リアリティ

最近、ふたたび写真を撮るようになり、といってもぼくが撮れるのは人間以外のものに限られるので小さな虫とか草とか石とか落ち葉になるのですが、とても楽しい。小学生みたいだな。もう少し寒くなると蚊も出てこなくなるでしょうし、そうしたらいまのように痒い痒いと言いながら茂みに紛れて撮ることもなくなります。とにかく、そういう小さなものを撮るのが好きです。普段ぼくらが見過ごしてしまいがちな世界も、そこに焦点を当てて固定すると、当然ですがそこにも美があることに気づきます。善悪を超えた美しさ。存在することの確かさといっても良いかもしれません。いえ、最初からそれらは見えているし、ぼく程度の腕ではむしろその1/1000も写して残すことはできないのですが、わずかに撮れたその写真によって、ぼくが観ている風景を共有することができる。それはとても面白いことです。

ぼくは自分の専門を環境哲学/メディア論と(一応は)名乗っています。ただ環境哲学というのはあまりメジャーではなく、基本的には環境倫理などと類縁的なものとして扱われることが多い。それはそれで間違いではないでしょう。いずれにせよそういったジャンルの研究者たちをずいぶんと見てきましたが、これは批判というよりも疑問として、彼ら/彼女らはあまり小さな景色に関心がないように思えるのです。例えば学会の大会があったりして、研究者たちがぞろぞろ集まってくる。そういったときに足下の蟻んこや落ち葉を見ている人ってあまり居ないのです。いやこれではぼくの方が変な人かもしれませんが、けれどもやはりどうにも肌が合いません。だってきみら環境とか生命とか言ってんじゃん、と思ってしまうのです。人間中心主義を乗り越えるなんて大前提で、もう乗り超えた顔をしている。でもきみら足下見ていないじゃん。落ち葉踏んでんじゃん。

話がマクロだとかミクロだとかではなくて、ではお前は一つも命を奪ったことがないのかなどということでもなくて、その言葉、その立ち居振る舞いにリアリティがあるかどうかなのです。どうしても、ぼくはそこを見てしまいます。最初からウルトラな議論をしているんだぜというのであればそれはそれで構いません。でも生命について少しでも考えるのであれば……。足下を見てくれよと、ぼくはいつも思っていました。

あるいは、例えば環境破壊とか何とか、まあ何でもいいですがそういう議論になるとキリスト教の影響がなどという話が出てくる。そしてたいてい創世記が参照され、人間中心主義がうんたら……などとなります。それはそれで一つのストーリーにはなるでしょう。だけれども……。たとえば

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』マタイによる福音書5章39節

彼ら/彼女らはこの言葉をどう思うのでしょうか。ぼくは自分の論文において(これを言うと毎回意外な顔をされるのですが)常に民主主義について考えてきました。とはいえ、「主義」という言葉には違和感があるので、より人間の本質から生み出されるものとしての「根源的民主性」といったりもしますが、いやまてよ、論文で本当にこの言葉使ったことあるかな。まあいいや。どのみち「民主」という言葉もまた難しいし。しかしいずれにせよ、マタイのこの箇所には、或る人間が自分自身の一切から手を離す途轍もない覚悟が――覚悟するのが〝自分〟であるが故にこれもまた矛盾なのですが――示されています。恐らく、ここにしか、いや他のあらゆる信仰でも文化でも文学でも何でもいい、とにかくこれによって示される在り方にしか可能性はない。ぼくはそう思います。だからぼくは常に怖い。だいたいいつもちびっています。

ぼくは一体何を言っているのでしょう? ぼく自身には分かります。分からないということも含めて。しかしそれを表すには数万の言葉が必要で、しかもそれは結局、数万の言葉では表現できないことを表現するための数万語です。だからお互いに伝わらないし、別段、それはそれで構わないのです。ただ、リアリティのないあらゆる語りには、決して力は宿りません。

blueskyで良い映画の紹介を――といってもわずか数百文字での紹介に過ぎませんが――していて、きょうはLocal Heroについて書きました。これとても良い映画なのでお勧めです。ぼくはこういう単なる紹介が好きで、ただ単に面白いよ、面白いよね、面白いのか、ということをしたい。そこに、我田引水で自分の研究にむりやり接続して暴力的な解釈をしたり、知識の量を誇ったり、ほんとうにそういうのは嫌なのです……。自然につながるのはいいのです。それは凄く良い。そういう研究を私はしたい。けれども、まあぼくの狭く短い経験ですが、純粋な愛を持って映画や文学を語れる研究者を、ぼくはほとんど知ることがありませんでした。じゃあ研究者以外ならいるのかというとそれはそれで難しいですが、けれども、あの異様な特権意識のようなもの、知識マウント、自己が常に先に来て作品はその自己の閉じた眼差しの対象でしかないという異様な酷薄さ、それはやはり研究者特有のものではないかと感じていました。

例えば……今回Local Heroを観ていてあらためて気づいたのは、主人公をサポートする現地支社の社員Danny Oldsenを演じるPeter Capaldi、どこかで見たことがあるなあと思ったらケン・ラッセルの『白蛇伝説』、これ本当に変な映画で、あの時代だから作ることのできたものだと思いますが、そのAngus Flint役だったとか、あるいはホテルオーナー兼会計士であるGordon Urquhartを演ずるDenis Lawsonはスターウォーズで最後まで生き残るパイロット役の人だったとか(子供心にも人がどんどん死んでいくのが嫌だったので、生き残った彼のことは非常に印象深かったのです)、この年になってはっと思い出して一致するような発見があって、それが凄く面白い。でもそれって、そこで伝えたいことって、ぼくが子どものころに、あるいは若いときに観た映画があって、その埋もれていた記憶がふと甦っていま・この瞬間と繋がって、そこから一気に沸き起こる諸々の想念があって……、その全体の雰囲気なんです。知識とかどうでもいい。

なんかね、そういう話をしたいのです。でもって、ぼくにとっての環境哲学とかメディア論とか倫理とかって、そういうことなのです。例によって何を言っているのか分かりませんが。あ、なんか暗いままで終わってしまっ [ここで通信は途絶している。]

朋有り遠方より来る

今回は普段とは異なり、〝物語〟ではなくリアルのお話です。ぼくの数少ない研究仲間である上柿崇英さんが『メディオーム』の解説動画を作ってくださいました。そもそも誰かの単著の紹介、解説、解題、何でもよいですが、それを書くだけでも大変な労力になります。しかも自分の研究のためならともかく、別段、自分の得になるわけでもないのに多くの時間を割いてまでというのはなかなかありません。さらに動画までとなると、もはやこれはありがたいを超えて申し訳ないばかりです。

以下、前後編に別れていますが、ぼくの入り組んだ議論……というよりもどうもあまり共感を得られにくいらしい議論をとても簡潔かつ明快に紹介してくださっているので、ご覧いただけましたら幸いです。こういうの、ぼくはほんとうに苦手でして、自分の議論でさえ的確に最小構成で説明できません。だからまあ、この動画、実はぼく自身がいちばん助かるかもしれませんね。あと、同じチャンネル内にて上柿さんご自身の研究についての動画もありますので、それもぜひ。以下チャンネルへのリンク。

https://www.youtube.com/@kyojinnokata

生まれついてのいい加減な人間であるぼくとは異なり、上柿さんは自分自身でこの時代を、この世界を語れるような思想を作るぜということを真面目に真正面からやっている人です。これはいまの日本のアカデミズムではなかなか構造的に困難なことで、ぼくにはとてもできません。それでも、十年くらい前でしょうか、なぜか「単著をがんばって書こうの会」みたいな会合に誘ってもらい、そこから、当時の大阪府立大学(いまは大阪公立大学)の環境哲学・人間学研究所の客員研究員にもさせてもらいつつ、定期的に研究会をしたりしています。引きこもりなうえにアカデミズムにほとんど関心を失っているぼくが曲がりなりにも研究を続けているのは、こうやって声をかけてくれる研究仲間がいるからで、そういった意味でもぼくの博士課程時代は幸運に恵まれていたのだと改めて思います。ゼミを超えて、大学を超えて、数は少ないけれど得難い研究仲間を得ることができました。

せっかくなのでいくつかご紹介を。上柿さんのnote。環境哲学って何? というのがまとめられています。膨大な量ですが、面白いテーマが幾つもあります。

https://note.com/kyojinnokata

以下は同じく研究仲間である増田敬祐さんと上柿さんの双方の論考が載っている最新書籍(丸善出版)。「多様な未来世界を哲学で思考する新シリーズ「未来世界を哲学する」続々刊行!」とのことで、その記念すべき第一巻。第一章が上柿さん、最後の第四章が増田さんで、内容的にも対称性があり相補的で面白い。お勧めです。増田さんのタイトルは「環境にやさしい世界とは何か」。激しく皮肉が効いています。

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b306066.html

しかしこの企画、何で二人に声がかかって俺に声がかからないんだと嫉妬でギリギリしていたのですが、そもそも「若手・中堅の哲学思想研究者」からなる執筆陣ということで、そりゃぼくは無理です。いやまあ実力的にも業績的にも無理でしょと言われれば、それは……そうなんですが。でも正直うらやましいですね。嫉妬!

次は上柿さんの単著です。めちゃくちゃハードですが、類を見ない稀有な哲学書です。残念ながら版元の農林統計出版が廃業してしまっていますが、上柿さんのサイトに入手方法が書かれています。こちらもぜひぜひ。

https://schs.gendainingengaku.org/book1_detail.html

おお、何か今回は研究者っぽいですね。ついでに、「環境思想・教育研究」に載せた『〈自己完結社会〉の成立』の私の書評も。これは発行元の許可を得て公開しているものです。

https://note.com/kyojinnokata/n/n784b403b18f9

ぼく自身は、古い時代の文学によって形作られたヒューマニズムを魂の根っこ部分に刻み込んでいる人間です。そうして常に、存在しない神と戦わねばなどと訳の分からないことを言っている。そして何よりも、とにかくいい加減で冗談を言っていないと生きていけません。そういった点では、剛速球一本勝負みたいな上柿さんとはぜんぜん研究スタイルは異なっているのでしょう。それでも、近代的な自己概念に対する批判意識は深く共有していますし、何よりも人間が生きているあらゆる次元における有限性(そしてそれゆえにこそ生じる無限性)に対する感覚は、根本部分における共有項です。

上柿さんの『〈自己完結社会〉の成立』もぼくの『メディオーム』も、そういった議論のなかから生まれたひとつの成果です。とはいえそれはもう終わった第一期。いまは次の単著に向けてそれぞれ進み始めているところ。また何か良いものを作れればと願っています。あ、間違えました。良いものが出てきますので、ご期待ください。

それとは別の格好悪さを

ぼくはTSUNDOKUという言葉があまり好きではなくて、いえ本当のことを言えばものすごく嫌いで、漢字で書くのも嫌なのです。その行為、というかその状態が嫌なのではなく、その言葉を平気で使うような精神性が嫌なのです。本って、あっという間に絶版になってしまいますよね。ぼくは90年代から00年代にかけてずいぶん本を買いましたが、いろいろあってその多くを手放しました。いまようやく本を集める余裕が再び少しできてきたときに、じゃあそれらの本をまた手に入れられるかというとこれがひどく難しい。地味地味と集めてはいますが、もう手に入らないものもあるでしょう。ですので、これは欲しいなと思った本は出たときに買っておいた方が良い(実際、ぼくの持っている本には第一版第一刷が多くあります)。そしてそれが重なれば読むのが物理的に追いつかないということも当然生じ得る。それは間違いないのです。

そしてまた、本は大切に保存すればぼくよりもずっと長く生きるものです。だから本を持つということは単に自分が読むためだけではなく、次の時代に残していくための一時的な保管者になるというだけのことでもあります。実際に引き継げるかどうかはともかくとして、理念としては確かにそういった側面がある。

だから、購入した本をすべてすぐに読めなくても、あるいは読まなくても、それ自体が悪いというはずはありません。だけれど、それをその言葉で表現して正当化することに対しては、本読みの本分が直感的に「それはちょっと違うんじゃない?」と抗議の声を上げるのです。そこに何か美しくない居直りを感じ取ってしまう。それは仕方がないことではあるけれど誇るべきことではない。当たり前だけれど、本はやはり読まれなければ命が吹き込まれないものなのですから。本読みってそれができる人のことを言うのですから。

もちろん、ぼくの本棚にも、読んでいない本は幾冊かあります。例えば岩波文庫の『相対性理論』は、いつかすべての義理や雑務から解放されたらじっくり読もうと思っているのです。「時間、空間に対する相対性理論の考え方という、この理論の最も特徴的な部分は[・・・]代数の初歩さえ覚えていれば、誰にでもこの有名な論文の最も素晴らしい点を十分に〝鑑賞〟してもらえるものと確信する」と訳者/解説者の内山龍雄氏も書いていらっしゃるので、物理音痴のぼくでも時間をかければ概要を理解できるのではないかと楽しみにしているのです。あとはチャイティンの『知の限界』、ニュートンの『Opticks』、などなど。もう自分の論文とか関係なしにゆっくり読みたい。それがいまから楽しみです。ちなみにぼくはOpticksはこれを持っていて例によってこれも第一版ですが、ぼくは世俗塗れの人間なのでちょっと自慢してしまいます。とても美しい装幀。

なあんだ、それならこれだってTSUNDOKUじゃないの、と言われれば、けれどもやっぱり違うんだよなあという気がします。その本とぼくの関係は、少なくともその言葉によって示されるような関係性ではなく、物凄く個人的で固有なものであって、だから公言しようのないものです。少なくとも、それは本読みのスタイルを表す言葉ではない……。

本を読むって、何よりもまずコミュニケーションであるはずです。その著者が生きているのであれ死んでいるのであれ、読むときに、そこに対話が立ち現れる。そうでなければ意味なんてないですよね。そして、例えばぼくらが誰かをふと目にしたときに、面白そうだな、魅力的な人だなと思って、でもいまは忙しいとか気分ではないとかで、とりあえずその人を自分の家に連れて帰って、ぼくがその人と話す気になるまで家に居てもらう。そんなことはあり得ないわけです。

もちろん、本は人間そのものではありません。繰り返すけれど、だからTSUNDOKUという言葉で自らの行為を正当化したり居直ったり何故か誇らしげにさえ公言したりするのが嫌なだけで、それが指し示す行為自体を否定しているのではありません。でも最近、こういう居直り、開き直りの言葉が増えてきているような気がして、それがとても怖い。そもそも本を読むひとであれば、言葉に対して鋭敏であってほしい。いやあろうとしてほしい。ぼくだって全然だめですけれども、少なくともそうでありたいと願っています。だから余計に……。

暗い話になってしまった。本来のぼくはとにかくいい加減で能天気なのです。もうこれだけはぜひ知っておいていただきたい。

それはともかく後期の非常勤が始まったのですが、けっこうこれ、暗い話題が多い講義になります。技術者倫理なので、要は問題が起きたときにどうするかみたいなお話をせざるを得ないわけですね。しかも答えは出ない。もちろん、学問としての枠組みはあります。けれど或るXという事例に対して倫理的にはこう応答するのが正しいのじゃ、みたいなものはない。様ざまな枠組みを使ってそのXを多角的に眺めてみることはできるようになるかもしれないし、自分を客観視することも多少はできるようになるかもしれない。それはそれで非常に大切なことです。でも本質的に答えはない。ぼくはそう思います。答えがでないなかで悩み続けること、悩み続けることを引き受けること。

ぼくは体育会系って嫌いでして、もう筋肉嫌い。根性とか大嫌い。武道を学べば礼節を知ることが……、とか聞くと、いわゆる反吐状の物質が口状の生体器官から噴出するくらいです。んなもん人を殴る訓練をしなくても端から知っとるわい、と思う訳ですよ。そんなことを言いつつ筋トレはしているし、ぼくの行動原理は気合と根性が9割くらいを占めている。なので講義では「倫理って答えがない問題ばかりで疲れちゃうかもしれないけれど、普段から悩まないといざというときに悩むことさえできなくてびっくりするから、まあ筋トレだと思ってがんばろう!」とか言っている。どうなんでしょうねこれ。いや本当に筋肉とか根性って嫌いなんですけれども。

だけれど、こんな話をするときには、いつもティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳、文春文庫、1998)を思い出します。とても良い本なのでお勧めですが(とはいえ、ぼくは翻訳者は村上春樹ではなく中野圭二の方がよかった)、ここに印象深い挿話があるのです。

私は思うのだけれど、人は誰しもこう信じたがっているのだ。我々は道義上の緊急事態に直面すれば、きっぱりと勇猛果敢に、個人的損失や不面目などものともせずに、若き日に憧れた英雄のごとく行動するであろうと。[・・・]どうやら私は、勇気というものは遺産と同じように、限定された量だけを受け取るものだと思い込んでいたようだった。無駄遣いしないように倹約して取っておいて、その分の利息を積んでいけば、モラルの準備資産というのはどんどん増加していくし、それをある日必要になったときにさっと引き出せばいいのだと。それはまったく虫の良い理論だった。そのおかげで私は、勇気を必要とする煩雑でささやかな日常的行為をどんどんパスすることができた。そういう常習的卑怯さに対して、その理論は希望と赦免を与えてくれた。

『本当の戦争の話をしよう』「レイニー河で」、pp.71-72

『本当の戦争の話をしよう』は短編集でして、上の引用は「レイニー河で」からのもの。ベトナム戦争時に徴集され、良心的兵役拒否をするかどうか悩み続ける主人公。「私は卑怯者だった」というラストの言葉がほんとうに重い。これと「勇敢であること」は、勇気について考えるときぜひ読んでいただければと思う短編です。あとは同じくティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』(中野圭二訳、白水社、1990)、これも短編集ですが「賢く耐える」、「勇気とは一種の保持である」も強くお勧めです。

でも、まあそうなんですよね……。いま目の前にあることに相対できない人間が、応答できない人間が、その十倍、百倍のできごとに対して責任をとれるはずがない。難しいことだけれども……。そう、やっぱり難しいんです。答えもないし、正解を引き続けられる誰かさんも恐らくいない。だからといって居直るのも違う。それは絶対に違う。「スミス中隊長は自分は臆病者だということを、ためらいもなくその言葉を使って認めた」(「賢く耐える」p.176)。これは「レイニー河で」のラストにおける「私は卑怯者だった」とはまったく異なる、まさに居直りの言葉としての臆病さです。

そしてまた、ぼくらは誰だってそんな超人的にはなれないし、なれなくて良いのです。居直りとしてではなく。

そして臆病者でもなければ英雄でもない人々、恐怖のあまり大粒の汗を浮かし、失敗し、泣きべそをかき、ふたたびやりなおす人々――アルファ中隊の大多数の兵士たち――彼らでさえ、名誉を挽回するチャンスはあるかもしれない。格言のように簡単に断定されてしまうと、普通の人間は救われない。なんとかやってみたいのだけれど、すでに一度ならず死んだ人間、銃弾の下で恐怖におののき、死の行為を経験し、それを切り抜けてみごとに生き返った人間は救われない。降ってくる弾が瞬時止まる。スローモーションのように、弾丸の形がはっきり見え、光っている。音が消える。終わりかと思って、おそるおそる顔を上げて窺う。それから他の兵隊たちを見て、彼らの目の奥に、自分自身の深く陥没した腹を見てとる。歯医者の椅子の上でノヴォカインから醒めて行くように、恐怖がゆっくりと消える。次回はもっとちゃんとやるぞと、ほとんど唇まで動かして、約束する。そのこと自体が一種の勇気である。

『僕が戦場で死んだら』「賢く耐える」p.179

そんな感じで訳の分からぬことを話しつつ授業をしています。受講生さんたちには、こんないい加減で適当なやつでもまあ半世紀はどうにかこうにか生きていられるんだなという、そういう生きた実例として私を見てほしい。そういうことを私は伝えたい。現場からは以上です。

ハックルベリー

例えば、自分自身に電話をかけることを考えてみます。いや考える必要はないですね。かけちゃいましょう。いまちょっとかけてみます……。「ただいま電話にでることが……」という自動メッセージが聴こえてきます。callingって、ぼくにとってはかなり重要な単語です。召命。同時に、ただ単に電話の呼び出しでもある。ぼく自身は常に存在しない神との闘争に明け暮れてここまで生きてきました。すべてはやはりそこに戻っていく。やがていつか自分が死んで存在しない神の前に立ったとき、何を語れるのか、何を叫べるのか。すべてが論理的に矛盾しているのですが、しかし在るということは、つまるところ矛盾の総体だということでもあります。ぼくにとって、だからcallingというのは……。

とはいえ、自分自身に対して電話をかけることはできます。その応答が自動音声なのか話し中なのか、いずれにせよそれはそれで面白い。いま電話がブルブル震え、「さっき着信があったよ」と教えてくれました。まあ自分でかけたんだけれどさ。

ただ、個人的な感覚としては――この感覚が一般的なものではまったくないことを認めた上で――やはりcallingなり、非‐callingなりは在ってほしいのです。そこから断絶した生は、ぼくはあまり見たくないし、かかわりたくない。意識していないということではなく、それなしに在ることを、在れると思い込んでいることを当然として疑わないような在り方。それはあまりに醜く、惨いものです。

そして例によって話は飛びます。ぼくはホワイトハッカーという言葉が嫌いなのです。薄気味が悪い。いま適当にネットで検索してみましょう。日立ソリューションズのページがトップに出てきました。これ、もちろんどのサイトでも構いません、本質的なところではどうせみな同じような内容になるでしょう。

上記のページでは、ハッカーというのは本来価値中立的で「コンピューターやインターネットなどについて高度な知識や高い技術を持っている人」を意味するとあります。なるほど。そしてホワイトハッカーとは「知識や技術を善良な目的のために利用する人」である。これ当然ですが何も間違っていません。上記のページ全体としても非常に良くまとまっています。そしてホワイトハッカーの仕事として、次にはこう来ます。「例えば、国や企業のウェブサーバーに対して不正なアクセスがあった場合、ホワイトハッカーは調査や防御対策を実施します」。

ぼくはこれが恐ろしい。なぜ国や企業への攻撃を防ぐことが善良な目的になるのか。いうまでもなく、不法な行為をしろと言っているのではありません。下らない犯罪行為のために技術を使うのだって莫迦そのものです。舐めるなよというのは、別段、社会に背けとかではないのです。反‐、なんていうのはつまるところハイフンの先にあるものに依存しているだけです。極めてダサいと思わないかい? いやぼくにとってのバイブルである『ニューロマンサー』では、ケイスはカウボーイと呼ばれますが、要するにその実態は違法行為を行うハッカーです。けれども彼の場合は、彼のスタイルを突き詰めていけばその先にあるのは、あるいはその出発点にあるのは黒丸尚さんの訳語を借りれば「凝り性(アーティースト)」であって、つまりは他に選べない生き方の問題です。

善にしろ悪にしろ、所詮は自らの外部において作られたもの、与えられたもの、あるいは強制されたものに対してそう名付けられただけのものに盲目的に尽くす、あるいは反抗する、それだけでしかないのであれば、それはハッカーというスタイルからはかけ離れたものでしょう。俺は俺だ、きみはきみだ、それを守ろう、というもっとも基本的な個人の尊厳があるのだとすれば、それを実現させ守るための腕を持つことがハッカーであるということです。独断と偏見ですよこれ。ほんとうのことをいえばハッカーの定義などどうでも良くて、ぼくはぼくでぼくなりにやるしかない。ただやはり、その盲目性にはぼくは加われない……。だから上記のページで「善悪の意味合いは含んでいない」というのは正しく、だけれども、それはもっと強い意味で、「善悪を超えて俺が俺であるための、きみがきみであるための闘争を表現する技術」であるはずです。

繰り返しますが独断と偏見です。それでも、ホワイトハッカーの大会とかコンテストとか、そういうものに若いひとたちが参加して、賞をもらったりするのを見ると、ぞっとするのです。

ただ……、もちろん、それほど単純な話ではありません。ぼくらは食べていかないといけない。どうしたって、どこかで妥協する必要があるし、あるいは面従腹背する必要だってあるでしょう。というかそれが常態ですよね、ぼくらの生活は。でも目を見れば分かるのです。ああ、こいつホワイトハッカーだ! お父さんお父さんあれが見えないの? あれホワイトハッカーやで。

ぼくはYMOが再生したときのTECHNODONってあまり好きではないのです。これ確か、当時彼女とふたりで再生ライブに行った気がする。いま確認したら行ったそうです。そうだったそうだった。だけれど、良くなかった……。あのYMOを生きているうちに生で観られると喜び勇んで行きましたが、でも、ぼくの結論としては残る曲はないなと思いました。そしてこのとき作られたビデオも本も良くなかった……。何なんだアレ……。

だけれど、本の方は幾つかとても良い箇所があります。引用してみましょう。高橋幸宏による坂本龍一評(というよりも日本の音楽シーン評)です。

教授だってアカデミー賞もグラミー賞も取って、「世界の坂本」って言われてるけど、その、日本的な「世界の坂本」っていう認知は、彼の納得のいくものじゃないのかもしれない。オリンピックのオープニングにしても、彼が一番嫌っていた、ある種、保守的な国家的作業もこなしているわけですよ。彼は闘っているんですね。

細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、後藤繁雄『TECHNODON(テクノドン)』小学館、1993、p.29

凄く難しいけれど、重要で、必要なことだと思うのです。どんな職業においても。どんな生き方においても。

別に深刻な話ではなくて。そうそう、先日、ほんとうにひさしぶりに研究会に参加してきたのですが、そこでぼくの『メディオーム』の話が出ました(議論の一環として)。それで、その本のなかでは「貫通(penetration)」という単語が重要な要素として出てくるのですが、それを聞いた研究仲間のひとりがけっこう爆笑していました。彼は詩人でもあり、さすがに言語感覚が鋭いなとぼくも笑ってしまったのですが、まあ、そんな感じです。どんな感じか分かりませんが、大丈夫。ぼくだって何も分かっちゃいないのです。

坂本リンゼイ

何しろ忙しいです。体調がよくならないままに仕事はまったく終わらず、土日も何もなしにプログラムを組み続けています。けれども最初のころの憂鬱さはなくなり、いまはどことなく穏やかな気持ちで、日常感覚が戻ってきたようにも思います。恐らくそれは、毎日最低限決めた時間は原稿について考えることにしているからということもあるかもしれません。プログラミング自体は楽しいけれどやはり仕事は仕事で、仕上がらないとまずいしやばい。食っていけるかどうかに直接かかわるので気持ちも落ち込みます。でも原稿は、プログラミングと同じように書くことではあるけれどやはり違いはあり、絶対にできる、俺にしかできない、という確信があるのです。それは楽しいというよりも強迫観念なのですが、でも、在ることへの確信って結局は強迫観念しかあり得ないじゃないですか。そうでもないか。ともかく、仕事がやばいときは会社近くのビジネスホテルに泊まります。本当にお世話になっているし好きなホテルなのですが、建物はかなり老朽化していて、一晩中水滴の落ちる音を聴きながらそこでもプログラミングをし続けます。そして時間がくると頭を切り替え原稿のことを考えたりします。いえ、切り替える必要はそれほどなく、日常生活の延長に位置づけられないことは自分のなかの哲学にはしたくないというのがあるので、「まあね」とか言っておもむろに考え始めるだけです。

さて、あ、この「さて」って言葉良いですね。さて、ぼくは自己愛というものが本当に嫌いです。憎んでいると言っても良い。激しい憎悪。けれどもこの自己愛を通してしか、恐らくぼくらは自己を放擲するには至れない。だから難しい……。難しいけれども……。ちょっと突然変な話をしますが、といってもこのブログ変な話しかしていない気もしますが、ぼくは物心ついてから、神社やお寺に行ってお賽銭をお賽銭箱に入れて何かお願いするときに、世界平和以外を願ったことがないのです。いや嘘でしょ、とお思いになるかもしれませんが、いつも書いているようにこのブログ「物語」なので、まあそんな感じでお願いいたします。その上で、世界平和しか願ったことがない。といっても5円とか10円とか、そんなので世界平和を願われたって神仏も困るでしょう。だから別段、それが叶わないからどうこうということではないのです。これもまた強迫観念のお話。しかもこの男口が悪いので「できるもんならやってみろってんだいこんちくしょう!」とか祈っている。これじゃあ無理でしょう。というよりそもそも世界平和って何でしょうね。漠然とは思い浮かべられるかもしれませんが、具体的に具体的に……と突き詰めていくとどうも良く分からない。分からないままではいずれにせよ実現はできません。

ともかく、自己愛です。ぼくは自己愛が嫌いです。もうね、本当に嫌い。そして話は突然変わるのですが、サン・テグジュペリの『人間の土地』で印象深い挿話があります。ぼく自身は如何なる理由があれ戦争に反対する人間ですが、以下引用。

リフ戦争の当時、二つの不帰順山岳のあいだに位した前線陣地の指揮に当っていたあの士官のことを考えてみたまえ。彼はある晩、西方の山からおりてきた軍使の一行を迎えた。型のごとく、ともにお茶を飲んでいると、銃声が聞こえだした。東方の山岳地帯の種族が、この前線陣地を攻撃してきたのであった。これと戦うために、退去を要求する大尉に、敵軍使の一行は答えたものだ、〈今日、自分たちは、貴官の客人だ。貴官を見捨て去ることは神が許さない……〉彼らは、大尉の部下に加わって、この陣地を救ったうえで、はじめて自分たちの鷲の巣へと登っていった。
ところが、今度は、自分たちが、この陣地を攻撃しようと準備のなった前日、彼らは、大尉のもとに軍使を送り、
――先の夜、われらは貴官をお援けした……」
――そのとおりだ……」
――われらは、貴官のために、小銃弾三百発を放った……」
――そのとおりだ……」
――それをわれらに返してもらえまいか」
すると、気位の高い大尉は、相手の気高さのゆえに、自分が受けた利益を利用しかねた。彼は自分に向かって使われるであろう弾薬を、返してやった。

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、pp.191-192

また別のお話。大学時代、ぼくは常に人形劇の部室でうだうだして、音楽を聴いたり本を読んだりしていました。そしてそのまま中退することになるのですが、だからいま非常勤で講義をしていて、せこい手段で単位を取ろうとする受講生をみると、どうにも白けます。無論それはひとそれぞれで、ぼくの知ったことではありません。だけれども、ぼくはそういう醜さは嫌だ。まあいいや、大学時代の話です。で、そうこうしていると講義を終えた他の部員たちが部室に戻ってきて、そうしてまたうだうだと話をしたりする。そんなある日、いわゆるハリウッド映画について盛り上がったことがありました。といっても少人数のサークルだったのでジミジミとした盛り上がりでしたが。それは、派手なアクションシーンを観ても、そこで注目されることもなく死んでいく無名の脇役たちのことを考えるとどうしても映画に没入できない、というよりも考えてしまうので没入できない、ですね。そういうことをいう子がいました。これもまた強迫観念のお話です。ぼくはその感覚が凄く良く分かりました。ただ、ぼく自身は倫理を外付けドライブにしているような人間なので、だいたいどんなことでも「まあね」で済ませられる。もし本当にそれを脅迫観念として持っているとすると、これはちょっと人生ハードだろうなと、若く浅薄なぼくなりに懸念しました。そして実際、それはその子にとって本当に強迫観念だった。しんどいですよね。

サン・テグジュペリのお話も、もしそういった観点から見るとちょっと待ってよ、となるわけです。いや大尉は自分の美意識に従って生きたり死んだりできるから良いけどさ、下っ端の兵士からしたらどうなのよ、と。彼らからすれば銃弾なんて返さないで、いやっほう! みたいに、いやそこまでではなくて良いけれど三百発をこちらの利点として使った方が絶対に良い。生き残れる確率を上げられるのだから。

でもまあ、当然ですが、そういう話ではないのです。というよりも、その子が話していたその感覚、その根本にあるものにこそつながるものであって。「大尉」のなかにあるのは美意識を優先する自己とかそれによって犠牲となる他者ではなく、美意識それ自体です。例えばヨブ記について考えてみましょう。またヨブ記。この子はほんとうにヨブ記さえあれば機嫌よく笑っていてねぇ。で、ヨブ記の最初の方で、いきなりヨブの子どもたちが死ぬ。もう、彼ら/彼女らからしたら冗談ではないですよね。その後なんやかんやあってヨブの信仰が完成したとか、いや知るかいな、となります。だけれども、これもまたそういう話ではない。そこではある種の普遍性を帯びた「この私」の義、そのものが問われている。究極まで突き詰め透明になった、人間で在るということの条件そのもの。そこでは、だから、「このわたしが~」とか「ほかのだれかが~」とか、そういうものが潜り込む余地はない。

この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。

同書、p.204

そう、だから、そこまで行くとぼくらはきっと誰にも見られず、いや見られていても一切顧みられることなく殺されていく誰かについて、誰かとしてではなく考えることができるようになるかもしれません。毎回思うのですが、何を言っているのか良く分かりませんね。そしてこれも毎回言っていますが、それで良いんです。分かることを分かるように言うのは、それはロジックでしかありません。ぼく自身は、ぼくなりの形で強迫観念と付き合えています。だからいまもヘラヘラ笑って生きている。もしいま最初の大学時代に戻れるのであれば、もう少しましな、同意の相槌だけでもなくロジカルなだけでもない応答が、できたかもしれません。だけれどもまあ……、それもまた、ぼくにとっての強迫観念のひとつでしかないのでしょう。

あ、何だか雰囲気暗いですね。そんなことはなくて、もう滅茶苦茶明るいです。滅茶苦茶です。眩しくて何も見えない。坂本龍一の「ハートビート」っていうアルバムがありまして、これ1991年ですよ。33年前。自分で書いてちょっとびっくりしました。このアルバムも(発売後数年経っていましたが)当時部室でよく聴いていました。名盤。で、このなかに「Tainai Kaiki」という曲があって、これは本当に名曲。ぜひ聴いてくださいと言いたいところですが、いま簡単に聴けるのってデヴィッド・シルヴィアン版で、これはぜんぜん良くない。というか悪い。もう、デヴィッド・シルヴィアン特有の「俺の声を聴け、聴け、聴け!」という、そのエゴイスティックな押し売り感しか聴こえない。ぼくは「戦場のメリークリスマス」って曲も映画も大嫌いですが、それにしてもそれに歌詞をつけた”Forbidden Colours”とか聴けたもんじゃないです。阿呆か。あ、やばい、自己愛の話に戻ってしまう。

それでですね、このオリジナルの方の「Tainai Kaiki」、歌が凄く良いんですよ。坂本龍一特有の音痴なのか? みたいな、でも必死な感じで、歌とも言えない、リンボーに取り残された誰かさんの独り言のような……、と思って数十年生きてきて、つい最近知ったのですが、このヴォーカル、アート・リンゼイでした。え、これ、先入観なしで坂本龍一じゃないって分かる方いらっしゃいますか? ぼくはいまでも分からない……。アート・リンゼイだと思って聴いても聴こえない……。ぼくにはもう何も分からない……。

自己紹介的な……。

結局今回も3週間近く体調を崩していました。熱もなく、ただ咳き込むだけなのですが、夜中や明け方に目が覚めてしまうことが続き体力も削られます。ようやくほぼ復調しましたが、それにしても今年に入ってから1/3は病を得ている状態です。にんともかんとも。体調が悪いときにはお風呂に入り自分を茹で上げます。免疫力を高めるんや! などと既に手遅れ感の漂ううわごとを呟きつつ、実際には悪魔祓いの儀式のようです。しかしほぼ全身が悪魔であるぼくなので――といっても安いトランプに印刷された虫歯菌的ジョーカーのようなものですが――その儀式も結局は自分を風呂から追い立てるだけで終わります。そして体調はさらに悪化しています。

けれども悪いことばかりではなく、睡眠時間が削られた分、仕事でやばい状況のプログラミングに時間をかけることができました。いやまだやばい状況の真っ最中ですが。寝ても覚めてもプログラム。ちょっと原稿もまずいのだけれども、とにもかくにも仕事を終わらせなければなりません。ようやくここ数日で今回のプログラムの全体像を頭のなかに組み込めて、ここまで来ればあとは夢の中でも考えることはできるので少しほっとしています。あと、今回は一から作っているので、そういった意味でも楽しい。他人のプログラムのメンテナンスは、センスが違いすぎて気持ちが萎えることが多いのです。傲岸不遜で唯我独尊。

何だかんだ言って、まあプログラミングは好きです。というかこれしかできません。昔、大学中退後にソフトウェアの会社に入って、延々プログラミングをしていました。っていうかもうほんとうに延々です。当時は残業代とかばんばん出ましたし、ある時期の収入は凄かった。寿命の減り具合も凄かった。命と賃金の等価交換。いや不等価交換です。そのあと大学に入り直して、博士課程に進んで(在籍していた研究室のつきあい的に)唯物論系の学会に入ったりして、そこで語られる「労働」とかにあまりリアリティを感じられなかったのは、あのときの経験があったからだと思うし、それは結構良かったと思っています。アカデミズムに染まらないで済んだという意味で。

あ、でも、とはいえ、会社にだって馴染めなかったわけです。だいたいこの男、どこかに馴染めるなんてことはあり得ない。どこにでも溶け込むほど無個性ですが、どこからでも弾かれるほどには社会性がない。で、仕事でプログラミング漬けの日々を送るうちに、もっと知りたくなるわけです、プログラミングについて。仕事的な意味での知識や経験ならそこで身につけられるけれど、どうもそうではないぞ、と思ってしまった。自然言語に立ち戻って考え直さなければならぬ、みたいな。なのでそういったことを学べるお手軽な大学を探してそこに行きました。ほんとうにラッキーだったことに、当時の上司に当たるひとが良い意味で変わった人で、プログラム言語でだって詩を書けるぜ、ということを良く言っていました。だからぼくが大学に入り直して言語の根本から勉強し直したいっす、と伝えたら(そのときも仕事はぎゅうぎゅうだったのに)快く送り出してくれて、ほんとうにありがたかったです。

ともあれそれで学部からやり直してヘブライ語とかを勉強して、中近東文化センターとかに行って土器を見て書いてある文字が「読める、読めるぞ!」とか独りで喜んだりしていたのですが、そこで9.11が起きます。そしてイスラム教対キリスト教みたいな、あまりに浅薄で恐ろしい論調が世を覆いつくすのを目の当たりにしてしまう。ハンチントン的な阿呆な議論がまたぞろ幅を利かせてくるわけですね。そうじゃないだろう、ということから宗教論、宗教多元論、多元論と進んでいって、そんなことをしながら自分自身で腑に落ちたのは、自分が興味を持っているのは「共有するものがないものたちの間で交わされるコミュニケーション」についてなのだということでした。結局、これなんです。ぼくの根本にある強迫観念って。

コミュニケーションって、もしそれが可能なら、つまり共有するものがあるのなら、もうそれ以上問う必要はないんです。極めて乱暴に言ってしまえば。いやもちろん現実的にはそんなことはないですよ、もちろん。そこには血の滲む努力と無駄に終わる死が大量にある。でも原理的には答えは分かりきっている。そして逆に、もし共有するものがないのだからコミュニケーションもないというのなら、これまたこれ以上問うことはない。残念ながらいまの日本の、あるいは世界の状況はこれが凄く強いですよね。でも、というかだから、問う意味が生じるのは、問うことの力が生じるのは、共有するものがないにもかかわらず、それでもなお生じるコミュニケーションについてになるし、またそれ以外に真の意味でのコミュニケーションなんてないんです。ぼくはそう思います。

だから、ぼくのなかにある、機械やロジックとコミュニケートすること、石を眺めて一日ぼーっとしていること、死者との対話、過去の本との対話、何十年かかけて最近は和らいできましたが、神に対するもはやこれ信仰なんじゃないのかなとさえ思ってしまうような異様な憎悪、外に出て人間を見ることに対する極端な恐怖心、などなど、ばらばらなそれらの根本にある統一理論のようなもの、それがこの、共有するもののない他者とのコミュニケーションになります。何を言っているのか良く分かりませんね。ぼく自身良く分からない。ただ突き動かされているだけです。そしてそれで良いんです。シリアスな話ですが、でもやっている本人はシリアスとか思っていない。探求するのが楽しくないのなら、やめればいいんだから。だから毎日けらけら笑っています。「雲が・・・在る・・・! トカゲが・・・居る・・・! プログラムが・・・分かる・・・!」みたいな。いえ、もちろん何も分からないですけどね。

あれ、例によって最初に書こうと思ったことと全然違う内容になってしまった。もともとはシーレの絵について書きたくて、徹底して自己を冷たく深く凝視し続けたその最終地点としてシーレの絵は立ちあがってくるのですが、そこから特殊を通じて普遍へ、のお話につなげて、云々、みたいな。ぼくは自己愛を激烈に憎んでいますけれども、いますけれどもって突然言葉遣いがあれですけれども、突き詰めて突き詰めてそこに穴が空いて、突然果てのない空白のなかに転がり込んでしまって、そこまで行かなければ、ぼくらは誰も語る価値のあるもの、見る価値のあるものなんて作れません。いや価値なんてどうでもいい、作ることも見ることもできない。と、そんなことを書こうと思っていたのです。でも何か暗いですね。にやにやしているのに、いつでも目つきが陰惨だ。そんな変質者が、そう、私です。

バイブルを主軸として回転している数万の……

もうほんとうにこのブログ書く内容が数パターンしかないような気がするのですが、例によって頭痛が激しすぎて体調を崩しています。骨組みだけは頑丈なのですが、肝心のソフトウェアが使い物にならない。でも使い物にならないソフトを何とか動かすというのも、魂のゲームとしては面白いものです。

そんなこんなで唐突に本題ですが、ぼくはヨブ記が好きでして、これがぼくの人生の根幹をなしているといっても過言ではありませんこともありません。まあ過言1/2くらいか。とにかくとても大きい影響を受けています。いわゆる旧約の信仰の本質がここにある。いや他にもあるとは思いますけれども、とりあえず断言しちゃう。もうぼく断言しちゃう。不幸と苦痛に見舞われたヨブが神に対峙する。その瞬間、ヨブは人間としての限界を超えたhubrisに至っている。まずここにまで至らなければ神となんて対峙できないです。ちょっと話がずれますが、ナンシーにしろバトラーにしろ、やはり徹底した個がまずあって、死に物狂いの闘争があって、というか近代自体がそうなんですけれども、その上で初めて近代的な個というものに対する批判が可能になって「共」が存在論的に強固に出てくるわけです。それを曖昧な自我と自己愛から離れられない研究者もどきが……、などと書いていると逆鱗スイッチが入ってしまうので止めますが、とにかく、そこまでhubrisの高みに登ったヨブがその自己を放棄する。神の前に「自分」を投げ捨てるのです。この不可能性にこそ信仰の秘儀があるし、矛盾してはいるのですが、人間が人間であることの美しさがある。ぼくはそう思います。難しいですが……。というより、ぼくはそもそも信仰の対極に位置するような人間なのですが、それでもなおこういった感覚が共有できなければ、ほんとうのところでは研究も共有できません(無論ですが、できなくたって全然かまわないのです)。けれども安易に西洋近代を批判するひとは、やはり太宰治の如是我聞を読むべきです。

ところで、私は、こないだ君のエッセイみたいなものを、偶然の機会に拝見し、その勿体ぶりに、甚だおどろくと共に、きみは外国文学者(この言葉も頗る奇妙なもので、外国人のライターかとも聞こえるね)のくせに、バイブルというものを、まるでいい加減に読んでいるらしいのに、本当に、ひやりとした。古来、紅毛人の文学者で、バイブルに苦しめられなかったひとは、一人でもあったろうか。バイブルを主軸として回転している数万の星ではなかったのか。

太宰治「如是我聞」『人間失格 グッド・バイ 他一篇』岩波文庫、1988年、p.177

っていうと「読んでいる」とか答えるし、実際読んでいると思っているので始末に負えませんが。

ただ、ぼく自身もクリスチャンではないしユダヤ教徒でもないし、イスラエルなんて問題しかないし、ぼくなりにレヴィナスには影響を受けていますが、それでもバトラーが指摘するようにそこには「複雑かつ頑強な」異議(ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』月曜社、2008年、p.176)を持っています。それでも、なのです。

ぼく自身は未だに、あるいは死ぬまでこのhubrisにとどまり続ける人間かもしれません。だから例えばホームズの次のような言葉は良く分かる。とても良く分かる。あ、これ、仲間内で出していた『文芸夜半』という同人誌に書いた「神無き時代の名探偵」という文章からの引用です。

ホームズは探偵に科学的手法を持ち込んだが、彼を名探偵足らしめていたのはその科学的知識と手法ではなく、卓越した推理力でさえない。彼の推理(reasoning)は常に理性(reason)の届かぬ先に向かう。彼の透徹した精神はそれ故その先に現れる人類の手に余る謎をつねに観取せざるを得ないし、そこには苦しみと疑いをもたらす究極の矛盾しかない。謎を解けるから探偵なのではなく、解けないと分かりつつ避けがたく謎に呼ばれることに耐え得るからこそ、彼は名探偵なのだ。〝The Adventure of the Cardboard Box〟(邦題『ボール箱』)の最後で彼はこう語る。

「ここにはいったいどんな意味があるというのだろう、ワトスン」ホームズは供述書を置くと厳粛な面持ちで言った。「この不幸と暴力と恐怖の連鎖に、いったいどんな意味があるのか? ここには何か目的があるはずだ、そうでなければ我々の宇宙は偶然に支配されていることになるが、そんなことは考えられない。だが目的とは何だ? ここには人間の理性が決してその答えに到達できないままでいる、大きな、永遠の問いが在るのだ」

形而下の犯罪を解決することなどテクノロジーにまかせておけば十分すぎる。たかが人間の知性によってでさえもできるだろう。だがその向こうに在るものに直面したとき、それでも人間はそれと格闘することができるだろうか。とはいえ信仰を安易に持ち出すべきではない。ホームズはここで確かに神的なものについて語っているが、しかし彼が神にその答えを求めることはないし、神に赦しを求めることもない。その点で彼は、同じくcallingによって探偵であることを証しているポワロとは対極にある。

名文ですね(笑)。自画自賛。これなかなか手に入らないと思うので、もし見かけたら絶対買いです。嘘じゃなく。そう、だから……、とにかく格闘しなければならない。あらゆる物事と。そしてにもかかわらず、あるいはだからこそ、あるいはそれのみを通して、結局その格闘している自分がただの苦しみという空白であることに気づく……。そんな風にぼくは思うのです。

あれ、何か説教臭いな……。大学時代、書くもの書くものみな「説教臭い」「正論やめろ」「なんちゃってビルドゥンクスロマン」と罵倒されてきましたが、いまだにその反省が生かされていない。でもまあ、そうじゃありませんか? 主語のないままに求める曖昧な同意。

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ただやっぱり、これってちょっと極論ですよね。人間は倫理機械ではない。だからまあ……適当です。というより、ぼくなんてアレです、99%が頭痛、0.9%が対人恐怖症、そして残りの成分が「適当」ですから、本当に適当です。今回はエドモンド・ハミルトンの「反対進化」について書こうと思っていて、これぼくは子供のころに『不思議な国のラプソディ 海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)で読んだのですが、このシリーズ名品です。もし古書店で目にすることがあればぜひ買ってください。ぼくの場合は父の蔵書にありました。子供のころはだいたい父の持っている本ばかり読んでいたなあ。そう、それでこの「反対進化」もやっぱりある種のキリスト教的近代的歴史観が強烈にあって初めて逆説として、あるいは(自ら死を選ぶほどの)恐怖として理解できるのであって、云々、みたいな。

何かね、頭で分かっているだけの研究者と話したり、書いたものを読むのが苦痛なんです。最近だとラブクラフトを「SF作家」(『現代思想 2017 vol45-22』「人新世、資本新世、植民新世、クトゥルー新世 類縁関係をつくる」高橋さきの訳、p.101)だと言い放つダナ・ハラウェイの無神経さとか。

そういうことが多すぎて、だいぶ、逸脱しています。別に、それで構いません。