手を離すこと

その昔、KiwiのアニメーションがYouTubeにあった。いまでもあるのかもしれない。調べればすぐに分かるが覚えているので調べる必要はない。十数年前だからアニメーションといっても素朴なものだけれど、よくできていた。そのなかで、Kiwiは果て無く切り立った断崖に木を一本ずつ垂直に釘で打ち付けていく。そして気が遠くなるほどの時間を恐らくかけて、やがてKiwiが十分だと思うだけの木を打ち付け終えたとき、Kiwiは崖から飛び降りる。Kiwiは落ちていくけれど、視点を90度回転させると、崖に垂直に打たれた木々の間をまるで飛んでいるように見える。落ちているのではなく。飛べないKiwiの夢。

ぼくはこの動画がけっこう好きで、でも彼女は嫌いだと言っていた。それも分かる。それはKiwiのすべてを、ほんとうにすべてを賭けた夢なのだけれど、でもその対価がKiwiの命だとしたら、ぼくらはそんな、命を賭けなければならないほどの夢に憑かれなければならないのだろうか?

でも、そうではないとぼくは思う。そんな物語では、これはない。それは、何かに憑かれ続けてきたきみが、あるいはぼくが、ついに憑かれていたものとしての自分自身から手を離せたということ、手を離すことの物語なのだ。

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その昔、マイケル・キートンの『マイ・ライフ』という映画があった。名作かどうか、もはや記憶にないけれど、でも、矛盾した言い方だけれど、いつまでも記憶に残る映画だ。マイケル・キートンは名優だし、心霊術師(だろうか)役はなんとハイン・S・ニョールで、この人もほんとうに素晴らしい演技をする人だ。人だった。『キリング・フィールド』のディス・プラン役といえば伝わるだろうか。それはともかく、この映画のラスト、キートンが幻想のなかで、遊園地のジェットコースターに乗って手を離すシーンが、下らない言い方しかぼくはできないけれど、涙なしには見られない。あれも、末期癌に冒されたキートンが、怒りや悲しみ、どうしようもないことへのどうしようもない感情から、ついに手を離した瞬間なのだ。

ぼくらはいつか、手を離すことができるのだろうか? ぼくら自身から。

ぼくの人生の指針につねになってくれる物語が幾つかある。そのひとつはヨブ記だ。ヨブ記を物語と言ってよいのかどうかは分からないけれど。義人ヨブは、どこまでも神により痛めつけられる。それでも自分の義を信じるヨブは、人間としての限界に達するまでの異様な気高さでもって神に抗議する。けれども神はそれに答えず、ただ私(神)が宇宙を作ったとき、おまえ(ヨブ)はどこにいたのか、と訊ねる……。

これは人間が自分自身からついに手を離し神に帰依するもっとも美しい物語のひとつだ。

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だけれども、それは美しく、そこに最終的なこの宇宙すべての真理があるとしても、やはりそれだけではない。最初のKiwiに戻って言えば、そのパロディがあって、そこではKiwiが最後にパラシュートを開いて着地する。それはバカみたいだし、子供みたいなハッピーエンドだけれど、でも、そこにもやはり真理がある。

ヨブ記のラストでも、これは本文批評的には元来別の物語とするべきだろうけれども、唐突なハッピーエンドで終わる。それはあまりに唐突すぎて、それまでのヨブ記におけるテーマがすべてひっくりかえってしまうのではないかという気もするけれど、でもそうではない。Kiwiのパラシュートと同じで、やはりそこにも、人間が人間として生きるということの本質があらわれている。ぼくはそう思う。

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庭のハヤトウリが大量に実をつけた。彼女がそれを収穫して、小さな生き物たちがその占有を宣言していた。ぼくらの日常はそんなふうにして過ぎていく。