単に眼鏡を買った話

ひさしぶりに銀座へ行きました。といっても、ぼくがかつて銀座へ行っていた理由はただひたすら書店巡りのためだけだったので、いわゆる銀座的な銀座を知っているわけではありません。銀座的な銀座って何だ。ともかく、まずは昔の日本橋丸善に行き、いまはなきLIXILブックギャラリーを覗いて銀座の教文館の洋書フロアに立ち寄り(そういえばここでシリア語辞典を買ったなあ……シリア語! これも年を取ったら勉強したいものの一つです)、ぐるっと回って八重洲ブックセンターに行き……、という感じです。とても贅沢な散歩。偶には京橋の明治屋に寄って彼女に何かを買って帰ったり。いまは人間が怖くて、もうとてもできません。

できないよう、できないようと言いつつ、数少ない友人である彫刻家に連れられて銀座に行ったのです。土曜日だから、ということもないのでしょうが異様な混雑。「土曜日の銀座なんてめちゃくちゃ混んでいるに決まっていますよ」「いや混んでいないよ」と、明らかな誤認、欺瞞、あるいは虚偽の証言により無理やり連れられて行きます。脳内に流れるのはドナドナですが、売られていくのは死相を浮かべた人面中年子牛です。祟りしかない。

で、まあ、案の定彫刻家には「きみの人間に対する恐怖心はもう完全に心の病の域だよ」と言われつつ、銀座の次には外苑前に売られていく。いや売られはしませんが、ここで彼と眼鏡を買う予定だったのです。外苑前のシャレオツな眼鏡屋さんで眼鏡を買う人面中年眼鏡子牛。その日の朝、夢の中でイメルダ夫人ごっこをしていました。ピープルパワー革命、1986年ですよ、みなさんご存じないでしょう。ぼくはリアルタイムの記憶があります。夢の中のぼくはマラカニアン宮殿に踏みこみ、何故かそこにあるのは自宅の玄関の靴箱で、開けると履き古した登山靴が一足しかない。「一足しかないぞ!」とか言っているうちに目が覚めました。「セーターも一着しかないぞ!」「ジーンズも一本しかないぞ!」などと呟きつつ、いま現実に目の前にいるのはお洒落な眼鏡屋さんのお洒落な店員さんです。

人の眼を見ると頭痛を発症するぼくにとって眼鏡屋さんは鬼門なのですが、そういえば最近また一つ頭痛が起きる原因を発見しました。糠味噌をかき混ぜるときの自分の手を見ていると瞬間的に頭痛が始まるのです。しかし見なければ糠味噌がこぼれるし、頭痛が始まったときに目に指を突っ込もうとしても指は糠味噌まみれです。無論精神的にはとても元気なのですが、嘘じゃないです、ぼくは嘘なんてついたことありません、でもそう、いまはそれよりも目の前のお洒落な店員さんです。しかしお洒落なだけではなく、丁寧にぼくの話を聴いてくださりつつ、極めてプロフェッショナルで的確なアドバイスと診断をしてくれます。普段は石の下の暗がりで暮らしているぼくには敷居が高すぎるということを除けば、ほんとうに良い眼鏡屋さんでした。

いや過去形にするにはまだ早い。いままさにぼくは眼鏡を選んでいる状況なのです。ぼくは丸眼鏡が好きなのですが、実際にかけてみるとどうしても愛新覚羅溥儀になる。坂本龍一のラストエンペラーのテーマ曲が脳内だけではなく周辺一帯にまで鳴り響くレベルです。なので自分で選ぶのは諦め、その只者ではない店員さんのお勧め眼鏡を幾点か試しにかけつつ、彫刻家の批評も受けつつ、結局そのなかでいちばんのお勧めをそのまま買いました。もう何年も前、これまた彫刻家と一緒に眼鏡屋さん巡りをしたとき以来の新調。自分では決して選ばないデザインの……というよりもそもそも怖くって自分独りで眼鏡屋さんなんて入れませんから選ぶも何もあったもんじゃないのですが、しかしそうやって自分の枠を壊すというのは、なかなかに楽しい経験でした。

あと、今回ぼくはブルーライトカットはやめました。仕事柄一日中モニタを眺めていることが多いのですが、ブルーライトカットがあろうがなかろうが目が疲れるということは幸いありませんし、もし疲れそうならモニタの輝度を調整すれば良い。何しろ色調が変わりすぎて、写真の調整をするときにわざわざ眼鏡を外してチェックして、また眼鏡をして構図を確認して……、などと手間がかかるのです。「お恥ずかしいのですが……趣味で写真を撮っており……色味が変わって見えるのが辛くて……人生も辛くて……もう働くのも嫌で……」などとその店員さんに相談したところ、レンズそのものもなるべく自然な色に近くなるものを選んでくださいました。

まあね、写真とかいっても、ぼくの撮る写真なんてこんなもんです。

Piyokko Brothers

黄色が欲しくて彼女とじみじみガシャポンをしているのですが、何故か青と紫だけが増えていく。けれどもついに白が出ました。白くんはちょっとおしゃれをして牙が付きました。兎にも角にも自然色に近い視界が得られるのならありがたい。人生は辛いままですが、来週出来上がるという眼鏡だけは楽しみです。

ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

太宰治「葉」『晩年』所収、新潮文庫、p.7

太宰はやはり天才ですね。「葉」は、これを読めただけでもぼくはこの世に生まれた意味があったと思うくらいに好きな作品です。いやそれはともかく、だから、そう、これは一週間後にかける眼鏡であろう。一週間後まで生きていようと思った。でもぼくは太宰と違って凡人なので、できれば百年後くらいまでも生きていようと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

人間性に追いつこうとして

しばらく集中していた作業に一区切りがつき、ほっとしています。これでようやく再び自分の研究に戻れるのではないか、といえばそんなはずもなく、ただただ雑務が山積みになっていくばかりです。若いころは失敗することが恐ろしく、これほど積もった仕事を見たら間違いなくちびっていたと思いますが、この年になると……いえ、やはりちびっています。やるべきことが何も終わらないままに時間が経っていきます。先日、履いていたジーンズが破けたため棚の奥底から引っ張り出してきた得体の知れないジーンズをはいていたのですが、それも破けました。しかたなくさらに得体の知れないジーンズをどこからか拾ってきて履いていたのですがこれも破けました。もう進退窮まったわい、などと言いつつそのまま出社するのですが、さすがにそれは。人としての限度がありまする。そうして仕事先の偉い人の前で不具合原因の報告とかをするまする。そうすると冷や汗をかく。足元に洪水のように冷や汗が溜まる。仕方がないので雨漏りする天井の下に置いてあった盥を持ってきてその中に立つ。そう、ぼくはスクッと立つんだ。「産湯!」などと叫びつつ、どうにかこうにか生き延びています。

きょうは寝起きのまま活動していたので、夕方鏡を見たら髪型がバートン・フィンクのジャケットみたいになっていました。なので彼女の前で表情も真似をしてみたのですが、「ちょっと似ている」と言われました。ちょっと似ている。そうだ、そういえば昨日までは髭も剃っていなかった。客先常駐なのにもう滅茶苦茶だな……。けれども顎鬚って剃るの痛くないですか? ぼくは痛い。だからついつい無精髭を伸ばしてしまう。ところで顎ってなんだかごつい漢字ですよね。オードリー・ヘップバーンの顎鬚とかないじゃないですか。どうしてぼくはオードリー・ヘップバーンではないのだろうか。でもまあ、「仕方のないことは、仕方ないのだ」。これは樋口有介『ともだち』(中公文庫、2002)から。樋口有介の作品は好き嫌いは相当分かれると思いますが、面白いものは、面白いのだ。『ぼくと、ぼくらの夏』(文春文庫、2007)なんかはやはり傑作ですね。あとは『枯葉色グッドバイ』。主人公は過去に自らが起こしてしまった事故から立ち直れず、そのために生活を棄て刑事も辞めホームレスになっているのですが、ひょんなことからある事件について調べていくことになります。そして被害者一家の唯一の生き残りである少女との会話のなかで、「心貌合一」という言葉がでてきます。

「だけど、ねえ、元警官のホームレスって、仲間から苛められない?」
「江戸時代の牢屋じゃあるまいし……でも代々木公園の連中には内緒だぞ。警官嫌いはホームレスも不良女子高校生も変わらない」
「あたしは不良じゃないよ」
「ふーん、それは良かった」
「どうでもいいよ。どうせあんたも、人を見かけで決めるんでしょう」
「君もおれのことを見かけでホームレスと決めている」
「だって、あんたは、ホームレスじゃない」
「うん、そういえばそうだ」
「ほかのホームレスはホームレスらしくしてないのに、あんた、ヘンだね」
「心貌合一という思想があってな、見かけと中身が一致しないのは、他人に対して失礼になる」
「どういうことよ」
「もし堅気に見えるヤクザがいたら、他人はそのヤクザに対して、つい気を許してしまう。あとでヤクザと分かったときにはもう手遅れだ。だからヤクザはヤクザらしく見えないと、他人に対して失礼になる」
「ヘンな理屈だね」
「そうでもないだろう。バカのくせに利口ぶったり、利口なのにバカを装ったり、そういう人間は、下品じゃないか」

樋口有介『枯葉色グッドバイ』文春文庫、2006、pp.168-169.

不思議なことに「心貌合一」、他で聞いたことがありませんが、これとても面白いのでお勧めです。樋口さんの本を読んだことがないのであれば上記の『ぼくと、ぼくらの夏』の方が長さ的にも読みやすいかもしれません。ともかく、心貌合一。何しろぼくなんて存在そのものが胡散臭いですしうろんげなので、そういった意味では無精髭に目は落ちくぼみ、破れたジーンズに履き潰した登山靴なんて超心貌合一です。そうして、だからこそ、合一していない連中のことは一目で分かる。そういうのは怖いし、下らないし、近寄りたくはありません。

でも同時にそうではない人も居て、つまり良い意味で心貌合一している人は居て、それは奇跡みたいに少ないですが確実に居て、しかもものすごい幸運なことに、実際に出会って話をして気にかけてもらえたりする。そういうことがあるから、ぼくはまだ生きていられるのだと、それは心底そう思います。

このお正月に心から尊敬する牧師先生から年賀状をいただき、もう御年九十六歳であるにもかかわらず、はがきの短い文面からでさえ凄まじいまでの魂の気迫を感じました。ぼくは年賀状を書かない主義なので、毎年、お返事として手紙を書いていました。今年も、もうとうに人生の折り返しを越え、いまだに召命とは何かについて考え続けていますと記しました。数日して、友人から先生が突然お亡くなりになったという知らせを受けました。

ぼくはすべての一瞬は絶対的に常に在り続ける一瞬だと思っています。そしてまた、誰かと会話をしたいと願えばいつでも必ずできるとも思っています。そうでなければぼくは何かを考えることなどできません。だからそれは途轍もなく大きい損失ではあるのだけれど、悲しいというのとは少し違うのです。途轍もない損失ではあるけれど……。

その先生の風貌には、人生の一瞬一瞬に常に誠実に向き合う、そういう人のみが持ち得る精神が刻み込まれていました。そういう人間は、繰り返しますが残念ながらほとんど居ません。一度だけお食事をご一緒したに過ぎませんが、小山晃祐先生もまた――とても穏やかで笑みを絶やさない方でしたが――そうでした。そういった出会いが、その一瞬の記憶が、あるいは運が良ければ一瞬の連続の記憶が、ぼくらを一歩ずつ人間に引き上げてくれます。それは何かひどく表面的に心酔するとか批判を禁じるとかいうことではなく、その人が完全無欠であったなどと勝手に盲信するということでもなく、お会いした瞬間、ああこれが人間だと思えるということです。人間で在るということは、逆説的にですが、人間で在る自分から手を離すことができるということだと、ぼくは思います。ぼくらの大半が、だけれども、まだ人間にすらなっていない。ぼくらは人間にならなければならない。ぶかぶかの人間の皮を被っただけの泥の塊のような何かではなく、人間にならなければ。

ぼくはマドリードの戦線で、塹壕からわずか五百メートルの所に、簡単な石垣をめぐらして小山の上に設けられた、学校を訪れたことがある。一人の伍長が、そこでは植物学を教えていた。雛芥子の花の脆弱な器官を、手先に示しながら、彼はそこいらじゅうの泥の中から這い出してくる髭もじゃの巡礼者たちを集めていた。彼らは砲弾の中も厭わずに、彼のもとへと巡礼に登ってくるのだった。[…]彼らには、講義のことはたいしてわからなかった。ただ、〈きみたちは野人だ、きみたちは原始人の洞窟からわずかに一歩出ただけだ、人間性に追いつかなけりゃいけない!〉こう言われると彼らは、重い足を引きずりながら、人間性に追いつこうとして、ひたすら急ぐのだった。

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、pp.197-198

まあぼくなんてダメな方の最たるものです。髭もじゃで泥まみれの野人。だけれども……。恐らく読まれなかったであろう先生へのお手紙に、ぼくは、良い本を書くのでそのときがきたらぜひお読みいただければ幸いです、と書きました。だから、そうしなければなりません。

鳴り続けている

いまぼくは、非常勤で技術者倫理を教えています。教えているって嫌な言い方ですね……。とはいえお金をもらっている以上職務としては教えないといけない。一緒に考えようっていうのも何だかピンとこないし、未だに自分のスタンスが良く分からないままにやっています。成績をつけるというのも意味が分からないし。大学ってもっと自由なところで良いと思うのですが、現実的には難しいです。あと、卑怯な手段で単位を取ろうとする学生は、やはり醜い。中退すればいいのにと、悪意ではなく単純にそう思います。恐らくそれがいろいろな意味で最後の機会だから。

ともあれ、技術者倫理というとけっこう枠が決まっていて楽じゃな~い? みたいなイメージがありますが、いやあるのかな、けれどいちばん最初にプロフェッションについて話すとき、いつも苦労するところがあります。それはプロフェッションとは何かというお話。ぼくはナイチンゲールの〝Notes on Nursing for the Labouring Classes〟からの引用、といっても『誇り高い技術者になろう[第二版]』からの孫引きですが、次の箇所を使います。

何かについて「職業的使命感」(calling)を感じるとはどういう状態だろうか。それは、何が正しく何が最善かについての自分自身の高い理念(high idea)を満足させるということであって、それをやらないと誰かに「見咎められる」からやる、というようなものではないのではないか。この情熱こそ、靴屋から彫刻家にいたるまでのあらゆる人が、適切に「職業的使命感」に従うために持っていなくてはならないものではないか。(中略)そして、もし看護師が、自分自身の理念実現のために患者の面倒を見るのでなければ、外からどんなに言っても彼女にそう思わせることはできないだろう。

黒田光太郎、戸田山和久、伊勢田哲治『誇り高い技術者になろう[第二版]』名古屋大学出版会、2012

この教科書とても良いので、技術者倫理をやるときにはお勧めです。ともあれ、ここでナイチンゲールが〝calling〟と言っているものを、訳者の戸田山氏は「職業的使命感」と訳している。これはまったくその通りなのですが、ナイチンゲール的にはストレートに考えれば「召命」です。しかしこれでは多くの日本人には直感的に伝わらない。だけれどもぼく自身にとっては、この「召命」が決定的に重要になります。何度も書いていることですが、ぼく自身は信仰の対極に位置するような人間ですけれども……。

少し前にひさびさに研究仲間とのんびり話をする機会があり、そこで音楽の話が出ました。彼はもともとバンドでピアノをやっていて、いまでも演奏会をやっているという面白いひとなのですが、そこでカール・リヒターのトッカータとフーガ二短調の話が出たときに、確かに彼の演奏には神が――といってもぼくらはともにクリスチャンではないのでその空白を通してしかそれを知ることができないにしても――存在しているよねと、お互い深く頷く場面がありました。

これはなかなか普段ひとに伝わることがなくて、だいたいぼくが博士課程のときにいた研究室なんてマルクスがベースですから、っていうかぼくは(中退しなかった)二つ目の大学は神学士なので何でマルクス系なんかに行ったのだろう。とてもとても良い研究室でしたけれども。そう、だから伝わる必要はない。でも伝わるとやはり面白い。リヒターの演奏には神が居る。間接的にぼくはそれを感じる。けれどもそれは、リヒターを、彼の演奏を通して間接的にということではなくて、ぼくには決して知ることができないそれそのものがそこに顕現していることを、繰り返しますがその空白を通して直接にということです。Karl Richter、Toccata & Fugue In D Minorで検索していただければ、どこかで動画が見られるかもしれません。真に驚くべき存在。

他方で、ぼく自身を含めもし信仰がないのであれば、callingはやはりただ電話の呼び出し音でしかない。そしてそれでもなお、リヒターが信仰の極北としてその演奏を遺したように、神を――いうまでもなくこの場合の神とはアニミズムとはまったく別の、峻厳苛烈な唯一神を指しますが――持たない誰かもまた、人間としての何らかの極北に到達することはできます。もしそこに絶対的な空白との、魂を懸/賭けた闘争があるのなら、そこにはやはり途轍もない美と畏怖が生まれるでしょう。

と、そこまで深刻な話でなくても単に「この音楽良いよね!」ということでもぜんぜん問題なくて、たまたまひさしぶりに坂本龍一のアルバム『左うでの夢』を聴いていたら、「あ、これcallingじゃん!」というのがあったので、そのお話を。『左うでの夢』は1981年のアルバム。もう40年以上昔のものとは思えない、時代を超越した音楽です。と同時に、この時代のテクノの音って凄く懐かしい。いまこういう音ってないのではないでしょうか。あ、いかん、話がずれる病が。このアルバムに「Tell’em To Me」という曲があって、この歌詞、昔ぼくは凄く怖かった。曲調も怖いのですが、当時ぼくはchrysanthemumという単語を知りませんでした。歌詞も知らずただあやふやに聴き取るだけだったので、坂本龍一の歌う「yellow chrysanthemum」というのを、何か全身黄色い毛がもさもさ生えているイエティみたいな生き物の母親(しかもそれは母親的なものの元型でさえあるような……)だと思っていました。少し離れたところに山脈の見える茫漠とした荒野、そこに立つ一軒の家。ふと窓の外を眺めるとイエローなchrysanteマムがニヤニヤ笑ってこちらを覗いている。そしてただひたすら、彼女の物語を異言語で物語っている。途轍もない怖さです。あ、ぜひ、正しい歌詞を探してみてください。

ともかく、『左うでの夢』、名盤ですがちょっと怖い感じの曲も含まれています。電話に話を戻すと5曲目の「Relâche」。ノリが良い曲にも感じますが、けれども……。

ここでは電話の呼び出し音が背後で断続的に鳴り続け、最後はそれで終わる。誰も居ない部屋、たぶん殺風景な、そこでただ鳴り続ける呼び出し音。これもまたちょっと怖い感じの曲で、電話の本質が感じられる気がするのです。それは誰かと誰かをつなぐものではなくて、むしろその断絶を表すためにこそ鳴り続けるものだという……。

次は細野晴臣の『S・F・X』。これは1984年。これもまた凄いアルバムです。YMOの『BGM』や『テクノデリック』が好きであれば『S・F・X』と『フィルハーモニー』(1982)はお勧め。でもそれが好きな人ならお勧めするまでもなく持っていますのであまり意味がない。で、このなかの「3・6・9」でも呼び出し音が鳴り続けています。

追記:呼び出し音じゃないじゃん! これ掛ける側のジーコロ音だ! いやそれも違うか? ぼくにはもう何も分からない……。まあいいや。

これは坂本龍一の不気味な感じとはまた違って、恐怖と狂気に満ちた呼び出し音。そしてそれがだんだんエスカレートしていきます。この曲は藤幡正樹がSIGGRAPHで展示した映像作品につけた音楽とのことで、ぼくは観たことがないのでいつかどこかで探したいと思っています。ぼくがこの曲を持っているのは上記のように『S・F・X』で、アルバムジャケットはこんな感じ。大事に扱っているのですが、ぼくの長い人生と一緒にあちこちに行ったのでだいぶぼろっちくなってしまった……。いつかもっと年をとって引退したら、こういうのも手入れをしたいなあ。

最後はやはり高橋幸宏でしょう。これはちょっと新しくて1992年のアルバム『NEUROMANTIC』から。これまた極めて傑作です。まさに(ギブスンの『ニューロマンサー』の解説にある言葉を借りれば)ニュー・ロマンスな時代を体現したような、人間的なロマンティックさとテクノロジーが見事に美しく融合した、他に類を見ない音楽になっています。その3曲目、「Connection」。

とてもポップで、高橋幸宏らしい切なさがある曲です。ここでの電話の呼び出し音は坂本龍一や細野晴臣のそれとは異なり、あくまで普通の生活を送る普通の人が好きな人に電話をして、どうかつながっておくれ、電話に出ておくれ……、という、本当に良い曲です。いやこれ歌詞とかしっかり読んだらぜんぜん違う内容の歌なのかもだけれど、歌詞って読まないから……。ダメな人間なんです……。ともあれアルバムジャケットもとてもニュー・ロマンス(「ロマン神経症」)。ニュー・ロマンスについてはギブスン『ニューロマンサー』の解説で山岸真が書いている文章が素晴らしい。

が、なによりそれは、〝ニュー・ロマンス〟であるべきだ。社会も科学も文化も、確実にこれまでと違ったものになりつつあり、それによって人間そのものも変わっていく、そんな新しい時代の小説、あるいはSF。/本書はその胎動を告げているのである。

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986、p.451

「小説、あるいはSF」を音楽に置き換えれば、これはまさに『NEUROMANTIC』のことになります。

電話の呼び出しとしてのcallingは、むしろ信仰がないぼくや(あるいはきみもまたそうであるのなら)きみの方が、そこに込められた人間の、あくまで人間としての狂気や恐怖、そして切望を感じ取れるのかもしれません。ただいずれにせよ言えるのは、ここで挙げた3曲すべて、どこか懐かしい響きがあるということです。ぼくは新入社員のころ電話に出るのが本当に苦手でしたし、それはいまでも変わりません。携帯(スマホではなく携帯をぼくはメインで使っています)に着信があると、だいたい即座に着信拒否です。坂本龍一に倣い、FXXK OFFの精神。

そんな電話嫌いのぼくにとっても電話はやはり面白い。例えばキャロリン・マーヴィンの『古いメディアが新しかった時 19世紀末社会と電気テクノロジー』(吉見俊哉、水越伸、伊藤昌亮訳、新曜社、2003)を読むと、当初電話というものが伝統的なコミュニティを破壊するものとして恐れられていたということが書かれています。自著から引用しちゃいましょう。いやらしい宣伝。ぼくはいらやしい人間なんだ。

トム・スタンデージが電信について語っているように、あるいはキャロリン・マーヴィンが電話について詳細に論じているように、かつてそれら最新のメディア技術は、現代におけるインターネットと同様、共同体を破壊する可能性を持つものとして恐れられていた。だが、いま博物館かどこかで電鍵を目にして、あるいは黒電話を目にして、そのような恐れを抱く者がいるだろうか。それは決してノスタルジーなどではなく、何かがいかに素早く現れたとしても、やがていつかは後からやってきた歴史が追いつくことになるという、単純な事実を意味している。/むろん、だからといって、私たちはただ時間の経過を待てばよいということではない。永遠と無限の幻想を私たちに与え、永遠と無限に対する私たちの欲望を加速させるデジタル化は、私たちから歴史性そのものを失わせるだろう。だがそこで与えられる永遠と無限には、救済ではなく、底なしの飢餓だけが満ちている。

吉田健彦『メディオーム』共和国、2011年、p.246

いい文章ですね。このブログを書いているのと同一人物とは思えない。ぼくも思えません。でも要するに、どのようなテクノロジーであっても、人間はそこに記憶を、時間を降り積もらせる可能性があるのだということをぼくは考えていて、それができて初めてそれは人間の道具になる。人間が道具になるのではなくて。細野晴臣、坂本龍一、そして高橋幸宏の凄いところは、テクノロジーを人間の楽器にしたことです。それは誰もができているようで実際はぜんぜんそんなことはない。ただただ機械の音がするだけなら――無論、それを意図的にするのであればまた別ですが――それは機械にやらせればいい。電話もそうです、応答するだけならAIのエージェントにでもやらせておけばいい。そうでないところで初めて狂気を、恐怖を、あるいは愛を伝えられる/伝えられないということが可能になる。

「携帯電話の中により神を見る」(ケヴィン・ケリー『TECHNIUM テクノロジーはどこへ向かうのか?』服部桂訳、みすず書房、2014、p.409)などという戯言など話にもなりません。神が居るのならそれはcallingです。そして居ないのであれば、そこでは電話がいつでも、誰かから誰かに向けて鳴り続けているのです。

本の表紙とつっかえ感

ちょっと、本の表紙について感じることが連続したのでそれについて。といいつついきなり脱線するのですが、昔、ぼくがまだ新宿御苑の近くで働いていたころ、あああの頃は正社員だったのだなあ、気がつけば身分証さえない人間になってしまいましたが、しかしそもそも身分証って何でしょうね。突然の激怒。身分証明については橋本一径『指紋論 心霊主義から生体認証まで』(青土社、2010)がとてもお勧めです。埋め込みができないのでリンクを。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=1720

都市化が進むなかで、誰が誰であるのかを保証することが難しくなっていく。そこで紆余曲折を経て指紋による認証技術が登場するのですが、当然そこには管理/監視されることに対する反発も生まれる。しかしそれに対して、「もしあなたが善良な人間であるのなら、指紋を取られる(管理/監視される)ことのどこに不都合があるのか」といった議論が出てくる。例えばいま、もはや監視カメラなんて当たり前の時代ですよね。ぼくが若いころはまだ街に監視カメラが、なんていうとけっこう反発があって、ぼくもカメラを見つけるたびに中指を立てていました。それは見られて都合が悪いとか良いとかとはまったく別の次元において、人間は私としての/私であるという秘密を持っても良いのだという信念に基づくものです。まあ、個人的な意見です。防犯云々、犯罪捜査云々という主張にいっさい理がないと思うわけでもありません。とはいえ、究極の監視社会を描いた傑作SF、小川哲『ユートロニカのこちら側』(早川書房、2017)(https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000021299)には、監視テクノロジーに頼り切っているため、警察機構に属しているにもかかわらずもはやまともな捜査技能すら持っていない人物が登場します。実際、ぼくらの社会もそうなるかもしれません。

そしてまた、或る意味において身分保証の究極のかたちはこれです。究極というよりは象徴か。Wiredの記事です。「サム・アルトマンの虹彩スキャンシステム「Orb」進化版は、玄関先まで“宅配”されるようになる――「Orb」を使った野心的なプロジェクト「ワールドコイン」(現在は「ワールド」)が描く未来。それは、すべての人が「Orbによる認証」を受ける世界だ。」(https://wired.jp/article/worldcoin-sam-altman-orb

私が私であることを証明することとデジタルテクノロジーの関係性。これはぼくが生きていれば三冊目の単著くらいにこのテーマで書こうと思っているもので、めちゃくちゃ面白いので、ぜひ出版社の方はお声をおかけください。もう絶対売れます。ビルが建ちます。街ができ、国ができ、国境を巡り争いが起き、やがて地球は劫火に包まれ人類は滅びます。

とはいえ、これらはすべて脱線です。そうそう、ぼくがまだ御苑近くで働いていたころ、仕事帰りにてくてく永田町の方まで歩いて行ってこれまた仕事帰りの彼女と落ち合い、再びてくてく新宿方面に戻って帰って、などということをしていました。いまでもそのくらいの体力はありますが、もう人混みが怖くて精神的にはできないですね。ともかく、新宿駅近くまで行くと当時はヴァージンレコードがありました。ああ、こんな記事がある。

https://ascii.jp/elem/000/000/322/322592

で、彼女としばしばここに立ち寄ってはうろうろしていた。ヘッドフォンが壁に備えつけてあって、アルバムそれぞれの冒頭を少し聴くこともできたりしました。ぼくはそこで初めてライヒの音楽に出会って衝撃を受けました。あれは(いまはもう好きではなくなってしまったけれど)フィリップ・ジャンティ・カンパニーの舞台を初めて観たときくらいの衝撃だった。でもこれもまた脱線の脱線。フロアには幾つか金属製のカーゴがあり、そこには安売りのアルバムがぎゅうぎゅう詰め込まれていました。それを二人で漁ってジャケ買いをするのがぼくらの楽しみだったのです。安かったしね。当然誰だかも分からない、しかも海外のミュージシャンのアルバムなので外れることもありましたが、どちらかといえば当たりが多かったように思います。無論、いまでもそれらは手元にあります。

ジャケ買い。CD然り、そして本もまた、ぼくはしばしばそれをします。独立系の……というのでしょうか、いわゆる大手ではない出版社の場合、装幀に凄く凝っているところが多々あり、それは本当に素晴らしい。それこそが文化だとぼくは思うし、それが失われていくとしたら途轍もなく寂しい。そのくらい本の表紙というのは大切なものです。わ、いかんな。何だか文章が真面目な感じになってしまっている。

ともあれ、これでようやく本題ですが、最近幾つか本の表紙について「ほほぅ」と感じることが連続したので、それについて。おお、冒頭に戻りました。まず第一にウィリアム・ギブスンがblueskyにていまのハヤカワの『ニューロマンサー』(黒丸尚訳、早川書房)の表紙についてコメントしていたもの。お、blueskyの投稿は埋め込みができるのだなあ。

I’ve never seen this particular cover.

William Gibson (@greatdismal.bsky.social) 2024-12-21T05:40:59.574Z

この表紙も悪いくはない……悪くはないです。いやむしろ格好良い。でもぼくは、やはりこっちの方が良いのです。モザイクのかかった男性像。いいですよね、このどうしようもなく滲みだす80年代感。ニューロマンス。

そして次は神林長平『永久帰還装置』(ソノラマ文庫、2002年)。前回も書きましたが、これ本当に面白いのでお勧めです。神林長平はぼくのなかではものすごく大きい存在で、彼のテクノロジー観、コミュニケーションに関する思想には相当影響を受けています。プログラマとしても、研究者としても。それで、永久帰還装置、紹介したのはいいけれど絶版じゃないよねと心配になり検索してみたら現行版の表紙が出てきてちょっとびっくり。ぼくが持っているのとはぜんぜん違う……。あ、これハヤカワか!

画像はhttps://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000610746/から引用。

ぼくが持っているのは上記の通りソノラマで、その表紙はこれです。

うーん、やっぱりこっちの方が良いなあ……。何かハヤカワの表紙だと男女のバディ物で恋愛絡みで……みたいな印象があるけれども、でもって確かに表面的なストーリー自体はその通りなのですが(そしてその部分も面白い)、でも本質はタイトル通り「還ること」についての滅茶苦茶ハードな物語なのです。昔ぼくは神林長平の『戦闘妖精・雪風』をタイトルしか知らないときに、ミリタリーオタク的なアレなんじゃないのぉ? と勝手に想像して疑っていたのですが、実際にはこれほど機械と人間のコミュニケーションについてハードに問うことを貫徹した物語ってないです。本当にすごい作家です。

最後はこれ。ジェイムズ・シュミッツ『惑星カレスの魔女』(鎌田三平訳、創元SF文庫)。といってもこの本自体について話したいのではありません。いやこの本面白いですよ。古き良き時代のほのぼのスペースオペラ。いまはちょっと時代的にこういうストーリーって書けないかもしれませんが、疲れちゃったときとかぼくは時折読み直しています。でもこの表紙はちょっと問題で、女の子誰だよ状態なのです。全然、小説内の描写と違う。宮崎駿がどういう意図で、あるいはどういう指示を受けてこれを描いたのかは分かりませんが、これはない。でもこういう、内容と違うだろうっていう表紙ってすごく多いですよね。何なんだろう……。まあでも良いです。

[本日発売]ジェイムズ・H・シュミッツ/鎌田三平 訳『惑星カレスの魔女【新版】』(創元SF文庫)商業宇宙船の若き船長が救った異星人三姉妹は、超能力を持つ“魔女”だった!?ヒューゴー賞候補作ともなったユーモア・スペース・オペラの傑作を新版で。www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784…#創元SF文庫

東京創元社 (@tokyosogensha.bsky.social) 2024-12-18T04:06:31.833Z

問題はサン・テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳、新潮文庫)で、ぼくの持っているのは1995年の57刷のものですが、その表紙がこれ。

他方でいまの版はこれ。うーん……。

画像はhttps://www.shinchosha.co.jp/book/212202/から引用。

表紙が宮崎駿で、解説もしているとのこと。読んでいませんし読むこともありませんが、宮崎駿が悪いとかダメだとか、そういうことでは全然ないのです。そしてこれは偏屈な人間の懐古趣味でしかないかもしれないです、自分が最初に手にしたバージョンの表紙がいちばんだという……。でもやはりそれだけではない。表紙って、その本の世界に入るための入り口ですよね。でも、それが適切なものでないと、扉を通るときに「お、身体がつっかえた」みたいになってしまう。そして物語ってデータではなくて具体的なモノ、媒体なしにはあり得ないものですから、そのつっかえ感は現実の感覚だし、だからやっぱり、表紙は重要なのだと思うのです。昔、ぼくらがヴァージンレコードでジャケ買いしてもそれほど外さなかったのと同じように、そういう表紙があると、いいなあ。

闘争コミュニケーション

例えば、ぼくは通勤に往復で五時間半前後かけています。だいたいにおいて行きも帰りも遅延するので実質的にはもう少しかかっているでしょう。しかしその間にいろいろ考えることができますし、本を読むこともできるので、それほど悪くはありません……いや、悪いですよどう考えても。物凄いストレスがかかります。毎朝三時間自己暗示をかけ、おしまいに「父さんの行った道だ! 父さんは帰ってきたよ!」とかパズーの真似をしつつ叫んでから出発します。そのストレスの大半は何かといえば、人びとの魂の形が見えてしまう苦痛ですほらまた変なことを言い出した。でもこれ「物語」ですから、大丈夫ですから、凄く大丈夫。とにかく、だから、そういった魂の、しかもぼくにとってちょっと耐え難いような形のそれらと格闘しなければならない……だってものすごくうるさいから……自分の魂を守らないと……などと意味不明な供述を……。

まだ幼稚園にも入っていないようなころのお話。毎晩毎晩、ぼくは「目が痛い、目が痛い」と言っては泣いて、そのたびに母がぼくを負ぶって家の前の川沿いを歩いたそうです。病院に連れていっても原因になるようなものは何もなく、「この子は神経質なんじゃないですか」と医者に言われた母は激怒したそうな。結局原因はいまでも分かりませんし、頭痛は生きている限り悪化する一方です。けれども天使のようだったぼくも既に薄汚れたおっさんとなり、頭痛で倒れてよだれを流しながらも「なあにこんなもの人類に対するハンデさ」とか譫言を言いつつニヤニヤしている。たださすがにこの年になると頭痛を引き起こすきっかけのようなものは幾つか(あくまでも幾つかですが)分かってきて、一つは湯気です。湯気!? そう湯気。あとは尖ったもの。これが問題で、文字もダメになるときがあります。文字って尖ったところがあるじゃないですか。彼って良い年なのに尖ったところがあるじゃないですか。これが始まるともう本も読めません。あとは眼。他人の眼を見ると一気に頭痛が始まるので、ぼくは人の顔を周辺視野でしか捉えられません。これはコミュニケーションにとってはかなり致命的です。始まってしまったときの対策としては目を瞑る、瞼を強く押さえる、などがありますが、ひとと話しているときに突然指で目を押し付け始めて「うがああああ! こんにちは」とか[絶筆]

でもまあ大丈夫です。別にこれが本筋ではなくてですね、まあ要はコミュニケーションって大変よねというお話です。じゃあしなければいいじゃない、という訳にもいかなくて、基本は生存競争。というよりももっと根源的なもので、〝存在〟競争のようなものです。意味が分からないけれど。でもどうでしょう。神林長平の傑作、といっても傑作がたくさんあるのでそのうちの一作ということですが、『永久帰還装置』。これはとても面白いエンターテイメントSFでありつつ、神林長平特有のコミュニケーションを巡る物語でもある。その一節。

〈コミュニケーションは他者との格闘だ〉とわたしは言う。〈おまえはあらゆる生命体が備えているその能力、その使い方、それによる闘争の凄まじさがわかっていない。人間の脳が巨大なのは、それに勝つためなのではない。その闘いのストレスに対処するためなのだ。それに関してまったく無知なおまえは、生命体ではないな。ギブアンドテイク、ということがわかっていない。自分も相手に食われる存在だ、という意識が備わっていない。奪うだけでなにもかも手に入ると思い込んでいる、そういうおまえは、そうバグだ。〉

神林長平『永久帰還装置』ソノラマ文庫、2002年、pp.227-228

まさにこれなんですよね。そしてこのコミュニケーションはあらゆる次元において発生し得る。この世界に在るというだけで避けがたい闘争です。もちろん、単純に勝てばよいとかいうお話ではなくて、生命体が存在するという、その原理です。だからハードだし、とはいえ、だから生きているということでもある。ぼくはいつでも、仕事先から帰ってくると「生きて帰ってきたお祝い」をしています。

また別の闘争。花田清輝の短編に『七』というのがあって、これタイトルが良いですね。花田清輝は評論が知られていますが、短編もとても良いです。同じく下記講談社文芸文庫所収の『悲劇について』も名品です。で、この『七』もまた或る種の闘争についての物語。七という数字に異様なまでに魅了されている主人公ペーテル。隠遁者のような生活を送る彼の手元には美術品として名高いエルトリアの花瓶がある。そしてあるときベルリン財界の大物マックスがそれに目をつけ、金に糸目をつけず買い取ろうとする。ペーテルは最初のうちはマックスの申し出を無視し続けるのだが……、という、不思議なストーリーですが魅力的な短編です。そしてこれはお互いの存在をかけた闘争――ではなく、実は闘争にすらならなっていないということの恐ろしさを描いた物語なのです。

最終的にペーテルは死に、マックスはペーテルの「七」への執着を利用して策略を巡らせ勝利したことを誇ります。

――取引には調査が必要だよ。マックス・シュルツは徹底的に調査する。結果のわからない仕事に手は出さない。/――命の取引きには、なおさらのことじゃ。

花田清輝『七/錯乱の論理/二つの世界』講談社文芸文庫、1989年所収、p.45

けれどもマックスはここで、そもそもペーテルにとっては命さえ問題ではなかったことにまったく気づいていません。マックスは初めにペーテルがお金に対していっさいの価値を見出していないことを知り(だからこそ自分の最大の価値観であり自分自身の価値の裏付けでもあるお金を否定されたマックスはペーテルに殺意を抱くのです)、そしてペーテルが「七」のみを至上の価値としていることに気づいてさえいるのですが(だからこそマックスは「七」をルールに組み込み、ペーテルの選択を完全に制御できると確信するのです)、それにもかかわらず結局は「七」を道具としてしか理解できず、命のやりとりをしかけ生き残ることを勝ちだとしてしまった。それはこの社会においては、あるいはマックスの世界においては勝ちかもしれないけれど、でもペーテルには何も、まったく何も届いていないのです。その断絶。しかしこれはぼくらの日常に極ありふれた闘争の一つの元型でもあります。

だからまあ――なにが「だからまあ」なのかは不明なまま人生は過ぎていくのですが――いつでもへとへとです。でもそのへとへと具合が自分でも面白くって、だいたいいつでもニヤニヤしています。昨日は解題のゲラが届き、いつもよりさらにニヤニヤしながらチェックをしています。単著原稿の方も調子が戻ってきましたし、だからまあ、やっぱり来週もまた、父さんのように生きて帰ってこなければなりません。

追記:『永久帰還装置』、「帰還」を「機関」と誤字っていました……。これ気をつけていてもやってしまいます。還らなきゃならないのに。すべては還っていくし、還さなければならないのに。そもそもぼくはこのタイトル、時折『永久帰還刑事(えいきゅうきかんデカ)』と何故か言っちゃったりして、もうアレです。でも傑作。

Read it, Want to weep.

ここしばらく集中して書いていた草稿がほぼできあがり、少しだけほっとしました。今回は自分の単著の原稿ではなく、ある翻訳書の解題なのですが……、とここまで書いてそういえばそもそも解題って何だ? と思い調べてみたら、いやこれ、ぼくの書いた内容は解題なのだろうか……。ちょっと心配になってきました。でも編集者さんからはGOサインをいただけたので、大丈夫でしょう。というか大丈夫です。名文です。Read it, Want to weep.

「Read it, Want to weep.」というのはウィリアム・ウォートンの『クリスマスを贈ります』(雨沢泰訳、新潮文庫、1992年)の解説から。『クリスマス…』は名著です。これは裏表紙のあらすじから引用。「第二次大戦中、はからずも無人の城を占拠し、ドイツ軍と対峙することになった少年兵たちが体験した、寒さと恐怖と空しさと、そして無意味な死」。この突き放した感じ。実際、そうなのです。「無意味な死」。どこか明るくさえある青春小説でありつつ、徹底して乾いている。乾いてしまう。小説冒頭に置かれている詩を、最後まで読んでからぜひ読み直してほしいのです。物語の最後で描写される世界はひたすら「無意味」で、あるいはもはやそれすら超えてただひたすら乾いてしまった「ぼく」の視線だけがある。あるのはただ、死、そのものであって……。冒頭の詩はこのラストと見事に呼応している。だから実は「Read it, Want to weep.」はあんまり適切だとは思えないのですが、でもほんとうに読んでほしい一冊です。

ウィリアム・ウォートンは、え、嘘でしょ!? Wikipediaで日本語の記事がありませんが、とても優れた作家です。映画『バーディ』は有名ですが、その原作を書いています。あとは『晩秋』も映画化されていますね。それからこの『クリスマスを贈ります』。本人は『クリスマス…』の解説によればそうとう奇天烈な方のようで、これもちょっと面白い。残念ながら2008年に亡くなっています。

むしろ、さあまた話がずれていくのですが、「読んでほしい、泣けてくるから」にふさわしい小説といえば、ぼくはジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(高橋源一郎訳、新潮文庫、1991年)を想起します。これはもうほんとうに泣けてくる。主人公の焦燥感、虚栄心、絶望、そして最後に訪れる微かな救いの気配……。これも名著です。で、この小説は文体がちょっとめずらしく、「きみ」が主人公として語られています。第一章「午前六時。いま、きみのいる場所」から。

またここへ来てしまった。きみは何もかも台無しにしてしまった。もう行く場所はどこにもない。

だけれども、これは別段奇を衒ってとか、文体実験としてではないのです。そうではなく「読者と「直接取り引き」をするためにどうしても必要な手段」(「訳者あとがき」より)なのです。これはきみの物語なんだ、ということを一切の介在物なしに表現する。「80年代アメリカ青春小説の金字塔」というのは嘘ではありません。

話はだいぶずれましたが、今回の解題も「きみ」の物語で始めています。結局、これがぼくのスタイルなんだなと改めて思いつつ書いていました。いやしかし本当に解題なのか……? まあいいや、とにもかくにもこういう機会をいただけるのはほんとうに有難いことで、ぼくのように無名の、しかもパーマネントでもない研究者に声をかけていただけるのは……語彙の少なさが露呈しますがほんとうに有難いことです。いや、同じ言葉を繰り返して強調するのもレトリックさと嘯く程度には薄汚れている。というよりも汚れている。いや汚れてはいないです。ちゃんと洗濯している。

けれども、つい先日どこかへ行きまして、どこへ行ったのか思い出せないのですが、そこで突然ジーンズの膝が破けました。ちょっと、破けてはいけないような場所で破けた気がするのですが、記憶が封印されているようです。ともかくこれでもうぼくが持っているジーンズはあと一本だけ。靴なんて一足しかない。Tシャツは高校時代に買ったのがいまだにあるし、着られます。自分でも何が何だか良く分からないのですが、しかし一つだけ言えるのは、もう怖くて買い物に行けないということです。裾上げとか刈上げとかもみ上げとか意味が分からない。どうしたら良いのでしょうか。

例えば近所の食堂に行くとします。喫茶店でも良いです。チェーン店とか混んでいてそもそも近寄れないので個人のお店。美容院でも床屋さんでも良いです。で、店主さんとお話をしたりする。そうすると演技モードがオートで始まり、架空の人格が応答し始めます。相手が求めている人物像を演じてしまう。それはそれで良いのですが、問題は記憶力がほぼないということです。だから次にそのお店に行ったとき、相手の反応を見ながら前回どんな人物を演じていたのかを手探りで再現していかないといけません。そもそも人物を演じたのかどうかも怪しい。土星人だったり。いやきみは土星人を差別するのか、土星人だって人物だろう。とにかくもう何も分からない。そうするともうそのお店には行けません。基本、地元のお店を利用したいのですが、でもこうなってしまう。ぼくはこれを「焼き畑式地産地消」と呼んでいます。

そんな感じでコミュニケーションは非常につらい。その昔、まだ博士課程にいたころ、研究室の先生の講義でTAをしたことがあります。で、お昼休みにご飯を一緒に食べに行くかいと言われ、他にもゼミ生がいたのでみんなで行くのかと思い、ほいほい行きますなどと答えてしまった。ところが他の子たちはお弁当があるとか言って、言いやがってですね、先生とぼくだけで大学前のお蕎麦屋さんに行くことになりました。そもそもぼくは博士課程からその研究室に入ったので、あまりじっくり先生とお話したこともない。先生も一生懸命いろいろお話してくださるのですが、何しろコミュニケーションの反物質からできているという噂のあるぼくです。先生の専門は公共圏論とかコミュニケーション論でこれはもう対消滅するしかない。

でもまあ研究のお話はできますので、そのとき先生が仰ったのが、きみも他者論ばかりではなくてせっかくプログラミングなどもしているのだから情報系の議論も取り入れたらどうかな? ということでした。実際、当時のぼくはバトラーの可傷性(vulnerability)の議論に強く影響を受けていて、というかいまでもこれがぼくの技術論の根幹にあるのですが、ゼミとかで公共圏における言語的コミュニケーションについて議論しているのに、ぼくだけ「コミュニケーションが持つ根源的暴力性が……」とか、ヤクでもやっているのかみたいな目つきをして呻いている。これじゃあ困ります。なので情報系。ぼくもぼくで例によってオートモードになり「そっすね! 情報系織り交ぜてvulnerabuleに行っちゃいますか!」とか、これ何が憑依しているのか。

けれどさすがに恩師の言葉は先見の明があって、恐らく、あの蕎麦屋での会話があったから、いまでも研究を続けられているのだと思います。本質的なところでテーマなんて変えられません。恐らく、それは何かから与えられたものなんです。でもそれをどう表現するかというのは無限に選択肢があって、これが大変です。それを見つけるのには幸運が必要だと、ぼくは思います。このときの先生の(苦し紛れだったかもしれませんが)アドバイスによって、語りたいことを語る枠組みはかなり拡がったなと、あとになってからしみじみ思いました。

そんなこんなでですね、明確に自分の研究テーマがこれだ、というのはけっこう難しいのですが、難しいなりに技術論ではある。なので今回の翻訳書の解題にも声をかけていただけたのですが、要するにただの偶然と幸運のみ。どこまでやっていけるのかは分かりませんが、体調不良で今年の大半を潰してしまった身としては、書きたい言葉を書けるというだけでも嬉しいものです。書誌情報が公開されたら改めて広告いたしますので(売れてほしい!)、その際にはぜひぜひお読みいただければ。嘘じゃなくて、泣けてくるから。

デジタルの向こう側

「ぼくはハンバーガーが食べたい、ぼくはハンバーガーが食べたくない」という言葉があって、ぼくにとってはけっこう大きい意味を持っています。単純に言えば人間は相反する感情や意思を同時に持ち得るということを表しているだけなのですが、けれども、或る言葉が誰かにとってどれだけの重要性を持ち得るのかというのは、その言葉に付随する様ざまな背景によっても決まりますよね。だから共有することは難しいかもしれません。莫迦みたいに聴こえるかもしれません。とはいえ、矛盾したものを矛盾したままで抱え続けるというのがぼくの信条、というか信念、いやいや性質でして、それを明確に意識したきっかけの一つです。

などと言いつつ、実はこの言葉、どこで読んだのかがはっきり思い出せません。ぼくの記憶ではルディ・ラッカーの翻訳本のどれかだったはずなのですが……。きょう彼の本を読み直してみたのですが、ちょっと見つけられませんでした。けれど読み直しを通して、改めてラッカーの面白さを思い出せました。そうそう、若かったころのぼくはずいぶん影響を受けていたのだなあ。

ここから脱線するのですが、ラッカーは工作舎の『アインシュタインの部屋』(エド・レジス著、大貫昌子訳、1990)にもちょこっと登場する数学者です。ここでラッカーはプリンストン高等学術研究所に居たゲーデルに会いに来ている。このシーンはラッカー自身によって『無限と心』(好田順治訳、現代数学社、1986、出版社には既に情報がありませんでした)でも描かれていますが、相当オカルトです。「ゲーデルとの会話は、非常に直接的精神的感応の伝達のように感じられた」(p.177)。ゲーデルが抱える世界に対する恐怖心と猜疑心――それはやがて彼自身を殺すことになるのですが――そしてラッカーの空気の読まなさがストレートに表現されていてとても面白い。この本、翻訳に難ありすぎてお勧めしにくいのですが(そもそもこの本持っている方、ぼく以外には一人も出会ったことがありません)、ラッカー好きなら必読書です。翻訳が凄すぎて難物ですが……。とにかくこの辺りの本、高校時代のぼくはすごく影響を受けました。世界は謎に満ち溢れていて、いつかは自分もそういう謎を解く天才たちに交じって研究するのじゃとか思っていた。いやはや。まあ、いまはそんなんでなくても研究っていうのはできるということが分かったので、無駄な半世紀ではまったくないのですが。工作舎とか本当に良いですよね。楽しい思い出。いま読んでも面白いし。遡るとブルーバックスとかにも影響を受けたのかもしれません。これは小学校とか中学校くらいのころか。岩崎一彰氏の宇宙のイラストを見て天文学に憧れたりしていました。野山を駆け回りツチノコとバトルをしていた自分と、本だけあれば満足していた自分。どちらの記憶が正しいのかは分かりませんが、人生なんてそんなものです。さあどんどん話がずれます(大丈夫です、ちゃんと戻ります)。つい最近、といってもいつのことかもう思い出せませんが、島を買おうと思って公的競売の情報を眺めていました。もちろんそんなお金はないですよ? 3万円くらいで買えないかしら。でもってカエルやトカゲや鳥の天国にする。「死ね」と内なるブラック・ジャックが突然叫びます。「この空と海と大自然の美しさのわからんやつは――生きるねうちなどない!!」(『宝島』)。自分だけの世界を持ちたい――それは我執としての自我であったり近代的自己に基づいた私的所有の話であったりではなく――そういう気持ちはあります。そうだ、昔父とイギリスのとある地方を歩いていたとき、あれはぼくが十歳くらいでしょうか、廃墟のようなお城があり、それがけっこう(ぼくには、ではありませんが)買える値段だったのを覚えています。もちろん、維持費などを考えれば現実的ではないのですが。だけれども、まあ、それは良い記憶です。そうそう、なんで岩崎氏からこんな話になったのかというと、岩崎氏の「宇宙美術館」が競売に出ていたのです。寂しいですね……。

話がずれることでは定評のあるぼくです。言葉だけではなく実人生でさえどこかにさまよいだしてしまい、つまるところ、いまだにこんな人生です。だけれども、だけれども、ぼくには力業という武器がある。なので力業で話を戻します。

ぼくの数少ない才能のひとつにプログラミングがありますが、いやまあ、才能といったって「アリを眺めるのが得意です!」みたいな感じで、あまり実社会では役には立ちません。それでも、一時期はひたすら0と1だけの世界を生きていて、それでどうにかこうにか生き延びていたのは確かです。それがなければ……。

世界って怖いじゃないですか。突然ですけれども。ぼくは怖いです。意味が分からない。それでもあらゆることがもし0と1に還元できたら、その奔流が見えるようになったら、もしかするとぼくはその流れを読み取ることができるかもしれないし(そのくらいには自分の才能を信じていたのですね、若かったので)、ぼく自身もまた0と1に還元できるのであれば、世界をそこまで恐れる必要もなくなるかもしれない。そしてある程度は実際にそうなのです。

「なぜおれにあの娘を見せつけるんだい、こん畜生。それも繰り返し、繰り返し。おれを引っかき回しやがる。あの娘、殺したのはおまえだろ。千葉で……」/「いいや」/と少年は言う。/「冬寂か……」/「いいや。あの娘が死ぬのは眼に見えてた。きみが時おり、巷の舞いにパターンが読み取れそうに思っただろう。あのパターンは本当なんだ。ぼくはね、ぼくなりの限られたあり方で、複雑にできているから、そういう舞いが読める。冬寂よりずっと上手さ。ぼくはあの娘の死を読んだ。《安ホテル》のきみの棺桶の扉についていた錠前の磁気符号にも、ジュリー・ディーンの香港のシャツ仕立屋との取引口座にも、ね。腫瘍の影が、走査像を見る医者にとって明々白々なのと同じこと」

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986、pp.421-422

これはギブスンの『ニューロマンサー』ですが、いうまでもなく、ニューロマンサーは人間が0と1のパターンだと言っているのではありません。超越的なAIでさえ、あるいはだからこそ、マトリクスに、すべてを数え上げることができるマトリクスに連れてきたその殺された娘を見つつ「でも、あの娘の心はわかるまい」(p.420)と言います。しばしば『ニューロマンサー』を、あるいは主人公のケイスを単なるデジタル主義のように捉える読解があり激怒を通り越して絶望するのですが、そうではありません。あれは、人間はデジタルでは表現できないものをどうしようもなく抱えているということ、そしてデジタルのなかにさえ分からないもの(=生)があるということを美しく描いた唯一の物語なのです。三部作の他の物語はあれだけれど。

例えばラッカーはセルラー・オートマトンについて説明するとき、しばしばスティーブン・ウルフラムを参照しています。ウルフラムもやはり天才ですし、これまた一時期、ぼくは滅茶苦茶ウルフラムの世界観に影響を受けていました。しかしウルフラムの場合は世界を0と1で捉えられるという思想が非常に強い。いやそうだとしても、それは単にそれでおしまい、それですべてが表現できるということなのでしょうか。どうなんだろう、と、ぼくはだんだん感じるようになっていきました。というよりも、ギブスンやラッカーを読んで共感するのは、まさにそこの部分なのです。

ゲーデルの定理とチャーチの定理をもたない世界は、すべての属性が加算的な世界であろう――いかなる種類の人間活動にも、結果が善であるかどうかを判定する決まったコードがあることになるだろう。そのような世界ではアカデミーは何が芸術であったかということや何が科学であったかということに関して判定を下すことができるだろう。創造性はアカデミーの規則に達するかどうかの問題になるだろうし、落選作品展覧会はゴミだけしか含まないものになってしまうだろう。/しかし[…]私たちの世界は有限なプログラムや有限な規則の集合以上に果てしなく複雑である。あなたは自由だ、あなたは実際に生きている、そして次に自分が何を考えるかを言いあてることもできないし、過去の足跡をはねのけて好きなときに新生活をはじめてはならないという理由も存在しないのだ。

ルディ・ラッカー『思考の道具箱 数学的リアリティの五つのレベル』金子務監訳、大槻有紀子、竹沢攻一、松村俊彦訳、工作者、1993、p.304

ラッカーは数学者です。どこまでも。だからと言って良いのかどうか分かりませんが、まあ、だから彼は0と1を信頼している。というよりもそれに拠って立っている。数学的センスがまったく欠落したぼくには想像もできないレベルで。けれどもそれはすべてがクリアになるということをまったく意味していません。むしろ逆なのです。だからこそ、分からない。だからこそ、自由がある。

ここで、もう一度問おう。リアリティとは何か? それは、不可逆な次元をもつフラクタル・セルオートマトン(CA)による圧縮不可能(incompressible)な計算である。そしてこの巨大な計算はどこでおこなわれているのか? あらゆるところで、である。私たちはそれからできているのである。

同書、p.393

これは例えばダニエル・ヒリスの名著『思考する機械コンピュータ』のラストにも通じるところがあります。ヒリスもまた、コンピュータがロジカルなものであることを大前提としたうえで、コンピュータ(マシン)のロジカルな海のなかに拡がる可能性を信じ、感じ取っているひとです。

私は、知性の源を侮辱しようとして「脳はマシンである」と言っているわけではない。私は、マシンの能力の潜在性を認めようとして「脳はマシンである」と言っているのである。人間の頭脳は我々の想像以下のものではなく、マシンは我々の想像をはるかに超えるものである。私は、そう信じている。

ダニエル・ヒリス『思考する機械 コンピュータ』倉骨彰訳、草思社、2000、p.272

いずれにせよ『思考の道具箱』、これはあの時代、工作舎でなければ出せなかった本でしょう。こういう、いやこの本でなくたっていいんです、ある瞬間その本があったから救われた何かというのは確かにあって……、それは音楽でも演劇でも何でもいいんです、でも確かに在る。そしてもし本がそれであったのなら、かつ、「この私」が救われたなどという下らない話ではなく、あくまでどこまでもその本こそが先に存在して、それが誰かに語りかけたその誰かがきみであったのなら、きみはきっと本読みなんです。ぼくはそう思います。

ぼくはいま、技術とは何かということを、人間存在と不可分なものとして考えています。そして人間が在るということがあらゆる他者なしにはあり得ないものである以上、それは倫理でもあります。つまり人間存在=倫理=技術ということです。それは技術礼賛でも技術批判でもなくて、ただひたすら人間はそうでしか存在し得ないものとしての原理です。無限の可能性があるのなら、そしてあると思うのですが、それは虚構としてのロマンティックで素朴な人間性には見いだせないだろうし、まして電通的な謳い文句に塗れた楽観的テクノロジストの無責任な夢想にもないでしょう。いま、ぼくはラッカーともヒリスとも思想上の立場は異なりますが、けれども彼らが見ているものの千分の一くらいは分かるし、共感もするのです。

論文とか学会発表とか、どうしてもあれかそれかになります。それはそれで仕方がありません。「生きて在ることって……何でしょうかね……」などと言っていたら研究にはなりません。「技術には……あれもあり……これもあり……」それでは困ります。それでも、そういった曖昧で漠然としているように思えるそれは、単に総体であるからそう見えるだけなのではないかとぼくは思います。同時に、だからこそその総体がもつ巨大な質量は、それ自体で分裂しようとしつつも強大な引力を持ち得る。それを表現し得る文体を、あるいは構造を超えた構造を表現しようとするのは、まあたかがぼく程度の才能ではその実現可能性はたかが知れていますが、それでも楽しいことです。

ほんとうに、楽しいばかりの人生です。