不合理故に……

ひさしぶりに彼女とふたりで散歩に行きました。ぼくは最近右肩を傷めてしまい、というかアレですね、身体が不調だとかそんなんばっかですが、けれどもこれは他者に押しつけることは絶対的にないという前提の上で、ぼくはけっこう痛いとか辛いとか、いや書いたそばから何ですが自分自身のことで辛いと思うことはないな、ともかくそういうネガティブなことって、別段ネガティブには感じないのです。「わあ、ぼくは痛がっているぞ!」みたいな。ちょっとオカルトっぽいですけれども魂みたいなものがあって、それがつねにこのぼくであることを、ほんの一瞬、ただの偶然としてぼくという形があってこの世界をうろうろうろつきまわって、転んだり起き上がったりしているのを眺めて喜んでいる、そういう感覚があります。痛かったり怖かったりすればするほど、「わあ!」と思っている何か。自分についてはね。他者の苦しみについてはいまだに凄まじい恐怖があります。だからみなさん幸せに生きてください。

ともかく、うろつきまわっています。子どものころに住んでいた土地は半径10kmは歩き尽くしてしまい……、いやそう書くとぜんぜん大したことはないですね。二十年近くかけてのことですから。でもその範囲内ならどの道を見ても分かるくらいにはうろつきました。もちろん、いまとなっては山さえ削られてしまっているけれど。そのころに鍛えられた脚は、いまでもぼーっと生きているぼくの上半身をどこかへ連れて行ってくれます。

だけれども、いま、ふたりで住んでいるところは、時代が時代だから仕方がありませんが、散歩をするにはちょっと厳しいところです。家を出れば裏山があって、などということがないので、車やコンクリートや人間がたくさんのところを通っていかなければならない。電車に乗って移動したりさえしなければならない。これでもうへとへとになります。へとへとになってから、ようやく散歩が始まる。などと言いつつひさびさに散歩らしい散歩に行きました。

その日の目的の一つは尾花屋さん。東小金井にある古書店です。初めて行ったのですが、本揃えも良いし、小さいけれど密度の高い本屋さんでした。お勧めですので、近くにお寄りの際はぜひ覗いてみてください。

今回はそこで幾冊か購入。どれも良い本ですがこれは特に良い本。埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』。アフォリズム集というか、詩集ですね。後半には谷川雁との往復書簡が載っています。ここから少し引用してみましょう。

もし私達の自然も私達自身も姿も形もなくなってしまった或る天文時間のなかで、或る種の判別能力をもった何かが私達の傍らの空間をかすめすぎながらさながらガイガー・カウンターを近づけるごとくにすでに埋もれてしまった私達について何かを測定することがあるとすれば、人間とは不思議な自己否定へ向って絶えず進み行くところの不思議な運動体と見つけたり、ということになるかも知れないというのが、《自同律の不快》と《自然は自然に於いて衰頽することはあるまい》との一聯の対句の内包しているところの意味なのです。

埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』現代思潮社、1961年、pp.127-128

埴谷雄高ですね……。こういう文章を書ける人、批判ではなくていまの日本には居ないでしょう。いや、やっぱりこれは批判ですね。そして安部公房が書いていることは恐ろしいまでに正しい。

でも作家は読者なにしにはありえない。読者が生まれなかったら、作家なんかいるわけがない。

安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p.82

これはいわゆる現代文学というものが「西欧的な方法をよりどころにしているから」ではなく「植民地主義の土台にきずかれた」が故に駄目なのだという厳しく鋭い指摘をしている箇所なのですが、機会があればぜひお読みください。ぼく自身、「何とか文学フェア」とかいうものを(もちろんまずは出版社が生き残らなければ話にもならないのでそこへの批判ではなく、むしろ何よりもまずぼくら読者自身を批判的に見つめなければならないという意味で)疑いの目で見てしまうのですが、その根底には安部公房と同じ考えがあります。読者がいないということの本質に、そしてそこには間違いなくぼくら自身がかかわっているにもかかわらずそれをすっ飛ばしてなされる「正義の味方みたいな顔」みたいなものの欺瞞に、もっと鋭敏でありたい。そしてそれだけではなく、いまの日本にまともな現代文学がないことを恐れた方が良い。いや、あるとお思いになるかもしれないし、別段、ぼくが正しいかどうかなんてどうでも良いことです。

なんてことを散歩しながら考えているので、顔つきがだんだん陰鬱に、陰惨になっていく。呻き声を上げる。「おおお……」なんて苦悶しながら髪を掻き毟り脚を引きずりよろぼいつつ、彼女に「パン食べよう」と言われて川のほとりに腰を下ろして保冷剤で冷やしておいた水を飲み途中のパン屋さんで買ったきのこロールを食べつつ草むらに生えたキノコを眺めつつ(毒キノコだった)、にこにこしている。まあそんなもんです。

そうして、雨のあとでぐずぐずにぬかるんだ川のほとりを「あ、キノコ、あ、トンボ、あ、ザリガニ」なんて言いながら登山靴でぐっぽぐっぽ歩いていきます。橋の下をくぐり、道に戻る階段を上がろうとしたら、そこには高校生くらいの男女がふたり座り、語らっている。青春。そこに泥まみれで「ぐっぽぐっぽ」とか言いながら(言いはしないが)肩の痛みで眠れず目の落ちくぼんだおっさんが這い上がってくる。恐怖です。でもそれがいつか二人の良い思い出になってくれることを願いつつ、あとから来た彼女と合流し、てくてく家に帰っていきました。