これは良いことなのか悪いことなのか分かりませんが、いえ、たぶんやはり良いことなのでしょう。ぼくは根がどうしようもなく単純なので、疲弊しきっているときでも、特に状況が改善しているわけでもないままに、ほんの一瞬、これが研究だよねと思える瞬間がくると、自然と心持ちが上向いてきたりします。いまはけっこう、穏やかな気分です。
仕事中に突然割り込んでくる、研究上かかわらざるを得ない先生方の極めて無礼な電話やメールに、心底憂鬱になります。それをきっかけにして沸き起こる様々なことがらへの怒りと憂鬱とで、少し、体調を崩します。それでも、気持ちを仕事に切り替えて重い計測機器を抱え、研究棟の扉を開けようとして鍵がかかっているのに気づかず、「うっうっ!」などといいながら繰り返し扉に激突し、ようやく開けて外に出て、蟻を踏まないように地面を視線で掃き、一瞬空を見上げてそこに一面を覆い尽くすほど巨大な楓の葉のかたちをした雲があるのを眺めたりして、その瞬間、すべての鬱屈を忘れたりもします。
いま、J-L.ナンシーの『フクシマの後で』を繰り返し読み直していて、やはり、そういうときが、いちばん穏やかになれます。というと誤解をされるかもしれないけれど……。タイトルだけをみると、不快に思うひともいるかもしれません。ぼくも、安易に先の震災に「群がる」「哲学者」をみると、吐き気を催します。けれども、やはりほんとうの哲学者の言葉は、学問という枠組みを超えて、時代も社会も国も超えて、ぼくらの心に迫ってきます。
穏やかになれるというのは、なんていえばいいのかな、普段、研究をしているとかいっても、ぜんぜんそんなことはないんですね。下らない雑務に追われるばかりだし、書きたいと思うことは書けないし、「先生」なんて呼ばれている小利口な技術を持っているだけの連中に頭を下げ続けなければならない。でも、それでもやっぱり、そのどこかには研究があるんです。自分の独り遊びとしてではない、世界に開かれたものとしての研究が。その欠片に少しでも触れる瞬間、心が穏やかになれるのです。要するにそれは、自分が居て、同時に、無数のあらゆる他者からなる世界が在るということへの実感なのだと思います。
障子を開けて、小さな築山を眺めながら、学会業務など部屋の隅のごみ箱に放り込み、草叢を這う蟻たちを眺めながら、研究書を読んだりします。ジャングルのなかを歩いている相棒からメールが届き、いつも通りユーモラスな文章に微笑んだりします。ぼくも彼女も、アカデミズムとやらの世界の中では最底辺を生きていて、いつまでそこに居るかも分かりません。それでも、別段かまわないのです。少なくともぼくらは、研究とは何かを知っています。そうして、それはほんとうは、生きている誰もが知っていることです。