すべてよし

明日は朝から会議なのですが、どうにも気が乗りません。どうも、ほんとうに、他人に会うのが億劫です。そうするとすぐにもっと外に出ろとかひとと交われとか言われるのですが、そういうひとに限って、実はけっこうパワフルに他人を排除していたりする。オープンなふりをして、ものすごくクローズドだったりする。でもどっちみちぼくらはどうしようもなくオープンで、家に居て窓の外の庭を眺めているだけだって、やっぱりそれは世界と連続しているんです。それが分からないのであれば、家に篭っていても外に飛び出していっても、結局そこにあるのはただ「自分」だけなのではないでしょうか。

などといいつつ、仕方がないので外に出かけます。自分を守るために透明な壁をイメージして、周囲にめぐらせます。そんなことをしていると、もう少し他人に心をひらけよ、などと真っ当なことを真顔で言われてしまったりしますが、ぼくはやはり、どうしてもそういう彼ら/彼女らが無自覚的に身につけている、他者を押しつぶしても傷ひとつつかない「正しさ」という鎧――あるいはそれは皮膚なのかもしれません――が怖ろしく、かつ身震いするほどの嫌悪感を覚えずにはいられないのです。確かに、彼らには幻想としての防御壁など、必要性のかけらも感じられないのでしょう。しかし、真に幻想なのは、彼らの分厚い皮膚のほうだと、ぼくは思うのです。

真っ当に生きる彼ら/彼女らは、しばしば、したり顔でぼくにアドバイスをしてくれます。ありがとうそのとおりだねと莫迦のようにへらへらしながら、その時間をやり過ごしたあと、とにもかくにも生き延びたと、ただただほっとします。生き延びることに価値があるわけでも意味があるわけでもありませんが、価値がなく無意味であってもなお、存在する限りにおいてぼくらはどうしようもなく存在し続けています。時折、マチスモだと誤解をされますが、全然、そんなことはありません。むしろぼくは、就職して結婚して子供を産んで病院に行ったり車を買ったり家を買ったり、さらには人生に悩んじゃったりさえする、そういう人びとが持つ「真っ当な」強さに、心底恐怖しか感じません。

でも、ほんとうにそうなのでしょうか。こんなことはすべて、それこそぼくの幻想なのではないでしょうか。あるいはもし現実にそうであると思っている彼ら/彼女らが居るのであれば、そういった彼ら/彼女らとぼくが共同で作りだしている幻想なのではないでしょうか。そうでなければ、自分がどうしてここまで自分の感じていることをわざわざ言葉にしようとするのか、その根源的なところでの駆動力を理解できなくなってしまいます。言葉にするということは、伝えるべき誰かが居るということに対する無条件の信頼に他ならないのですから。けれども、その信頼とは、決して、正義でも善でもありません。それは常に、ただ在るということから出発し、ただ在るということへと戻っていくだけをしか導かない信頼です。

そんなこんなで、よっこらせと外へ出かけていきます。いやだいやだ、つらいつらい、こわいこわいと呟きつつ、その苦痛と恐怖の向こうに、世界のすべてが拡がっているのが見えます。そうして、ただ、それだけです。

ただの化石かもしれないけれどそれはかつて在った何かが這いずった確かな痕だ

最近急に書かなくてはならない原稿が増え、いま、今年中に書かなくてはならない原稿が5本あります。結局のところぼくらは業績でしか評価されないという面もあり、そういった意味ではありがたい話なのですが、それでも、あまりにひどいテーマで執筆依頼が来ると、書かせてもらえるなんてありがたやありがたやと土下座しながら小躍りしつつ、同時に憂鬱な気持ちになってきます。とはいえ、もともと嘘と言い逃れとその場しのぎだけを友だちにして生きてきたので、恥ずべき糞のようなテーマであっても、何かしら自分なりに抜け道を組み込んで書くことができるのではないかと、何となく能天気に自分を信頼したりもしています。

それとは別に、同人誌のお誘いを受けたり、研究仲間から(まだどんな形になるのかは分かりませんが)共著本を書こうよというお誘いを受けたり、それはそれで大変なのは分かり切っているのですが、でも、とても楽しい大変さです。前者には、名づける者に対して名づけかえす復讐の物語を、後者には、ベンヤミンとバルトの写真論を引きつつ、現代のLifelogを分析するみたいなことを書こうかと思っています。もっとも、恐らく、どちらもいつも通り、最終的には当初の予想とはまったく異なるものになるのでしょうが。

人間、無理をすると、成長なんてしませんね。いや成長するひともいるのかもしれないけれど、普通はしないんじゃないでしょうか。ぼくが弱すぎるだけでしょうか。ぼくもそこそこ長くは生きていますので、それなりにそれなりの無理は経験してきました。そうして、そういった体験によってどうなったかというと、自分の持っている可能性や力といったものが容赦なく削り落とされてしまうだけでした。それは老いるとかなんとかではなくて、純粋に、システムが人間に対して働く暴力です。そうして、システムは人間の欲望の延長線上に生みだされたものでもあります。

でもまあ、何だって良いんです。どうせどんな時代に生きていたって、そういった暴力のなかでぼくらは生きざるを得ないのですから。諦めているわけでも、そういったなかでも生き残る俺マッチョ、と誇るわけでもなく、単に、ぼくらがどうしようもなくあがいているという事実があるだけです。ぼくの視線は、つねにそのあがいている姿それ自体に向いてしまいます。システムがどうとか、どうも、あまりそういうことを考えるのには向いていないようです。

ぼくの場合は、いろいろなものが削ぎ落とされ、なおあがくその姿は、何かを書く、書き続けるということにおいて現れます。正直、論文なんていくら書いたって職にありつけるわけでもなし、職にありつくことが目的でもなし、でもありつけなければ現実問題あと数年で食べることすらできなくなるし、そしてそれは凄まじくシビアな話であるにもかかわらず、やはり、どうでも良いのです。いや良くはないし何とかしなければならないのですが、ある次元においてそれは、ぼくのことでありながらぼくの手を離れてしまっていることでもあります。

ほんとうは、彼女とふたりで、ただ心静かに暮らしたいだけなのです。何千冊という本を読んできたし、とんでもない時間とお金を勉強するためにつぎ込んできたし、でも、そんなことはすべてどぶに捨ててしまったって良いんです。でも、そうはいかないんですよね。生きている誰もがそうであるように、生きている限りにおいて、ぼくもまたあがき続けるしかありません。生きること、在ること、あがくこと。哲学なんて所詮はトートロジーで、それだけで良いんです。

糞のようなテーマの依頼原稿も、出版される可能性のない写真論も、中途半端に神を憎んだ物語も、とにかくぜんぶひっくるめて、文字を刻んでいこうと思います。刻んだぶんだけ前に進めるのなら、誰にも見出されることのない痕跡しか遺せないとしても、それはそれで、十分なのです。

小さな子供でさえ撮影者を撃ちかえすために銃を抜く

猫磁針
相棒が、大学の部屋を掃除したときに発掘された古い方位磁針をぼくにくれた。野帳に挟んで、方位を確認しながらメモを取れるようになっている。ぼくは、最近庭仕事を始めた彼女に、”Derek Jarman’s Garden”を贈った。とても良い本だ。ちなみに、写真に写っているのはLingisの”Wonders seen in Forsaken Places”。これもまた素晴らしい本。

英語などろくすっぽ読めないけれど、彼女と寝そべりながら、分かりもしない英文を読み、写真を眺める。

ぼくらは、実はもう死んでいるんだよな、と、ふと感じる。

そんな感じさ、いつだってそうさ。

先日、相棒とふたりでインターメディアテクへ行ってきました。設備にもお金がかかっていますし、展示品の質、量ともにたいしたものです。それでも、そこにそこはかとなく漂う暴力性は、いったい何なのでしょう。そうして、そこに群がる人びとから漏れだす下品さは、いったい何なのでしょう。そう書くと、何を上品ぶっているのか、といわれるかもしれません。お前だってそこに居たのだろう、と。それはそれで、仕方のないことです。あの暴力性に気づかないひとに、ぼくはかける言葉を持ちませんし、持とうとも思いません。小学生くらいの子供が、動物の骨をみて、携帯電話を掲げ、親に写真を撮って良いかどうかを訊いていました。それはそれで、ただそれだけのことです。

ぼくは自分の凡庸さに誇りを持っています。凡庸さというのは、ぼくらが持ち得る最大の武器です。なぜなら、凡庸なぼくらが犇めいているこの世界こそが、凡庸なぼくらが生きている世界だからで、それをそのものとして見通すことができるのは、そこにいるぼくらを措いてよりほかにはないからです。だけれども、凡庸というのは、けっして多数であるということではありません。それをかんちがいした途端に、ぼくらは暴力に対して鈍感になり、下品になっていきます。下品さというのは、唯一固有の生命に満たされたぼくら自身に対する最大の罪であり、かつ最大の罰であると、ぼくは思います。

愚鈍な連中にかける憐憫など、欠片も持ち合わせてはいません。ぼくらのリソースには限りがあります。手持ちの愛はあまりに少なく、選んだものに対してさえ、足りるかどうかは分かりません。自分が、どんどん残酷になっていくのを感じますし、それが悪いことだとも思えません。

だけれども。

その日は、彼女とのひさしぶりのデートでした。デート。莫迦みたいだけれど、良い響きですね。残念ながら食事の運は悪く、夕食のとき隣席についた人びとの会話、その内容と笑い声のあまりのひどさは耐えがたいほどでした。けれども、やがてそれがある一線を超えたとき、そのあまりの救いがたい愚劣さに、 思わずくすくすと笑ってしまったのです。

それは決して愛などではなく、ぼくらが嵌りこんでいるこのどうしようもない世界そのものへの諦念に近いのではないだろうかと、ぼんやり、ぼくは思います。それでも、そこには確かに、糞のような自分自身に対してさえをも含んだ、しようがねえなあ、という透明な微笑が在らざるを得ないのです。

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きょうはひさしぶりに音楽を聴きました。何だかとても音がクリアに聴こえて、違う音楽を聴いているような気持になりました。それぞれの音があまりに硬く澄んででもばらばらで、その音の向こうにやがてぼくらみなが行くことになるどこかが透けて見えて、寂しくはないけれど、少しばかり、こころがしんとしたのです。

不定点非観測

たとえば、都市には自然がない、なんて話になるといつも思うのは、でもやっぱり足下には蟻が這っているじゃない、ということなのです。自然が破壊されて云々、という意見には、もちろんぼくだって同意します。でも、都市には自然がない、といってしまうそのひとは、足元を這う数えきれない虫たちを、自然ではないとして目も向けず気づきもせずに踏んづけて歩いていくのでしょうか。そういった話をしているのではない、といわれそうですが、実はどうも、いまだに彼らが何をいっているのかがよく分かりません。

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偏平足だね、と彼女にはしばしばいわれます。足の裏を眺めてみれば確かにぺったりしていて、土踏まずのつの字くらいしかありません。それでも、別段、長距離歩行に支障があるわけではなく、むしろぼくは、相当長時間歩いても、疲れることはありません。もっとも、もし土踏まずがあれば、もっともっと長距離を歩けるのかもしれませんが……。バランス感覚のなさというのは、もしかすると偏平足のせいかもしれませんね。

とにかく、ぼくは良く歩きます。てくてくてくてく。けれども、残念ながら、この散歩というもの、誰かと一緒にというのは、なかなか難しいのです。でもこれはあたりまえですね。例えばふたりで居るときはふたりのリズムがあるのであって、それはどちらかが我慢するとかいうことではなく、どちらかがどちらかに合わせるということでもなく、そこで新たな散歩のかたちが生まれているのだと思います。理想論、ということではなく、単純な事実として、そうなのだと思うのです。

だから、散歩をするとき、3人いれば3人のリズムになるし、1024人いれば1024人のリズムになる。1兆人いれば、1兆人のリズムになる。それは人間だけではなくて、蟻も、風も、ビルも星も、歩いているぼくの隣に在るすべてのもの、隣に在ることをとおしてぼくを在らしめるすべてのもの、過ぎ去ってゆくもの、ぼくが過ぎ去ったあとに残るすべてのもののリズムとともに、けっこう、ぼくらは散歩をしているのではないかと、ぼくは感じるのです。

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何をいっているのかよく分からない、とか、それは分かっているけれどそのうえで、とか、そういうふうにしばしばいわれます。それは悪いことではなく、ぼくだって、相手に対してそう思うのです。そうして、そう思っているのは互いにだけであって、ほんとうのところは、お互い、何も分かってはいないのだとも思います。

歩いているじゃない? と相手にいいます。それで終わりなのですが、けれども、それで? と訊きかえされます。あ、そうなんだ、そうだよね、とぼくは心のなかで思い、そうして、それだけです。伝わるひとを、ぼくは何十年もかけて、ほんの数人見つけました。けっこう、この人生としては、それで十分なのです。

きみが殺さないでいられるのは殺されない者からの恩寵だ

これは良いことなのか悪いことなのか分かりませんが、いえ、たぶんやはり良いことなのでしょう。ぼくは根がどうしようもなく単純なので、疲弊しきっているときでも、特に状況が改善しているわけでもないままに、ほんの一瞬、これが研究だよねと思える瞬間がくると、自然と心持ちが上向いてきたりします。いまはけっこう、穏やかな気分です。

仕事中に突然割り込んでくる、研究上かかわらざるを得ない先生方の極めて無礼な電話やメールに、心底憂鬱になります。それをきっかけにして沸き起こる様々なことがらへの怒りと憂鬱とで、少し、体調を崩します。それでも、気持ちを仕事に切り替えて重い計測機器を抱え、研究棟の扉を開けようとして鍵がかかっているのに気づかず、「うっうっ!」などといいながら繰り返し扉に激突し、ようやく開けて外に出て、蟻を踏まないように地面を視線で掃き、一瞬空を見上げてそこに一面を覆い尽くすほど巨大な楓の葉のかたちをした雲があるのを眺めたりして、その瞬間、すべての鬱屈を忘れたりもします。

いま、J-L.ナンシーの『フクシマの後で』を繰り返し読み直していて、やはり、そういうときが、いちばん穏やかになれます。というと誤解をされるかもしれないけれど……。タイトルだけをみると、不快に思うひともいるかもしれません。ぼくも、安易に先の震災に「群がる」「哲学者」をみると、吐き気を催します。けれども、やはりほんとうの哲学者の言葉は、学問という枠組みを超えて、時代も社会も国も超えて、ぼくらの心に迫ってきます。

穏やかになれるというのは、なんていえばいいのかな、普段、研究をしているとかいっても、ぜんぜんそんなことはないんですね。下らない雑務に追われるばかりだし、書きたいと思うことは書けないし、「先生」なんて呼ばれている小利口な技術を持っているだけの連中に頭を下げ続けなければならない。でも、それでもやっぱり、そのどこかには研究があるんです。自分の独り遊びとしてではない、世界に開かれたものとしての研究が。その欠片に少しでも触れる瞬間、心が穏やかになれるのです。要するにそれは、自分が居て、同時に、無数のあらゆる他者からなる世界が在るということへの実感なのだと思います。

障子を開けて、小さな築山を眺めながら、学会業務など部屋の隅のごみ箱に放り込み、草叢を這う蟻たちを眺めながら、研究書を読んだりします。ジャングルのなかを歩いている相棒からメールが届き、いつも通りユーモラスな文章に微笑んだりします。ぼくも彼女も、アカデミズムとやらの世界の中では最底辺を生きていて、いつまでそこに居るかも分かりません。それでも、別段かまわないのです。少なくともぼくらは、研究とは何かを知っています。そうして、それはほんとうは、生きている誰もが知っていることです。

人間の顔

もうこれで冒頭の書き直しが4回目なのですが、なかなか楽しいお話を書きだすことができませんね。今回はうまくいくでしょうか。何となくうまくいく気がします。楽しいことがいまのところ何ひとつ思いつかないのですが、大丈夫です。要は研究のことも仕事のことも家のことも書かなければ良い。そうだ、濡れたジーンズのことでも書きましょう。

昨日はとある会合に出ました。しかし着ていく服がありません。いつも同じことを言っている気がしますが……。仕方がないので、夜中寝る前に、脱いだ服とジーンズを洗うことにしました。夏なんですから一晩あればジーンズだって乾くでしょう。無論、乾きませんでした。しかし、平熱が38℃に近い私です。多少濡れている服だって、着てしまえば、家を出て駅につくまでのあいだに乾いてしまうことでしょう。麻のシャツは乾いていたので、湿ったジーンズに脚を無理やり通し、その感触の気味悪さにうへぇへぇと薄く笑いながら、気分も中身もすっかり変質者です。駅に着くころにはジーンズはすっかり乾いていましたが、その晩家に帰ってから見てみると、白いPHSは青く、ポケットティッシュも青く染まっていました。青いポケットティッシュでかんだ鼻も、すっかり青くなっています。指先も脚も青く、目の下は疲労で青黒く落ち窪んでいます。まるでパンダが見る悪夢に登場するパンダのようです。

自分が2枚目でないことなど、34年前にはすでに気づいていました。それにしてもこれは酷い。そういえば、彼女とつい最近、自己イメージについて話をしました。ぼくはもともと、フィールドワーカーになりたかったのです。バイクに跨って中南米を疾走するフィールド系哲学者。訳が分かりませんね。けれども、あるとき彼女の部屋でくつろいでいたとき、ぼくの苦手な虫が出てきました。ほんの3、4センチしかない、どうということもない虫です。けれどもそれを見ただけで、ぼくの精神は完全に変調をきたします。きたしているところにまたもう1匹、同じ種類の虫がのこのこやってきます。――終末の世は来たれり! ぼくは叫びます。虫などまったく意に介さない筋金入りのフィールドワーカーである彼女を見ると、ぼくには到底、魑魅魍魎としか思えないような昆虫が跳梁跋扈するジャングルを駆け巡ることなどできそうもないことを実感します。それでも、しばらくするとそんなことは忘れ、なーに俺だっていざとなればフィールドを疾走する哲学者になれるのさ、などと呑気に想像したりします。

ぼくはけっこう、陰惨な人間です。だけれども、それも所詮は自己イメージの話です。客観的に眺めれば、つねにぼんやり、少し間抜けに笑っている。たぶん、そんなのが、ぼくなのです。書き直して消してしまった文章に、自分の持つ暴力性に対する恐怖感を書いていました。けれどもまあ、実際のところ、そんなに恐怖を感じる必要はないのかもしれません。羊の皮を被った狼などではなく、自分の中身が狼なのではないかと怯えているだけの羊。毛を刈ってしまえば、その下にあるのは……。いえ、やっぱりそこに見えるものは、きっと人間の顔をした、最大の恐怖の対象なのでしょう。