きみに伝えたい沈黙

最近、LifeLogに関心を持っている。その概念は、ぼくらの持っている技術と不死への欲望の、ひとつの見事なまでに醜く美しい到達点だ。そこに人間は存在しないが、その人間の非在にこそ、人間の匂いが色濃く残されている。

技術について語るとき、結局、(技術論者、反技術論者を問わず)技術の次元にとどまった議論にしかならないのは何故だろう。そこには常に、人間の持つ悲しみ、希望、愚かさ、そして恐ろしいまでの高慢がともなう。けれども、多くの研究者がそれを見ようとしない。

だいぶ前に投稿した論文の査読結果が戻ってきた。ぼくとしてはかなり自由に書いてしまった論文なので、リジェクトされたらされたでしかたないね、と思っていたのだけれど、意外にも高く評価されていて、ちょっと嬉しかった。ただ、査読者のコメントのなかで、筆者(ぼく)はバタイユ的な非知へと傾きすぎているという指摘があって、確かにそうだよね、とぼくは思った。

友人の彫刻家が一時期帰国して、ほんのわずかだけれど、共に過ごす時間を持てた。ぼくは最近、研究というものが持つ枠組みに息苦しさを感じることが多い。――研究って、学会発表とか論文とかでしか表現できないんですかね、もっとこう、ライブハウスとか、いやどこでもいいんですけれど、アートってことではなくて、でも何か、みんなの耳や目や肌や魂に直接伝えるようなかたちで表現できないんでしょうか。そんな、訳の分からないことを彼に訊ねた。――分からないけれど、やってみればいいじゃない。そう、彼は答えた。

大学で喋るのは楽しい。大学というシステムはまるで糞のようだけれど、ぼくはやっぱり、若い子供たちに語りかけるのが好きだ。でも同時に、語るのではなく、沈黙する講義があったっていいのにな、とも思う。瞑想とか、そういう下らない話ではなく、ただたんに沈黙する。別に、そこから何が生まれる訳でもない。ただ、ひたすら沈黙をする。じっと、耳を澄ませる。そうしてもちろん、何も聴こえてはこない。そういう講義を、いつか、ぼくはしてみたい。

研究をする、ということは、自分にしか見えていない光景を見ること、そしてそれを、他のひとに伝えるということだ。ぼくの見ている非知の世界を、きみにどうやって伝えられるのだろう。分からないけれど、でも、やってみるしかないのだろう。

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