メタバースメタバース言うけれど他者をリソースにしていることに対して無自覚でいたらダメだよねとか、じゃあどうしたらメタバース(という名称は本当にダサくていやなのですが)が真の意味でぼくらの生の場になるのかなとか、そんなことを書いています。他の方とはかなり明確に関心の対象が異なっているので、良くも悪くも独自性はあります。いやあるかな。あー、そこにないならないですね。

あと何だろう……。雑誌を覗き込んでいるのはカネゴンですね……。そうそう、カネゴンもそうなのですが、映画『銀河鉄道の夜』のサウンドトラックのカセットテープが実家の奥深くから発掘されたのです。数十年ぶりにそれを聴いたのですが、音がゆわんゆわん揺らいで、でもそれが何とも言えずに良いんですよ。皆さんにも聴いていただきたいくらい、別の世界がそこに立ちあがります。なんかそんなことをだらだら話していたいんですよ。ぼくはやっぱりアカデミズムというのでしょうか、何だか分かりませんがあの表現しにくい独特の雰囲気が苦手で、もういよいよ学会発表とかやる気がなくなってきてしまっています。「メタバースって響きがやばいよね、ザッカーバーグやばいよね、銀河鉄道のサントラ良いよね」みたいなことだけだらだら喋っていたい。ダメですかね。いや部屋で独り言を言っている分には誰の許可を得る必要もなく、定職もないままに研究者ですぅなどと意味不明な供述を繰り返すのも自由です。いまの生活はほぼ全面にわたりばくちですが、そうとしか生きられないのでもうこれは仕方がないことだし、それはそれでけっこう満足しています。

そんな感じで、けっこう好き放題に書いていますが、自分では良い論考になったと思っています。自画自賛ということではなく、なぜ自分が研究しているのか、そのオブセッションは影みたいに出せたのではないかということ。よろしければ、ぜひ。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3718

人相が悪いじゃないか

そろそろ非常勤でやっている後期の講義の準備をしなければなりません。いまぼくは(出すあてもない)本の原稿を二つ書き進めていて、いえもうこれ本当に面白いんすよ、と独りでニヤニヤしながら書いたり考えたり読んだり妄想したりノーベル賞を取ったりしています。でもぼくはノーベル賞が嫌いなので賞金だけ欲しい。くれませんかね。いやともかく、せっかく面白いので講義内容に反映させたいのですが、これがなかなか難しいです。いちばんの問題は時間が足りなすぎるということですね。たとえば例年最初にメディアの歴史を辿るのですが、これだってきちんとやろうと思ったらそれだけで一コマ使い切ってしまいます。

そしてもう一つは、良いドキュメンタリーを観てもらいたいということ。90分は微妙でドキュメンタリー一本流せるかどうかですが、観せたいものは四本も五本もある。でもそれをしたらもう講義する時間がなくなってしまいます。しかしぼくなんかが、はっきり言って浅い人生経験しかないし生きるか死ぬかも体験したことがないような人間なんかが「倫理~」とか白目を剥きながら百の言葉を重ねるよりも、良いドキュメンタリーのワンシーン、そしてそのワンシーンを感じ取るためにはそこだけ切り取ってはダメでその前後のすべてを観なければならないのですが、そのワンシーンを観る方がよほど意味があります。いえぼくだって自分の喋りに大きなものを賭けているしそれは誇りをもってやっています。だからゼロイチではないけれども、やはりそのワンシーンの力は絶対にある。

ドキュメンタリーを観るときにぜひ受講生のみんなに意識してほしいのは、出てくる人びとの顔、表情、声、目つき、それに注目するということです。これは前にも書いたかもしれないけれど、そこに人間のすべてが出てしまう。ぼくが講義で流すのは環境問題とかそういうテーマのものが多いので、特にそれが如実に表れる。悪が、他者の苦痛に対する愚鈍さが滲み出ている。そういう人間って確かに居るのです。もちろんそれは多かれ少なかれ誰にでもあるものかもしれない。でもそうじゃないんです。人間としての一線を超えた、その一線は定義できないけれど間違いなくある。超えてしまったそのひとの目を見て、ああそうだ、確かにここには倫理が無い、無いというのは本当の虚無と暗黒がそこに在るということですが、それを感じてほしいのです。

それはめちゃくちゃ怖いことです。突然オカルトじみたことを言いますけれど、ぼくはけっこう、かなり怖いものを見てきた人間です。幽霊とか化け物とか。でもそういうのって別に怖くないんです。それは世界とぼくの関係性のゆらぎのなかで生じるもので、居るけれど居ないもの、居ないけれど居るものでしかない。いや怪しいことじゃなくてですね、幽霊が居るって、例えば科学的に考えてあり得ない。それはそうです。いや私は見たんだから居る。それもそうです。そのどちらも否定してはならないほど真剣で深刻で切実だけれど、でも完全には同意できない。ぼく自身はもっと自由でいたいと思っています。あーなんか居るなー、そうか、いま世界は、ぼくは、世界とぼくの関係はそういう状態を生み出すようなところにあるんだなー、と、ただそれを感じとるだけでありたい。何の話だ。そうそう、だからそういうのって別に怖くない。ここしばらくそういうのを見ることもなくなってしまって、それはもしかするとぼくの老いなのかもしれないけれども。

でも人間の目の怖さは、ほんものの怖さです。これはちびります。毎回講義でドキュメンタリーを学生さんと一緒に観ながらちびっている。あ、ちびっているのはぼくだけですよ。他人と目を合わせられないぼくが言うのもあれですが、でもその目って後ろからでも見える。避けようのないものです。大丈夫ですかねこの人。大丈夫です。ぼくはおそらく今世紀最高の人間強度を備えた人間なので大丈夫、大丈夫。そしてその怖さには二重の意味があって、そういう人間が確かに存在している、一線を超えてしまって何か訳の分からない深淵に落ちてしまった向うが在るということに対する恐怖でもあるし、同時に、それは絶対に誤魔化せない、隠せないものだという恐怖でもある。それはいつだってすべてを透過してぼくらの眼前に迫ってくる。

だから最近ますます外に出るのが怖くなっているのですが、実際問題朝家の外にごみを出すのさえ怖いのですが、だって外に人間が居るじゃないですか。いやほんとうにぼく自身の精神は驚くほど安定しているし呑気なんですけれども、タイトルの「人相が悪いじゃないか」、これ太宰の「如是我聞」です。「葉」と並んで間違いなく日本の近代文学史上の到達点の一つ。人間が極限において悪と対峙する話であり、悪としての醜についての話でもある。そして「葉」とは違って希望はない。だから太宰は死ぬしかなかったのだけれども……、いやでも、「葉」のラストにだって太宰の死は既に刻まれていますよね。「どうにか、なる」。気が狂いそうになるほど切実な祈り。

そんな本を書きたいと願っています。