貫通

ふたたびひさびさのブログ更新です。とはいえ何か特別なできごとがあったわけでもなく、ひたすらひたすら、平凡な日常が続いています。最近は出社することも増えてきて、電車の行き帰りでだいぶ本や論文を読んでいます。何しろ通勤時間が長いので、読む時間はたっぷりあります。往復で5時間半を超えるくらいの通勤時間の内、4時間半以上は電車のなかですので、それを利用しない手はありません。ところがしばしば頭痛を発症してしまい、文字が読めなくなってしまいます。正直これはダブルミーニングで痛い。

頭痛は何をきっかけに始まるのか良く分かりません。もちろん、ストレスや寝不足、疲労などから起きることはありますが、それだけではない。最近気づいたのですが、どうやら情報量が多いものを目にすることもきっかけのひとつらしいのです。だから本もそうなのですが、確実にやばいのは人の眼です。他人の眼を見てしまうと、よほど調子のよいときでない限りまず確実に頭痛が始まります。ぼくが対人恐怖症の気があるからかもしれませんが、人間の眼って、物凄い情報量を持っていますよね。それを見てしまったぼくの目から送られてくる情報に対して脳が過負荷となり、頭痛が起きる。ライアル・ワトソンのイカのように、ぼくの目もまた、ぼくの脳と精神には不釣り合いに高機能すぎるのかもしれません。無論、ぼくもわざわざ他人と目を合わせようなどとはしませんが、しばしばこちらの方をじっと見てくるひとっているじゃないですか(この発言の時点でちょっとアレですが)。視線というのは視野周辺にあっても強力なので、もう疲れてしまうし脳は発熱するし、困ります。

先週から後期の講義が始まりましたが、オンライン講義というのは、いまひとつ気分が盛り上がりません。無論、自分の感情など問題ではなく、与えられた条件で良い講義をするのは当然です。けれども、やはりオンラインというのはどうも苦手です。講義の良さとは何によって測れるのか、いろいろな考え方があるでしょう。ぼくの場合はライブ感がけっこう命で、だからやっぱりリアルな場で語るのが好きだし、そこから見えてくるものが大事だよねと思っています。もしかすると、とある学生が突然ぼくを刺しに走り寄ってくるかもしれない。その緊張感がライブであることを、そしてライフを実感させるし、まあそんな話、どうでも良いですね。とにかく、人の眼を怖がる対人恐怖症のぼくが言うのも何ですが、講義は、ぼくは、対面でなければなあと思うのです。

友人の彫刻家に、オンライン講義だといまひとつ乗れないんですよねと話をしていたとき、彼が、オンラインによって表現が根本的に変化するということに対して――善悪の問題ではなく――あまりに無頓着なアーティストが多すぎるよね、と言っていました。それはとても良く分かるのです。オンラインはオンラインのメリットデメリットがあるとか、その利点を生かしてどうこうとか、時代の変化が云々とか、そういうこととはまた別に、それはそもそも完全に別の何かであるということ。その何かが何なのかについて、ぼくらはまだほとんどまともに議論をしていないし、議論をする土台さえ持っていないと、ぼくは感じています。

彼女とふたりで、ひさしぶりに美術館に行ってきました。東京都写真美術館で開催中の「エキソニモ UN-DEAD-LINK」。エキソニモは世界的に見ても注目すべき最先端、最深部に位置するアーティストだとぼくは思っていて、この展覧会も観る価値は絶対あるので、興味のある方にはお勧めです。ぼくらはちょっと用事があってすぐ近くのホテルに泊まっていたため、朝、開場と同時に行き、比較的のんびりと観てまわりました。観客もほとんど居ないなか、珍しく恐怖も怒りもなく、人間の生や技術、そして美について、ぼんやり考えながらうろうろしていました。UN-DEAD-LINK、タイトルが素晴らしいですね。デッドリンクのさらに向こうにあるもの。直観が、言葉にできないリアルの総体を感じ取ります。でも展覧会のサブタイトル「インターネットアートへの再接続」、これはあまり良くない。勝手な想像ですが、これはエキソニモが考えたサブタイトルではないような気がします。良くないというか、単純に理に落ちている……。理に落ちるところに美はありません。

最近CDコンポを買いました。どうってことのない話なのですが。それで引越し時に片づけてしまっていたCDを改めて引張りだしてきて、ひさびさに音楽を聴いています。1980年代から90年代のアルバムを聴いていると、その音色だけで、ああそうだったよねと、形にならない記憶を思い出します。恐怖と切望。既に当時そうであったもの、いまとなってはそうなったもの。大学の部室で講義にも出ずに音楽を聴き、夕方彼女が部室に来て、うだうだとした時間を過ごして。当時から対人恐怖症だったぼくですが、けれども、そのときのその場のすべてを覚えているし、そのときそこに居たすべての人の表情と息遣いを覚えているし、そしてそれは、いつまでもそこに在ります。

インターネットになんて何にもないよね、と、技術者でありメディア論研究者であるはずのぼくは彼女に言います。そこには道に落ちているひとつの小石に刻まれた情報の百万分の一もありませんし、インターネットなんて、ほんとうは無くたって困らない程度のものでしかありません。だけれどもそれを言うのなら、ぼくらが発するすべての言葉だって、すべての本だって、すべての記憶だってすべての××だって、たいした情報量があるわけではありません。問題はそれが世界を内包しているかどうかであって、その背後、あるいはその裂け目の向こうがどこへつながっているのかなのだとぼくは思います。

何だか最近このブログ暗いですね。次は明るい話を書きましょう。頭痛で穴だらけの脳みそには陽ざしが燦々と降り注ぎ、何てったってそこは常に能天気。

本を読まないということは、そのひとが孤独ではないという証拠である。

タイトルは太宰治『人間失格/グッド・バイ』(岩波文庫)から。

そんなこんなで、noteを始めました。いま出版文化の置かれている状況が非常に悪化していて、できる範囲でやれることをやろうと思ったのです。ですので、noteの方では原則的に出版支援用のリンクと、この本良いよねとぼく自身がお勧めできる本の紹介文に限定して投稿しています。もしよろしければ覗いてみてください。

https://bit.ly/2W7Tqf7

多様性というのは、そしてその維持は、人間にとってはほんとうに難しいことです。ぼくらは多くの場合自分にとって価値があるかどうか、役に立つかどうかで判断してしまって、その背後にある、それらを支えているネットワーク全体には目が向きません。だけれども何かが終わったあとに残されたものが目に見える範囲では変わらないように思えても、結局それは普段から声が大きかったりしたものが図太く残ったからそのように見えるだけで、現実には手遅れなくらいにモノカルチャー化してしまっている。それでも人間は生きていけはするのでしょうが、ぼくは嫌だな、ということです。

あとは、それとはまったく関係なしに、人生もそろそろかたちが見えてきたし、少しくらいは石の下から這い出さないとな、ということもあります。

最近は(というよりも、あまり理解されないのですが昔からずっと)民主主義に関心を持っており、次の研究テーマはもっと直接的に民主主義について、その原理について考えたいなというのと、あとはメディアアートについてもまとめたいので、そういった系統の本の紹介が多くなるかもしれません。それ自体ぼくというフィルターを通して偏ったものですし、出版文化の多様性とか言っているくせにどうなの? と言われればその通りです。しかしまあ、本の紹介って他にもたくさんあるので大丈夫です。それにぼくはやっぱり偏屈なので、ぼくにとっては紙の無駄にしか思えない醜い思想に基づいた本の紹介のために俺の人生一秒だって無駄にしたくないなということがあるので、それはそれで仕方がありません。どのみち、そういう醜い思想に基づいた本って、これからますますのさばるものでしょうから。

いま文化全体が弱っているし、少なくともぼく自身民間で食べてきた人間なので、芸術というのはそういう俗世の状況とは関係なしに、真に美しいものは残るんだよとか、そういう主張には同意できないし、好きではありません(そういう考えが間違っているとは思いませんが)。必死に足掻いて、お金の勘定をして、ある点では社会に迎合して、そうやって必死に生き残るなかで、いま生きている人間にとって意味のある美が、コミュニケーションが生まれるのだと、ぼくは思います。

ミノムシワークス

このブログでは、ぼくはなるべく時事的な問題については書かないようにしています。あるできごとが生じたとき、それぞれのひとが置かれた状況によりそれをどう捉えるかはまったく異なるし、そもそも「捉える」などと客観的に言えないほどの苦しみや恐怖を感じているのであれば、そこでぼくが何か共有し得るような言葉を書けると思うこと自体が驕りです。それでも、確かにそこには共有し得ること/ものがあるし、同時に、あたかも誰もが共通して経験しているかのように思えるその時事的な事象そのものにではなく、むしろどうということのない個人的で淡々とした経験のなかにこそ、その共有し得ること/ものの本質的な形があるのではないかと考えたりもします。

あるいは単に、ぼくはあまり強い人間ではないので、こういうときに交わされる強い言葉にはあまり接近できないだけかもしれません。その事象が大きければ大きいほどそれについて交わされる言葉は強いものとなるし、それは、少なくともその半分は正しいことでさえあります。要するに、いつまで経ってもこのぼくが社会的な意味での大人になれないだけなのでしょう。

四月の頭にようやく草稿を書き上げ入稿しました。ほぼ三カ月の遅延ですが、どうにかこうにか書き上げることができました。と言っている傍から、ぼくなりの言葉でいまぼくらが直面している民主主義の危機をどう考えているのかを書かねばなと思い、編集者の方にお願いをして少しだけ書き足し、再入稿しました。民主主義の危機などというとすぐに政治的な云々という対立構造を押しつけられてしまいそうですが、そうではないとぼくは思います。それは政治などよりももっと根源的な、あるいは政治というものこそが僕らが思っているよりももっともっと根源的な、きみと私の関係にあるものです。

きみは存在しているかい? おかげでぼくも存在しているよ

それがきっと、あらゆる存在に対する無条件かつ無限の責任の根源にあるものです。けれどもぼくらは無限には耐えられない。そこから様々な苦しみや悲しみ、様ざまな物語が生じていきます。それがぼくらの創世神話で、その根本にあるのは諦念と、恐らく、自分の死と引き換えにすらできないほどの狂気に満ちた愛です。

そんなことをつらつらと書き足しながら、ついでに、引用文献のチェックもし直しました。もともと彼女が彼女のお祖母さんと一緒に暮らしていた家の改築が終わり、いまはようやく必要な本をすべて本棚に並べた部屋で過ごしています。食い扶持を稼ぐための仕事は在宅勤務となってしまったため、収入的には大幅ダウンですが、原稿を書くという点では良かったのかもしれません。生まれて初めて、ぼくの脳内にあったすべての本のマップを、現実の本棚に具現化することができました。これは想像以上に楽しいことでしたし、完全に具現化することなどは無論できないので、その過程では現実との折り合いをつけなければならず、これはなかなか誰にも伝わらないのですが、ほんとうに吐くかと思うような苦痛もありました。

ともかく、その部屋の中心に立ち手を伸ばせば、インターネットなどなくとも、あらゆる必要な情報に手が届きます。今回の原稿は、これでとりあえずは一段落です(もちろん、この後大量の赤が入ったゲラが戻ってくるでしょう。それも楽しみなのです)。それでも、まだまだ書きたいことはいくらでもあります。それが具体的な言葉になるまでは、他の人たちが書き、書き残した大量の言葉たちのなかで、ゆっくりぼく自身の言葉が結晶化していくのを待つより他はありません。結晶化などという綺麗なものではなく、無数に散らばった言葉の断片のなかをもそもそ動き回りつつ、気に入ったものを自分の身体に纏っていく、言葉のミノムシのようなものかもしれません。いえ、ミノムシだって、もちろんとても美しいものです。とてもとても美しいものです。

草稿をチェックする際に、ネット上の記事を参照している箇所についても確認をしました。この数年の間に書いてきた論文がベースになっているので、幾つかはもう古すぎ、ページそのものがなくなってしまっているものもあります。たかだかテクノロジーに関する幾つかの記事が消えてしまったところで、どうということはないのでしょう。それでも、ネット上の情報というものの消えていく早さを、改めて実感しました。そういえば、この在宅勤務の合間にひさしぶりに覗いてみたぼくが好きだった幾つかのブログも、その大半がもう消えてしまっていました。ブログという言葉自体、もう何やらノスタルジックでさえあります。

それは個人のスタイルの問題で、あるいは社会的な戦いの問題で、強い言葉が決して悪いわけでもないし、誰かが価値判断をできるものでもない。それはむしろ、絶対に必要なものでさえある。だけれども、それでも、ぼくは静かな言葉が好きです。怒りも悲しみもすべて含め、できる限り静かで、叫んでいても静かで、血を流していても透明で、そういう言葉たちが好きです。けれども、そういう言葉たちが書かれていたネット上の場所が、あるときふと訪れると、もう無くなっている。もともとそれは、そうなるからこそ美しい言葉だったのだから、どうしようもないことです。そしてそれは、人間もまた同じです。

別に誰かよりも優れているわけでもなく、ありふれた能力のひとつに過ぎませんが、ぼくは、百の言葉を読み、一の言葉を書くことができます。というよりも、それしかできません。どんな状況でも、どんな激情を抱いても、結局のところはそれができるだけです。在宅勤務になり一日中家に籠っていると、家の外で誰かが話していたり、歩いていたり、その度に怖いなあ、怖いなあと感じます。インターフォンが鳴れば、出るには死ぬる思いで気力を奮い立たせる必要があります。それでも、callingばかりはこちらから切るわけにも、出ないわけにもいきません。外の気配に怯えつつ、出社もしないので無精ひげを生やした中年の男が「お外が怖い」などと言っていることのシュールさに思わず笑いつつ、だからこそ見えるものを書けるうちに書いておこうと、既に在る言葉たちの力をミノムシのように拾い集めつつ、こっそりひそひそと生きています。

網戸越しに見える遠くの木々

仕事帰りにいま住んでいる町を歩いていると、時折ケーキを買うことのあるケーキ屋さんがまだ開いていました。もうそれなりに遅い時間なのですが、そういえば以前、ガラス扉に書いてある営業時間が長いことに驚いた記憶があります。最近、毎週金曜日の夜には、彼女とふたりで「生き残った記念日」を開催しているので、きょうはケーキを買って帰ろうと思い、お店に入りました。そのお店はもうだいぶお年のご夫婦が営んでいるのですが、きょうはおじいさんが店番です。うーん何にしようか悩みますねえ、などと話しながら選んでいると、おじいさんがぼくに、曇っていますか? と尋ねてきました。そういえば、遥か遠く海沿いの工場を出たとき、もう真暗で、月と星がきれいだったのです。だからぼくはおじいさんに、いや、曇っていませんね。ここの空は見上げなかったので分かりませんが、私の職場の方はきれいに晴れていましたよ、と答えます。するとおじいさんは笑って、いえ、ショーケースのことです、といいます。なるほど、ショーケースは一部が水滴で曇り、ケーキの幾種類かはよく見えません。ぼくも笑ってしまい、笑ってしまい……、いえ、このお話、特に落ちはないのです。ぼくはケーキを二つ買って帰りました。

落ちがないまま、ぼくらの日常生活は続いていきます。ここ数ヵ月は原稿を書くという点では非常に厳しい環境にあり、新しい文章を書いているかというと、普段に比べると十分の一がせいぜいです。年を取るにつれ、雑事ばかりが増えていき、しかもそれは単なる雑事ではなく、布団越しの重いパンチのように徐々に気力と体力を奪っていくような雑事です。

それでも、同人誌仲間のひとりの人間関係のおかげで、この数ヵ月の間に、二つの美術館のミュージアムショップに、ぼくらの同人誌を置いてもらえることになりました。そのうちの一つには彼女とふたりで泊りがけで覗きに行き、あたかも無関係な人間のようなふりをしつつ、おや、素敵な同人誌だねえ、これは買わざるを得ないねえ、などと絶叫しつつ一冊購入し、売り上げに貢献してきました。

それからもう一つ、企画書を送った出版社に目を止めてもらえ、本を出せることになりました。ほんとうは叢書として企画していたものですが、研究仲間はそれぞれのタイミングもありますし、研究者としても出版社としてもそれぞれに独自のスタイルがあります。それが合っているところと出会えることになったので、叢書ではなくなりましたが、結果的にはお互いにとって良かったと思います。こういうのって、やはり縁ですし、僥倖です。

ぼくの本についていえば来年中には出版したいので、予定としては年末までに原稿を仕上げなければならず、冷静に考えるとかなりやばい状況のような気もしますが、今年の最後のころには新しい家の本棚の部屋ができているはずなので、お休みの日にはそこに籠って、ぼくが見るこの世界の在り方をじみじみ書いていこうと思います。

本というものは、いうまでもなく、独りで作ることのできるものではありません。良い論文を書けばそれが本になって、しかも良い本になって、とは、ぼくは考えません。そうであるのなら、それは原稿だけ剥き出しで電子書籍か何かにして、Amazonででも売れば良いのであって、かつ、それは決して悪いことではない。けれども、それはぼくにとっての本ではない。古いタイプの人間であるぼくは、本は、やはり紙であり匂いであり、デザインであり、重みであり手触りであり、フォントであり、余白であり、それらすべてです。ページを捲るときの音、それを読む環境、そのすべてです。筆者だけではなくそれを見いだした編集者、デザイナー、DTPの担当者、流通業者、書店の人も、いえもっともっとたくさんのひとたちすべてからなる途轍もない総体の焦点として、ある一冊の本は現れます。

そういう本を作りたいなあと思います。そうはいっても、結局のところぼくにできるのは原稿を書くことだけです。ロジカルなだけのものではつまりませんし、小説になってしまってもいけません。そのどちらでもありどちらでもないような世界を書くこと、あるいはそのように見えている世界を書き表すこと。そしてそれを伝えること。どこまでできるかは分かりませんが、哲学というのはだいたいにおいて喰っていくには向いていないもので、それならせめて、ぼくにとっても、一緒に本を作ってくれる人たちにとっても、そして何よりそれを読んでくれるひとにとっても楽しいものになってくれるよう、地道に書いていこうと思います。

逆アーティスト・イン・レジデンス

もう一年近くブログを更新していませんでした。この一年、ずいぶんといろいろなところへ行き、いろいろなものを見てきましたが、ぼく自身は何も変わっていないようにも思います。

いまは彼女と二人で住んでいる家を建て替えており、その間、友人の彫刻家の家に住まわせてもらっています。彼はいま日本に居ないので、ぼくら二人には広すぎる家の片隅で、ひっそりこっそり、人生におけるある特別なひとこま、ある種の逆アーティスト・イン・レジデンスのような生活をしています。一階には天井の高いアトリエがあり、そこで金魚を飼ったりしています。

この一年の間に二本、論文を書きました。一本は自分にとってメインの研究になるもので、よくまあ書き上げたものだと、後になって振り返れば二度とは書けないだろうと感じるほどの苦労しましたが、それだけのものにはなったと思います。あとの一本はつい最近書き上げたもので、いま流行りの、というにはちょっと古いですが人新世に関するものです。これは依頼原稿なのでどちらかといえば自分の興味とは別のもので、あまり尖ったものではないのですが、とにもかくにも研究者としての人生もそれなりには歩んでいます。

この前、建築中の家に、建築家と一緒に行ってきました。二階に上がる階段もまだなく、梯子を上るしかありません。するする登っていくフィールドワーカーである彼女の後ろを壊れたロボットのようによちよち這い登ると、そこには壁全面を本棚にした部屋の原型がもうできかけています。人文学をやっている者として、やはりあるところまでは本が必要ですし、本とともに在るような人間でなければまともな研究はできないとぼくは思っています。それは、過去の偉大な人びとの名前を借りて威を誇るようなことではなく、純粋に、かつて在った言葉とともに在れるか、ということです。これまでは頭の中にだけあった自分だけの図書館を具体化したこの部屋ができるのは、ほんとうに楽しみです。それは、手を伸ばしたところにその言葉が待っていてくれる、言葉がぼくを呼んでいるところに手を伸ばせるという、身体行動に直結した喜びです。

無論、いままでもそれは頭の中でやってきたことなのですが、けれどもやはり、書くということは本質的に身体的なことです。階段を上り下りするだけでもリズム感のなさが露呈するぼくのような人間でさえ、言葉には、あるいは言葉を書くという行為には、どうしようもなくリズムが伴う。だから書きながら踊ったりもする。そうすると頭がどうかしたのかみたいな目で見られたりもしますが、お金をくれない人の評価は気にしない! という最低なスローガンを掲げるのがぼくという人間なので、踊りながら論文を書くのです。けれどもそれは脳内に配置したぼくの手持ちの本と記憶された本へアクセスするための手続きで、この部屋ができれば、それをこの物理的な世界における表現へとシフトできるでしょう。

とはいえ、それはまだ先のお話です。その部屋ができる前に、まずは次の論文を書かなければなりません。というわけで彫刻家の家に本を持ち込み、本を買い込み、既にだいぶ積み上がってしまっています。手持ちの本でさえ、育った家と一時的に借りているトランクルーム、そしていまの仮住まいと三箇所に分散しています。それらを移動させたり掘り出したりしながら、脳内図書館と物理的な配置のマッピングを常に更新しつつ、新しい原稿を書き始めています。

ぼく自身は最近、研究というものは、あるいは論文を書くということは、ひとつのパフォーマンスアートなのだと思うようになってきています。ぼくはある種の全体論的なメディア論の立場を取るので、論文というものも、できあがった電子データなり印刷物なり上の言葉の塊というだけではなく、書いていたときのぎこちないダンスのステップ、ふっと言葉に呼ばれて本屋に彼女と行って一冊の本を手に取ったその瞬間、あるいは次の言葉のリズムが取れなくて「あああああああ」と打ち込み続けるその打鍵の音と感触のすべて、いやもっとたくさんのすべてだと感じています。無論、振り返ってみれば拙い論文ばかりですが、拙いと思うことと誇れることは両立します。誇れるというのは、ぼく自身の能力を超えてそこに在り、何かを語っている言葉たちに対する信頼です。

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ある日、彫刻家と話をしていたとき、ぼくの言葉は極めて攻撃的だと言われました。それは彼の活動を「対話」という言葉によってまとめた極短いステートメント(の叩き台)についてのコメントだったのですが、そのように指摘をされて、深く納得しました。どちらかといえば、というよりも露骨にぼくはコミュニケーションが苦手ですし、過剰な丁寧さによって薄気味悪がられるような人間です。他方で彫刻家は極めてアクティブでオープンな人間で(それが彼の本質というわけでもないのでしょうが)、ある面において徹底してオフェンシブな人間です。でも彼の言葉にはしなやかで強いオープンマインドネスがある。そして確かに、言われてみればぼくの言葉の本質は攻撃的です。それは相手に対しても、自分に対してもそうです。良いのか悪いのかということではなく、本質的なところで何かを壊そうとしている。というよりも、壊れないでいられると思っているものに対する憎悪と激怒と恐怖がある。

だけれども、所詮、そもそも人間の本質に善悪のラベルを貼っても、たいして意味はないでしょう。それが自分の本質なら、それとともに在れば良いだけのことです。そして、それがいちばん難しいことでもあります。

弾が一発しかなくても用を足すには十分過ぎます。他方で、弾が九十六発あれば、それはそれでやったぜ! と思います。だけれど構えるときのスタイルは一定で、狙って撃つということは常に一瞬で永遠です。どれもが本気で一回きりで、目指すは攻防一体の舞。いずれにしてもこの逆アーティスト・イン・レジデンスの期間に、自分のスタイルを確認できたのは得難いことだったと思います。

コントラストロノーツ

とある打ち合わせのあとに時間が空いたので、彼女とふたりで、目黒の庭園美術館でやっている「ブラジル先住民の椅子―野生動物と想像力」を観てきました。この美術展のタイトル、そんなに単純に受け入れられるようなものであってはならないと、個人的には思います。先住民とか野生動物とか想像力とか、そういった言葉遣い、言葉の並びのなかには、どうしてもある種の無自覚的な暴力性が伴わざるを得ないからです。展示の最後の方では現地で撮影したドキュメンタリーを上映していて、そのラストで、製作者たちがひとこと、自分の名前を言ったりするんですね。それは凄く印象的なシーンなのだけれど、でも、そこで彼らが自らを「アーティスト」であると名乗る、自己をそのようにして規定せざるを得ない、そのことの背景にあるものに、やはりぼくらは注意深くあらねばならないと思うのです。それを眺めているぼくらって、いったい誰なんでしょうか。その「誰」とは、いったい何を準拠点として計測されたものなのでしょうか。

でも、それはそれとして、動物たちの椅子はユーモラスで美しいものでした。特に最後の部屋では、黒ベースが多い椅子と白い部屋との対比、そして木の椅子の美しい曲線と白い床に落ちるシャープな影との対比が見事で、めずらしく展示方法として成功しているように思いました。けれども、そこかしこに白いクッションが置かれ、観客がそこに凭れてスマートフォンを弄っているのですが、それはどうなんだろう。これはぼくの反応が病的であることを認めたうえで書くのですが、どうも、そういった人びとから滲みだしている自己意識というものがほんとうに怖ろしく、みなスマートフォンに集中しているので静かは静かなのですが、そこには同時に凄まじいまでの自己意識の叫び声が鳴り響いてもいて、想像力の対極にあるようにも思えるその叫び声に、ぼくはひどく消耗しました。

もちろん、「椅子かわいい」で何も問題はありません。そもそも問題のあるなしなどぼくに決められるわけでもありませんし、実際、下の写真だと伝わりませんが、いろいろな動物を象った椅子はそれぞれにほんとうにかわいいし、ユーモラスです。だけれども、そのワッとしたかわいさとユーモアのどこかに、寂しさがある。そうして、寂しさは同時に静けさでもある。物理的にはどのみち静かな展示室で、でも静けさとにぎやかさ、無音と騒音が幾つもの次元にわたって交差しているのを、彼女とふたりでぼんやり感じていました。

生活派

いろいろあって時間がかかってしまいましたが、ようやく最新の論文がアップロードされました。客員研究員として所属している研究所の、研究部会のウェブサイトから、あるいはぼく自身の(地味ですが)研究業績一覧を羅列しているサイトからダウンロードすることができます。このブログは基本的に匿名的な感じで書いていますが、ぼくの名前をご存じの方はすぐに検索できますので、興味があれば読んでもらえれば嬉しいです。今回は雑誌の表紙も良いので(まだオンライン版しかありませんが)、そちらもぜひ。

先日、長年深くかかわっていた学会をようやく退会できて、そうしたらほんとうに気が楽になって、自分でも驚きました。生きるってこんなに気が楽なことなんだ、みたいな。といっても、仕事の方が泥沼状態に陥っているので、どのみち人生全然楽ではないのですが……。

参加している学会の数が減ると、それはけっこう論文数に直接響いてきますし、特にぼくのようにニッチな研究をしている場合は、その影響は顕著に出ます。知るか、業績のために研究してんじゃねえよ! と、突然キレたりしつつ、何だかんだで楽しく研究しています。仕事は地獄だけれど。でも、苦しいとか楽しいとか、そういう言葉を一つ超えた次元で、やっぱり研究は楽しいのです。そして同時に、そこには生活もあるわけですしお金は欲しいわけですから、庭から石油でもでないかしら、などと環境倫理を一応やっている人間とは思えないような妄想に耽り、ニヤニヤしたりもしています。

毎日、会社に行くのが憂鬱です。それでも、3時間を少し切るくらいの通勤時間のあいだに、次の論文のための本や論文を読んでいると、とても幸せです。アイデアだけは幾らでも湧いてきますし、読んだ内容について議論をする相手だって頭のなかに幾らでも居ます。寂しいひとだ! 正直、パーマネントな職を持っているひとたちは、研究室を持てるというだけでも、というよりその一点においてのみ羨ましいのです。ぼくは、たぶん一番研究に時間を割いているのは、電車のなかです。だけれども、無いものを羨んでも仕方がありません。喰っていくということは生きる上でもっとも重要で欠かせないもので、それがリアリティを生み出します。だとすれば、哲学そのもので食べていけるだけのお金を得ていないぼくは、所詮は傍流でしかないのかもしれません。

だけれども、それこそ「知ったことか!」です。ペンと紙さえあれば、いえ、考える脳さえあれば哲学はできますし、それができないのなら、そいつには結局哲学なんぞできるはずもありません(哲学研究はできるかもしれませんが)。なんて偉そうなことを言いながら、実際にはノートパソコンとインターネットがなければ、論文執筆の効率も相当に落ちるでしょう。お金もないのに、耐震上の問題から早急に家を改築しなければならず、ならばついでに四方の壁全面を作りつけの本棚にした部屋をひとつ作ろうなどと妄想に耽り、再びニヤニヤしたりもします。繰り返しますがお金もないので、相変わらず株に手を出してちまちま小銭を儲けたりもしています。それでも最低限の線は引き、自分の倫理観に照らし合わせて納得の行く企業の株にしか手は出しません。

そんな、嘘と建前と破綻だらけの生活で、それでも、そういった全体からこそ生まれるリアリティがあるとぼくは思うし、そういったリアリティによって支えられる哲学だってあり得るのだとぼくは思います。そんな思いを抱きつつ、だからぼくは、最近、研究仲間の内で自分の立場を「生活派」などと自称して笑っています。あまり伝わりませんが、自分が笑えるのですから、それで良いのです。

今朝、ぼんやり庭を眺めていたら、ガマガエルがのそのそ姿を現し、しばらくしてまた壁の陰に戻っていきました。だからやっぱり、庭から石油などが湧いて出てきたら困ります。困ることばかりですが(もっとも石油は湧いてこないので、それについては困りません)、日常生活は所詮困ることの総体としてしかありはしないのです。だからせいぜい、壊れるまではこの日常のなかで、哲学をしていくしかないのでしょう。それはそれで、リアルで幸福なことだと思っています。

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