Hello world

新しく配属されてきた新人たちに名刺交換の仕方を教えながら、何だか無駄だよなという気持ちをきみは抑えることができない。こんなもの、マニュアル本でも一冊読めば十分なのではないだろうか。もっとも、きみはそんな本があるのかどうか知りはしないし、興味もない。それでも、表面的には優しい先輩のふりをして、受け取った名刺の置き方なんかを指導している。まっとうな社会人などというものからかけ離れた自分が新人研修を担当していることの莫迦莫迦しさに思わず失笑しかけ、怪訝そうな顔をする新人に、いやいや何でもないよと誤魔化す。
きみが好きなのはプログラミング研修だ。これなら、きみにも違和感なく教えられる。何しろプログラミングこそはきみの天職だった。もっとも、会社員としての常識を教えるときに比べ、きみのプログラミング研修は上司たちからは評判が悪かった。もちろん基礎はきちんと教えたけれど、きみがいちばん時間をかけるのが、会社の求めているようなスキルではなかったからだろう。例えばいちばん初め、お約束としてHello worldを教えるときでも、きみはすぐに脱線してしまう。――Hello worldって言うけどさ、このworldって何のことだろうね。誰がどの世界に向かって言っているのかなとかって考えてみると面白くないかな。無論、プログラミングなどほとんど初めてという新人たちの大半は、きみが何をいっているのか分からずに困惑するばかりだ。――たとえば初めてプログラムを作るきみたちが、コンピュータのなかの世界に向かってこんにちはって言っているのかもしれない。逆にきみたちが生みだしたプログラムが、コンソールを通してこの世界に、あるいは自分を生みだしたきみたちにこんにちはって言っているのかもしれない。あるいはそもそも……。きみはどこか夢見るように話し続ける。それでも、上司たちの受けはともかくとして、きみのそんな研修は新人たちには案外人気があった。きみが働いている小さなソフトウェアハウスに入社するのは、プログラミング経験のまったくない文系出身者が多かった。そんな彼らにとってきみの研修は、ほどよく適当にコンピュータに対する身構えをとりのぞくのかもしれなかった。

高校のころのきみは、大学に進んだら天文学をやろうと思っていた。けれども受験したほぼすべての大学を落ち、唯一受かった大学へ否応もなく進学したとき、コンピュータに触れたことさえなかったきみは、なぜか情報科学専攻を選択していた。生物や物理や化学は実験系が必修で、集団作業が苦手なきみにはとても無理だと気づいたからかもしれない。そして数学はといえば、きみには明らかにその方面の才能がなかった。
けれども自分でも驚いたことに、きみはそこで意外な才能を発揮した。プログラミング実習で、コンソール上にオセロのマス目を書くという課題が与えられたとき、それは本当にただそれだけのシンプルなものだったのだが、きみは三日ほど徹夜をして簡単なゲームを作り上げた。それはきみが生まれて初めて寝食を忘れて打ち込んだ経験だった。もっとも、ゲームとしてのできはそれなりだったが、試しにクラスメートに遊んでもらうと、数回に一回は勝てる程度には賢いものだった。きみはその課題で”e”、すなわちexcellentを取った。教授がそのeの上に手書きで赤く書いた”++”の記号が、きみにはとても嬉しかった。
もともと対人恐怖症気味だったきみは、きっとその大学の雰囲気に馴染めなかったのだろう。徐々に人の輪から外れるようになり、大学へ行っても芝生の上で寝転がり、猫を撫でながら空を眺めているか、コンピュータルームで課題に必要以上の質で応えようとしているかのどちらかになっていた。それでも、初めのころに無理やり誘われて入った部で知り合った女の子とつき合うようになり、彼女といるときだけはきみもプログラムのことなど忘れ、街に出てぎこちなくデートの真似事などをした。それはそれで、幸せな青春時代だったかもしれない。

いまになって、きみはそんな風に思う。そんな風に思うのは、けれども、きみが十分に年を取り、あの当時からそれだけ遠ざかったからだ。きみが与えた課題を真面目にこなしている新人たちを眺めながら、きみはそんなことを思う。――できました、と一人の子が声を上げ、きみはモニタ上の短いソースコードを背後から覗き込む。――良い出来だね。でも一箇所明らかなバグがあるよ。えーっ、と心底残念そうに溜息をつくその子に、ふと昔の彼女の面影を見いだし、きみはその記憶にそっと微笑む。きみの彼女もプログラムが苦手だった。一度だけ、彼女が単位を埋めるために嫌々プログラミング実習を受講したとき、課題を手伝うきみは、彼女としばしば喧嘩をした。きみには当たり前のことが、彼女にはそうではなかった。彼女には当然のことが、きみには理解できなかった。それでも、どうにか課題を片づけてしまえば、きみたちはいつも通り仲の良い二人に戻った。
いま、きみが一生懸命にプログラミングをしている若手を見て感じるのは、葉の上にいる天道虫を眺めるときと同じ程度の微笑ましさでしかない。きみは自分がひととして何かを失ってしまっていることに気づいていた。それでも、きみなりの形で、若手がこの世界で潰されないように、それなりにしたたかに生き延びていく手助けをできればと、それは心から願っていた。

新人研修の担当は、たいてい、古株の社員には嫌がられる。新人の面倒を見つつも自分の作業が減るわけではないから、要は負担が倍に増えてしまう。新人たちを定時で帰し、きみは自分の仕事に手をつける。終わるころには終電近くになっているが、誰かが家で待っているわけでもない。セキュリティをセットしてオフィスを出てからアパートの部屋の扉を開けるまで、きみにはほとんど記憶が残っていないが、それはいつものことだ。家具もほとんどなく、清潔だけれどもどこかかび臭い部屋に入り、きみはパソコンの電源を入れる。部屋の電気をつけるよりも先に、きみはそうする。暗い部屋が蒼白く照らされる。

夜中にふと目が醒め、枕元のノートを開く。デスクトップの片隅に置かれたkadai1.exeという、どうしようもない名前をつけられたファイルをダブルクリックする。dos窓が開き、きみが昔作った――実際にはコンパイルし直したものだが――プログラムが動きだす。単純なインターフェイス、単純なアルゴリズム。目を瞑っていてもきみが負けることはない。頭の片隅で、まだきみたちが本当に若かったころ、そのゲームに負けて悔しがる彼女の声が響く。――だいたい、あのHello worldっていうのもふざけているわよね、と彼女は八つ当たりのように言う。きみは苦笑いをするしかない。――でもHello worldって、何だか気の重い言葉だなあ。不意に、彼女の声が暗く落ち込む。――どうしてさ。コンニチハセカイなんて、ちょっと可愛いじゃないか。彼女は首を振る。――私たち、このままいけばあと二年後には卒業して社会に出るじゃない。でも何だか実感がわかないし、自信もないのよね。きみにもそれは痛いほどよく分かったけれども、でも、答えは分からなかった。だからきみは軽薄な笑いで覆い隠すしかなかった。――実感がわかないっていうのはぼくもそうだよ。何しろ進級さえ危ういんだからね……。彼女はやれやれというように笑い、きみの肩を軽く叩く。――きみはもっとしっかりしゃなくちゃ、だよ。まったくもう。そうして、――コンニチハセカイ、って、確かにちょっと可愛いわね……、と呟いた。きみたちは二人で笑いあった。

――きょうはね、一日かけて良いから、きみたちがいま持っている知識で、何か簡単なゲームを作ってみよう。課題はそれだけ。条件も何もなし。ぼくからはこれ以上の指示はしないから、質問があったらいつでも訊きにくるように。ある朝、新人たちにきみはそんなことを言う。こういう自由な課題というのがなかなか厳しいものだということは分かっているから、とにかく楽しく作ればいいんだよ、とアドバイスをしておく。自分の仕事を片づけながら、新人たちの質問に答える。夕方、新人の一人がきみの席に来る。――先輩、課題ができました。――早かったね、ときみは言い、その子の席へ行く。たった6×6マスのオセロゲームが、モニタ上で入力を待っている。――遊んでみてください、という彼女の言葉に頷き、きみはマウスをクリックする。単純ではあるけれど、きちんと動作するだけでも大したものだ。――良いできじゃない。きみは本心からそう褒める。――まだまだ。クリアしてください。きみは言われるがままにあと数回クリックを繰り返す。シンプルなアルゴリズムに負けるはずもなく、ゲームは圧倒的に白のきみの勝利となる。するとチープなファンファーレとともに、マス目が反転して”Hello world”という文字が点滅した。あまりの下らなさにきみは思わず声を出して笑ってしまう。――Hello world、だね。きみがまだ笑いを残しながらそう言う。彼女も恥ずかしそうに、――Hello world、ですね、と答える。

生きているきみに生きているぼくは

例えば苦しい思いをしている誰かに対して、私も昔はつらい思いをしてね、と語りかけること。もしかすると、それは意味があることなのかもしれない。それが誰かを救うことになるのかもしれない。けれども、ぼくはどうしても、そういった言葉に対して違和感を感じてしまう。なぜなら、だってあんた所詮は生き残っているじゃねえか、と思ってしまうからだ。無論、それは素晴らしいことだ、きっと。そうして、そういった言葉によって救われる誰かさんがいるとすれば、それも素晴らしいことだ。だけれども、やはり違うとぼくのなかの何かが呟いている。そのときそれは、結局のところ生き残った人間が生き残った人間に語った言葉に過ぎない。伝えられたという事実は、成功した、正義の、善意の、理性によって理解できる、分かりあえる、希望に満ちた言葉をしか残さない。

でもそうではない。ぼくらが本当に言わなければならなかったのは、聴かなければならなかったのは、ついに届くことのなかった言葉だったはずだ。ついに誰にも聴かれずに消えてしまった言葉だったはずだ。誰にも聴かれない言葉を残してこの世界から退場した誰かさんを前にして(しかしそれは決して前にできないという意味でのみ前にするということだ)、ぼくらは、生き残っているというただそれだけで暴力の波動を撒き散らしている。そうして時折、あるいはつねに、厚顔無恥にも言葉を発しさえする。きみを救う言葉などと思い上がり、残酷な暴力の塊を気分よく嘔吐する。

それはぼくとて同じことだ。ぼくにはどこかで、自分自身を含め、生き残った人間に対する憎悪がある。生きているということは、あまりにも醜い。それがぼくらの原罪だ。そして原罪である以上、ぼくらはそれを抱えたまま、なお生き残っていかなければならない。生きることは、生きている限りにおいて、ぼくらの義務だ。だからといってそれを当然のこととして居直るのであれば、それは本当の意味で救いのない醜さとなる。

「私も昔はとてもつらい思いをしてね……」「あのとき、あの言葉によって救われました」何れにせよ何にせよ、結局きみは生き残っているじゃないか。

最後には頭がどうかしていると思われるばかりだから、もう半分は伝わらないのだと諦めているけれど、ぼくがいつでも強迫観念のように追いつめられているのは、では、つらい思いをしてそこでお終い、死んでいった誰かさんはどうなのかということだ。あのとき、あの言葉によって、あの出来事によって、あの出会いによって救われなかった誰それさんはどうなのか、ということだ。だけれど、この世界から神を差し引いたとき、ぼくらは絶対にこの問いに答えることはできない。答えることができないから、ぼくらはそれを「議論の出発点」とか「解決すべき問題」とか「不幸な歴史」にしてしまう。そうして、聴こえない言葉は聴かないことにする。届かない言葉は言わないことにする。未来のことにだけ眼を向けることにする。だからぼくらには可能になる。恥知らずにも、きみを救うための言葉、などというものを発することが。

いや、きっとそれだけではないのだろう。もっと、人間性とやらを信頼すべきなのかもしれない。誰かさんが誰かさんに何かを言って、それで誰かさんが(それはどっちの誰かさんだろう)救われてハッピーエンド。でも、どうしてもぼくにはそこに意味があるように思えない。人間性があるから信頼するのであれば、それは当たり前のことだ。もし信頼というものに意味があるのであれば、それは人間性がないにもかかわらず信頼するからこそではないのだろうか。

コミュニケーションについても同様。もう聴くことのできない誰かさんに何かを語ること、もう語ることのできない誰かさんの言葉に耳を傾けること。それをコミュニケーションだとぼくは思う。その初手で、もう、論文でも学会発表でも、誰にも理解はされなくなる。だけれども、それでいい。ぼくもきみも、所詮は醜く生き残った人間だ。生きているだけでいまはもういない誰かさんたちに対して暴力を振るい続けるしかない原罪を背負った人間だ。

少なくともぼくは、自分が醜く生き残り、醜く生き残るしかないということを知っている。

私は結界を張る

信仰心の対極にあるにもかかわらず神学士を持っているクラウドリーフさんは、同じように、土を触れないにも関わらず農学の博士号を持っています。最近、とある事情があって、ほんの数日ですが、小さな植木鉢を家のなかに入れなければならなくなりました。いったいそれがどうしたというのでしょうか。普通のひとには分からないかもしれませんが、土を怖れるクラウドリーフさんにとっては生命の危険を感じる非常事態です。いえ、土そのものが怖いわけではありません。土のなかに潜む、あのあれ、あれあれ、口にだすことすら憚れる名状しがたきあの者どもが怖い。鉢植えのなかとか、想像するだにふんぐるいむぐるうなふという感じです。手のひらに載るような植木鉢ですが、もうそれだけで、その鉢植えを中心に家全体が不定形の悪夢に満ちた異界へと変貌します。気分はもうエイリアンのシガニー・ウィーバーです。「なーに、たかが有機体じゃないか」その有機体が怖いっつってんだよ! と彼は映画に逆切れします。

けれども、クラウドリーフさんはこれでなかなか才能ある魔法使いなのです。彼は台所に行くと何やら持ちだしてきて、さっそく植木鉢の周りを大きく取り囲むように結界を張りました。そう、塩です。ぼくの、いや違うクラウドリーフさんの苦手なあれは塩が苦手なので、出てきたとしてもびっくり、慌てて植木鉢へと引き返していくことでしょう。

これは、歴とした魔術です。クラウドリーフさんは、妙に座った目つきでそんなことを言います。彼は自分のことを20世紀最高の合理主義者などと思っていますが、同時に魔法を使うこともできると思っています。別段、それは彼のなかで矛盾するものではありません。というより、矛盾などあってあたりまえです。ぼくは本当に嫌いなんですけれども、何かっていうと「西洋」に対する「東洋」みたいなものを持ち出したり、あるいは「一神教」に「多神教」を対置したりすることってありますよね。で、たいていそういう文脈だと二元論はダメだみたいな話になるけれど、その主張自体が二元論だったりして、聞いているとその浅薄さに頭がどうかしそうになります。

もちろん、その混沌を混沌として受け止めるだけではなくて、そこに言葉でもってあるかたちを呼びだすこともできるし、ぼくらはつねにそうしている。でも、それだって立派な魔術です。それは理性なんかではなくて、何よりもまずはじめに魔術なんですね。言葉が持っている力というのは、そういうものです。混沌とした世界に全面的に触れているぼくらから生みだされるからこそ力を持つ。直感的にそのことを理解していないのであれば、結局のところそれは魔術を使うのではなく、魔術に使われているに過ぎない。そう考えてみると、研究者を名乗る多くの人びとがつまるところ式神のようなものでしかないということにも納得がいきます。

ある日、とある裏通りを歩いていました。すると何やら微かな噴出音とともに、化学的な匂いがただよってきます。「うっ!」クラウドリーフさんは呻きます。これは殺虫剤です。草生した敷地のむこうに古びたアパートがあるのですが、その一階の部屋で、おじいさんが殺虫剤を噴射しているようです。ゴキブリでもいたのでしょうか。少しもごもごした声で、おじいさんが「死ねよ」と言っています。クラウドリーフさんはこういうときだけ無駄に耳が良いので、微かに届く様々な音から、その部屋の光景をまざまざと思い浮かべることができます。「死ねよ」ふたたびおじいさんが冷静な憎しみをこめていいます。呟くでも叫ぶでもない、その自然な発声が逆に鬼気迫る雰囲気を生みだしています。ともかく、クラウドリーフさんはその言葉と殺虫剤によって死にそうになります。這う這うの体でそのアパートから遠ざかりました。

家に帰り結界を確認すると、どうやら最初から失敗していたらしく、大きく抜け道があることに気づきました。所詮、クラウドリーフさんの魔法なんてこんなものです。まあ、それはそれだと彼は諦めます。その抜け道から何がでてきたのか、そもそも植木鉢のなかには何かがいたのか? 彼には何も分かりません。家のなかは既に太古の恐怖に満ちた暗黒宇宙と化しています。だけれどもその混沌と恐怖が、彼にとってはなぜか心地よいのです。

凡庸な一日

きょうはほとんど機能を停止していた。実質、この48時間で8時間程度しか起きていない感じだ。でもまあ、調子は悪くない。ほんとうに、ちょっと薄気味が悪いくらいに気持ちが落ち着いている。ただ、それは薬を飲んでいるときの感じに似ていて、どこかぼんやりとした、霧のなかの凪いでいる海のような雰囲気。実際、いまぼくには早急にやらなければならないことがあるはずなのだけれど、それが何かを思いだせない。まあ、生き死にに関係することではないし、そうである以上、無理をして思いださなければならない理由もない。どうせくだらない、学会だか義理だかの仕事だろう。

あまり信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくはプログラマとしてはけっこう腕が良いほうだと思っている。もっとも、これでかれこれ十数年食べている――しかもその大半をフリーでやっている――わけだから、腕が良くなくては困る。つい数日前、そろそろ終わりが見えてきているプロジェクトのドキュメントをまとめつつ、何故こんな、仕事と研究とのどっちつかずの生活をしているのかふと疑問に思った。大学やら学会やら、そういったものに少しばかり関わって思うのは、本当になかなかに相当に、これは歪な世界だなあ、ということだ。別に、悪人やら人格破綻者ばかりがいるということではない。そういった意味でいうのなら、むしろほかのどことも同じ、ありきたりの人びとの方が多い。そしてそれは悪いことでは決してない。ただ、生きていくうえでの当たり前の覚悟というものがないひとが多いのは、主観的にだが強く感じる。生きていくことへの覚悟。それは、自分が踏みだす一歩先に踏みしめるべき大地があるかどうかが分からないということを受け入れる覚悟だ。自分には一歩先の 大地を踏みしめる権利があると無邪気にも思い込むこと、踏みしめるべき大地があると愚かにも信ずること、あるいはないかもしれないと怖れ踏みだせないこ と。それらはみな等しく、世界から断絶した自己への執着という醜さを持つ。

いや、そういった人間はどこにでもいる。ただ、思想やら哲学やらを口にする連中がそうであることの醜さを、ぼくは許容することができない。自分でも驚くほどの無関心さを持って、そういう人間との関係性を絶ち切ってしまう。

とはいえ、こんなことを書くことには、もちろん何の意味もない。切れるものは切れるし、切れないものは切ろうとしても決して切れない。そしてすべてのものは、必ずいつかは切れていく。

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面白い話をしよう。しばらく前までの半年くらいの間、磨りガラスの向こうに黒い人影がいつも見えていた。飛蚊症の変化形のようなもので、別段困るほどのものでもなかったけれど、どこにいっても磨りガラスがあれば必ず、その向こうに無言で佇む黒い人影がある。おかしなことに普段はそんなことを忘れていて、見た瞬間になってようやく、ああそういえば俺は最近こんなものを見ているんだなあと思いだす。普段から飛蚊症がひどいので、それと脳の疲労が変な風に結びついてしまったのだろうと勝手に思っていた。

その次に、これはほんの二週間ほどで終わったのだけれど、だいぶん参ってしまった幻覚(というより思い込み)があった。言葉というのは恐ろしいもので、簡単に他人に伝染してしまう。だからここには書けないけれど、これには本当に消耗した。ただ、ぼく自身は子供のころからこういうスイッチが入ってしまうことが多々あって、しばらくすれば止むことが分かっているので、どうにかやり過ごしている。

面白いというのは、いやそれほど面白くもないかもしれないけれど、こういった内面的な不整合というものが止まるきっかけというのが、ぼくの場合だけかもしれないけれど、たいていは外面的な不具合の発生だということだ。今回は左の脇腹にそれが出て、めずらしく病院に行ってきた。もちろんそんな深刻な話ではなく、薬をもらう程度の意味でしかない。ただいずれにせよ、ぼく自身にさえ判然としないような、心の奥底にあるぐちゃぐちゃとした不整合の塊が外面化することによって、それは対処できる何ものかになる。人間は本能的にそのようにして名づけられないナニモノカを処理していく。外に現れてしまえば、それは極普通に、勝つか負けるかはともかくとして、勝負できる何ものかになってしまう。とてもシンプルな話だ。

このブログを読んでくれているわずかなひとにはいうまでもなく、ぼくはこんなことをこの言葉通りに信じているわけではない。要するにこれは物語だ。だけれど、同時にそれは、ぼく自身にとっての現実の世界を生みだすための真実の方法でもある。

* * *

生きるというのは、本当に面白い。その面白さは、生き残りゲームの面白さだ。生物学的な意味で生存しているということではなく、自分自身をかけ、自分自身を未来にどれだけ投げだし続けていけるかという究極の独り遊び。だけれどそこにただ何もない空白があるだけなら、ぼくらはぼくらを投げだしているのか投げ戻しているのかを判断することはできない。無数の誰かさんたちがそれぞれに自分を投げだしているからこそ、ぼくらは自らを位置づけることができる。みな自分を投げだし、時折投げ戻し、立ち止まり、投げる先を間違えてどこかへ転げ落ちてゆき、あるいはその場にとどまり続けてやがて腐る。

ただひとつだけはっきりしていることがある。もしぼくらがぼくらを投げださないでいるのなら、ぼくらは、最後の最後に自らを投げだしたとき、存在しない神にぶち当たることができないだろう。最後の問いを投げかけられることもついにないだろう。ぼくはぼくがそうなることを想像するとき、途轍もない恐怖に襲われる。それは恐怖を感じる自分が結局は存在できなかったことに対する恐怖だ。

きょう、何をしなければならなかったのか、まだ思いだせない。思いだす必要があるかどうかさえ、ぼくにはよく分からない。

書を捨てよ……捨てたらきっと、きみには何も残らないけれど

海外にいる友人がひさしぶりに一時帰国し、ここしばらく、友人と相棒と三人で何度か会っていた。ぼくにとって数少ない、スイッチを入れる必要のない時間。体力的には無理をしてしまったけれども、代えがたい時間だから、それはそれでかまわない。今回、なぜか分からないけれど、電子書籍(というのだろうか、興味がないから良く知らないのだけれど)についてずいぶんと話をした。友人はニュートラルな立場で、ああいったものが今後どうなっていくのか、純粋に興味を持っているようだった。ぼく自身も、電子書籍云々ということについては基本的にはニュートラルに、というより、どうでもいいと思っている。ただ、ぼくのなかでは、あれは読書ではない。否定するつもりはなく、単純に、電子書籍を専用端末で眺めるような行為を読書だといわれると、無性に不快になる。

読書というのは、あたりまえかもしれないけれど、ただ単にそこにある字を読んで理解するという機能によってのみ定義されるものではない。表紙や中紙の感触、頁を捲るときの微かな音、紙の匂い、それらのすべてだ。開いている頁の曲面に光が当たり、影を作る。データではなく「もの」として存在するそれは、複雑で繊細で、でも確かな感触をぼくらにもたらす。そこにはその本が作られてからぼくの手に届くまでの、ささやかかもしれないけれど歴史さえもが含まれている。自分にとって大切なある一冊の本を読んだときの記憶は、本とぼくを超え、そのときの周辺世界すべてを含め、その総体として、いつまでもぼくのなかに留まり続ける。ぼくにとっては、それが読書と呼べるようなものだ。

ぼくはいわゆる懐古趣味というものが嫌いだし、貴族趣味というものにも虫唾が走る。知識がより広く、より安く、より手軽に手に入るようになるのであれば、それ自体はすばらしいことだ。本読みとして、初版本に執着したり私家版に目の色を変えたりするのは、ひどく品のないことのように思える。もっとも、あまりに露骨な啓蒙主義というのも、それはそれで鼻につくものではあるけれど。だけれども、ぼくが思うのは、そもそもある側面において、レニングラード写本とグーテンベルク聖書を比べること自体がナンセンスだということだ。繰り返すけれど、電子書籍がどうなろうと、ぼくの知ったことではない。ただ、それを読書と呼ばれることに対する違和感があるということだけは確かだ。

……いや、違うな。電子書籍云々はどうでもいいのだ。紙媒体でそこに書かれている文字を読むというだけであれば、ぼくにとってそれもまた読書ではない。たとえば時折聞く読書教育など、ぼくはどうしても嫌悪感を感じてしまう。本を読む、ということは、教わるようなものではない。まして学校などというシステムの中で、さらにシステム化された方法で分かるものなどではない。第一、いかに「自由に読む」ことの重要性などが謳われたところで、それはシステムの許容範囲内における自由でしかない。そこでカーマスートラを音読しながら一人実技をしても良いというのだろうか。いやぼくだってそんなことをされたら困るけれど、その通りで、読書というのは本来、システムのなかでされたら困ることなのだ。例えぼくらが手に持っている本が、資本主義市場経済システムのなかで生みだされた商品でしかなかったとしても、読書というものがもしあるのだとすれば、それは軽々とそんな枠組みを逸脱していってしまう。

だから、いままでの話をぜんぶひっくり返してしまうけれども、(形式として)電子書籍と呼ばれているものを読むなかにも、きっと読書は生まれるのかもしれない。必然としてではなく、つねに偶然として。本の形態とかそういったものは置いておいて、それとはまったく独立してそこに通底して――メディアの固有性があることなどは分かり切っている――読書というものはつねに一回性を持って、天啓のように突然ぼくらの身にどうしようもなく降りかかってくる。その天啓を知らないひとを、ぼくは本読みだとは思わない。

もっとも、どのみち、読書などということは、それほど大したものでもない。というより、そもそも、他人に対して自慢するようなものではまったくないだろう。狂信者であれば、神の啓示を受けたと叫びつつ町を徘徊することには美しさと悲しさがあるのだろうが、たかだかシステムから脱落している程度でしかない人間が信仰とやらを声高にアピールする姿には、醜さと愚かさしか見てとることはできない。少なくともぼくは、所詮その程度の意味での本読みだ。

それでも、ぼくはけっこう、本が好きな人間だ。いつか、ぼくは持っているすべての本を処分しなければならないと思っている。

跳躍にはまだ足りないけれど

2ヶ月近くブログを書いていなかった。自転車の乗り方は忘れないというけれど、ブログの書き方なんて簡単に忘れてしまう。いや、そもそもぼくは、言葉の話し方でさえ、けっこう簡単に忘れてしまう。ともかく、書かないことには先に進まない。進み始めてしまえば、案外、自転車のようにぼくをどこかに連れていってくれるかもしれない。どのみち、どこかへ行かなければならないわけでもないし、いまさらどこかへ辿りつけそうな人生を送れるわけでもない。

しばらくの間は、学会の雑務と本職とに追われていた。それでも、とにかく学会発表を一つこなし――といってもぼくにとって学会発表というのは論文の構想を練る場としての意味合いしかなく、これはこれで問題なのだが――、9月に出版される本に載せる論文も一本、ほぼ書き上げた。本屋で、立ち読みでもいい、ラストだけでもいい、もしきみの目に留まってくれれば、これほどうれしいことはない。

昨日は執筆者の幾人かが集まり、それぞれの原稿を叩きあった。それなりに通じるところはあるし、通じないところもある。手の内を曝けだすところもあるし、隠し続けるものもある。自分が自分に何を隠しているのか分からないことさえある。だからこそ、語れば語った数だけ、書けば書いた数だけ、そこにはその瞬間だけ存在するかたちが浮かび上がってくる。

今回の論文では勇気という言葉をけっこう使った。だけれど、この勇気という言葉も、恐らくまったく伝わりはしないし、ある面においては、伝わらなくても良いと思って書いている。研究者としてはどうなのかという気もするが、そもそもぼくは研究者などと自己規定するつもりはない。

勇気という言葉には善なるイメージがつきまとう。だけれども、ぼくにとってはそうではない。勇気とは、究極的には、見知らぬ誰かに殺される瞬間に手を広げ受け止めることだ。そして、自分の人生には何の意味もなかったことを受け入れることだ。救いはなく、自分が塵屑であったことを認めることだ。だけれど、その殺される瞬間に、ぼくを殺す誰かさんが確かに存在し、恐怖と苦痛にのたうちまわるぼくが存在する。もちろんこれはメタファーだし、そして同時に、すべての瞬間において、ぼくらは存在しない神によってけれども殺され続けている。存在しない神をそれでもなお殺し続けている。その関係のただなかからこそ、またそこからのみ、責任=倫理とは何かということを問うことができる。

いったい何を言っているのだろうか。たぶん多くのひとには伝わらないし、ぼく自身にもきっと良くは分かっていない。そしてたぶん、分かるものではない。それでもそれはそこにある。

最近、また旧約聖書を読み直している。いろいろ好きな個所はあるけれど、なかでも好きなのは、やはり創世記とヨブ記だ。そこには、なぜかいつも戻ってきてしまう。自分が神学科などにいたから一般的な状況というものはよく分からないが、何も根拠がないことを承知で一般論をいえば、キリスト教徒ではない日本人の多くが、聖書などまったく読まないか、あるいは変にマニアックで歪んだ知識だけを持っていることが多いように思う。もちろん、ぼくだってそうなのだが、それでも地味に読み続けているうちに、何となく(自分にとって)見えてくることもある。ただ、それは積み上げれば見えるものではない。頭では分かっても感覚では理解しにくいこともあるし、逆に、感覚では理解していても、アカデミックな議論には耐えないこともある。レヴィナスの責任概念などを考えると、特にその難しさを感じる。どちらが正しいとかではなく、ただ、何だか面倒くさいなあと、最近漠然と感じている。

今季はあと二本論文を書かなくてはならない。学会誌の発行にかかわる雑務も一気に増えそうだし、後期の講義も、できればレジュメを大幅に書き直したい。いまから後期の惨状が目に浮かぶけれど、まあ、気持ちの上では余計なものとの接続をだいぶ断つようにし始めているし、どのみち、どうにかしなければならないことはどうにかしなければならない。どうにもならなければ、それはどうにもならなかったというだけのことだ。

何だか暗い雰囲気になってしまったけれど、そんなこともない。ぼくは徹底的に能天気な人間だ(何しろ、いかに取り立てられようと、ぼくらに支払えるのはたかだか自分の命に過ぎない。問題は、ぼくらが他者とつながるとき、それ以上のものをぼくらが手にしてしまうということだ。だからぼくらは、生きている限りにおいて生きるより他に選択肢を持ち得なくなる……)。相棒と二人で、近場に旅行に行こうなどと計画をしているし、今年の後半は再びN.Y.に行こうかなとも思っている。お金や時間をどうするかなどということは、まあ、その時に考えれば良い。しばらくは今回の論文に追われていて書く余裕がなかったけれど、また写真論についても読んでいきたい。少し長めの物語を書いてもみたい。

夜中、洗い物をしているとき、跳ねた水がシンクに足跡を残した。土踏まずの中に閉じ込められた気泡が消えるまでの間、マクロレンズを構え、写真を撮り続けた。

ステップ

方向音痴なきみは、それでも道に迷ったことがない。いや、本当は迷っているのだろうが、ひたすら力任せに歩き続けるきみは、自分が迷っているなどとは考えもしない。だからきみは、自分が方向音痴であることにも気づかず、いつか行き倒れるまで、どこまでもうろうろと歩き続けている。

しばらく体調を崩していたけれど、ようやく起き上れるようになる。少し古くなった牛乳で薬を飲み、食料を求めて五日ぶりに外へ出る。食糧といっても、たいしたものを買うわけではない。カロリーメイトのフルーツ味を冷やしたものがきみは好きだ。あとは牛乳さえあれば困ることはない。もともと食べることに関心のある性格でもなかったが、それでも、時折冷やし忘れたカロリーメイトを食べ、その不味さに顔を思わずしかめるとき、きみはふと微笑んでいる。それは、いまだに食べることに一片の喜びを見出そうとしている自分に対して、他人事じみたほほえましさを感じるからかもしれない。

駅前のドラッグストアでカロリーメイトと薬を買い、それだけで病み上がりのきみは疲れてしまう。あとはコンビニで牛乳を買うだけだが、しばらく駅前のベンチで身体を休めることにする。ひさびさに浴びる日差しに、きみは目を眇める。昨晩の雨にまだ濡れているアスファルトから湿った空気が立ち昇る。こんな街中でも、空気には少しずつ夏の匂いが満ちてきている。雑踏。無数に行きかうひとつひとつの人生。普段は苦手なその光景が、薬でぼんやりしているいまのきみには、どこか懐かしく、温かいものとして感じられる。ふと、ずっと未来の自分を想像する。駅のコンコースのベンチに座り、自分とは無関係な世界を眺めているきみをきみはつかのま眺めている。

三人の若者が広場で演奏をしている。ロックだかポップスだかも分からない中途半端な音楽。反抗しているのか甘えているのか、愛しているのか憎んでいるのかも分からない中途半端な歌詞。それでもそこには熱気があった。いつものきみなら唾棄していたかもしれないが、いまはその中途半端ささえ、苦笑とともに愛おしさを感じる。いろいろなものごとから切り離されていけばいくほど、きみは寛容になっていった。それは誰にとっても無意味な寛容さだったけれども。

どうしようもなく素人じみたバンドだったが、それでも無論、きみよりよほど腕は良い。きみも少しは楽器を弾けたが、しかし音感もリズム感も致命的に欠けていた。きみは脈絡もなく大学時代のことを思いだす。きみが通っていた大学では体育の講義が必修だった。体力だけは人並み以上にあったけれど、それ以外のあらゆる才能に見放されていたきみにとって、体育など苦痛以外の何ものでもなかった。それでも、苦手なものは克服すべきだと妙に頑なに信じていたきみは、社交ダンスを選択した。その大学には、そんな変わった選択肢もあったのだ。

――だからさ、そうじゃなくて、もっとこういう感じでステップを踏むんだよ。ペアを組んでいる女の子に、きみはまた同じことを言われる。――いや、頭では分かっているんだけどさ……。やれやれ、という顔をする彼女に、きみは申し訳なさそうに頭をかいて謝る。社交ダンスを受講してすぐ、きみはダンスが苦手なだけではなく、女性に触れることすら苦手だったことを思い出していた。けれども幸い人形劇のサークルが一緒だった子も受講しており、多少なりとも慣れているその子に、きみはダンスのペアをお願いしていた。彼女にはこういったことが向いているのか、講師のお手本を見ただけですぐに踊れるようになってしまう。一方のきみは、いつまで経っても基本的なステップを踏むことさえできなかった。ため息をついて彼女がいう。――頭で覚えようとしちゃだめだよ。身体が自然に動くようにやってごらん。きみもため息をつきかえす。――そりゃさ、きみは踊れるからそういうけど、できない人間にはまずそこからひっかかるんだよ。頭で覚えなきゃ手足をどうしたらいいかなんて分からないじゃないか。だいたい、ひとが踊っているのを見て覚えろっていうこと自体が無理なんだよ。そうしてきみたちはしばらく言い合い、互いに少し不機嫌になって授業を終えるというのが、定番になっていた。無論、ほんの少し時間が過ぎれば、きみたちは簡単に仲直りをしたのだが。

とはいえ、きみは何しろ力技の人間だった。休日に都心に出て、講義でやっているのと同じダンスが載っている教本を探しだすと、翌週の授業を三日休み、ほとんど不眠不休でステップを暗記したのだ。――きょうは完璧だよ。寝不足でくまのできた目で、きみは彼女にいう。不敵に、というよりむしろ不審者のように笑うきみに若干引きつつ、そうなんだ、と彼女は答える。けれど、ペアを組んで踊り始め、踊り終えると、彼女はこらえ切れないように身をよじって笑い出した。なぜかきみまで一緒に講師から注意を受け、まじめに踊ったつもりのきみは憮然とした表情のまま小声で彼女に問う。――なんだよ、ちゃんと間違えずに踊れたろ。完璧だったじゃないか。まだ目じりに笑みを残したままの彼女は、同じように声をひそめて答えた。――確かにステップは間違えなかったけどさ、でもあれじゃロボットだよ。ギクシャクガタガタ、まるで私たちの操る人形みたい。そうして、自分の言葉に再び吹きだし、慌てて口を押える。最初はむっとしていたきみも、そんな彼女を見ているうちにふと可笑しくなり、一緒に笑いだしてしまっていた。

……いつの間にか、バンドの若者たちはいなくなっている。そろそろ夕刻が近づき、行きかう人びとのまとう空気もさっきまでとは異なり、家を感じさせるものになっている。きみも立ち上がり、誰もいない家へと戻っていく。結局のところ、彼女はあまりに繊細だった。だからこそ鋭敏な感覚できみには感じ取れない流れを感じ取り、それに合わせて踊ることができたのかもしれないが、それが幸せなことだったとは、きみにはどうしても思えない。無論、ギクシャクガタガタ、力任せにしか進めないきみが、彼女より幸福だったということでもない。そもそもきみは、前に進んでいるのかどうかすら分からなくなっていた。

近所のコンビニで牛乳を買い、アパートに帰り、階段を上る。ポケットから部屋の鍵がひとつだけぶるさがっているキーホルダーを取りだし、鍵を開け、扉を開く。薄暗い部屋。微かにかび臭い匂い。カロリーメイトと牛乳を冷蔵庫にしまう。もう、あとすることは何もない。

彼女は、きみとは対極にいるひとだった。きみにはついに彼女を救うことができなかった。いや、誰かを救うことなど、誰にもできないことなのかもしれない。それでもきみは、きみに欠けたものを持ち、きみにあるものを持たなかった彼女のことを、どうしてだか、いちばん近い仲間だと思っていたし、いまでもそれは変わらなかった。あのとき覚えたステップを、いまだにきみは忘れないでいる。薄暗いなか、きみは記憶をたどりつつそのステップを踏む。向かにいるのは、もう年を取ることのない彼女の幻。――見ろよ、この完璧なダンス。心から楽しそうに、彼女が身をよじって笑う。――ギクシャクガタガタ、まるでロボットみたいだよ。ほら、もう一度やろうよ。教えてあげるから。

スイッチを入れる。部屋に白く人工的な光が満ちる。漠然とした空腹を感じて、きみはまだ冷えていないカロリーメイトを取り出し、無表情に食べる。その不味さが、まだ彼女のところへ行くときではないと、きみに教えてくれる。