GWですけれども特に何もなくて、いえ何もないとか言っている場合ではなくて、仕事も原稿も山積みです。断続的に耳が聞こえにくくなったり元に戻ったり、けれども、いつも通りといえばいつも通り。最近は息抜きに近所を歩くときにはカメラを持ち歩くようにしています。何だか変質者みたいだな。でもぼくは人間を撮ることはできないので、いやそもそも人間を撮ることのできるひとって凄いですよね。ぼくは怖くて怖くてだめです。だから、ということではなくてそもそも葉っぱとか昆虫とか雲とか水とかそういうものが好きだから人間なんて撮れなくたって痛くも痒くもありません。だけれどももう蚊が出てきていて地面を這っている虫なんかを撮っていると蚊に刺されて痒い。散歩はたいてい近所のぞうきりん、いまこれ変換できなくて初めて知ったのですが、「ぞうきばやし」というのですね。凄いなあ、半世紀生きてきて、しかもその前半生は裏山を走り回って田んぼを転げまわって、いや田んぼは転がらないけれども、夏の夜になると町中がウシガエルの鳴き声で揺れるようなところで育って、しかもキャベツと白菜の違いも分からないのに「農学博士ですフヒヒ」とか言いつつ、ぞうきばやし、いま初めて知りましたよ。いやまてよ、数年前にもぞうきばやしで衝撃を受けた記憶がぼんやりあるぞ……。まあいいや、とにかく痒いです。でも昆虫やら葉っぱを撮っているときは幸せ。
ぼくは普段NEX-5Rか、旅行のときはRX-100M、これどっちも凄く良いカメラですけれども、それを使っています。でもやっぱり「写真」を撮るときはα700。昔中野の中古カメラ屋さんで買ったのですが、ほんとうに良いカメラです。さすがに何十年プログラマとして生きてきたので、コンピュータはメディアとしては限りなく透明になっていきます。特に気に入ったマシンであれば、向かい合うのはロジックでハードウェアではない。気に入らないマシンだともうぜんぜんダメですけれども。そして、同じくらい透明になる道具といえば、あとはカメラだけです。そういった意味ではα700みたいにファインダーを覗いて撮るというスタイルは絶対で、これがないとカメラを身体と一体化して扱えません。いや別に偉そうな話ではなくて、ただの素人の感覚のお話しです。第一、それをいったらプログラマとしてだってぼくはせいぜい2.5流といったところですし。でも、モニタを見ながらとか、あるいはいったんチップを通して補正された映像を観ながらとか、そういった形だと、ぼくにとってはどうしてもメディアは透明になりません。そもそも自分の目の位置と異なる位置にレンズがあるとそれだけでかなり「意識して撮る記録」になってしまいます。それはそれで意味はあるし面白いけれど。
ともかく、目とレンズの位置、撮影主体のお話なんていつかきちんと書きたいですね。そういえばこの前泣く泣くスマートフォンを買い替えたのですが、試しに写真を撮ってみたら補正がものすごくて、いやあこれは凄いけれど写真ではないわねと感じました。否定しているとかではなくて、時代は変わっていくねえ、ということ。
そんなこんなで最近はまた写真を撮るようになっています。でもってblueskyにアップする。昨日はクモの写真を撮って、自分としてはすごくクモの格好良さや可愛らしさ、一生懸命さだったりぼんやりさだったりが写せた気がしてblueskyにあっぷするでぇ! と思ったのですが、クモって苦手な方も多いですよね。ぼくも昔は多くの昆虫が苦手で、というよりも恐怖の対象で、蛾とかを見てしまうと腰を抜かしながら数十メートル這って逃げて、数日間は精神的に不調になって、動悸、息切れ、眩暈、救心! となっていましたが、いまこの年になると何もかもみな懐かしい。蛾も可愛い。人間って変わるものです。でもいまでもあのアレ、カタツムリから殻が取れた(取れたわけではないが)アレはダメで、カフェインを撒くと逃げると聞いて庭に撒いています。信条としては「できる範囲では不殺」ですので、殺す系の薬剤は使いません。なので、近所でコーヒーの粉などを安売りしているのを発見したら買ってきて、庭に防衛ラインを引く。粉を撒いているところをご近所さんに見られたら「いやね、コーヒー農家を始めようと思いまして(笑)」などと言いながら粉を撒く。「こっから生えるんですよ(笑)。生命って凄いですね(笑)」。何だか変質者みたいだ。だけれども何しろ農学博士です。ぼくはコーヒーについては詳しいんだ。
そうそう、クモの写真です。突然それが出てきたら嫌なひとに悪いので、せめてワンクリック挟んで写真が出るようにしようと思いました。でも、よく分からないのですが、どうも成人向け画像指定にしないとそういうのってできないようなのです。それで仕方なく「この写真は成人向けです。よろしいですか?」みたいな感じで指定しておきました。うーむ。クモだってびっくりですよ……。ぼくだってびっくりです。観る人だってびっくりです。何の意味があるんだ?
とにもかくにも写真のお話。やっぱり、そういう時間がある、というか無理やり作るのですが、それは必要ですよね。カメラを持って土のあるところに行くのは数少ない喜びです。あとは庭をぼんやり眺めているくらいしか趣味がない。庭といえばいまは庭を5分くらい眺めると必ずトカゲが見つかります。トカゲ天国。みんな一生懸命生きていて、そんならぼくももう少し一生懸命生きようかしら、という気持ちになります。でもよくよく見ているとトカゲもけっこうぼんやりしていることが多くて、小さな木から落ちたりしている。それならぼくもぼんやり生きるかしら、という気持ちにもなります。というか、たいていぼんやりしています。
ああでも、本は読んでいます。最近ではバトラーの『この世界はどんな世界か?』を読みました。やっぱりバトラーは素晴らしいですね。いろいろ、具体的なところでは同意できない点もありますが、それはアメリカと日本の状況が異なるからというのもあるし、そんなことはさておき、何のために考えるのか、どのように考えるのか、それをどのように言葉にするのかという点において、バトラーは変わらずぼくにとってもっとも尊敬できる哲学者です。今回も、まずはざっと読むかと思いながら職場への行き帰りで読んで、凄く良い箇所を見つけたのです。でも、帰ってきてから数日たってその場所を忘れてしまった。なので、きょうは原稿を書きながらゆっくりその場所を再発見しようかと思っています。そんな感じのGW。仕事も何も終わらないのですが、とにもかくにも(ぼんやり、というよりもはや放心しながら庭を眺めることも含めて)何かをやり続ければ、あとから振り返っても良い日々だったと思えるでしょう。
そんな感じです。あとはそうですね、例によって眠るたびに地獄の夢を見ています。いわゆるそのままの意味での地獄の夢の場合もあるし、わあ地獄っぽいなあという状況の夢の場合もあります。昨晩は自分がちょっと中途半端な生首状態で、首の部分がやけに長くて、その切断面というのでしょうか、そこから少しずつ腐敗していく夢を見ました。目が覚めると、何だかやっぱり疲れます。諸々分析はできますが、それはぜんぶ戯言で、ほんとうの意味はぜんぜん別のところにある。まあでも、生きているものをぼんやり見ていると、心も和みます。例によって、そんなGWを過ごしています。