おおやま どりむね

とある学会の研究大会の、そのまた部会みたいなものに参加してきました。といってもぼくはもうその学会を退会するつもりですし何の関心もないのですが、義理とか何とか、ぼくのようなすべてからドロップアウトした人間でもそういったものがあるのです。けれどもひさしぶりにもう出来上がってしまった〝研究者〟と名乗る人びとを眺めてみると(といってもオンラインで参加したのでモニタ越しにですが)、これはやはりそうとうまずいよね、と思わざるを得ません。何やら思想とか歴史とか社会とか、まあ何でもいいのですけれどもそういうものごとについて語っているらしい。けれども一歩引いて見てみると、めちゃくちゃ狭い世界で視野狭窄に陥ったまま下らないことを独善的に喋っている。いやそれリアルの世界と何の関係があるのさ、と、どうしても考えてしまいます。そしてまたとある学会誌を眺めていたら、またまた「今後の課題である」が結語の論文もどきがある。前回と同じ研究者もどきによる論文もどき。業績稼ぎか何か知りませんが、もう勘弁してほしいと悲鳴を上げたくなります。いくらゲームといっても、ルールは分かっているといっても、これはあまりに酷すぎるし、醜すぎます。

ちょっと何を言っているのか伝わらないかもしれませんが、これじゃあ(極めて強い意味で)人文学不要論も出てくるよなあと嘆息せざるを得ないものばかりが目に付くのです。そしてそれに対して怒っているとか呆れているとかではなくて、ただただ薄気味が悪いのです。きみ、ほんとうに疑問に思わないの? そうか疑問に思わないんだ……、と。でも、幸いなことにぼくは別段そういった世界に属してはいないし、囚われてもいない。要するにそれはルールの世界で、暇つぶしには良いけれど、それ以上の意味はない世界です。あまりのひどさにびっくりしたけれど、よく考えてみるとこれ俺と何の関係もないな、みたいな。それを思い出しただけでも意味はあったのかもしれません。

それにしても不思議です。ぼくは自分がほんとうに言葉を使えているのかどうか、昔から現在に至るまで常に不安なままでいます。不安というよりも根源的な、強力な疑いです。これは少なくとも研究者には伝わったことが一度もないのですが(まあ当たり前ではあるのですが)、ぼくが使っているものが言葉だと思っているのはぼくだけで、外から見たら完全に異言になっているのではないかということ。だけれども言葉というのは要するにぼくが見ている世界の表現ですから、つまり端的にいえばこれは、ぼくはこの世界に在るのか? という疑問です。だから時折どうやらぼくの言葉が誰かに伝わっているということをふいに実感することがあると、それは途轍もない安心感につながります。それは人とつながっているとか、そんなことではなくて、どうやらぼくは確かにここに在るらしいという存在論的な確信のお話です。カエルも、トカゲも、雲も石ころも在るところにぼくも在るということ。

ところがどっこい、というのも変ですが、自信ありげに偉そうに何かの音を垂れ流す、人文学者を名乗る彼ら/彼女らの言葉とやらを、ぼくは実際問題何も理解できません。いえ繰り返しますがルールは分かるし、ゲームとしては理解できますよ。莫迦々々しいけれど。でも言葉としては分からない。にもかかわらずその人たちはここに在るかどうかを疑ってはいないようだし、恐らくこんな話をしても伝わりもしないでしょう。あるいはまったく違う形で誤解され共感さえされるかもしれません、もっと悪いことには。

そういったホラーじみたもの。基本的には低コストで体験できるエンターテイメントかもしれませんが、やっぱりこれ、もっともやばいホラーそのものです。

仕事の行き帰りで岩波文庫『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』所収の「ユダの福音書」を読んだのですが、これがなかなか面白いのです。グノーシス派の影響を受けたもので、イエスの最後、ユダの裏切りのシーンの持つ意味が完全に逆転して描かれています。ラストなど本当に文学的にも美しい。

そして彼らは、ユダのもとに行き、彼に言った。「あなたはここで何をしているのか。あなたはイエスの弟子だ」。/そして彼は、彼らの望み通りに彼らに答えた。/そしてユダは、お金を受け取り、彼を彼らに引き渡した。

『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』新井献他編訳、岩波文庫、2022、p.425

内容的にはまったく異なるのですが、これを読むとどうしても思い出すのが太宰の「駆け込み訴え」です。これは凄まじい熱量と勢いでイエスに対する愛憎があふれ出し、その最後に

「はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」

『富岳百景 走れメロス 他八篇』太宰治、岩波文庫、1957、p159

と語られる。言うまでもなくこれはオチでびっくりさせようなどという話ではありません。語り手がユダであることは読者にはほとんど冒頭から分かっている。同じく太宰の「如是我聞」(「如是我聞」こそ人文系研究者は読むべきだと思うし常々そう言っているのですが、まったく伝わらないですね)で、太宰のある作品に対して「オチは分かりきっている」という志賀直哉の(あるいは志賀的な)発言に対して

作品の最後の一行において読者に背負い投げを食わせるのは、あまりいい味のものでもなかろう。

『人間失格 グッドバイ他一篇』太宰治、岩波文庫、1988、p.195

という。それはほんとうにその通りで、結局のところ、太宰が志賀直哉批判として

芸術は試合でないのである。奉仕である。

同書、p.195

と書いているけれども、太宰が為した文学の本質においては恐らく逆で、(ここで太宰の言う)志賀直哉的なものこそが読者受けだけしか残らないようなものであり、ぼくが「ユダの福音書」を読んで「駆け込み訴え」を思い出すのは、その最後の最後で突きつけられる、ああ、俺は俺なんだという恐ろしいまでの自覚であり、自分であることを引き受ける覚悟がここに顕れているからです。それはまさに自分自身を、あるいは神を相手にした「死ぬる思い」の試合として、すべてが一回限りの試合をしてまでしか表現できないものでしょう。

何の話でしたっけ……。あともう一つ「ユダの福音書」で印象深いのは、イエスがとにかく笑っているということです。それは嘲笑的な笑いということではなく、「しようがねえなぁ」とか「分かってねえなぁ」とかいった、何だろう、あるじゃないですか、皆さんが例えば先輩で、腕の悪い後輩がでも一生懸命に何かを手際悪く、あるいは間違った手順でやっているときに、莫迦にするのでも上から目線でもなく……そういう笑いであったり……そんな印象をぼくは受けます。

イエスの笑いということであれば思い出すのは堀田善衛の『路上の人』です。これもまたイエスの笑いを巡る名作なのでぜひ読んでいただきたいです。

そんなこんなで、やはり本を読んでいるとほっとします。最近はますます外に出るのが嫌になってしまって、まあいつも同じことを言っていますが、若いころから統計データを取っていたら確実にそれが見えてくるでしょうし、その近似曲線の行きつく先についてもそろそろ準備をするべき気がしています。明るくしぶとく適当に生き延びる話としてですが。

そう、例えば、この前非常勤の帰りに商店街のお肉屋さんに寄りました。前まで通っていたお肉屋さんは閉業してしまったので、それとは別のお肉屋さん。そこでヤキトリとかを買って会計をしていたら、ふとレジのすぐそばに何かの肉のジャーキーが置いてあるのに気づきました。なかなか可愛いデザインで、これは彼女に買って帰ろう、きっと喜んでくれるであろうなどと思いつつ、「あ、あ、これも追加でお願いします」とお願いをして、にこにこしながら帰りました。でもって彼女に「これあげる!」と渡したら、犬用ジャーキーでした。ふたりでしばらく、ひっくりかえって笑っていました。

おいしそうで可愛いデザインですね。よく見るとラベルに犬の絵があります。えー、でも気づかないよ……。そして裏を見ると……。

いぬじゃーきー おおやまどりむね にくじゃーきー。などと一句読みつつ、そんな感じです。明るく楽しくいい加減に、生き残らなければなりません。

胡乱な不審者の

また歯の話で、このブログもう「歯の物語」で良いんじゃないかと思うのですが、けれどもぼくだけではなく金魚のお話でもあります。今年の夏、金魚の歯が八本生え変わりました。そして主に彼女の観察眼によりそのすべての回収に成功しました。ぼくは子どものころに金魚を飼っており、それは十数年生きたのですが、歯が生え変わるなんて知りませんでした。けれども実際に見てみるとなかなかに立派な歯です。そして歯の定期健診の一週間前、ぼくの歯の詰め物も取れました。セラミックのちいさな欠片。ぼんやり眺めていると、何だか金魚の歯とそっくりです。

金魚は餌をぼりぼり食べ、ぼくもシリアルをバリバリ食べます。生命なんて皆同じようなものですね。

非常勤をしている大学を通り抜けた向こうに通っている歯医者さんがあるので、てくてく歩いていきます。歩いて一時間を切るくらいでしょうか。歯医者が終わればそのままさらに歩いてどこかの駅に出て職場に行きます。行って帰って、その日の移動時間は合計で六時間以上。ルソーのように孤独な散歩者の夢想とはいきませんが、それでも移動しているときにはいろいろなことを考えます。歩いていれば考えることができますし、電車なら本を読むこともできます。ぼくにとっての研究の時間。

けれどもそれ以上に面白いのは道を歩いているときに、電車に乗っているときに目にしたり耳にしたりする何かです。面白い……? そう、それは研究ではないでしょ、となるかもしれませんが、そういう何気ない光景こそ、ずっとあとになって自分の研究の何か漠然とした雰囲気のようなもの(非常に曖昧)になっていくように思うのです。

歯医者さんに行く途中、向こうからご高齢のご夫婦が歩いてきて、すれ違う少し前くらいのところでふたりは道端の花壇の縁のようなところに腰を下ろしました。調子が悪いのかなと思って心配になり、少し注意して(気配を殺しながらオーラセンサーで)様子をうかがったのですが

オーラセンサーってなんだ!? いや嘘じゃなくてぼくは人間の魂の形が見えるのですが、最近魂の形が無いひとが居ることに気がついて、これホラーのお話なんですけれども。いやそれはまた別の機会にお話しするとして、あの、時折ぼくを知っている人からこのブログがリアルのお話だと思われているような形で言及されることがあるのですが、これブログのタイトルの通り物語です。物語って、真実を語るための嘘であり、嘘を語るための真実でもある。

それでオーラセンサーですけれども、それによるとそのご夫婦は「もっと普段から歩かないと足腰弱るよ」「そんなこと言ったってねえ」などと話している。これ単に耳で聞いているだけだな。ともかく、その雰囲気が何だかとても良いんですよ。うまく伝えられないのですが。二人には千葉か埼玉に住んでいる子どもが居て、休みの日にはその家族が車で遊びに来たりする。そんな姿が見えてくる。オーラセンサーです。何かね、ちょっと、嬉しいというのとは違うのですが、少し気持ちが明るくなって歯医者さんに行きました。

最近、ほんとうに酷い論文を読んでしまって、心が落ち込む以上に、自分の正気を保つだけで大変でした。ぼくはいま一応研究者を名乗っていますが、だけれども研究者の社会というかアカデミズムというのか、ともかく、そこで語られていること、というよりもその動機が良く分からなくなることがあります。どうしてこいつらこんなことを喋ったり書いたりしているの? ということ。無論ですが、というよりもほんとうに幸運だったことに、ぼくはまだ若いころに尊敬できる大学教員というものと知り合うことができたので、全面的に否定的にはならないで済んでいます。でも、心底やばいなと感じることが多いし、やばいことに気づいていない人びともまじめにやばいなと思います。しかもそれは伝染性のもので、だからもっと恐怖した方が良い。

自分を守れるのは、結局のところ強迫観念じみた動機、そして文体しかありません。ぼくは最近、といってももうとっくに人生の折り返し地点をはるかに越え、いまさら、あるいは未だにかもしれませんが、自分の文体が目指しているものが分かってきたような気がするのです。それはとにかく個性を消すということです。誰が書いたのか分からないようなフラットな文章。とはいえそれはマニュアル文体ではなく、Chat GPT文体でもなく、客観性を装っている癖に自己愛しかない論文文体でもなく、日常の言葉であり透明な言葉であり……。あと一歩でそこに到達できるような感触があります。でも実際には、そのあと一歩とは、死ぬまで無限に続く一歩の積み重ねなのかもしれません。だから書いて、歩いて、生き続けるしかありません。そして、飽きたらやめます。そのくらいでいいんだと思います。

年を取って良いことの一つは、我慢できないことが増えていくということです。ゲームはいくらでも続けられます。でも、やめていいんです。やめていいし、続けることもできないし、続けられないという自分が在ることが自分で分かってくる。

まあでも、そのことで、極直近に数少ない研究仲間に迷惑をかけてしまって、それはほんとうにいかんよなあと反省しきりです。結局、よいものを書くしかありません。何年も前から同じことしか言っていませんが、よいものを書くしかありません。よいものを書くしかありません。

何だか暗いトーンですね。でもそんなことはなくて、いまは自分にしか見えていない世界を言葉にして誰かに読んでもらう(その可能性が生じる)というのは、とても楽しいことです。「おもろいじゃーん」「まじで」みたいな。先日、自宅に編集者さんが来てくださり、どんな感じで書いていくかについてお話をしました。編集者さんの知識や経験、そしてセンスはとてもありがたいもので、これは売れるものになるでぇ、ビルが建つでぇ、と内面では盛り上がります。でも編集者さんにお出ししたコーヒーが(彼は最初紅茶を所望していたのにぼくがわざわざコーヒーを勧めてしまった)めちゃくちゃ薄くて、アメリカ―ン! みたいな感じで、それから数日はダメージで倒れていました。

どのみち社会的にまともな人生は送れそうもありません。だから要するに、結局のところ、よいものを書くしかないのでしょう。

二冊目の本を出します。

ありがたいことに、再び単著を出すことができます。哲学思想系の本を出すにはほんとうに良い出版社に企画が通って、といっても編集の方がとても丁寧に粘り強くサポートしてくださったことで可能になったのであってぼくの力ではないのですが、いずれにせよぼくにとっては望外の機会です。まだ具体的なことについては何も書けないのですが、来年の夏には書店に並ぶかなという感じですので、そのときには、もしよろしければぜひ。

今回の企画は前著『メディオーム』の流れを受けてきっかけを得ることができたもので、それもまたほんとうに有難いことです。あ、でも売れ行き的には……なので、臆面もなく広告します。


われわれは既に「ポストヒューマン」の時代を生きている。にもかかわらず、なぜこれほどまでに現代社会に適応できず、存在することの不安に苦しんでいるのだろうか。この問いを考えることにこそ、技術に依存した楽観主義者の夢想でなく、また反技術主義への逃避でもない、「これからの人間」を語る可能性が残されているのだ――。
気鋭の研究者が現代思想やアートを論じつつ、「他者」と「技術」を媒介として「ポストヒューマン」な人間像を探求する《存在論的メディア論》。

版元ドットコムの紹介文より引用


『メディオーム』はどちらかというと暗いトーンがありました。それはぼくが今世紀最大の悲観主義者だからなのですが、でも暗いからこそ最後の文章が美しく輝いている。名著です。え、お客さんこちらの世界に生まれていらしたんですか? じゃあせっかくなので『メディオーム』読んでいってください、この世に生を受けてこれ読まないで帰ったらモグリですよ、みたいな。いや嘘じゃなくて。

けれども今回の本は、いまの感じではちょっと明るいトーンになる予定です。何でだろう。ぼくはもともとじっと自分の頭のなかで膝を抱えたまま滅びてゆく世界について空想するのが好きで、他方で手を動かして何かを作る、というよりも偶発的に何かが生じるのですが、そういったことも好きでした。今回の本は後者のお話で、作るって、やっぱりどこか楽天的な、ある意味無責任な側面があるのだと思います。うーん、微妙な話なのでちょっと誤解を与えてしまうかもしれませんが(創造するということであれば神林長平の『膚の下』という名著があり、とてもお勧めです)。

子どものころ家のすぐ近所に工場があって、その外に大きなゴミ箱みたいなものがありました。といっても当時のぼくは4~5歳で、だから大きく見えていただけかもしれません。ともかくその中には廃棄されたコンデンサとか何かの基板とかが入っていて、ぼくには無論それが何かなんて分からないのですが、でもそれを手にとっては他の何かの部品とくっつけたりして遊んでいました。結局そういう性質は大学に行って人形劇サークルに入った後まで続くのですが、でもこれぜんぶ嘘の記憶かもしれません。ぼく自身にも嘘か本当か分からない。そもそも4歳くらいの子どもってどのくらいの大きさなんでしょう、ゴミバケツを覗けるのかどうか。だいいち、そんな小さな子供が工場の敷地に入れるのかどうか。だからやっぱり全部嘘かもしれない。でもそんなことはどうでもよくて、というよりも手を動かしながらそういった記憶を作っていくのもテーマの一つで、これ、いったい何のお話なのでしょうか。

いずれにせよ、企画さえ通ってしまえばあとは原稿を書くのみです。既にある程度は書けているのですが、まだまだ、大量にインプットして大量にアウトプットしなければなりません。だけれど、どのみちそれはいつもしていることで、そのインプットとアウトプットの大波を常に濾しつづけるぼくという濾過器に残された何かが、本という形になるのかもしれません。

そのインプットは、例えば他の人の論文とか研究書とかを読むというだけではなくて、いま大量に観ているビデオテープの古い映画とか(これはデジタルデータに置き換えるための作業です)、あるいは美術館に行くこととか、家の掃除をすることとか、長時間電車に揺られて職場に行って基板をいじるとか、それらのすべてを含んだものです。

きょうは、だけれども映画ではなくて父が昔々あるTV番組に出ているのを録画したビデオテープを観ました。生前の父が動いて喋っているのを見るのはとても不思議な気持ちです。気軽に多くの物事を動画で記録できるいまの時代なら、珍しくもないのでしょう。でもぼくらの時代だとそうでもなくて、特に職場の姿なんてなかなか見る機会がありません。やいのやいのと、彼女と二人でその番組を見ながら、ノイズが載り始めているそのビデオテープをデジタル化する。これは、そういった物事全体についての本でもあります。

皆様には何を書くのかまったく不明のままかとは思いますが、本当に面白くなる予定ですので、ご期待ください……。

なぜ私たちは殺し合わなければならないのか、ビッグフットはベジタリアンで、それは糞を観察すれば明らかなことなのに。

再び映画の話。ぼくらの世代だと子供のころにTVで映画を観ていたひとも多いと思います。日曜洋画劇場(淀川長治)、水曜ロードショーから金曜ロードショー(水野晴郎)、月曜ロードショー(荻昌弘)、あとは午後のロードショーとかでしょうか。いや例によって番組名とか曜日とかはまったく覚えていないのでwikipediaを見ながら書いているだけなのですが、そこで観た映画はしっかり覚えています。そして解説。ほんとうに映画が好きな人による解説というのは、やっぱり記憶に残ります。ただ自分の知識を誇るみたいな、そういう解説者もどきは好きではないし、というよりも唾棄すべきだし、そもそも耳を素通りするし名前も覚えられません。ぼくにとってはやはりこの三人なのだと感じています。荻昌弘さんの最後の解説というかお別れのセリフは、いまでもはっきり覚えています。映画を愛することであったり、映画を愛することができた人生を愛することであったり、それがないひととは根本的なところで映画の話をしても無意味です。

ちょっと暗くなってしまった。ともかく、そんなぼくでも、子どものころにTVで観た映画、ぼんやりワンシーンだけ覚えていたり、あるいはその映画の雰囲気だけが残っていたりということもけっこうあります。だいたいは本気を出せば思い出せますし、ぼくは洋画が好きなのですが、当時(70年代後半から90年代)わざわざ日本でTV放映した洋画なんて、多くても5000本くらいではないでしょうか。ですから放映リストを見つけてきて総当たりすればいずれはその記憶の断片がどの映画のものだったか分かるはずです。とはいえそれはやはり時間がかかります。つい最近も、ふいにある場面が頭に浮かんできて、これ何の映画だったっけかな……、と、かなり長い間悩みました。で、さすがに総当たりはしませんでしたが何十時間も無駄に時間を費やしようやく判明。分かってみればどうしてこんなに探すのに苦労したのかというくらい分かりやすい映画でした。ぼくの記憶に残っていたのはこのシーン、というよりも主人公のこのメイク。

写真はIMDBより引用(https://www.imdb.com/title/tt0086984/mediaviewer/rm1758318337)

『ボディ・ダブル』、1984年のアメリカ映画で、監督はブライアン・デ・パルマです。『アンタッチャブル』、『カジュアリティーズ』、『カリートの道』、『スネーク・アイズ』、まあどれでも良いですけれども、ブライアン・デ・パルマですよ。なんで忘れていたのか。ちなみに『カジュアリティーズ』はぼくがお勧めする映画のベスト50には絶対に入ります。マイケル・J・フォックスの演技が素晴らしい。この『ボディ・ダブル』はちょっとキワモノっぽい感じがするかもしれませんが、というよりも気軽に人にお勧めする映画ではないのかもしれませんが、そもそもこの映画普通に子どもが観る時間に放映していいのかという気もしますが、でも改めて観ると何とも言えずに不思議な映画です。いやそんなことよりも上の写真のこのメイクとこの表情、いいですね。ぼくのあやふやな記憶に残るだけはある。

『ボディ・ダブル』はある意味出落ち感があるのですが(もちろんそんなことはなくて、ラストシーンはサイコスリラーというジャンルにふさわしいです)、『カジュアリティーズ』はラストシーンのマイケル・J・フォックスの、『スネーク・アイズ』はニコラス・ケイジの、それぞれの表情がほんとうに良いのです。これが演技。そしてその一瞬の演技だけで映画を一気に名画と言えるものに引き上げる力を持っている者がほんとうの役者です。どちらもとてもお勧め。

そんなこんなで、例によってつながっているのかいないのか分からないまま話が進みますが、VHSのデジタルデータ化をしている合間にもアマゾンプライムとかネットフリックスで映画を観ます。ほんとうにこの人研究しているのかな。でもね、研究者と話していると、(1)映画を観ない、(2)自分の研究のために映画を消費しているだけ、(3)知識マウントを取ってくる、などなど、やめてよ~、という人が凄く多くて、やめてよ~、と思ってしまいます。もっとさ、愛をもって語ろうよ。どうせぼくらみんな死ぬんだから。

それで、もう力業で話を進めますが観たのは『ヒトラーを殺し、その後ビッグフットを殺した男』。2018年のアメリカ映画。監督・脚本はロバート・D・クロサイコウスキーという人で、この作品以外はそれほど有名なものはないようです。主人公を演じるのがサム・エリオット。基本、この人の演技だけで成立している映画だと言っても良いでしょう。いえ、映画としての技術的な面は十分ハイレベルです。映像も美しい。でもこれが他の俳優だったら……、たぶんただの駄作になっていたのではないかな……、分かりませんが。

ストーリーは何だか奇妙で、かつてヒトラーを暗殺し、いまはもう老人の主人公が、極めて危険なウィルスを持つビッグフットを殺すために政府の命を受け再び銃を取る……、みたいな内容です。よく分かりませんが、実際に観てもよく分かりません。でもまあ大した問題ではない。主人公はヒトラーを暗殺するという任務のために、人生を壊されてしまっている。本人は自分自身で壊してしまったと思っている。だからいまはただ後悔しかない。作中で描かれる彼が犯した殺人はただヒトラーのみなのですが、それでもその一回によって彼はとことん参ってしまったわけです。ヒトラーの暗殺も結局手遅れで何の意味もなかったし、彼はもうほんとうに殺しは嫌なのです。でもいろいろあってビッグフット殺しを引き受けることになる。

ビッグフットはカナダに居るのですが、そこに行くシーンはかなり違和感があります。SFチックで、これはこの映画の持つ奇妙さとは別のレベルで作品世界から浮いている。でもそこを抜けてしまえばあとは雄大な自然のなかでビッグフットとの闘いになって、それはとてもよく分かる。ビッグフットは(あ、ネタバレ含みますのでご注意ください)すぐに倒されるのですが、そこから粘る。ものすごく汚く(卑怯かつばっちい感じで)粘る。しかも何だか弱いし、ベジタリアンです。けれどもその全体は、サム・エリオットの、もう本当に殺したくないんだよ……、という感情そのものの表現でもある。人類を救うとか言ったって、その現実はこんなもんだというのを、サム・エリオットは知っている。それが本当に悲しいのです。自分は英雄なんかではない。英雄なんてどこにもいない。

で、ビッグフット殺しは別に映画の最後の盛り上がりではなくて、というよりもそもそも盛り上がりなんてない。盛り上がりがないということこそがこの映画の本質です。サム・エリオットが住んでいる町に帰ってきて、そう、それでビッグフット殺しに行く前から、彼がしばしば手に持っては開こうとして結局また閉じてしまう箱があるのです。で、任務に行ったきり帰ってこないので彼はもう死んでしまったものと思って弟(弟を演じるラリー・ミラーもまた良い演技をします)は遺体のないままに兄の葬儀をしてしまい、そこにその箱も埋めてしまう。サム・エリオットはそれを聞いて最初は諦めるのですが、結局夜中に起き出して墓地に行き、墓を掘り起こしてその箱を再び手に取る。そしていよいよそれを開け……ずに、また蓋を閉じてしまう。「またにしよう、明日にでも……」。そして家への帰り道、彼はその人生においてしょっちゅう靴に何かが入ってしまい屈んで靴を脱いでとんとんしてそれを取ろうとするのですが、でもいつも取れない。それが今回もまたが起きるのです。ところがいつも通りとんとんすると靴から何かが落ちて出る……。このシーンが凄く良いんです。結局、彼は最愛の人とはついに結ばれなかったし(それは任務のせいでもあり、彼の性格のせいでもあり、運命のせいでもありだったのですが)、彼が送ってきた人生が何か変わったわけでもない。箱は、ぼくらには最後までそこに何が入っていたか明かされないのですが、やはり彼には開けられない。でも靴に入っていた何かは取れた。人生はハードで、意味は分からないし、それがずっと続く。でも彼は生きることを選んで、そして何かは確かに変わるのです。ほんの少しだけれども。

これ、普通に描いたら、たぶんすごく普通の映画になってしまう。やっぱり、だからビッグフットは必要なのです。そしてビッグフットとの戦いはものすごくみみっちくてばっちくなくてはならない。英雄的であってはならない。それをあり得ないくらいストレートに描いたらこうなってしまったわけです。だからそれは凄く納得ができる。でも、やっぱり何か変だな……、という、ほんとうに不思議で奇妙な映画です。

あとですね、ブロントサウルスのおもちゃとか、ヒトラー暗殺時にサポートしてくれる男が剃刀で主人公の髭を剃るときのやりとりとか、イメージを膨らませる描写が凄くうまいし、数少ない登場人物(犬を含む)はそれぞれ魅力があるし、何より謎が謎のまま残されていくのもとても良い。だって人生なんて謎しか残らないですからね。

というわけで、何とも言えない映画ですが、なかなかにお勧めです。俳優の力というものをひさびさに感じる映画でした。いやあ、映画ってほんとうに。

いい映画ですね。生きていようという気になります。

また映画の話か、そう、映画の話なんですね。最近、友人からの仕事で大量のVHSをデジタルデータ化するということをやっています。仕事と言っても半分で、いや十分の一くらいかな、残りはぼくにとっても楽しみです。いまとなっては入手困難なものもあるし、ぼくも初めて観るものもあります。そんなこんなで少しずつですがまた映画の記憶が増えていきます。

などと言いながらもまずは『ヒート』。また『ヒート』。このひと本当にこの映画が好きで、憂鬱な気持ちになったり糞みたいな映画を観たりすると、独りで蹲って『ヒート』のラストシーンを観ている。でも今回は途中のシーンについて。アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが一緒にコーヒーを飲むところです。ここもまた二人の演技がとにかく素晴らしい。演じるっていうのは、叫んだり変な顔をしたりフィルムに変な色を付けたりまあ何でも良いけれどそんなことではないのです。突然の激怒スイッチですけれども。ある人間の人生があって、その総体があって、それのすべてがこの、ほんとうにこの一瞬の表情、目つき、頬の微かな引きつりに出る。その説得力です。それが連続する。そしてセリフもまた良いのです。最初は山を踏むプロとそれを追うプロとして、真逆の立場で二人は話している。でもアル・パチーノがデ・ニーロに、そうじゃない生活はしないのかと訊ねる、するとそれがどんな生活なのか、二人とも分からない……。そこで一気にシンクロするのです、二人の人生というか魂の形が。で、夢の話になる。この夢の話がまた恐ろしい。内容は書きませんが、アル・パチーノは(いややはり書きます、ネタバレになるので観たい人は読まないでください、でも読んでもこの映画の素晴らしさはいっさい揺らがないことを保証します)これまで担当してきた事件の犠牲者たちがただ真黒に穴の空いた目で彼を見つめているという。ただ見つめている。そしてデ・ニーロは「俺は溺れる夢を見る」と返す。その夢の意味を問われて、「時間はある」ってことさ、と答える。これはどちらも強迫観念であり、その人が持って生まれて逃れられない魂の形の話です。そんなものを持っている人はほとんどいない。でも彼らは持ってしまっている。だから互いに分かる。だけれども同時に真逆なんです。アル・パチーノは無言で見つめられるから追い立てられ、デ・ニーロは自分が溺れることから逃げ続ける。だからどちらもどうしようもなく切迫しているし、どうしようもなく交わらない。互いにそれを改めて認識して、だからこの場面の最後に「二度と会わないかもな」というとき二人が薄い笑みを浮かべるのは、それは本心の笑みで、でもそうはならないだろうという切ない祈りの笑みでもある……。そしてこれが映画のラストシーンにつながっていくわけです。

いい映画ですね。生きていようという気になります。

もうひとつ、これはVHSから『ドリーム・チャイルド』。いまの時代だと映画化しにくいテーマかもしれませんが、主演……ではないのですが、チャールズ・ドジソン(ルイス・キャロル)役のイアン・ホルムが素晴らしい。いえ、途中までは個人的にはまったく共感できないし、ある意味ただ上手いだけです。それを言ったら老年になったハーグリーヴズも少女時代のアリスも、アメリカ人記者ジャックもハーグリーヴズの付添人ルーシーも、ぜんぜん感情移入できない。ストーリーもいまいち納得行かない(特に現代になってからの方)。でもそんなことはどうでもいいんです。これは名優イアン・ホルムが見せる最後の最後の演技、そのためだけにすべてがある映画なんです。取ってつけたようなハーグリーヴズのスピーチが終わって暗転し、ラストシーンへ。Jim Henson’s Creature Shopによるマペット二体と少女時代のアリス、そしてドジソンが、打ち捨てられた廃墟のような島にいる。これは冒頭のシーンからの続きになるのですが、そこでイアン・ホルムがうじうじと泣いている。しかし、いや、泣いているように見えてそれが……、という、この転換がほんとうに、ほんとうに美しい。そしてカメラが移動して二人は影に隠れ見えなくなり、二体のマペットは生命を失ったかのように静止する。そうだよね、人生ってそうなんだよね……。ただただそれを感じます。

いい映画ですね。生きていようという気になります。

あるときうっかり、本当の意味での悪としての映画もどきを観てしまいました。普段はそのようなミスはしないのですが、たまたまニコラス・ケイジ特集をふたりで勝手に組んで、片端から観ていたのです。監督名とか何かいっさい確認しないで片端から。で、ニコラス・ケイジはご存じの通りどうしようもないZ級映画に出たりもしていて、それはそれで面白い。彼の怪演だけでも押し切ってしまうくらいの力がある。でもそれはあくまで映画ならという前提条件があって、それは映画でさえない、口に出すのも悍ましい何かでした。それですっかり参ってしまったのですが、いろいろ本来の映画を観てだいぶ元気になりました。バスター・キートンとかも本当に面白いですよね。でもそれはまた今度。

いや、よく考えると論文書かないといけないのですが、締め切りを過ぎているのにまだ一文字も書いていない。でも、そうだよね、人生ってそうなんだよね……。(ここでラストシーンへ。うじうじと泣いているイアン・ホルム。でもそこから、頼む、そこから……。)

中井拓志『レフトハンド』

気がつけば7月末締め切りの論文があり、さて何を書こうかのう、などとぼんやり考えていました。書きたいことだけは幾らでもあるのですが、与えられたテーマと合うものとなると多少のアイデアが必要です。そういうときはぼんやりがいちばんで、待っていれば何かしら良い考えが浮かびます。浮かばなかったらそれまでで、別段、論文も研究も楽しいからやっているだけ。無理をすることはありませんし、無理をするほどの義理もこの世にはありません。

とはいえ、ぼんやりするというのはなかなか難しく、長時間通勤の間など、放っておくとどうしても頭は何かを考えようとしてしまう。そういうときには小説を読むことにしています。物語に没頭して、素晴らしいラストを通過してその余韻に浸っているとき、ぼくの脳みそは普段の不断の独り問答から離れることができます。良い物語にはそのくらいのパワーがある。ただ、ぼくはもう新しい何かを探すのには疲れてしまっていて、いまは好きな物語を繰り返し読むほうが多いです。昔は書店に行けば文庫や単行本の棚の前でじーっと背表紙を眺めるだけで楽しかったのですが、いまはそういうのはありません。けれども寂しい話ではなく、もう残りの人生十分過ごせるくらい、繰り返し読むものが自分の本棚にあるということで、それはとても楽しいことです。

今回はそういった本のなかの一冊、中井拓志『レフトハンド』角川ホラー文庫(1997年)について。例えば無人島に持っていく三冊の本、ということであれば、うーん、悩むけれども『人間の土地』、『箱舟さくら丸』、あとは……、だめだ、選べない。『ニューロマンサー』かな……。でも百冊だったら絶対にこの『レフトハンド』が入ります。そのくらいお気に入りで、このブログでも紹介した気になっていたのですが、検索してみたらしていませんでした。むかしはてなブログで書いていたときに紹介して、その投稿はこっちに持ってきていなかったのです。でもこの数日でもう何度目か分かりませんがまた読み直して、やはりこれは凄く、ほんとうに凄く美しい物語なので、改めてご紹介しようと思うのです。はてなの投稿、もう13年前だ……。ぼくの自意識は常に直近の数か月程度の記憶しかないので、これはもう前世に読んだと言っても過言ではないでしょう。ともかく、もったいないので少しその投稿を抜粋。

ある企業の研究所でウィルスの漏洩事故が発生し、その建物が完全に隔離されます。何とかしなければならないのですが、事態の深刻さのあまり関係各省はそれぞれに責任逃れをして、なかなか解決策が見出せません。しかもそのウィルスを研究していた研究員が、研究続行を認めなければウィルスを外界にばらまくと脅迫までし始めます。このウィルス、感染するといまのところ致死率100%というとんでもなく危険なウィルスで、しかも死体の左腕が勝手に分離し動き始めてしまうという馬鹿馬鹿しくも困ったウィルスなのです。感染しながらもワクチンによって生き残っている研究者はいるのですが、ワクチンはあくまで発症を遅くするだけで、いずれは脱皮する(左腕が抜け落ちてしまう)ことになる。でまあいろいろな思惑が入り乱れて、実験体として何も知らない一般市民の男女ひとりずつが研究所内に入れられてしまう。もちろんその時点では直接的な人体実験をするためではなく、非感染者の血液なり何なりで試験するためだったのですが、結局彼らはふたりとも感染してしまうのですね。ここから物語は急加速していく。

ぼくは何度も読んでいるので、それぞれの登場人物に極めて愛着を感じているのですが、最初に読むとき、あるいは客観的に見れば、この登場人物たちの魅力のなさといったら救いがないのを通りこして笑いすら起きてしまうほどなのです。みんな身勝手で、短絡的で、浅薄で、どうしようもなく俗物です。別段、美男美女も登場しませんし(そんなものはこちらも要求していませんが)、強い倫理観を持って事態を収拾しようとする者もいない。そうして案の定、事態は悪化の一途を辿ります。

ところが。ところが、なのです。最後の最後になって、まったく救いのない状況に陥ったとき、突然、その身勝手でどうしようもなかった登場人物たちが、そのままで、その中に眩いばかりの人間性の気高さ、誇り、真の意味での愛、悲しみを顕すんです。本当の最後になって。これがね、凄く良いんですよ。どこにも救いはない。もしかしたらその一歩を踏み出したとき彼らは、あるいは大げさではなくこの世界は、滅びるかもしれない。だけれど、そんなのは些細なことなんです。そんなことを突き抜けて、彼ら、彼女ら、いえ、彼と彼女の選択と躊躇いと後悔と決断と……、要するにその生きてきた軌跡がそこで交差して、その一点で静かに眩く輝いて、静止しているけれども無限に開放されて……。

物語というものは、一つの世界を持ちます。それはそれだけで完成していて、でも、この宇宙でぼくらが一本の線を引こうと思ったときにどこまでもどこまでも引けるように、無限に開かれているものとしての完成体です。その開かれを直観させることが良い物語の唯一の条件だとぼくは思います。

『津川さん、きっとあたしにだまされているだけなんだよ。だって……』/『……あたし嘘つきだから』/『どうでもいいさ』/『俺は君が生きていてくれて、助かった』。

主人公のラストのセリフに何と胸を打たれることか。そしてそれが彼女に伝わったかどうか分らないまま、外の世界に一歩踏み出す。その一歩踏み出した先に何が待っているのか。物語の余韻というものをこれほどうまく感じさせる小説もあまりないでしょう。どうしてそこまでして海を見に行くことにこだわったのかという主人公の内的独白とあわせ、あまりに切なく、あまりに美しいラストシーンです。

大げさではなく、これは安部公房の物語が持つ構造と極めて似ています。安部公房の小説においても、登場人物たちは優れた能力を持っているわけでもないし、倫理観や正義感を持っているわけでもない。むしろその逆でさえある。それでも、例えば『砂の女』や『方舟さくら丸』がそうであるように、そういったどうしようもない彼ら/彼女らが、突然ある種英雄的な何ものか、しかもそれは、人間を超えた超人性としての英雄ではなく、普通の人間の中にあることが分るからこそぼくらを心底感動させるような類の英雄性なのですが、それを持っていたことが明らかになる。それが物語に、徹底して人間の物語であるにもかかわらず神話的な奥行きを与えるのです。

無論、それだけではなく、基調はかなりユーモラスで、オフビートな疾走感にあふれています。ちょっと類を見ない文体、類を見ない構成で、ぼくが何を言っているかなんて無関係に面白く読めると思います。

というわけで、何が何やら分からないかもしれませんが、『レフトハンド』、文句なく傑作です。あのですね、ぼく、けっこう本を読みます。嘘じゃなくて。その上で、これは90年代日本文学の金字塔と言っても良いと思います。ほんとに。

残念ながら、作者の中井拓志氏、角川ホラー文庫で幾冊かを出版したあと(そのどれもぼくは好きです)、もう執筆から遠ざかってしまったようです。本当に残念です。

ラテンアメリカの民衆芸術

所用があって大阪に行くついでに、国立民族学博物館で開催されている「ラテンアメリカの民衆芸術」を観てきました。特別展だけではなく常設展も面白いものばかり。今回は時間もなく駆け足で通り抜けるだけになってしまいましたが、またいつかゆっくり観て回りたいと思います。

木彫(ヤギのナワル)、Manuel Jiménez、Angélico Jiménez、Isaías Jiménez作、メキシコ合衆国
玩具(観覧車)、メキシコ合衆国
木彫(悪魔)、Isidoro Cruz作、メキシコ合衆国
仮面、ブラジル連邦共和国

以下は常設展示から。

仮面、ジャワ島
ランダ(魔女)、バリ島
シャマニズム儀礼用具(ミニチュアシャマン)、モンゴル