中井拓志『レフトハンド』

気がつけば7月末締め切りの論文があり、さて何を書こうかのう、などとぼんやり考えていました。書きたいことだけは幾らでもあるのですが、与えられたテーマと合うものとなると多少のアイデアが必要です。そういうときはぼんやりがいちばんで、待っていれば何かしら良い考えが浮かびます。浮かばなかったらそれまでで、別段、論文も研究も楽しいからやっているだけ。無理をすることはありませんし、無理をするほどの義理もこの世にはありません。

とはいえ、ぼんやりするというのはなかなか難しく、長時間通勤の間など、放っておくとどうしても頭は何かを考えようとしてしまう。そういうときには小説を読むことにしています。物語に没頭して、素晴らしいラストを通過してその余韻に浸っているとき、ぼくの脳みそは普段の不断の独り問答から離れることができます。良い物語にはそのくらいのパワーがある。ただ、ぼくはもう新しい何かを探すのには疲れてしまっていて、いまは好きな物語を繰り返し読むほうが多いです。昔は書店に行けば文庫や単行本の棚の前でじーっと背表紙を眺めるだけで楽しかったのですが、いまはそういうのはありません。けれども寂しい話ではなく、もう残りの人生十分過ごせるくらい、繰り返し読むものが自分の本棚にあるということで、それはとても楽しいことです。

今回はそういった本のなかの一冊、中井拓志『レフトハンド』角川ホラー文庫(1997年)について。例えば無人島に持っていく三冊の本、ということであれば、うーん、悩むけれども『人間の土地』、『箱舟さくら丸』、あとは……、だめだ、選べない。『ニューロマンサー』かな……。でも百冊だったら絶対にこの『レフトハンド』が入ります。そのくらいお気に入りで、このブログでも紹介した気になっていたのですが、検索してみたらしていませんでした。むかしはてなブログで書いていたときに紹介して、その投稿はこっちに持ってきていなかったのです。でもこの数日でもう何度目か分かりませんがまた読み直して、やはりこれは凄く、ほんとうに凄く美しい物語なので、改めてご紹介しようと思うのです。はてなの投稿、もう13年前だ……。ぼくの自意識は常に直近の数か月程度の記憶しかないので、これはもう前世に読んだと言っても過言ではないでしょう。ともかく、もったいないので少しその投稿を抜粋。

ある企業の研究所でウィルスの漏洩事故が発生し、その建物が完全に隔離されます。何とかしなければならないのですが、事態の深刻さのあまり関係各省はそれぞれに責任逃れをして、なかなか解決策が見出せません。しかもそのウィルスを研究していた研究員が、研究続行を認めなければウィルスを外界にばらまくと脅迫までし始めます。このウィルス、感染するといまのところ致死率100%というとんでもなく危険なウィルスで、しかも死体の左腕が勝手に分離し動き始めてしまうという馬鹿馬鹿しくも困ったウィルスなのです。感染しながらもワクチンによって生き残っている研究者はいるのですが、ワクチンはあくまで発症を遅くするだけで、いずれは脱皮する(左腕が抜け落ちてしまう)ことになる。でまあいろいろな思惑が入り乱れて、実験体として何も知らない一般市民の男女ひとりずつが研究所内に入れられてしまう。もちろんその時点では直接的な人体実験をするためではなく、非感染者の血液なり何なりで試験するためだったのですが、結局彼らはふたりとも感染してしまうのですね。ここから物語は急加速していく。

ぼくは何度も読んでいるので、それぞれの登場人物に極めて愛着を感じているのですが、最初に読むとき、あるいは客観的に見れば、この登場人物たちの魅力のなさといったら救いがないのを通りこして笑いすら起きてしまうほどなのです。みんな身勝手で、短絡的で、浅薄で、どうしようもなく俗物です。別段、美男美女も登場しませんし(そんなものはこちらも要求していませんが)、強い倫理観を持って事態を収拾しようとする者もいない。そうして案の定、事態は悪化の一途を辿ります。

ところが。ところが、なのです。最後の最後になって、まったく救いのない状況に陥ったとき、突然、その身勝手でどうしようもなかった登場人物たちが、そのままで、その中に眩いばかりの人間性の気高さ、誇り、真の意味での愛、悲しみを顕すんです。本当の最後になって。これがね、凄く良いんですよ。どこにも救いはない。もしかしたらその一歩を踏み出したとき彼らは、あるいは大げさではなくこの世界は、滅びるかもしれない。だけれど、そんなのは些細なことなんです。そんなことを突き抜けて、彼ら、彼女ら、いえ、彼と彼女の選択と躊躇いと後悔と決断と……、要するにその生きてきた軌跡がそこで交差して、その一点で静かに眩く輝いて、静止しているけれども無限に開放されて……。

物語というものは、一つの世界を持ちます。それはそれだけで完成していて、でも、この宇宙でぼくらが一本の線を引こうと思ったときにどこまでもどこまでも引けるように、無限に開かれているものとしての完成体です。その開かれを直観させることが良い物語の唯一の条件だとぼくは思います。

『津川さん、きっとあたしにだまされているだけなんだよ。だって……』/『……あたし嘘つきだから』/『どうでもいいさ』/『俺は君が生きていてくれて、助かった』。

主人公のラストのセリフに何と胸を打たれることか。そしてそれが彼女に伝わったかどうか分らないまま、外の世界に一歩踏み出す。その一歩踏み出した先に何が待っているのか。物語の余韻というものをこれほどうまく感じさせる小説もあまりないでしょう。どうしてそこまでして海を見に行くことにこだわったのかという主人公の内的独白とあわせ、あまりに切なく、あまりに美しいラストシーンです。

大げさではなく、これは安部公房の物語が持つ構造と極めて似ています。安部公房の小説においても、登場人物たちは優れた能力を持っているわけでもないし、倫理観や正義感を持っているわけでもない。むしろその逆でさえある。それでも、例えば『砂の女』や『方舟さくら丸』がそうであるように、そういったどうしようもない彼ら/彼女らが、突然ある種英雄的な何ものか、しかもそれは、人間を超えた超人性としての英雄ではなく、普通の人間の中にあることが分るからこそぼくらを心底感動させるような類の英雄性なのですが、それを持っていたことが明らかになる。それが物語に、徹底して人間の物語であるにもかかわらず神話的な奥行きを与えるのです。

無論、それだけではなく、基調はかなりユーモラスで、オフビートな疾走感にあふれています。ちょっと類を見ない文体、類を見ない構成で、ぼくが何を言っているかなんて無関係に面白く読めると思います。

というわけで、何が何やら分からないかもしれませんが、『レフトハンド』、文句なく傑作です。あのですね、ぼく、けっこう本を読みます。嘘じゃなくて。その上で、これは90年代日本文学の金字塔と言っても良いと思います。ほんとに。

残念ながら、作者の中井拓志氏、角川ホラー文庫で幾冊かを出版したあと(そのどれもぼくは好きです)、もう執筆から遠ざかってしまったようです。本当に残念です。

ラテンアメリカの民衆芸術

所用があって大阪に行くついでに、国立民族学博物館で開催されている「ラテンアメリカの民衆芸術」を観てきました。特別展だけではなく常設展も面白いものばかり。今回は時間もなく駆け足で通り抜けるだけになってしまいましたが、またいつかゆっくり観て回りたいと思います。

木彫(ヤギのナワル)、Manuel Jiménez、Angélico Jiménez、Isaías Jiménez作、メキシコ合衆国
玩具(観覧車)、メキシコ合衆国
木彫(悪魔)、Isidoro Cruz作、メキシコ合衆国
仮面、ブラジル連邦共和国

以下は常設展示から。

仮面、ジャワ島
ランダ(魔女)、バリ島
シャマニズム儀礼用具(ミニチュアシャマン)、モンゴル

え、あそこに引っ越すの? うちの近くじゃ~ん

しばらく前に短い企画書のリライトを書き終え、といってもまださらなるリライトは必要なのですが、ほんの一瞬とはいえやれやれほっと一息、などと油断したのがいけなかったのでしょうか。ひさしぶりに激しい頭痛が始まってしまい、数日間、これは脳が炎症しておりますな、といった感じで参りました。参っているときに見る夢というのがまた変なモノばかりで、とはいうもののぼくが見る夢なんていつも地獄(比喩ではなく本来の意味での地獄)の夢ばかり。けれども時折妙に可笑しい夢を見ることもあって、ウヒヒ、などと笑いながら目覚めるときもあります。あまりに下品でここには書けないけれども、夢の中で歌を思いつくこともあって、二、三年前に夢の中で聴いた歌など、いまでもときおり口ずさんでいます。

人の夢の話を聞くのってつまらないと良く言いますよね。そうかもしれません。でも書きます。だって他にぼくがこのブログに書くことといったら歯医者のことか靴のことくらいですよ。じゃあ歯医者のことを書きます。先日定期健診でいつもの歯医者さんに行ったのですが、それも問題なく終えて会計を待っていると、受付の女性が会計をしているご老人に「私明日でここ辞めるんです」と言っていました。目の前なので聞こえてしまう。でそのご老人も常連さんというのか、慣れた感じで「残念ですね」「これからどうするのか決まっているのですか」「遠くに行かれるのですか」などと訊ねている。個人情報保護に異様な執念を傾けるぼくのような人間からするとこの質問は大丈夫なのかと心配になるのですが、そのあたりは関係性の問題もあるのかもしれないし、そもそもその受付の方も慣れているのか、うまい具合に具体的な答えは躱しつつ、互いに和やかに別れを告げていました。

そしてその次にぼくが呼ばれたのですが、けっこうこれが困ります。何しろコミュニケーション能力が虚数の値を持つ男です。「フヒヒ、いま聞こえたけれどここ辞めるの? 次どうするの? どこ引っ越すの?」とか、喋り出したらぜったいヤバいことを言いだす。いや訊きたいわけではないのです。そもそも関心がない。関心がないというと冷たい感じですが、どこに行ってもみんな元気で楽しく暮らせるといいね、という無難な正論マシンなので、それ以外の感情がない。でも間が持たないと何を言い出すか分からないし、ヤバいということは分かるので冷や汗もかく。汗だらだらかきながら「え、あそこに引っ越すの? うちの近くじゃ~ん」とか、まあ市中引廻しの上打ち首獄門です。

いえ、もちろん、普通の人にとっては何が大変なのか分からないだろうというのは分かるのです。でもほんとうに大変。ジェシカ・フレッチャー並みにもう大変! それでも何とか(結局いつも通り必要最低限のことしか喋らずに)会計を終え、真の困難はここから始まる。終わった後になってですね、「あのときこうすれば良かった、こう返せば良かった」という、独り反省会、手遅れシミュレーションが始まる。でもってこの手遅れシミュレーション、千通りくらい思いつくし、その千通りのすべてが、現実にぼくの選択実行した会話よりも百万倍はましなのです。そして滝のような冷や汗をさらに流しつつ、お肉屋さんに寄って「お肉屋さんお勧め手作りハンバーグ4個ください!!!!」などと絶叫する。いや絶叫趣味はないのですが、むしろ陰に隠れて生きていたいのですが、そうでないとお店のおばあさんに聞き返されてしまう。

まあそんな感じで夢の話に戻るのですけれども、ぼくはめちゃくちゃダンディな、何かラテン系のおじさんなのです。そして、どうも口には出せないような裏の仕事をしているらしい(貧困な想像力)。そんなぼくがあるとき小洒落た小さなレストランに行くと、自分の娘が一人で食事をしている。でもその娘はぼくのことを親だとは知らないんです。良くありますよね、映画とかで。ぼくはそれを決して口にはできないのだけれど、それでもその偶然の出会いが恐らく生涯最後の出会いでもあって、何とか一言でも会話をしたい。「で、あそこに引っ越すの? うちの近くじゃ~ん」とかそういうノリではなく、ほんとうにシビアな夢なんですよ。するとこれまたご都合主義の設定で、そのお店のオーナーは(これまた渋いおじさんなのですが)ぼくの本当の姿を知っていて、その娘には絶対にほんとうのことを言うなよ、みたいなプレッシャーをかけてくる。そんなことは分かっているんです。で、頭のなかでいろいろ会話のきっかけを掴むための想像をして、会話をして……、でも諦める。娘がちらっとこちらを見るけれども、知らないおっさんがいるだけだからすぐ目を逸らす。それでおしまいで、ぼくはオーナーのところに行って会計をしようとするのですね。おっさん同士、口に出さなくても伝わることがある(らしい。ぼくはそういうの気色悪いので嫌なのですが)。ところが「会計を……」と言いかけた瞬間、ぼくの口から途轍もない、ほんとうに、ほんとうに途轍もない、地球上に響くのではないかというくらいのゲップが出てくる。「ゲエエエエエエエエエエエエエエエエ」。そして「プ」までいかないところで、あまりの下らなさに「フヒヒ」と笑いながら目が覚めました。

目が覚めたら凄まじい頭痛のままで、まあ、そんな感じで生きています。

靴/本/水滴

というわけで、ほんとうにこのブログ毎回同じことしか書かないのですが、靴を買いました。ひさびさの登山靴。あまりに嬉しくてしばらく本棚の上に飾っていたのですが、ちょっとお出かけするときにいよいよお目見えすることになりました。誰に対してお目見えなのか、無論ぼく自身しか見てくれるひともいないのですが、それでも新しい靴、しかも登山靴は気分が上向きます。めっちゃ上向く。上向いて歩く。スキヤキ!

その勢いを借りて、何十年ぶりだか分かりませんが、いやさすがにそれはないかな、でも体感そのくらいでセーターも買いました。さらに靴下まで買ってしまった。鎧袖一触。脈絡もなく四字熟語が頭に浮かびます。一騎当千と言っても過言ではない。ただセーターと靴下を買っただけなんですけれども。そんなこんなでひさしぶりに帰国した友人に会うときに新しいセーターを着ていきました。もうこれはファッションリーダーという新しい種族に生まれ変わった私。しかし彼からは「これまでと何も変わらない」、「根本的にファッションというものを勘違いしている」、「冒険しなきゃだめだ」などなど、その他もろもろ人格批判を受けました。文化大革命、などとこれまた脈絡もない言葉を思い浮かべつつ、それでも、ここ数か月首を痛めているために前しか向けないことにより精神的にも前向きになっているぼくにダメージはありません。そういえばさっき上向くとか書きましたが、いま上を向けないんですよ。なんか落ち込んできたな。

けれども新しいセーターに新しい登山靴は気分が良いものです。意味もなく近所をてくてく歩いている途中でこれまで知らなかった郵便局を発見して嬉しくなり、後日さっそく手紙を投函しに行きました。どこに送るのでもない手紙。ポストの近くでは蟻が元気に何かを探索し、モンキチョウがぱたぱた飛んでいます。春は死の始まる季節なので苦手ですが、それでも、生き物を見るのはとても楽しいことです。

ここしばらく生活の基盤を変えるためにだいぶ忙しくしていました。あとひと月もすればだいぶ落ち着くのではないかと思うのですが、それでも本だけは読んでいました。そもそもこの人、他に趣味がないのです。最近はユッシ・パリッカ『メディア地質学 ごみ・鉱物・テクノロジーから人新世のメディア環境を考える』(太田純貴訳、フィルムアート社、2023年)とツヴェタン・トドロフ編『善のはかなさ ブルガリアにおけるユダヤ人救出』(小野潮訳、新評論、2021年)がすばらしかった。前者はタイトルからしてエルキ・フータモ『メディア考古学 過去・現在・未来の対話のために』(太田純貴訳、NTT出版、2015年)を思い出すのですが、っていうかいま気づいたのですが訳者が同じなのですね。1980年生まれでまだ若い方ですがフータモに師事していたとのこと。優秀な人っているものですね……。ちなみにパリッカはフータモとの共著論文もあるとのこと。とにもかくにも、本書、テクノロジーってぼくらの目の前にあるものだけを思い浮かべがちですが、そうではなくてその前にも後にも時間を持つものだよね、というお話です。これは凄く重要です。正直いまのメディア論(っぽいもの)って批判するにせよ肯定するにせよファンタジーみたいなものが多いのです。でも、じゃあどれだけそれについて語る空間それ自体を成立させているもの、そしてそれは目の前のデバイスやテクノロジーだけではなくその総体まで含めたものですが、そこに目が向いているのかしらというと、極めて疑問です。だけれど、そもそもその観点がなければ善も正義も自由も何も語れないはずです。だってそれらのデバイスやテクノロジーって、その前においては生態系も人間も徹底的に搾取して、その後においても生態系も人間も徹底的に破壊しまくるものですから。ぼくはzoomとか平気で言ったり使ったりする人文系研究者って信用できない(突然の発作)。そんなこんなで本書はとてもお勧めです。

あとは『善のはかなさ』。トドロフは翻訳もたくさんされていますが、ぼくは『個の礼賛 ルネサンス期フランドルの肖像画』(岡田温司、大塚直子訳、白水社、2002年)しかちゃんと読んだことがありませんでしたが、『個の礼賛』は素晴らしい本でした。今回の『善のはかなさ』もほんとうに面白い。第二次大戦時に、ブルガリアの管理下にあった西トラキアとマケドニアのユダヤ人たちは一万人以上が強制収容所に送られ、そのほぼ全員が殺されます。けれどもブルガリア本国のユダヤ人たちはそれとは異なる道を辿ることになる。それはなぜか、そしてどうしてそのようなことが可能だったのかということをトドロフは丁寧にかつ徹底して資料に基づきつつ考察していきます。本書はトドロフ編とあるように、彼自身の記述は四分の一程度で、あとは当時ユダヤ人保護のために奔走した人びとによる記録や資料になります。こういったものを(優れた翻訳で)読めるのはありがたい。資料が多いことについては訳者小野氏による解説がとても良いです。

トドロフが自分のものとして要求するのは、「真理の保持者」としての資格ではなく、「真実を追求する」権利である。そして同時に彼が望むのは、読者にもそうした姿勢を共有してもらうことである。自分が利用した資料をできるだけ生のまま読者に提供し、読者もその資料を自分の目で眺め、そこから浮かび上がる人物たちのそれぞれの視点やその人物についてのトドロフの見方を知ることで、読者自身に自分なりの判断基準を形成して欲しいと願うのである。

『善のはかなさ』pp.237-238.

そしてタイトルも良いですね。美しく、そして恐ろしい。

ある場所で特定の瞬間に善が到来するには、こうしたことのすべてが必要だったのである。繋がった鎖に少しでも欠損があればあらゆる努力は無に帰していたことだろう。公共生活に悪がもたらされれば、その悪はたやすく広がる。これに対し、善は困難で、まれで、もろいものとして留まる。しかしそれでも、善は可能なのである。

『善のはかなさ』p.63.

善は可能なのである……。けれどもぼくはそこまで確信を持てません。希望もたぶん持てない。そしてだからこそ、やはりトドロフのように真摯に調べ続け、考え続け、書き続けるしかないのでしょうね。しんどいですけれども。上記二冊、この時代、この社会においてぼくらがどう生きているのか、どう生きるのかを考える上で、それぞれ欠かせない観点を伝えてくれるものだと思います。お勧めです。

何だかまじめな話になってしまいました。いやまあ、ぼく自身まじめの権化みたいな人間なのでまじめな話しかできないのですが、いつでも目が笑っていない。でもいつでもニヤニヤしている。新しい靴を眺めてニヤニヤ。登山靴なので雨が降っていても平気で庭に出られます。庭でじみじみ草と水滴の写真を撮って、ふたたびニヤニヤ笑っている。でも家に戻ると新品の靴についた泥跳ねに愕然として、慌てて落としたりしている。そんな感じで元気に生きています。





いやはや、元気に暮らしています。

歩いている影とぼくの足

帰り道、頭痛がひどくなり困りました。外に出るというのに頭痛薬を忘れてしまったのです。そういうときは心の中で目を瞑ってひたすら時間が過ぎるのを待つしかありません。ロボットのように家にたどり着き、薬を飲みしばらくしてようやく落ち着きました。痛み自体はともかく、電車での移動はぼくの数少ない読書の時間なので、そういうときにせっかく持って出た本を読めないのがいちばん困るし残念です。けれども、ただひたすら痛みを耐えている時間というものも決して無駄ではなく、あとから振り返ってみるとその痛みの塊の漠然とした記憶のなかにも、それなりに自分の研究に役立つものがあるという実感があります。ほんとかな? 無論、だからといって痛みにも意味があるなどということを普遍化するつもりはないのです。それにどのみち、ぼくの頭痛もしょせんは六、七割は市販薬で抑えられるものでしかありません。

少し話は飛びますが、ぼくは大学教員があまり好きではないのです。あるいは、あまり関心がないというべきかもしれません。それでも心から尊敬している人もまた何人か居て、その一人である牧師先生から年賀状が届きました。牧師に敬称として先生をつけているのではなく、言葉通り牧師でかつ先生だった方。もう九十歳も半ばを過ぎていらっしゃると思うのですが、極めて達筆で、衰えることのない魂の力を感じさせる文面でした。以前にも書いたかもしれませんが、彼のある日の説教をよく覚えています。ぼくが在籍していたその二つ目の大学ではいつもお昼に誰もが参加できる礼拝がありました。最初に行っていた大学でも、週に一度だったかな、そういう日があった気がしますが、それには何の関心もぼくは持てませんでした。それは端的に、その一つ目の大学に居た牧師をぼくが信頼できなかったからです。牧師というのは途轍もなく怖い職業(と言っていいのかどうかは分からないけれど)で、生半可な説教など簡単に見抜かれてしまいます。言うまでもなくぼくだって、いやぼくこそ偉そうなことなど言えないのですが。けれどもぼくが尊敬していたその牧師先生の説教は真の意味で魂が込められたもので、そういう言葉を聴くためには、そのとき、その場に居合わせなければなりません。どうしてもそうしなければならない。それは人間によって、あるいは個人の意思によって選択できるものではなくて、だからほんとうに幸運だったのだと思います。ともかくそこで彼がひとつの挿話として語ったのは、彼があるとき大きな事故に遭いそれでもほとんど無傷で生還したときのこと。それは彼の力でもただの偶然でもなく(彼にとっては)神の力が働いたからなのですが、だけれども、そこで自分にはやるべき使命があるから神に生かされたとか、これは信仰心のないぼくにはうまく説明できないのですが、そう考えてはならないと彼は言っていました。なぜなら、もしそう考えるのであればそれはすなわち、同じような事故に遭って亡くなった人びとには神に与えられた使命がなかった、自分は神にとって生かす価値があったけれども彼ら/彼女らはそうではなかったのだと、たかが人間でしかない彼がそう断定することに他ならないからです。つまるところ、ぼくらには神の意図など決して分かりません。それでもとにかく全力で、生きている限りは全力で、自分には理解できない神の意図のもとで生きなければならない。ただそれだけのことだし、同時にだからこそ凄まじく大変なことでもある。

その大変さと恐ろしさは、信仰心の対極に位置するようなぼくであっても――なんてったってマルクスとかまともに読んだことさえないのに唯物論研究協会とかに入っていたのです。もともと悪い意味ではなく義理で入っていたのでもう退会しますが――分かる気がするのです。要するにそれは、自分の感じる痛みや恐怖に対してその向こうへ穴がつながるほど自分のものとして集中しつつ、同時にその痛みや恐怖を感じている自分を、どこに行くのかは分からない大きな流れに位置づけられる小さな豆のようなものとして、遥か上空から俯瞰するということです。必然と偶然が究極的に結びつくところで、ただただ一歩一歩極小の歩みを進めること。それはたぶん、一般的な意味での研究をするということとは何の関係もないことなのだと思います。一般的に言えば。だけれども、ぼくにとってそれは生きつつ研究するという最も根本的なスタイルとして、いつでも心にあることです。

いずれにせよ、ぼくは年賀状を書かない主義なので、彼には最近の研究テーマについて書いた手紙と最新の論文を送ろうと思っています。もっとも、人間は技術によって神になることはできないというのがぼくの近頃の研究テーマなんですよと書いたところで、恐らくこれを読んでくださっている皆さんとはまた違った意味で、彼にとっては当たり前のことだと思えるのでしょうけれども。

寒い日が続きますが

カメ池が無くなってしまったので、いまは時折コイ池に行っています。
柿。
トマト。
ひさびさにICCに行き『生命的なものたち』を観てきました。面白いものが幾つかありましたがnorによる《syncrowd》は別格に素晴らしかった。
散歩のときに見つけた手袋。何故か枯れた木の枝にはめられていました。

そんなこんなで今年も終わりです。だけれどもぼくは大晦日とか元旦とか、そういうものにはほとんど関心がありません。どの一日もその一日。このひと月ふた月はひたすら身体の不調を騙しだまし過ごしていましたが、同じような毎日を積み重ね、それでも少しずつ進めていればと願っています。

とはいえ年は年。来年はできれば次の一冊を出せればいいなあ。取らぬ狸の皮算用。でも、それがあるから人間生きてもいられるのかもしれませんね。

楽しいことばかりです。嘘じゃなく。

めずらしく学会発表をしてきました。ずいぶんひさしぶりだなあと思って自分のresearchmapを見てみたら3年以上ぶりだったのでちょっとびっくり。コロナはまだこんな状況ですし、朝早くのマイナーな部会での発表だったので参加してくださった方は極わずかでしたが、それでも楽しくしゃべって議論をして、そこで突然コミュニケーションポイントがゼロに落ちたので帰ってきました。修理する権利について、いま書いている原稿の導入部みたいなことを話せたので、頭のなかをちょっと整理できた気がします。

それから、先日彼女と二人で「ふれあい下水道館」というところに行ってきました。何となく興味があり機会があれば行こうと思っていたところ。小さな建物ですが、地下深くまで降りることができ、いちばん下には現役で使われている下水道管があります。そして実際にその中に入ることができる。これはなかなかできない体験です。いえここに行けば、大雨とかで見学禁止になっていない限りいつでも観られるのですが、けれど皆さん、恐らく本物の、いままさに使われている下水道管のなかに入ったことってないでしょう? いやあ、ぼくはあるんですよねえ! と謎の自慢をしつつ、でもほんとうに面白いのでお勧めです。

こんな感じで中に入ることができます
2001年宇宙の旅みたいな赤ちゃんも居る

ここ最近は「毎日1,000文字書く」月間をしていて、これは頭痛が酷いときでも疲れて帰ってきてへとへとのときでもとにかく1,000文字書くという月間です。そのままだな。とはいえひと月やれば3万文字になるし、4か月で12万文字です。これだけあれば単行本一冊分くらいになるので、書く速度としては悪くはありません。前の単著なんて書くのに実質5年かかっていますし。問題は、頭痛と疲労と恐怖と憎悪のなかで幻覚を見ながら書いているので、あとで読み直すと自分でも良く分からないものになっているということです。だけれど、研究なんて訳の分からないものの方が面白いんです。学会発表とかはある意味エンターテイメントだから、良い意味で分かるものをやる。少なくとも本人はそのつもりでいる。それはそれでとても楽しいし、楽しんでもらえればほんとうに嬉しいのだけれど、でも本は、やっぱり魔がないとダメなんです。

あと、ここしばらく散歩のたびに寄っていたカメのたくさん居た池からカメが居なくなってしまいました。izooというところに引き取られたとのこと。いつか彼女と二人で見に行こうと思います。何匹かは個体識別ができると思うので、元気に過ごしているのを確認できればとても嬉しい。

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この数日間読んでいた本で、ある〝アーティスト〟の作品が分析されていました。ぼくは固有名詞を覚えるのが致命的に苦手なのでその〝アーティスト〟が誰だかまったく分からないままに読んでいたのですが、どうも一行一行がひっかかる。その分析にも無理があるし、そこから想像される作品自体も疑問符しか浮かばない。そしてしばらく読んでいると実際の作品の写真が出てきたのですが、それで得心しました。その〝アーティスト〟の作品、もう何年も前に彼女と二人で行った美術展にあり、そのときにも作品から漂ってくるあまりの自己愛の腐臭にうんざりしたのです。ぼくは人名や固有名詞は覚えられませんが、そういう光景は絶対に忘れません。無論、ぼくの感覚が正しいとか、そんな話ではありません。そんなことはどうでもいいのです。ただ、自分にとってこうであるという基準はやはりあって、それが(途轍もない作品に出合ってということではなく)ふらふらぶれるようだったら、研究者も本読みもやってなんかいられません。そういったある種の原器が自分のなかにまだ確固として在るのを確認できただけでも、その本を読んだ価値はありました。

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ある日、ある駅で電車が人身事故で止まっていました。ぼくが線路沿いを歩いていると、若い男が二人走ってきて、まさに事故を起こして停止中のその電車の先頭車両を見下す位置で立ち止まると「ベストポジションじゃん」などと言っていました。動画でも撮るつもりのようでした。分かりやすい地獄。でもほんとうは、何一つとして分かりません。この年になっても、何が何だか、まったく分からないままに生きています。