そんな感じさ、いつだってそうさ。

先日、相棒とふたりでインターメディアテクへ行ってきました。設備にもお金がかかっていますし、展示品の質、量ともにたいしたものです。それでも、そこにそこはかとなく漂う暴力性は、いったい何なのでしょう。そうして、そこに群がる人びとから漏れだす下品さは、いったい何なのでしょう。そう書くと、何を上品ぶっているのか、といわれるかもしれません。お前だってそこに居たのだろう、と。それはそれで、仕方のないことです。あの暴力性に気づかないひとに、ぼくはかける言葉を持ちませんし、持とうとも思いません。小学生くらいの子供が、動物の骨をみて、携帯電話を掲げ、親に写真を撮って良いかどうかを訊いていました。それはそれで、ただそれだけのことです。

ぼくは自分の凡庸さに誇りを持っています。凡庸さというのは、ぼくらが持ち得る最大の武器です。なぜなら、凡庸なぼくらが犇めいているこの世界こそが、凡庸なぼくらが生きている世界だからで、それをそのものとして見通すことができるのは、そこにいるぼくらを措いてよりほかにはないからです。だけれども、凡庸というのは、けっして多数であるということではありません。それをかんちがいした途端に、ぼくらは暴力に対して鈍感になり、下品になっていきます。下品さというのは、唯一固有の生命に満たされたぼくら自身に対する最大の罪であり、かつ最大の罰であると、ぼくは思います。

愚鈍な連中にかける憐憫など、欠片も持ち合わせてはいません。ぼくらのリソースには限りがあります。手持ちの愛はあまりに少なく、選んだものに対してさえ、足りるかどうかは分かりません。自分が、どんどん残酷になっていくのを感じますし、それが悪いことだとも思えません。

だけれども。

その日は、彼女とのひさしぶりのデートでした。デート。莫迦みたいだけれど、良い響きですね。残念ながら食事の運は悪く、夕食のとき隣席についた人びとの会話、その内容と笑い声のあまりのひどさは耐えがたいほどでした。けれども、やがてそれがある一線を超えたとき、そのあまりの救いがたい愚劣さに、 思わずくすくすと笑ってしまったのです。

それは決して愛などではなく、ぼくらが嵌りこんでいるこのどうしようもない世界そのものへの諦念に近いのではないだろうかと、ぼんやり、ぼくは思います。それでも、そこには確かに、糞のような自分自身に対してさえをも含んだ、しようがねえなあ、という透明な微笑が在らざるを得ないのです。

* * *

きょうはひさしぶりに音楽を聴きました。何だかとても音がクリアに聴こえて、違う音楽を聴いているような気持になりました。それぞれの音があまりに硬く澄んででもばらばらで、その音の向こうにやがてぼくらみなが行くことになるどこかが透けて見えて、寂しくはないけれど、少しばかり、こころがしんとしたのです。

コメントを残す