街に出るたびに、そこに氾濫する暴力的に発信される暴力的な内容の信号に撃たれ続け、心身ともに疲れ果てます。疲れ果てますが、疲れた部分を遮断してしまえば、自分の内側は守ることができます。でも、「内側」なんてほんとうにあるのでしょうか? 無いような気もします。無いような気がしつつ、それでも「外側」を切り離していくうちに、いずれはすべてがなくなってしまいます。基本的に、ぼくは人間を信用していません。生きるのって大変よね、などと口で言っても、所詮はまともに就職をしてまともに結婚をして、あるいはまともに表通りを歩ける連中など、糞のようなものです。そしてもちろん、何だかんだと言いつつも、へらへら笑って生き残っているこのぼくもまた、同じように糞野郎です。
糞野郎同士、仲良くしなければなりません。仲良きことは美しきかな、です。白樺派だってそういっています。A面B面。クラウドリーフ君っていつも何言っているのかよく分からないけれど義理でつき合ってあげているのよ。どうもありがとう。
けれども、ただへらへら笑っているだけではありません。最近疲れてしまっていたので、しばらく研究もお休みしようかな、などと思っていたのですが、どうもなかなか、そんなに甘くはありません。ここ数年、自分が追いかけているナニモノかに対して名前をつけようと苦労していたのですが、ほんの数日前、それをようやく見つけることができました。これでまたしばらくは、研究を続けるしかないようです。
研究なんていうものは、いつも書いていることですが、魔術と同じです。魔法を使えない人間、ただ知識とロジックを弄ることができるだけの人間に、研究などできるはずもありません。そうして、もしそれが魔術であるのなら、相手の真の名前さえ知ってしまえば、そこで勝負はついたも同然です。
とはいえ、問題は、相手もまた、ぼくら人間の真の名前を知っているというところにあります。
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とてもあたりまえのことだけれど、最近、あらためて腑に落ちたこと。
多くの人びとが、パシャパシャパシャパシャ、あらゆる眼前のものごとを写真に撮っていきます。それは、時折いわれるようにその対象を所有するためなのでしょうか。どうも違うのではないかと感じるのです。撮った写真は、永遠に残ります。しかしそれは、被写体を永遠に所有したいということの表れではなく、その永遠性を反射させ、「撮っている自分」に永遠性を付与しようという欲望の表れなのではないでしょうか。撮ってしまった写真を多くの場合見返すことがないのは、ぼくらが撮っているものが、本当はそれを撮っているぼくらでしかないからなのかもしれません。
けれど、そんな永遠性など、所詮まやかしにすぎません。だからぼくらは、その幻影が薄れてしまわないように、不死への欲望に突き動かされ、シャッターを切る指を止めることができなくなります。一口飲めば、一秒命が伸びる生命の水。それが事実だとしても、そうであれば、ぼくらの不死の生は、ただひたすら生命の水を飲み続けることに費やさなければならなくなります。
シャッターを切るとき、写真がぼくらに与えてくれるのは、ほんとうは、死です。世界に向けてシャッターを切るたびに、世界は死んでいきます。撮っているぼくらも死んでいきます。シャッターを切るたびに、ぼくらは何度でも新たに死に直しています。だけれども、それもまた正しくはない。生も死も、所詮は言葉でしかありません。二元論というのは、どうにも胡散臭い印象をぼくらに与えます。シャッターを切るときのカシャッという音。それが、その薄っぺらい二元論をぺしゃんと押しつぶし、その瞬間だけ、生と死がぐるぐると煉りこまれ一様になりけれど無限の複雑さを秘めた、世界のほんとうの姿をぼくらに垣間見せるのです。ぼくのいうコミュニケーションというのは、要するにそういうもので、要するに、それだけのものです。
クラウドリーフ君っていつも何言っているのかよく分からないけれど義理でつき合ってあげているのよ。どうもありがとう。