ふぉあばっさい

きょうも一日、よく働きました。それがいったい何の役に立つんだっていったら、別段、何の役にも立ちはしないお仕事でしたけれど、「これは人類にとって有益なんだ」とかまじめに言いだしたら、だいぶ危ないようにも思います。ぼくはどうにもダメ人間なので、大上段に正しさなんてものを振りかざされると、酷く居心地が悪くなってしまいます。

と、昨日の夜中、ぼくは書いていました。まったく記憶にないのですが、例によってネガティブな感じですね。しかし意味は通っている。ように思います。いや実は滅茶苦茶なのかもしれないけれど、寝ぼけていた割には何となくまともな文章に思えます。けれども、普段はなかなかそうは行きません。だいたい、ぼくはいつでも寝ぼけているようなものでして、仕事中でも学会の事務作業中でも、突然居眠りモードに突入します。突入しますが、会社であれば隣に上司が居り、寝ているとばれる訳にはいかないという本能が、ぼくに白目でキーボードを打ち続けることを命じるのです。ちょっとこの、寝ながら文章を書くことの危なさの実例、ご紹介していきましょう。まずはその仕事中。プログラムを書いている途中で眠り始めたときです。

if (IsPrimaryMaster == IsSecondaryyyy     // ふぉあばっさいs¥

「ふぉあばっさい」が何かは分かりませんが、何だか野菜っぽい雰囲気があります。次に、これは学会誌の編集作業中に居眠りに突入したとき。修正項目のメモをしているときのようですね。

11頁最終行 強調点が横書き時のものになっています。縦書き時のドットは、無事おうちについたそうです。

無事おうちについたそうで、何よりです。次。これはいつ頃だったでしょうか、ぼくは紙のノートがない時にふと論文のアイデアを思いついたりすると、PHSのメモ帳にメモを取るのですが、そこに残っていたものです。

無限が有限になり、有限の先を知ろうとして無限になる。ここで生きること←この矢印はなんだ? ここで働くなら家に帰らないで寝ぼけた

もはや何を言っているのか分かりませんね。この矢印は何だ?って、こっちが訊きたいです。しかしこの直後に書いてあるのはもっとよく分からない。

東京生まれのルーマニア人が教える 熊殺しのウィリーゴンザレスの真実

これはそもそも研究メモなのかな。さらにその次にはただ一言、「泌尿器科」と書いてあるのですが、ウィリーゴンザレスさんの身に、いったい何が起きたのでしょうか。そしてそれを知っているルーマニア人とはいったい何者なのでしょうか。

しかし、いちばん危険なのはメールですね。これはメモなど比較にならないくらいにヤヴァイ。仕事の疲労がピークに達していたある日、会社から帰宅後、学会連絡をしなければならず、夜中に半分意識を失いながらお偉い先生方へメールをばらまきました。当然文面はコピペなのですが、冒頭からしてこうでした(学会名は伏せます)。

いつも××学会の活動にご協力いただきまして、まことにありがとうございません。

まことに冗談ではございません。ぼくはこれを実際に十数通ばらまいたのです。いや受け取った先生方の方が冗談じゃないとお思いだったかもしれませんが、まあ、だいたい、ぼくの有能な仕事っぷり、研究っぷりというのはこんな感じです。

いやはや、睡眠は大事だよね。じゃあみんな、ふぉあばっさい!(この地方における別れの挨拶。)

He sees something in the air.

喉が痛くて目が覚めた。頑健さだけが取り得のぼくだけれど、考えてみればその頑健さは精神的な鈍感さでしかなく、身体はけっこう脆弱だったりする。それを普段は忘れていること自体が鈍感さの表れでもある。ともかく、ひと月近く体調を崩していたけれど、治ったと思ったらまた風邪かというのも、何だか憂鬱だし、しかも夜中だというのに外から雨音が聴こえてくる。風邪を引いて、雨が降っている。言葉にすればただそれだけのことだけれど、そうして、実際にそれだけのことなのだけれど、そんなことだけで簡単に憂鬱になるのだから、人間の心は面白い。

数日前、用事があって新宿に行ったついでに、めずらしく独りで御苑を歩いてきた。温室が新しくなってから相棒とふたりで来たことはあるけれど、独りで来るのはほんとうにひさしぶりだ。温室は、これは好みかもしれないけれど、つまらなくなってしまったように思う。あまりに明るく、きれいで、管理され過ぎているように感じる。昔の温室の、狭いけれども謎が隠されているような雰囲気はなくなってしまった。もっとも、ある程度時間が経てば、生命たる植物たちは管理をすり抜け叢生していき、また無数の小さな謎を葉の裏に隠すようになっていくのかもしれない。

御苑ではたくさんの人びとが、それぞれ思い思いのスタイルで写真を撮っていた。携帯電話やスマートフォンのカメラで、自分の子どもや互いの姿を撮りあっている人たちもいれば、高そうなデジタルカメラにこれまた高そうな巨大ズームレンズをつけ、綺麗なだけの花を撮っている人たちもいる。もちろん、それらを否定するつもりはないけれど、何となくどことなく、その全体を寂しく感じる。偉そうに言っているわけではない。ぼくだってそのうちのひとりでしかない。だけれども、その全体の寂しさを感じているひとが、どれだけいるのだろうか。

しばらく、彼女の家にルーターを忘れてしまい、ネットにつなげなかった。それはそれだけのことでしかない。インターネット的なものに対して強い拒絶反応を示す研究者が周りには多いけれど、でも、ほんとうに、それはそれだけのことでしかないとぼくは思う。ぼくは人生の半分近くをコンピュータを相手にして過ごしてきたけれど、そうして、ネットのなかに現れる途轍もなく巨大なリアルを(決してポジティブな意味ではなく)信じているけれど、それでもなお、ネットにつなげなければ、それはただそれだけのことでしかないと感じるし、だからこそ、それはリアルなのだと思う。つなげなければそれに依存している人間が云々、というのであれば、そんなものはもはや宗教でしかない。けれども、もし宗教がリアルであるのなら、神が居なくなって、そこでぼくらは信仰を保ち続けるだろう。

彼女のバイトが終わるのをビルの前で待つ間、ボードリヤールの『象徴交換と死』を読んでいた。警備の警官がうろうろとしているが、影のように平凡で目立たないぼくは決して職質を受けることはない。受けたが最後、身分を証明するものなど何もない(ほんとうに、何ひとつとしてない)のだけれど、警官の目がぼくに向けられることはない。そして、『象徴交換と死』は何を言っているのかさっぱり分からない。1頁中に存在する「の」の数を数えたりする。昔から、退屈な授業のとき、ぼくは教科書のなかの「の」の数を数えて時間を潰していた。そんなことをふと思い出して、ひっそりと笑う。

別段、何も参ってなどいないにもかかわらず、何だか参ったよなあ、と呟いてみる。何が、と訊かれ、それがぼくに分かれば良いんだけどね、と答える。

a life and a thing

きみはとあるところへ旅行へ行き、ひさしぶりにのんびりと、好きな写真を撮る。近所でカメラを構えていると不審者だと思われ通報されるきみだが、観光地であるここでは道端でカメラを構えていても、そんな心配はない。お気に入りの新しい帽子も被り、風は強いけれどしあわせな時間。東京へ戻り、彼女に会う。その帽子、不審者っぽさが倍増するからやめなよ、と言われる。部屋の隅で毛布をかぶり、きみは嗚咽する。

圏外

東京からほんの少し離れたところにいる。だからというわけではないが、PHSの圏外になってしまう。仕事の連絡が届かないのは良いことだが、相棒にメールが届かないというのは心配で不安で、困ったものだ。けれども、なぜ困るのかということを考えると、あたりまえだけれど、けっこうそこには、自分は心配したくないとか、そのために彼女を厚さ5mのコンクリートの壁のなかに閉じ込め「守りたい」とか、そういうエゴイスティックな理由があったりする。でも、これまたいうまでもなく、完全にエゴイスティックでなくなってしまえば、それはほんとうに愛なのかという気もする。それはきっと人間に対する愛ではなく、自分を殺しにくる神をなお信仰する絶対的な崇拝のようなものではないだろうか。まあ、ありきたりの悩みではあるが、ありきたりということは、答えを出すのが難しいということでもある。

けれども、少なくともこうやって圏外が存在する限り、普段は当然だと思ってやっていることを振り返るきっかけにはなる。問題はきっと、当然が真の意味で当然になってしまったときだろう。どこにいても、誰かと必ず瞬時につながることのできるような技術が生みだされたとき、そしてそれは近い将来現実化されるだろうけれども、それはきっと、誰かさんと誰かさんの関係性に根本的な変化をもたらすだろう。技術が進化していくのは、そこに技術があることをぼくらが意識できる限りにおいて、たいした話ではない。しかし、それが環境化し不可視化していくとき、それはもはや技術とは呼べないなにものかになってしまっている。それは本質的な次元においてぼくらを支配するものに変貌する。しかもぼくらはその支配に気づくことはない。それを例えば適当にUTと呼ぼう。

当然、ぼくらの生活は既に、無数のUTによって成立している。ぼくらはふつうに暮らしている限りにおいて、そのUTに気づくことはない。歴史はその存在を教えてくれるかもしれないが、けれども、そもそもいま見えないものの起源を歴史に求めることは、それ自体難しい。あるものは単に歴史のなかで失われたのかもしれない。むしろそれが一般的で、その大量の、極自然に消えていったものの中から、残り、不可視化したUTを探りだすということは、想像するだに困難だ。もしUTなるものが在るとすれば、それは電気が切れても顕在化することはない、いわば神話レベルでぼくらの生活の根底に組み込まれてしまっているものだ。

それでも、時折、うろうろ歩き回っていると、偶然、ほんとうに万に一つの偶然として(そして恐らく同時に大きなリスクとともに)UTの圏外に出てしまったりする。そうして、あれ、と思う。その、見過ごしそうに微かなあれ、という感覚こそが、UTの影を指し示している。その瞬間を忘れずにつかまえ続けておく。漠然とした印象。茫漠とした感覚。そうであってもなお、手の中には極僅かに違和感が残っている。別段、UTそれ自体が悪なのではない。むしろそれは、いまのこのぼくの生を成り立たせている不可欠の要素でさえある。にもかかわらずそれをつかもうとするのは、要するにぼくの気質として、無自覚的なものに規定されるのが嫌だという、ただそれだけの理由に過ぎない。

だからぼくは、圏外を探してうろうろ歩き回る。見知らぬ街。見たことのない景色。言葉の通じない外国。そして、ぼく自身の頭の中。想像のディスプレイを覗き、アンテナの本数が0になり、圏外の表示がでるところを探し、うろうろと歩き続ける。

そのホールケーキを丸ごと、こちらのお嬢さんに、丸ごと、丸ごと。

例えばですけれども、ぼくの枕元には父の遺影があるのです。それで、いまノートのモニタの光を最低にまで落としてプログラムを組んでいたりするのですが、どうも横目に見える遺影のあたりが不自然に明るい。何でしょうね。でも、ここでそれが超常的な云々、というのは莫迦も良いところです。この世に現れた時点で超常は日常でしかないし、そんな下らなさから絶対的に解放されたところにこそ死の超越性はある。だからといってその光を、いややはりモニタの光が反射してね、などと科学的に説明してしまうのも面白くない。面白いというのは、ぼくにとっては大事な言葉なんですけれども、あはは、ということではない。そのうえで、単に思考停止、ということではなくて、それそのものを受け止めること。そういう在り方が、ぼくは好きなのです。世界は謎に満ちています。それはそれだけのことで、騒ぎ立てるのは酷く品のないことです。でも同時に、その不思議さは凄え、凄えよと魂がひっくり返って喜ぶような途方もなさも持っています。

ほんとうは、自分の部屋の外になんて出たくはないんですよ。でも仕方がありません。義理も情も糞喰らえですが、凡人である以上、自分の天命から逃れることもできず、きょうものたのたと都心に出てひとはたらきしてきました。新宿四谷近辺は、会社と修士とあわせ彼是十数年通いましたが、塵のような街です。けれども、だからこそ、部屋に篭って本だけ読んでいれば幸せなぼくにとっては、謎に満ち、奇妙で、おどろおどろしくも美しいものであふれています。道を歩いているだけで、そういった無数のものごとに出会います。けれども、ああ、でもこれはみんなすぐに忘れるんだよなあ、とも思います。

――そうしていま、思ったとおり、そのほとんどすべてを忘れています。いま辛うじて覚えているのは、地面から唐突に生え、向かい合った青い排煙ダクトです。それがどうしてそのときのぼくに、世界の秘密に通じる鍵のように輝いて見えたのか、もう、ぼくには分かりません。もちろん、その場で言葉を記録することはできます。いまは便利なデバイスがいろいろありますよね。でもそんなことではないのです。そんなことではない。消えるなら、消えてしまって良いのです。忘れるなら、忘れてしまって良いのです。すべてを理解し、すべてを記録し、すべてを明るみに引きずりだすのは、これもまた、ひどく下品なことです。

ぼくがぼくにとっていちばん自然な言葉づかいで話すと、大抵のひとには眉を顰められ、きみはほんとうに無教養で粗野な人間だな、と言われます。それはそれで、正しいことです。だからぼくは、嘘の言葉づかいをいつでもしています。だいたい、ぼくの言葉というのは、これを読んでくださっているひとには伝わるでしょうが、とても嘘くさいものです。だけれど、嘘のない言葉はほんとうなのかといえば、ぼくはそうは思えません。嘘のある言葉が嘘なのかといえば、やはりそうとも思えないのです。ほんとうの言葉のほうが、時として、より救いようのない嘘であることもあります。自分にとっていちばん自然でいちばんほんとうの言葉づかいが、いちばん良いということはない。不思議なことですが。嘘くさい、嘘の言葉使いで、嘘をつく。けれども不思議に、そんなところにほんとうのことが宿ったりします。

何、と決めてしまうのは、けっこう簡単なことです。かといって、何、と決めないこともまた、簡単なことです。どこでもないところで、何とも言いようのないものをそれそのものとして受け止め続けること。きっと、それがいちばん難しいことです。だけれども、それを難しいことだと言うのは、決めたり決めなかったりするゲームのなかにおいてのみです。ぼくらの日常は、そんなルールとは無関係に続いていきます。ぼくらは、やろうと思えばけっこう簡単に、その混沌のなかで混沌を混沌そのものとして受け止め、生きていきます。そして最後に死にます。ほんの一瞬の生のなかで、ぼくらは何も理解する時間はありません。それでも、理解できないその何かの全体を、ぼくらは丸ごと飲み込んでいます。そんなふうに、けっこうぼくらは生きていきます。生きていけます。生きています。

生きています。

ぼくにとってのリアル

数か月前になるのでしょうか、よく覚えていないのですが、博士課程で在籍していた大学の集中講義で、一時限分だけ話す機会をもらったのです。そのときはオムニバスっぽい感じで、研究室が一緒だった人たち(いまはみなそれぞれに非常勤で教えています)の講義を聴講することもできて、いろいろと学ぶことがありました。何よりも、ああ、俺の講義はぜんぜん講義っぽくなくてダメだな! というのを再認識できたのがいちばんの収穫でした。やはり、大学時代にまともに講義なんて聴いていないと、こういうことになります。

ともかく、そのときは何がリアルで何がヴァーチャルか、みたいなことをだらだらと話したのですが、基本的にぼくの立ち位置というのは、ヴァーチャルと呼ばれるものにだってリアルはあるじゃない、というものです。まあでもこれはけっこう賛否があって、こうやってブログを書くということをとっても、そこに現れる誰かさんとの関係性を感じ取れるか取れないかっていうのは(善悪ではなく)そのひとの才能の問題ですから、そういうのがないひとには、幾ら話しても伝わらない。それでも話してしまうのは、そこにぼくのリアルがかかっているからです。リアルっていうのは要するに自分が生きている場そのものですから、まあね、とかいって済ませるわけにもなかなかいきません。

しかし、さすがに農学をメインにやっている学生さんたちだけはあって、やはりヴァーチャルはヴァーチャルじゃん、という雰囲気が強い。土がない! みたいな。いや分かりませんが。でも、繰り返しますが、別段、これは善悪の問題ではないのです。ただ、ぼくみたいに変に絡んでくる講師がいると、自分にとってのリアルというのを改めて考える機会になる。講義なんていうのはそれで十分なわけです。

それで、そのときにぼくが面白いなと感じたことがひとつありました。ネット越しに現れる他者と、真に関わり合うことができるか否か、みたいなことを訊いたとき、ひとりの生徒さんが、それはできない、なぜならそこには殴ったり殴られたりという痛みがないからだ、と答えたのです。

これは、とても良く分かる話です。でも同時に、うーん、どうだろうかな、とも思います。技術さえ発展すれば、実際に痛みを与えることなんて、恐らく簡単にできてしまいます。例えば遠隔操作できるロボットのようなものがあれば、ネットの向こうでグローブをはめて殴ると、その通りにロボットが動き、画面の向こうの誰かさんを殴る。あるいは頭蓋ジャックか何かによって脳に電気信号を流し、殴るという動作をネット越しに電気信号として送り、相手に直接的に痛みを与える。そういう技術ができれば、そこには他者とのほんとうの関係性が生まれるのかといえば、けれどももちろん、そんなはずはないですよね。これはただの莫迦莫迦しい技術論でしかありません。もちろん、その生徒さんが言いたかったことも、そういうことではないはずです。直接的な対面関係がない、ということを、「殴ったり殴られたり」によって表現したかったのではないかと思います。

だけれども、直接的な対面関係のみがぼくときみの関係性を可能にしているなんてことは、もちろんありません。昔誰かさんが書いた言葉を読んでぼくらは感動するし、遠くにいる恋人の声を電話越しに聴いてほっとするし、川の流れを眺めては下流にいる誰かさんを思い浮かべてその生活を想像したりするわけです。それらはみんな、単なる妄想ではないし、独り言でもありません。そこには確かに、リアルな他者との関係性が生まれているわけで、それを否定してしまったら、ぼくら人間の生活というものは、とんでもなく閉鎖的で、かつ極めて他者に対して残酷なものになってしまう。他者との関係性を大切に思うのは分かりますが、その思いが強いあまり、新しいコミュニケーション形態に対する訳の分からない嫌悪感や忌避感が強まってしまう人びとが多いのは、残念なことです。ぼくらの生活なんてものは、そんな小難しい理屈によって動いているものではないのですから、もっとシンプルに考えれば良い。ぼくはそう思います。まあ、シンプルなことを表現するのはこれまた難しいことでもあるのですが……。

ともかく、話を戻しますと、その学生さんの話を聴いていていちばん違和感を覚えたのは、痛みって物理的なものだけなの? ということでした。他者との関係性の基盤に痛みがあるというのは同意します。まあだいたい、痛みしかありませんよね!(極論) でも、その痛みって、そんな、物理! みたいなことだけではなくて、普通に精神的な苦痛も含まれるのではないでしょうか。電話越しにだって、フラれたら泣くんですよ。胸が痛くて。それ、別に心筋梗塞になっているわけではない。あたりまえですけれども、そのあたりまえが大事なのです。だってぼくらの日常って、あたりまえのことの連続でなりたっているんですから。(いうまでもありませんが、だからつまらないとか、だから退屈だなんてことにはまったくなりません。あたりまえっていうのは、途轍もないことです。)

だからちょっと話はずれますが、例えば映画で3Dとか最近いっていますけれど、別段、あんなんどうだって良いんです。それによって表現されるものが(ある次元においては)リアルに近づくわけではまったくない。いやそれはそれで興味深い変化はあるのでしょうし、良い面も悪い面も生まれてくるのでしょう。ぼくはいまのところ3Dの映画など興味はありませんが、だからといって昔のサイレント時代が良かったと思っているわけでもありません。でも、ぼくが思うのは、どんなメディア形態であっても、そこにはぼくらが通常使っているのとは異なるレイヤーで”リアル”と”ヴァーチャル”のせめぎ合いがあるし、それに注意深くなければならない、そうでないと、ぼくらはぼくらの生きている現代社会において、他者と真の関わりを持つことができなくなる危険性があるよ、ということなのです。

うわあ、さすがにこんな時間に書いていると、内容がぐだぐだですね。しかも明日は早朝から会議だというのに……。まあでも、こうやって話すことで、憂鬱な心持というのが少し和らいだりする。ようやく眠気が訪れたりもする。それはやっぱり、ただの独り言ではできないことなんですよね。やっぱり、そこには誰かさんと誰かさんのつながりがある。そんなふうに思います。ぼくにとってのリアル。

地面に耳を押し当てる。何かが近づいてきている。

眠れないからブログを開いただけで、書くことなんて何もないんですけれども、でもほんとうはそんなことってあり得ませんよね。死体にでもならない限り、ぼくらには必ず書くべきことがあるはずです。そうしてたぶん、ぼくらは死体になったって、書くべきことがあり続けるんです。どうなんでしょう、暗闇とか墓地とか、一般的に怖いみたいにいわれているものを、ぼくはあまり恐れる感覚がありません。威張っていっているのではなくて、まあ、根暗、みたいなものです。でも、そういったところで耳を澄ませてみてください。死者たちが何かを書くかりかりかりかりという音が、きっと聴こえてくるはずです。ぼくは、その密やかな音に耳を澄ませるのが好きなのです。

生きている人間の発する音というのは、どうにも大きすぎて、大変です。良いのか悪いのかは置いておき(けれども、自分の声の大きさを自覚できないのだとすれば、それは悪ですらなく、単なる愚です)、純粋にぼくの性質として、だいぶつらいのです。相棒は、街に流れる屑のような音楽を耳にすると、それをすぐに覚えてしまい、長く苦しみます。ぼくはまったくそういうことがなく、そもそも関心のない音楽は聴こえませんし、仮に聴いても、覚えていられません。けれども、ある種のひとびとが発する音――それは声だけではなく、身振りや表情の変化から生まれる空気の振動も含めてですが――の大きさには、ほんとうにダメージを受けます。

ノイズキャンセラーつきのヘッドフォンを持ってはいるのですが、でも、あれは音を消してくれるのではなくて、何ていうのかな、空間全体をのっぺりと塗りつぶしてしまうだけなのです。だから、ぎりぎりのとき以外は、あまり使う気にはなれません。

そういうわけで、ぼくは夜が好きです。山のふもとから風に乗って届く、資本主義市場経済システムが作りだしたバイクに乗りながら反体制だぜなどと阿呆くさくも思い込んでいる阿呆どもの撒き散らす騒音も、夜の静けさをいっそう強調するにすぎません。一万年以上昔から人びとが住んでいたこの土地では、過去の死者たちが地層のように透明に重なり、みな、かさかさかさかさ、秘めやかに何かを書きつらねているのが聴こえてきます。

いったい、死者たちは何を書いているのでしょうか。分かるはずもありませんが、だからこそ、耳を澄ませるたびに、ぼくらは無数の異なる物語を聴くことができるのです。そして、その物語はただの想像などではなく、確かに、その死者たちの地層の上で生きているぼくらにとってのリアルなのです。

だから、眠れないからブログを開いただけで、書くことなんて何もないなんて、そんなこと、あり得るはずがないのです。