[アーカイブ]世界をハッピーエンドで終わらせるために(2007/05/06)

以下の文中で6630といっているのはVodafone 702NKのことです。こういう尖ったデザインの携帯電話ってなくなりましたよね。かわいくてとても気に入っていました。

ふと、6630(というより702NKなのだが、電話として使っていないぼくからすればやはり6630と言った方がしっくりくる)にゲームを入れてみた。自分の動かすネズミが、ハエ、てんとう虫、ゴキブリ、蛙、その他正体不明の生き物を避けながら迷路を走り回ってチーズを集めるという、他愛もないものだ。

普段、ぼくはほとんどまったくと言って良いほどゲームをやらない。珍しくやってみてその理由を思い出した。敵に捕まると、ネズミは羽の生えた(ネズミの) 天使になって、昇天してしまう。その瞬間、とても胸が痛むのだ。元来、落書きで描いた動物さえ消せなくなってしまうようなやっかいな性格をしているので、たかがゲームと言ってネズミを死なせたままにはできなくなってしまう。

そこで、無駄に時間を費やし、ようやく最初の一匹で全面クリアするまで腕を上げた。クリアしてから、即座にゲームはアンインストールした。やれやれ、何をやっているんだか! この時間を勉強に当てれば、ささやかだけれど、まだしも世界の役に立つ。

けれども、これはこれで良い経験になった。

操作を誤ってネズミが敵に捕まる。昇天する前に、すばやくゲームをリセットする。そうして、失敗した歴史を書き換えてしまう。ハッピーエンドで終わるまで、歴史を上書きしていく。

実際の世界ではハッピーエンドなどあり得ない。どれだけ身体を鍛え、知識を蓄え、資金力を得たところで、日々世界中で殺されていく無数の人々を救うことなどできはしない。それでも、ひとが一生懸命勉強をし、社会で働くとすれば、その根幹には、例え負け戦であろうとも、そのような現実を何とかしたいと願う心があるからだろう。

とは言え、やはりそれは負け戦だ。こうしている一瞬一瞬、ぼくには想像もつかないような苦悩と苦痛の中で、多くの人々が死んでいく。それはやっぱり、考えるだにしんどいことだ。

だからせめて、小さなゲームの中でくらい、ネズミを一匹も殺さずに世界を終わりに導こうとする。自己満足? もちろん、その通り。それでもそんな、嘘でもささやかな勝利が、ほんの少しだけれどぼくに力を与えてくれる。そのほんの少しの力を頼りに、明日また一歩、がんばることができる。

ボイジャー・エンドクレジット

あまり大きな声では言えないことですが、ここ一年ほどめちゃくちゃ映画を観ています。なぜ大きな声で言えないのか。それはそんな時間があるのなら研究をしろという正論オバケに襲われるからです。しかし映画って本当に素晴らしいですよね。そしてメディア論をやっていますなんていうことのいちばんのメリットは、映画を観ているだけでも「研究しているもん!」と言い張れるところにあります。しかもぼくはあらゆる技術をメディア技術とする立場を取るのでこれは強い。もう何をやっても研究だと言い張れる。言い張るだけで実際のところどうなのかはぼく自身にも分かりません。なにも分からないまま人生は過ぎていきます。

ところでぼくは友人が少ない人間ですが、根本的なところで美意識の異なる人を受け入れることに対する許容量が極端に少ないのもその原因の一つにあるでしょう。映画を観るとき、エンドクレジットを最後まで観るかどうかも、その人と美意識が一致するかどうかを判断する基準の大きな要素になります。いやもう、これは本当に、最後まで観ない人とはつき合えない。大学時代、彼女と初めて二人で映画を観に行ったとき――何しろ都会の映画館なんてハイカラすぎて恐ろしく恐ろしくて死ぬる思いで行ったのですが――彼女もぼくと同じ感覚を持っていて、それは本当に嬉しかったのをよく覚えています。

それはともかくエンドクレジット。映画って、やっぱり一つの世界なんですよね。それだけで完成された一つの世界。その奇跡的に美しい物語世界が、あるとき偶然どこからかやってきて、薄暗い映画館のスクリーンに映し出される。ぼくらの世界と、その一点、その一瞬、奇跡として交差する。そして90分、あるいは120分、ぼくらはその完璧な世界を垣間見ることができる。どこか別の宇宙、別の次元からやってきた完璧で美しい物語世界。でも時間がくるとそれはまたどこか別の宇宙へと遠ざかっていく。物語が終わり、ぼくという目をスイングバイして、映画は再び真っ暗な宇宙をまっすぐ遠ざかっていく。その直線運動こそがエンドクレジットなのです。

だからエンドクレジットを観ない人というのは、これは偏見を承知で言います。というかこのブログ偏見しかありませんが、エンドクレジットを観ない人というのは、映画が在るということの奇跡を知らない人です。その完璧な物語世界と出会い別れる、人生において一度きりの奇跡の美しさと恐ろしさ、それを見送るときの喜びと悲しみを知らない人なのです。ぼくはそう思います。

気に入った映画は何度も何度も、何度も何度も何度も観ます。それでもその一回ずつが絶対的な固有性を帯びた、繰り返されることの決してない奇跡です。遠ざかっていくボイジャーを見送るぼくら。けれどもそれが残す軌跡はぼくらの心に永遠に残ります。それが感じ取れない人と、ぼくは映画館には行きたくない。

などと真顔で言うぼくなのできょうも友人がいませんが、でもまあ、映画がある人生、別段、寂しくはありません。

[アーカイブ]Weltschmerz(2008/05/14)

二つ目の大学に通っていたとき、第二外国語でドイツ語を選択しました。ぼくはどのような言語であっても文法を覚えるのは少しばかり得意でして、これで苦労するということはあまりありません。けれどもみなさんご存知の通り、文法なんてのは言葉を使う上ではあまり役に立たないことが多い。いやそんなことないのかもしれないけれど。ともかく、ぼくは致命的に発音がダメなのです。いまだにLとRの違いが分からない。母音がA、I、U、E、O以外にあるなんて悪夢です。まあ実際には、日本語にも多くの母音があるのかもしれませんが。

そんなこんなでして、語学の授業っていうのはなかなかに苦痛でした。あるとき、英語のspeakingの試験があり、どう考えても俺には無理だと判断したぼくは、コンビニで買ったお酒をぐっと飲んでから試験に臨んだことがあるくらいです。普段は神聖な学び舎で飲酒など言語道断と考えているのですが、ちょっとこのときばかりは酔わなければやっていられなかった。そうか、だから発音が苦手っていうより、発音が苦手な自分をみんなに見られるのが嫌だっていう自分の卑小さが問題なのかもしれませんね。

おっと、そんなことが話したかった訳ではないのです。英語を話すのが苦手なために被った数々の苦難についてはまたいつかお話しするとして、今回はドイツ語のお話でした。その大学ではドイツ語を受講する学生があまり多くなく、第二外国語の必修単位を埋めてしまった後、さらに特講まで進む生徒となるとまず居ません。ぼくのときもそうでして、前期後期の一年間、先生と二人きりでゲーテの『詩と真実』の原典訳をするというとても贅沢な時間を過ごすことができました。会話の授業で先生と二人きりなんていったら失禁ものですが、翻訳であればこれは楽しい。他の生徒がいないので自分のペースで、自分の文体で訳すことができます(本当はこれはあまり良くなくて、翻訳は何人もの生徒で互いに批評しあいながらやる方が、より完成度の高いものができるのですが)。

先生は初老の女性で、学問に関しては極めて真剣かつオープンな方でした。そう言えば、他の大学に通っていた相棒も何故かたまに遊びに来ては、一緒に講義を受けたりもしました。こんな話をするつもりでもなかったのだけれど、良い思い出だからか、ついつい書いてしまった。

今回のお話はドイツ語のWeltschmerzについてです。Weltは世界、Schmerzは肉体的あるいは精神的な苦痛を意味します。すなわち、直訳するとWeltschmerzは「世界苦」となります。世界苦。何やら大仰な雰囲気ですが、実際にはどんな意味なのでしょうか。早速辞書を引いてみましょう。マイスター独和辞典によると、

世界苦、厭世観。

だそうです。ちょっとこれ、不思議ではないでしょうか。「世界苦」というと、あり得ざる重荷を一身に背負うアトラスの神話を思い浮かべます。あるいは『人間の土地』(サン・テグジュペリ著、堀口大學訳、新潮文庫)のラストにおいて、電車の中で折り重なって眠る労働者たちを見て彼が漏らす内的独白、

彼らは、すこしも自分たちの運命に悩んでいはしない。いまぼくを悩ますのは、慈悲心ではない。永久にたえず破れつづける傷口のために悲しもうというのでもない。その傷口をもつ者は感じないのだ。この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。

同書、p.248

を思い浮かべても良いかもしれません。あるいはまた、『悪魔と神』(サルトル、生島遼一訳、新潮文庫)のラストにおけるゲッツの独白、

おれは心ならずも指揮をとる。だが、けっして途中ではやめぬ。おれを信じろ、この戦いを勝つ機会が一つあれば、おれはかならず勝つ。[中略]しゃべるな。ゆけ。[中略]これから人間の支配がはじまるのだ。美しい門出だ。さあ、ナスチ、おれは屠殺者と死刑執行人になろう。[中略]心配するな。おれは途中で、まいりやせん。それ以外に愛し方がないから、おれはあの連中をおびえさせるのだ。ほかに服従しようがないから、命令するのだ。このほかに、みんなとともにいるしか仕方がないから、おれは頭上のあのからっぽの天を相手に孤独にとどまるのだ。なすべきこの戦いがある。おれはやるつもりだ。

同書、p.204

を想起することも可能でしょう。人類、世界、あるいは歴史という、総体としての何かが傷つくのを感じざるを得ないある一人の人間の苦悩。それは高慢ではあるかもしれませんが、しかし同時に美しく、決して損ねられない誇りに満ちたものでもあります。

一方、「厭世観」というと、世界を放り出してしまったアトラスというか何というか、これはちょっと身も蓋もない感じです。もう俺は嫌だよ、家に篭って外の世界とは縁を切るよ、という雰囲気ですね。「世界苦」とはまったく逆のベクトルを持っている気がします。「世界苦」においては存在した、人類の傷そのものを我が身に受け、それでもなおかつ運命に向かって立ち向かい一歩踏み出す人間の、神にも勝る悲劇的なまでの気高さ、そういったものが、「厭世観」ではむしろ誰でも良い誰かさんのただ内側に篭ってしまっている。

もちろん、どちらが良い悪い、という話ではありません。が、何とも言えずに不思議な言葉です。種明かしをしてしまうと、これは『ホテル・ニューハンプシャー』(ジョン・アーヴィング著、中野圭二訳、新潮文庫)における、というより、アーヴィングにおけるテーマの一つなのです。

リリーの世界苦、とフランクはのちにそれを呼ぶようになった。「おれたち他の人間にも悩みはある」フランクは言う。「おれたちにも悲しみはあるが、ただの普通の悩みや苦しみだ。ところがリリーのは、本当の世界苦だよ。普通〝厭世〟と翻訳されるけど、それはまちがっている」フランクはぼくたちに講釈をした。「リリーが抱いている気持ちは、そんななまやさしいものじゃない。リリーのヴェルトシュメルツは〝世界の痛み〟みたいなもんなんだ。文字通りには〝世界〟――それがヴェルトだ――と〝痛み〟、シュメルツというのはそういうことだ。苦痛、真の痛みだよ。リリーが持っているのは、世界の痛みだ」フランクは誇らしげに言った。

同書、p.53

Weltschmerzという語の持つ本質を見事に表した文章だと思います。そんなこんなで、『人間の土地』、『悪魔と神』、『ホテル・ニューハンプシャー』はすべて名著なのでお勧めです。

[アーカイブ]異界(2008/08/04)

先日、夜に相棒と食事をしようという以外に何もすることのなかった日、とりあえず大学に行き、自転車に乗って遠出をすることにした。ぼくは自転車を大学に置いているので、自転車に乗ってどこかへ行くときには大学が基点となる。何やかやしているうちに大学へついたのが三時過ぎになってしまい、予想以上に体力の低下も著しく、結局多摩川と立川モノレールの交差地点を少し過ぎたところまで行って、しばらく川を眺めて戻ってきた。遠出どころか通常の散歩の域を出なかったけれど、まあ現状の体力を把握できたから良しとしよう。

最近はカメラと三脚だけ持って散歩に行くことが多い。ゼミのあるときは、とりあえず三脚を抱えて大学の敷地を一巡りする。そうそう面白いものがあるわけでもないけれど、農学系の大学だから自然は少しある。いまはマクロ撮影が気に入っているので、昆虫や花があるのは嬉しい。

ぼくが散歩をするときに意識するのは、ここではないどこかへ行くことだ。ぼくは一度歩いた道は記憶してしまうので、なるべく、歩いたことのない道、迷いそうな道を歩くことにしている。一方で、犬の散歩みたいに一定航路を歩む散歩もする。これはどちらかというと何かを考える、あるいは考えないための散歩で、迷う散歩は散歩のための散歩という感じ。どちらも好きだけれど、ここでは迷う方の散歩について書いてみる。

ここではないどこかへ、迷うことによって行くというのは、要するに異界へ行くということだ。けれど当然のことながら、異界というのは地図上のどこかにあって、とにかく歩きさえすれば辿りつける、というものではまったくない。そうではなく、異界は、例えばいまぼくの立っているまさにその真後ろとか、左手に見えている生垣の葉っぱの裏とか、あるいはいまぼくが歩いている道の一本隣の裏道とか、そんな何気ないところに潜んでいる。そこに行くためには、そこに行くための特殊な手続きが必要だ。それは人によって違う。

ぼくにとっては例えば迷うということであったり、カメラを持っていくということであったりする。自転車に乗るというのもそうで、さっきは距離ではないと言ったけれど、歩くくらいの早さで自転車を遠くまで漕いでいくという行為によっても異界へ辿りつける。そういった自分だけの呪文、魔術を用いて、ぼくらは異界に入り込む。ぼくはしばしば、世界と「戦う」と言う。けれどその戦いの在り方は人によって異なる。他の人の戦いはぼくの言語では表現できないし、また表現できてしまっては困る。それと同じで、ここで言っている「異界」というものもまた、誰もが持っているものだけれど、恐らくその表現の仕方はそれぞれの人によってまったく異なるだろう。とは言え、自分の持つそれに気づいている人であれば、ぼくの言っていることはきっと分かってくれるのではないだろうか。

写真を撮ることで言うのなら、ある人にとって異界に入り込む方法はふとした散歩で見たものを携帯電話のカメラで撮ることかもしれない。またある人にとっては一眼レフで厳密な計算の下に撮り、さらにそれをパソコン上で加工することかもしれない。その作業全体を時間を超えた位置から俯瞰することにより、撮る瞬間すでに異界へ入り込んでいる。

それは結局、誰もがやっていることだ。それは、ぼくら一人一人が持っている「私」というフィルターを通して世界を見て、そのフィルターを通してこの世界を感じ取り、理解し、表現する、その行為そのもののことだろう。それを通して私が私になるのであれば、異界に行くとは要するに、この世界と私の間にある断絶を超えることであり、そこに辿りつく魔法とは、つまるところ私が私になるために必要な手続きのことなのだ。

だから、要するに、異界は人の数だけ存在し、この世界の多様性を支えている。ぼくはその多様性を愛する。ぼくはぼくの見る世界をきみに伝えたい。きみの見る世界をぼくは見たい。

[アーカイブ]万歩計を買うのです(2009/02/25)

昨日は写真を撮ろうと思い、仕事帰りに八景島にかかる橋まで歩いた。ただでさえ雨も降っているし、この時間になると大通りであるにも関わらず辺りは無人になる。オレンジ色の街灯だけが煌々と濡れた路面を照らしていて、少しだけ不気味で幻想的。ちょっと逆側も撮ろうと思い、いったん橋を戻り、改めて反対側の歩道に渡ってからふたたび八景島へ向かう。

ふと気づくと、八景島の方から数人の人が傘をさして歩いてくる。他に誰も居ない雨の夜の橋の上で、静かだけれど明るい橋の向こうから傘に隠れた何者かが近づいてくるというのは、けっこう薄気味が悪い光景だ。無論、彼らは単に八景島で遊んだ帰りの人々でしかなく、向こうからすれば傘もなしに蹲って写真を撮っているぼくのほうが不気味だろう。しかたがないので、すごすごと三脚をたたんで撤収した。

不気味と言えば、その後海岸(護岸工事をされているからコンクリしかない)に出て夜の海を撮ったのだが、昨晩はずいぶんと霧が出ていて、かなり気味が悪かった。ぼくは一般的な意味での恐怖心というのはあまり感じない性質だけれども、自然は怖い。畏怖、というやつばかりは鍛錬だけでは消せないし、また消すべきものでもない。夜の海を覆う深い靄は、それだけで恐ろしい。そんなとき、父にもっと海の話を聞いても良かったな、とふと思ったりする。きっとぼくの知らない、想像もしない世界を彼は見ていたのだろう。

ちょっとしんみりしてしまった。明るい話。恐怖心に関して言うとぼくは昔高所恐怖症で、だいたい地面より1メートルくらい高いところに登るともう怖かった。小学校のころだと、しばしば壁を攀じ登って遊んだりした経験がみなさんの多くにもあると思う。負けん気が強かったぼくも、よじよじと壁に張りついて登っていた。でも途中で「あ、俺高いところにいる」と気づいてしまうともうだめで、夏の終わりの蝉のように必死に壁に張りついたまま身動きできなくなり、最後にぽとりと落ちた。

けれど大学時代、相棒と知り合って高所恐怖症など吹き飛んだ。彼女は何しろ高いところが平気で、ちょっと信じられないようなところを平気で歩いたりする。それ道じゃなくて縁じゃん! とかぼくは内心叫ぶのだが、叫んだ衝撃で彼女が落ちるとまずいのでじっとこらえる。で、彼女が落ちたら自分も一緒に落ちて、少なくとも抱きかかえて自分が下になれば彼女だけは助かるだろうと思って、必死に(本当に必死になって)へっぴり腰で相棒の後ろについていった。これよく考えると、バランス感覚の悪いぼくが落ちる可能性のほうがよほど高いですね。まあでもそんなこんなで、いつの間にか高所恐怖症は克服していた。「ヤッチマイナー!」と白目を剥いて絶叫するのっぽさんのどアップで始まる「できるもんならやってみな?」で育った世代であるぼくにとってできないことなどこの世に何もない。あるいはまた、愛はすべてを乗り越えると言えば格好が良いかもしれないけれど、要するにこれは、猫を好きになってしまった犬の悲喜劇でしかないのかもしれない。

しまった、そんな話をしたいのではなくて、万歩計の話をしたかったのです。ぼくは散歩が趣味で、まあ純粋に歩くだけでも楽しいけれど、憂鬱なことや考えなければならないことがあるときも歩く。歩いていると頭がクリアになっていく気がする。最近は楽しいから歩くし、考えるべきことも山ほどあってやはり歩く。そんなこんなでうろうろ歩いているのですが、ちょっと歩数を計りたくなりました。

そしてぼくは歩数を数えるのも趣味でして(なんと寂しい子だ)、駅から家までとかあちこちの階段とか、そういった数を数える。数を数えるのチョー楽しい! 修士時代は研究室が15階にあって、ぼくは階段で上っていたのだけれどその段数はいまでも覚えている。階段を使う人なんてほとんどいないから、数えるのに飽きたらごっこ遊びもできる。犯人を追っかける刑事ごっことか、ゾンビに追われる一般市民ごっことか。何かこう書くと本当に寂しい子だ。

それはともかく、外を歩き回ると言ったときにぼくがまず思い浮かべるのは昔プレイステーションであった「太陽のしっぽ」というゲームだ。原始人になって、ひたすら狩をしたり海に潜ったりお菓子を拾ったり木を倒したり突然寝たりしながら大地を闊歩する。そういえば演技と呼ばれるもの全体が苦手なぼくですが、ひとつだけ得意だと思っていることがあって、太陽のしっぽで原始人が動物に襲われるときに上げる「うっ! うっ!」という呻き声、正直言ってぼく以上にこの真似がうまい人間はこの地球には存在しない。迫真の演技。でも誰にも伝わらないのがちょっと寂しい。

歩くことに話を戻せば、最近歩く距離が増えているし、ちょっと思いついたのだけれど、その歩数を記録してグラフ化したら、自分の精神状態を表す何らかのバロメータになるのではないだろうか。それに相棒も少し前に万歩計が欲しいとか言っていた気がする。だからきょうは仕事帰りにヨドバシか無印で万歩計を購入します。この二日間写真ばかりアップしていたのでぼくの内なる「字を書かせろお化け」が字を書かせろと泣き叫んでいましたが、さて書かせてみればこんな結果。無念と落胆を抱えたまま仕事に戻ります。それではみなさん、さようなら。

[アーカイブ]シグナル・コミュニケーション(2009/04/13)

きょうは今年度初ゼミでして、ゼミのあとに打ち上げがあったのですが、精神的に疲れきってしまったので参加は取りやめました。けれども相棒と落ち合って夕食を食べ、そのあとのんびり大学へ戻ってきて、少し復活。というわけで、きょうはひさしぶりに、かどうかは分りませんが、怪しい話をします。たまにこういう怪しげな話をしておかないと、何となく、ぼくが常識人で優しい人間だと思われてしまうのではないかという強迫観念があるのです。いや実際のぼくは極めて常識人で心優しい人間ですけれども。

何かこう、導入部分っていうかイントロの話をしようと思ったのですが、やっぱり疲れているのでいきなり本題に入ります。

人間っていうのはですね(いきなり大上段に構えました)、ただ何気なく突っ立っているだけでも、大量のシグナルを発しているんですね。っていうか垂れ流している。っていうかもうこれは噴出している。どばーっ!! みたいに。そうして、ぼくはこのシグナルを、けっこう気にしてしまうのです。そのひとが意識していようがいまいが、シグナルはまず嘘をつかない。このレベルで嘘をつける人間ってそうはいません。シグナルって言うとちょっとぴんと来ないかもしれませんが、要するに、そのひとのちょっとした仕草や言葉遣い、表情などですね。これぼくが勝手にそう名づけているだけです。

そうだなあ、例えばですね、雨が降りそうか降った後かの場合を考えましょう。多くのひとが傘を手にして歩いていますよね。で、そういうときに傘の先端を、手の振りに合わせて後に突き出すようにしながら歩くひとって結構多いですよね。あれもひとつのシグナルです。そうして当然、傘を持っている手を動かさないで、先端をまっすぐ下に向けたまま歩くのもシグナル。ささやかなことなんだけれど、その一点でそのひとの魂の全体像(魂っていうのは途轍もない情報量を持っているものですから、当然その全体像も巨大なものになるのですが)が露わになってしまう。これ、言葉で言うと、「ああ、こいつは後に子供が走りこんできた場合でも、平気で眼を突き刺すつもりでいるか、そんなことにさえ想像力が働かないのか、あるいはそんなことを注意してくれる友人のひとりさえ持たなかったのか、あるいはそのすべてか」と判断されるという、ただそれだけの話になってしまうのですが、しかしそうではない。もっと大変で恐ろしい話です。そのひとの生きてきた、生きるであろうすべての一瞬一瞬が、傘の持ち方のひとつに焦点を結んで、ぼくらの目にはっきりとその真の姿を明かしてしまっている。

そうして、そういったシグナルを、ぼくらは毎瞬毎瞬、無数に発している。視線や声の出し方や笑い方、ひととすれ違うときの重心の移動、相手に返答するときのミリ秒オーダーでのタイミングのずれ、そういったあらゆるものが、ぼくらの真の姿をまわりに伝えるシグナルになっている。

それは自分の魂の在り方を開示しているだけでなく、互いにシグナルを発し、かつ受け取ることにより、そこではコミュニケーションも行われています。そのシグナルに対する鋭敏さもまた、シグナルに反応するというシグナルを通して見ることができる。もちろん、繰り返しますがこのシグナルの用法というのはぼくの勝手なもので、他のひとからするとまた別の言い方、感じ方をしているでしょう。けれども世界の中で自己を位置づけることに意識的である人間なら、自然に行っているはずのことだとぼくは思っています。ですから、それに対して敏感である者同士であれば、その表現が異なっていても互いのシグナルを翻訳し、理解することができる。

ぼくがいま通っている地域は自転車のマナーが極めて悪くて、まあこれはいまの時代どこの地域でも同じかもしれませんが、「夜に」「無灯火で」「ヘッドフォンで音楽を聴きつつ」「携帯を眺めつつ」「ノーブレーキで」カーブを曲がってくる連中が非常に多い。こういうひとたちは、もう無茶苦茶シグナルを垂れ流しまくっているんですね。目も眩まんばかりに。けれども他人のシグナルを受信することに関しては完全に能力が欠如しています。これは驚くべきことですし、本当に恐怖です。世界に溢れるシグナルをすべて弾き返し、ただひたすら己しか存在しない、ある種原色的なシグナルを暴力的に放出し続けている。

少なくともぼくは、世界に溢れるシグナルをきちんと受信したいし、確かに受け取っているよ、あなたがそこにいることにぼくは気づいているよというシグナルを、世界に対して送信していたい。それは当たり前だけれど、社会のルールを守ろうとかそんな下らない話ではなくて、無限のシグナルに溢れる世界の中で、己が己であり、確かに己という唯一無二の装置を通してシグナルの情報処理をしているという確信を得るための戦いなんです。ただ単に、他者のことなど知ったことではないと、あるいはそもそも知るだけの想像力すら持たないが故なのか、己のシグナルを吐き出し続ける、それが自分が自分であることだなどと勘違いしている人間を見ると、ぼくは本当にうんざりするのです。

そんなこんなで、きょうはちょっと疲れてしまいました。大学に、ひさしぶりにひとが溢れていたからかな。けれども、相棒とふたりで、彼女との間に穏やかなシグナルの交流があるのを感じながら歩いていると、少しだけ元気が戻ってくるのです。自分を調律し直す感じと言ったら良いでしょうか。疲れていると気がつかないのですが、そういうときって、ぼく自身が世界のシグナルに対して目を閉じてしまっているのです。そう、シグナルっていうのは、何も人間だけが発しているものではなくて、存在するすべてのものが発してるんです。道端の石ころだって百万光年先の恒星だって。相棒とのんびり歩いているうちに、無数のシグナルがまた目に入ってきて、草や木や虫や街灯や壁の傷や窓の明りや星の光が発する無音の声に、ぼくはほっとするのです。

コミュニケーションなんて簡単なんだけれど、でも本当は、なかなか難しくて、けれどもやっぱり、とてもシンプルなことなんですよね。

[アーカイブ]何かを考えるときに留意する三つのポイント(2009/03/23)

これは博士課程に進んだばっかりのころの投稿です。いま見ると青臭い気もしますが、でも、愛がなくちゃ研究できないよね、というのはいまでも正しいと思っています。あと、途中で挙げている『ラディカル・オーラル・ヒストリー』については こちらのノートの記事 で紹介しているので、良かったらお読みください。本当に良い本です。

ぼくはいま環境思想系の研究室に所属していまして、最近は共生倫理にかなり重点を置いているのですが、まあ基本的な関心は変わりません。共生倫理って言ってもやっていることは凄く単純で、「みんなで仲良く暮らすにはどうしたら良いの?」っていうことを考えるわけです。その上で、中心テーマは環境思想ですから、その「みんな」の中に動物や植物や自然そのもの、もっと言ってしまえば何十万光年彼方の星とか、そういったものをどうやって組み込んでいけるかな、ということも考えています。

で、そういったことをうだうだ考えるときに、いつも気をつけていることが三つあります。きょうはそのことについて簡単に書いてみます。

第一は「正当性の問題」。一時期「クレオール性」や「ブリコラージュ」とか流行りましたよね。けれども安易にそんなことを言ってしまうとちょっとまずい。植民地支配の下で苦しんできた人びとに対して、ぼくらはやはりどうしても先進国側の立場から物事を見てしまっている。でもってそのぼくらが、例えばそういった文化的支配を受けた人びとを見て、彼ら/彼女らが支配者側の文化を積極的に受容して、自分たちの文化を変容させながらもしたたかに生き延びてきた面もあるんだよ、と、そう語るとします。それは確かにそういった面もあるかもしれないし、また単に彼ら/彼女らを弱者として語ってきた(それは結局コロニアルな見方と表裏一体です)世界観に対するアンチテーゼとしては有効だったかもしれない。でも、ぼくらがどういった立場からそれを語るのかということに対する十分な批判的内省を伴わないのであれば、それは「現実と遊離した「弱者」のロマン化やファンタジー化へとつながっていく危険性」(『現代アフリカの社会変動』、宮本正興編、人文書院)を持ってしまうでしょう。あるいはまた、先進国に住むぼくらが環境保護を訴えるときに、一昔前の世界とか途上国とかあるいは田舎の生活をある種の理想像として持ち出してくる。もちろんそこまで単純な主張はそうそう見ませんが、結局本質的にはそうじゃない? みたいな論文っていうのはいまだに結構あるんです。けれども、じゃあ途上国に残されている自然と調和する生活とか、それを生かすような先住民の知恵とか、それは言説としては何か格好良いし、正しいことを言っているっぽいけれど、でも彼ら/彼女らの中にだって、自然なんかぶっ壊してクーラーが欲しいとか、そう思っている人はたくさんいるはずですよね。で、そういった人びとに対して、じゃあぼくらはどんな立場から環境保護を語るのか、彼ら/彼女らにそれを強要する権利があるのか、いやそもそも語る権利があるのか、ということに注意しなければならない。そうしてもちろん、ここでぼくは気軽に「彼ら/彼女ら」とか「ぼくら」とか言っていますが、それも危ないですよね。それっていったい誰なんでしょう。「きみ」について「きみ」が語るのと、「きみ」について「私」が語るのとを同列に論じることもできません。要は何かを語る際に、「誰が」「誰に対して」語るのか、つまり語る位置の問題に鋭敏でなければ、それは言説の暴力になってしまうということです。これについては『ラディカル・オーラル・ヒストリー』っていう素晴らしい本があって、これはとても読みやすいですから、皆さんにもぜひお勧めしたい。時間ができたらレビューしようと思っていますけれども。本当に良い本です。

第二には、「実効性の問題」。どんなに立派なことを言ったって、それが現実に可能でなければ意味がないですよね。もちろん理想を提示するっていうのは大事だけれど、それだけで終わることに対して無批判的であってはならない。例えばどこかの国で行われている虐殺とか、あるいは紛争を直ちに止めよ! と、そう主張したとします。それが仮に「正当性の問題」をクリアしていたとしても(とは言え、ぼく自身あらゆる暴力に反対する立場にいますが、しかし具体的な個々の事例に対して、ある主張が完全に正当かどうかというのは意外に難しい問題です)、では「戦争反対」を叫ぶその主張がどこまで実効性を伴っているのか。伴っていないことに対して無批判であるのなら、それは単に自己満足に過ぎません。ちょっと念を押しますが、そういった主張自体を批判しているのではないです。立派なことだと思います。ただ、それが単に人間の善性とかに期待するだけで終わるのではなくて、この現実社会に対して何らかの働きかけをし得るその保証を、ぼくらは全力で求めなければならないと、少なくともぼくは思っているということです。だから何かの主張があったとき、それって本当に世界を変えられるの? という点をぼくは考えます。それに対して「いや、みんなで力を合わせれば〜云々」などという返事が返ってくるのであれば、個人的にはちょっとな、となります。みんなって誰だよ、何故、どのようにそれをみんなに共有させられるんだよ、と、結局正当性と実効性の問題をクリアできなくなってしまう。もちろんそれが悪いとは思わないし、個人の信条としては素晴らしいと思うけれど、論になっていない。でもじゃあ実効性があるなら良いのかって言えば、もちろんそんなことはない。排出権取引なんて見ると、あれは確かにビジネスですから、実効性はあるかもしれない。でも正当かどうかって訊かれたら、ぼくは凄く疑問だなあなどと思ってしまうのです。ぼく自身、修士時代は環境経済学をやっていて、ゲーム論で環境保全をみたいな論文書いていましたからあんまり言えないんですけれど、でもだからこそ、あれはやっぱり(倫理的な)正当性はないよなあ、と感じるのです。要は経済活動でしょ、と。その結果環境保全が出来たとしても、じゃあ逆の方向性でお金儲けができるならみんなそっちへ行くだけじゃないですか。

だから、この「正当性の問題」と「実効性の問題」の双方をクリアするような、まあクリアできなくても、少なくともそれを意識して論文を書かないといけないなあ、と個人的には感じています。これは実際はぜんぜん難しいことではなくて、要は何かを書いたり考えたりしたときに、「お前が言うな!」とか「口先だけかよ!」と、自分自身に突っ込みを入れることを忘れないようにしないとね、ということです。

で、最後の第三ですけれども、これはいちばん簡単で同時にいちばん難しいのですが、愛がなくちゃね、ということです。これはとても大切で、研究者としての情熱は凄くあるという人でも、その対象に対する愛がぜんぜんない場合がしばしばあります。もちろん、研究に対する情熱さえなかったら論外です。けれど何よりも、そもそも「対象」なんて線引きすら乗り越える、あらゆる存在に対する愛がないのだったら、そもそもぼくらは研究などするべきではないし、できないと思います。研究っていうのはあくまで手段であって、目的ではない。目的は愛です。そうでないのなら、そりゃテロリストの論理ですよ(テロリストという言葉も難しいですが)。ただ、じゃあその愛って何なのさというとこれはこれでまた難しくて、少なくともそれは「愛してるー!」みたいな甘っちょろいことを指しているのではない。でも愛っていうものを定義しようとすると、必要条件ばかり出てくるんですね。十分条件はまったく見えない。いやこれは見えてしまったら問題で、「こうこうすれば愛だよ」なんて言われたら、それは人間に対する重大な冒涜だとぼくは思う。俺の魂をマニュアル化するな! みたいな。だからいつだって手探りですけれど、でも本能的には分かっている。それを信じて、いつも忘れないようにしないといけないなあと思っています。

当然ですが、これは一般的に言えることではまったくなくて、単にぼくが自分の論文を書くときに、そうでなくても何かを考えるときにいつも気をつけるようにしていることに過ぎません。極端なことは間違いない。けれどもまあ、ぼくは結構、自分のこういうスタンスを気に入っているのです。