もうほんとうにこのブログ書く内容が数パターンしかないような気がするのですが、例によって頭痛が激しすぎて体調を崩しています。骨組みだけは頑丈なのですが、肝心のソフトウェアが使い物にならない。でも使い物にならないソフトを何とか動かすというのも、魂のゲームとしては面白いものです。
そんなこんなで唐突に本題ですが、ぼくはヨブ記が好きでして、これがぼくの人生の根幹をなしているといっても過言ではありませんこともありません。まあ過言1/2くらいか。とにかくとても大きい影響を受けています。いわゆる旧約の信仰の本質がここにある。いや他にもあるとは思いますけれども、とりあえず断言しちゃう。もうぼく断言しちゃう。不幸と苦痛に見舞われたヨブが神に対峙する。その瞬間、ヨブは人間としての限界を超えたhubrisに至っている。まずここにまで至らなければ神となんて対峙できないです。ちょっと話がずれますが、ナンシーにしろバトラーにしろ、やはり徹底した個がまずあって、死に物狂いの闘争があって、というか近代自体がそうなんですけれども、その上で初めて近代的な個というものに対する批判が可能になって「共」が存在論的に強固に出てくるわけです。それを曖昧な自我と自己愛から離れられない研究者もどきが……、などと書いていると逆鱗スイッチが入ってしまうので止めますが、とにかく、そこまでhubrisの高みに登ったヨブがその自己を放棄する。神の前に「自分」を投げ捨てるのです。この不可能性にこそ信仰の秘儀があるし、矛盾してはいるのですが、人間が人間であることの美しさがある。ぼくはそう思います。難しいですが……。というより、ぼくはそもそも信仰の対極に位置するような人間なのですが、それでもなおこういった感覚が共有できなければ、ほんとうのところでは研究も共有できません(無論ですが、できなくたって全然かまわないのです)。けれども安易に西洋近代を批判するひとは、やはり太宰治の如是我聞を読むべきです。
ところで、私は、こないだ君のエッセイみたいなものを、偶然の機会に拝見し、その勿体ぶりに、甚だおどろくと共に、きみは外国文学者(この言葉も頗る奇妙なもので、外国人のライターかとも聞こえるね)のくせに、バイブルというものを、まるでいい加減に読んでいるらしいのに、本当に、ひやりとした。古来、紅毛人の文学者で、バイブルに苦しめられなかったひとは、一人でもあったろうか。バイブルを主軸として回転している数万の星ではなかったのか。
太宰治「如是我聞」『人間失格 グッド・バイ 他一篇』岩波文庫、1988年、p.177
っていうと「読んでいる」とか答えるし、実際読んでいると思っているので始末に負えませんが。
ただ、ぼく自身もクリスチャンではないしユダヤ教徒でもないし、イスラエルなんて問題しかないし、ぼくなりにレヴィナスには影響を受けていますが、それでもバトラーが指摘するようにそこには「複雑かつ頑強な」異議(ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』月曜社、2008年、p.176)を持っています。それでも、なのです。
ぼく自身は未だに、あるいは死ぬまでこのhubrisにとどまり続ける人間かもしれません。だから例えばホームズの次のような言葉は良く分かる。とても良く分かる。あ、これ、仲間内で出していた『文芸夜半』という同人誌に書いた「神無き時代の名探偵」という文章からの引用です。
ホームズは探偵に科学的手法を持ち込んだが、彼を名探偵足らしめていたのはその科学的知識と手法ではなく、卓越した推理力でさえない。彼の推理(reasoning)は常に理性(reason)の届かぬ先に向かう。彼の透徹した精神はそれ故その先に現れる人類の手に余る謎をつねに観取せざるを得ないし、そこには苦しみと疑いをもたらす究極の矛盾しかない。謎を解けるから探偵なのではなく、解けないと分かりつつ避けがたく謎に呼ばれることに耐え得るからこそ、彼は名探偵なのだ。〝The Adventure of the Cardboard Box〟(邦題『ボール箱』)の最後で彼はこう語る。
「ここにはいったいどんな意味があるというのだろう、ワトスン」ホームズは供述書を置くと厳粛な面持ちで言った。「この不幸と暴力と恐怖の連鎖に、いったいどんな意味があるのか? ここには何か目的があるはずだ、そうでなければ我々の宇宙は偶然に支配されていることになるが、そんなことは考えられない。だが目的とは何だ? ここには人間の理性が決してその答えに到達できないままでいる、大きな、永遠の問いが在るのだ」
形而下の犯罪を解決することなどテクノロジーにまかせておけば十分すぎる。たかが人間の知性によってでさえもできるだろう。だがその向こうに在るものに直面したとき、それでも人間はそれと格闘することができるだろうか。とはいえ信仰を安易に持ち出すべきではない。ホームズはここで確かに神的なものについて語っているが、しかし彼が神にその答えを求めることはないし、神に赦しを求めることもない。その点で彼は、同じくcallingによって探偵であることを証しているポワロとは対極にある。
名文ですね(笑)。自画自賛。これなかなか手に入らないと思うので、もし見かけたら絶対買いです。嘘じゃなく。そう、だから……、とにかく格闘しなければならない。あらゆる物事と。そしてにもかかわらず、あるいはだからこそ、あるいはそれのみを通して、結局その格闘している自分がただの苦しみという空白であることに気づく……。そんな風にぼくは思うのです。
あれ、何か説教臭いな……。大学時代、書くもの書くものみな「説教臭い」「正論やめろ」「なんちゃってビルドゥンクスロマン」と罵倒されてきましたが、いまだにその反省が生かされていない。でもまあ、そうじゃありませんか? 主語のないままに求める曖昧な同意。
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ただやっぱり、これってちょっと極論ですよね。人間は倫理機械ではない。だからまあ……適当です。というより、ぼくなんてアレです、99%が頭痛、0.9%が対人恐怖症、そして残りの成分が「適当」ですから、本当に適当です。今回はエドモンド・ハミルトンの「反対進化」について書こうと思っていて、これぼくは子供のころに『不思議な国のラプソディ 海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)で読んだのですが、このシリーズ名品です。もし古書店で目にすることがあればぜひ買ってください。ぼくの場合は父の蔵書にありました。子供のころはだいたい父の持っている本ばかり読んでいたなあ。そう、それでこの「反対進化」もやっぱりある種のキリスト教的近代的歴史観が強烈にあって初めて逆説として、あるいは(自ら死を選ぶほどの)恐怖として理解できるのであって、云々、みたいな。
何かね、頭で分かっているだけの研究者と話したり、書いたものを読むのが苦痛なんです。最近だとラブクラフトを「SF作家」(『現代思想 2017 vol45-22』「人新世、資本新世、植民新世、クトゥルー新世 類縁関係をつくる」高橋さきの訳、p.101)だと言い放つダナ・ハラウェイの無神経さとか。
そういうことが多すぎて、だいぶ、逸脱しています。別に、それで構いません。