結局今回も3週間近く体調を崩していました。熱もなく、ただ咳き込むだけなのですが、夜中や明け方に目が覚めてしまうことが続き体力も削られます。ようやくほぼ復調しましたが、それにしても今年に入ってから1/3は病を得ている状態です。にんともかんとも。体調が悪いときにはお風呂に入り自分を茹で上げます。免疫力を高めるんや! などと既に手遅れ感の漂ううわごとを呟きつつ、実際には悪魔祓いの儀式のようです。しかしほぼ全身が悪魔であるぼくなので――といっても安いトランプに印刷された虫歯菌的ジョーカーのようなものですが――その儀式も結局は自分を風呂から追い立てるだけで終わります。そして体調はさらに悪化しています。
けれども悪いことばかりではなく、睡眠時間が削られた分、仕事でやばい状況のプログラミングに時間をかけることができました。いやまだやばい状況の真っ最中ですが。寝ても覚めてもプログラム。ちょっと原稿もまずいのだけれども、とにもかくにも仕事を終わらせなければなりません。ようやくここ数日で今回のプログラムの全体像を頭のなかに組み込めて、ここまで来ればあとは夢の中でも考えることはできるので少しほっとしています。あと、今回は一から作っているので、そういった意味でも楽しい。他人のプログラムのメンテナンスは、センスが違いすぎて気持ちが萎えることが多いのです。傲岸不遜で唯我独尊。
何だかんだ言って、まあプログラミングは好きです。というかこれしかできません。昔、大学中退後にソフトウェアの会社に入って、延々プログラミングをしていました。っていうかもうほんとうに延々です。当時は残業代とかばんばん出ましたし、ある時期の収入は凄かった。寿命の減り具合も凄かった。命と賃金の等価交換。いや不等価交換です。そのあと大学に入り直して、博士課程に進んで(在籍していた研究室のつきあい的に)唯物論系の学会に入ったりして、そこで語られる「労働」とかにあまりリアリティを感じられなかったのは、あのときの経験があったからだと思うし、それは結構良かったと思っています。アカデミズムに染まらないで済んだという意味で。
あ、でも、とはいえ、会社にだって馴染めなかったわけです。だいたいこの男、どこかに馴染めるなんてことはあり得ない。どこにでも溶け込むほど無個性ですが、どこからでも弾かれるほどには社会性がない。で、仕事でプログラミング漬けの日々を送るうちに、もっと知りたくなるわけです、プログラミングについて。仕事的な意味での知識や経験ならそこで身につけられるけれど、どうもそうではないぞ、と思ってしまった。自然言語に立ち戻って考え直さなければならぬ、みたいな。なのでそういったことを学べるお手軽な大学を探してそこに行きました。ほんとうにラッキーだったことに、当時の上司に当たるひとが良い意味で変わった人で、プログラム言語でだって詩を書けるぜ、ということを良く言っていました。だからぼくが大学に入り直して言語の根本から勉強し直したいっす、と伝えたら(そのときも仕事はぎゅうぎゅうだったのに)快く送り出してくれて、ほんとうにありがたかったです。
ともあれそれで学部からやり直してヘブライ語とかを勉強して、中近東文化センターとかに行って土器を見て書いてある文字が「読める、読めるぞ!」とか独りで喜んだりしていたのですが、そこで9.11が起きます。そしてイスラム教対キリスト教みたいな、あまりに浅薄で恐ろしい論調が世を覆いつくすのを目の当たりにしてしまう。ハンチントン的な阿呆な議論がまたぞろ幅を利かせてくるわけですね。そうじゃないだろう、ということから宗教論、宗教多元論、多元論と進んでいって、そんなことをしながら自分自身で腑に落ちたのは、自分が興味を持っているのは「共有するものがないものたちの間で交わされるコミュニケーション」についてなのだということでした。結局、これなんです。ぼくの根本にある強迫観念って。
コミュニケーションって、もしそれが可能なら、つまり共有するものがあるのなら、もうそれ以上問う必要はないんです。極めて乱暴に言ってしまえば。いやもちろん現実的にはそんなことはないですよ、もちろん。そこには血の滲む努力と無駄に終わる死が大量にある。でも原理的には答えは分かりきっている。そして逆に、もし共有するものがないのだからコミュニケーションもないというのなら、これまたこれ以上問うことはない。残念ながらいまの日本の、あるいは世界の状況はこれが凄く強いですよね。でも、というかだから、問う意味が生じるのは、問うことの力が生じるのは、共有するものがないにもかかわらず、それでもなお生じるコミュニケーションについてになるし、またそれ以外に真の意味でのコミュニケーションなんてないんです。ぼくはそう思います。
だから、ぼくのなかにある、機械やロジックとコミュニケートすること、石を眺めて一日ぼーっとしていること、死者との対話、過去の本との対話、何十年かかけて最近は和らいできましたが、神に対するもはやこれ信仰なんじゃないのかなとさえ思ってしまうような異様な憎悪、外に出て人間を見ることに対する極端な恐怖心、などなど、ばらばらなそれらの根本にある統一理論のようなもの、それがこの、共有するもののない他者とのコミュニケーションになります。何を言っているのか良く分かりませんね。ぼく自身良く分からない。ただ突き動かされているだけです。そしてそれで良いんです。シリアスな話ですが、でもやっている本人はシリアスとか思っていない。探求するのが楽しくないのなら、やめればいいんだから。だから毎日けらけら笑っています。「雲が・・・在る・・・! トカゲが・・・居る・・・! プログラムが・・・分かる・・・!」みたいな。いえ、もちろん何も分からないですけどね。
あれ、例によって最初に書こうと思ったことと全然違う内容になってしまった。もともとはシーレの絵について書きたくて、徹底して自己を冷たく深く凝視し続けたその最終地点としてシーレの絵は立ちあがってくるのですが、そこから特殊を通じて普遍へ、のお話につなげて、云々、みたいな。ぼくは自己愛を激烈に憎んでいますけれども、いますけれどもって突然言葉遣いがあれですけれども、突き詰めて突き詰めてそこに穴が空いて、突然果てのない空白のなかに転がり込んでしまって、そこまで行かなければ、ぼくらは誰も語る価値のあるもの、見る価値のあるものなんて作れません。いや価値なんてどうでもいい、作ることも見ることもできない。と、そんなことを書こうと思っていたのです。でも何か暗いですね。にやにやしているのに、いつでも目つきが陰惨だ。そんな変質者が、そう、私です。