剰余メモ

下品な言葉というものがあって、そもそも「下品」という言葉自体がそれが指し示すものになってしまっているので――何かを「下品である」と断じられるだけの、ある種苛烈でさえある美意識を持ったひと自体が絶滅寸前な時代ですので――困るのですが、けれどやはり、少なくともぼくはそういった言葉を使いたくはないのです。ただ、それはとても難しい。ある特定の単語がそうであるのなら、それを避ければ良い。しかしどうやらそうでもなさそうなのです。ぼくのように倫理を外付けしている人間にとっては、ある特定の単語を辞書登録してしまえば良いというのは分かりやすく扱いやすい考えで助かります。そして確かにそういったものもあるのかもしれない。例えば……、といってもそれをここに書くことはできません。そのくらい、そういった言葉を使うのは嫌ですし、読むのも嫌なのです。ぼくらに与えられた時間は有限で、その時間内に読めないほど多くの素晴らしい、美しい言葉があるのだから。

それはそれとしてなぜ突然そんなことを言い出したかといえば、ひさしぶりに『方舟さくら丸』を読んだのです。言うまでもなく現代文学の最高峰。そのラストシーンはほんとうに美しい。ひたすら地下世界の描写が続き、しかも主人公はとある理由で身動きさえできなくなり、という状況が続いたその最後に地上に戻ってくる。そしてすべてが透明になり……。そこで次のような描写があります。

ひさしぶりに透明な日差しが、街を赤く染めあげている。北から魚河岸にむかう自転車の流れと、南から駅に向う通勤の急ぎ足とが交錯して、すでにかなりの賑わいだ。《活魚》の印のトラックが小旗をなびかせていた。旗には「人の命より 魚の命」と書いてある。別のトラックが信号待ちをしていた。その荷台には「俺が散って 桜が咲くころ 恋も咲くだろう」と書かれていた。

安部公房『方舟さくら丸』新潮文庫、1990年、p.374

このラストシーンはぼくにとっては衝撃でした。ぼくには絶対に書けない下品の典型であるような言葉、「俺が散って」、「桜」、「恋も咲く」、耐え難いほど醜悪です。ちょっとこれは個人的な感覚の問題なので伝わらないかもしれませんし、それで構いません。皆さんにとってもそういう言葉ってあると思いますので、それで置き換えていただければ。ぼくの場合は、こういった何とも言えずにべちゃべちゃしたマチスモって、本当に嫌悪しているのです。暴力的で小児的。ぼくの感覚のほうが病的かもしれませんし、それはどうでもいいのです。あくまでぼくにとってはそうだというだけのこと。

だけれどもこの種のマチスモが絶対悪であるというのは、ぼく自身にとってはけっこう本質的で根本的な問題ではあります。数年前、千葉だかどこかの漁港に行った折にその近くの海産物店でビデオが流れていました。延々、「マグロマグロマグロ……」と唱えつつ、その合間に(もう忘れてしまいましたが)「俺たち男が命を懸けて」とか「家族のために」とか「男の絆が」とか、まあぜんぜん違うかもしれないけれどもそんな内容の戯言が語りで挿入される。端的に地獄です。あすほう。

ところが、そういった言葉が使われつつ、『方舟……』のラストシーンは途轍もなく、恐ろしいまでに澄んでいて、希望はなく、絶望もなく、ただただ静かで美しい。それが物語の力です。世界のなかにはあらゆるものごとが存在するけれど、描かれたその世界全体は確かに美として在る。そしてそこに書かれたすべての言葉は(有限の言葉で無限の世界を創りだす以上)不可欠の要素で、だから「俺が散って」などという唾棄すべきナルシズムでさえ、いやだからこそ、このラストシーンにおいて忘れられない情景として残り続けます。

安部公房は『死に急ぐ鯨たち』で次のように言っています。

とにかく、小説の発想には原則として、スーパーに買い物に行って帰ってくるまでの間に使わない言葉は使わないように心掛けているんだ。夢の言葉ってそんな感じだろ。

安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p.149

確かに彼はそのようにしていて、それでもなお唯一無二の作家として在る。これは途轍もないことです。虚仮威しであったり、衒学的に難しい言葉を使うだけの、例えば生田耕作が言っている文脈とはちょっと違いますが「知的スノッブの糞詰り文章」(「翻訳家の素顔」)のようなもの、それは論外ですし、かといって単に垂れ流される何の力もない陳腐な言葉でもない。そんなところから世界を創る力は生まれようがない。

たまたまとある紙面で安部公房評を読みました。内容はまあ無難なものですが、評者の自己紹介欄に「インスタフォローを!」などと書いてある。『死に急ぐ鯨たち』を論評したそばからこれでは読むほうが混乱します。高等な冗談であれば救いもありますが、あるのはただ凡庸な醜悪さのみ。

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安部公房、『砂の女』、『方舟さくら丸』、小説ではないですが『死に急ぐ鯨たち』と『砂漠の思想』(これは講談社文芸文庫)、うーん、どれも素晴らしいですが、ぼくは『箱男』と『カンガルー・ノート』がもっとも好きです。特に『カンガルー・ノート』は最後の長編ということを除いても強く記憶に残り続ける作品です。新潮文庫の解説はドナルド・キーン。『反劇的人間』(これは中公文庫)における二人の対談はとても興味深いし、互いに尊敬し理解しあっている雰囲気があります。けれども『カンガルー・ノート』の解説だけは納得がいきません。ここでドナルド・キーンは次のように書いています。

[出版当時はカンガルー・ノートを読みながら何回も吹き出したけれども]ところが、二年ぶりで読み直すと、余り笑わなかった。滑稽な場面は相変わらず滑稽だが、初めて読んだ時認めたくなかったテーマは今度無視できなかった。安部さんは亡くなった。何年も前から死と戦い、この小説で死を嘲笑して、死の無意義を暗示したが、勝負は死の勝利に終わった。

安部公房『カンガルー・ノート』新潮文庫、1995年、p.215

しかし『カンガルー・ノート』において安部公房は決して「死を嘲笑」もしていないし、「死の無意義」さも暗示していないのではないかとぼくは思います。むしろそこでは、人間としての限界を超えて(不可能なものを不可能として描くという意味で)「死について描写することの無意義さ」が描写されているのではないでしょうか。おそらく、最後の一行に至るまでに書かれているのは、これまで人類が繰り返し語ってきた「死」についての物語の、ある種の……この言い方は適切ではないかもしれませんがパロディであり、確かにそこには滑稽な場面が多々ある。でもその最後の最後に、本当の最後の一行にあるのは(小説としての最後には「砂の女」のラストと同様に新聞記事の抜粋が置かれているのですが)、「怖かった。」ただこの一行です。ドナルド・キーンは、この一行を、安部公房のすべての作品の最後の最後に置かれたこの一行を、どのように読んだのでしょうか。とはいえこれは批判ではなく、恐らくですが安部公房とドナルド・キーンの関係性、そしてドナルド・キーン自身の死生観の表れでもあるのでしょうが……。解説としてはいま改めて読むと面白いです。

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いえ、いま本当に、仕事のプログラミングと、あと単著の原稿をいっしょうけんめい書いているのですが、そうするとそこからはみ出したりずれたりした思考もどんどん出てきて、大半はあっという間に記憶から抜け落ちていきますが、感じたことを残しておくと意外なところで芽が出て育ったりもします。そんなこんなでその種を残すためにブログの更新頻度が上がっています。でも本当に原稿書いているんです。嘘じゃないんです。次はエドモンド・ハミルトンの『反対進化』とフレデリック・ブラウンの『さあ、気ちがいになりなさい』について書く予定です。いやこれも原稿と関係しているんです。嘘じゃないんです……。