たとえば、都市には自然がない、なんて話になるといつも思うのは、でもやっぱり足下には蟻が這っているじゃない、ということなのです。自然が破壊されて云々、という意見には、もちろんぼくだって同意します。でも、都市には自然がない、といってしまうそのひとは、足元を這う数えきれない虫たちを、自然ではないとして目も向けず気づきもせずに踏んづけて歩いていくのでしょうか。そういった話をしているのではない、といわれそうですが、実はどうも、いまだに彼らが何をいっているのかがよく分かりません。
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偏平足だね、と彼女にはしばしばいわれます。足の裏を眺めてみれば確かにぺったりしていて、土踏まずのつの字くらいしかありません。それでも、別段、長距離歩行に支障があるわけではなく、むしろぼくは、相当長時間歩いても、疲れることはありません。もっとも、もし土踏まずがあれば、もっともっと長距離を歩けるのかもしれませんが……。バランス感覚のなさというのは、もしかすると偏平足のせいかもしれませんね。
とにかく、ぼくは良く歩きます。てくてくてくてく。けれども、残念ながら、この散歩というもの、誰かと一緒にというのは、なかなか難しいのです。でもこれはあたりまえですね。例えばふたりで居るときはふたりのリズムがあるのであって、それはどちらかが我慢するとかいうことではなく、どちらかがどちらかに合わせるということでもなく、そこで新たな散歩のかたちが生まれているのだと思います。理想論、ということではなく、単純な事実として、そうなのだと思うのです。
だから、散歩をするとき、3人いれば3人のリズムになるし、1024人いれば1024人のリズムになる。1兆人いれば、1兆人のリズムになる。それは人間だけではなくて、蟻も、風も、ビルも星も、歩いているぼくの隣に在るすべてのもの、隣に在ることをとおしてぼくを在らしめるすべてのもの、過ぎ去ってゆくもの、ぼくが過ぎ去ったあとに残るすべてのもののリズムとともに、けっこう、ぼくらは散歩をしているのではないかと、ぼくは感じるのです。
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何をいっているのかよく分からない、とか、それは分かっているけれどそのうえで、とか、そういうふうにしばしばいわれます。それは悪いことではなく、ぼくだって、相手に対してそう思うのです。そうして、そう思っているのは互いにだけであって、ほんとうのところは、お互い、何も分かってはいないのだとも思います。
歩いているじゃない? と相手にいいます。それで終わりなのですが、けれども、それで? と訊きかえされます。あ、そうなんだ、そうだよね、とぼくは心のなかで思い、そうして、それだけです。伝わるひとを、ぼくは何十年もかけて、ほんの数人見つけました。けっこう、この人生としては、それで十分なのです。