映画のラストシーンについて、その他。

例えば『炎のランナー』のラストシーンを覚えていらっしゃいますか? ハロルドが汽車から降りてシビルと会い、二人で立ち去る。この時点で既に聖歌隊による歌が始まっていて、二人がフレームの外に消えていくのに重ねて教会のシーンになる。いやディゾルブとか言うのでしょうが素人なので良く分からない。ともかくここのアンドリュー・リンゼイ卿を演じるナイジェル・ヘイヴァースの演技が素晴らしい。で、この後教会を後にしてかつて若かったアンドリューとオーブリーの二人が歩み去っていき、聖歌隊の歌声はそのまま続きつつ冒頭のシーン、皆がまだ若く海岸線を走っていくシーンに移行する。ここからです。ここから、ほんの一瞬音楽が消える。ただ彼らが砂浜を走る音、波の音、大気の音だけが聴こえてきて、やがてすぐに映画のテーマ音楽であるヴァンゲリスのTitlesが始まる……。

これが素晴らしいんですよ。聖歌隊の音楽は、その映画の中の、彼ら/彼女らが生きた世界のなかの音楽で、その世界の中で時間が過ぎていく。それぞれにcallingを受けて、避けようもなく逃れようもなく生きた人生がその一瞬に凝縮されている。ぼくらの人生ってそうじゃないでしょうか。すべての一瞬は永遠に残るけれど、常に振り返ることによってしか経験することはできない。でも儚いとかではなくて、やはりそれは自分をはるかに超えた巨大な何かによって駆動された不壊の、絶対的固有性を帯びた何かなのであって……。それを映画の外にいるぼくらもまた同時に体験していたけれど、それはもう遠ざかっていく。音楽が消えて彼らの足音だけが響くとき、その永遠性を、そして手の届かなさを感じるのです。きみの人生がそうであったように、それは彼ら/彼女らの人生だった。そしてTitlesは、「映画の世界の音楽」ではなくて、「映画の音楽」なんです。それによってぼくらは映画の世界から再びこの世界に立ち戻ることができる。送りかえされる。そしてそれはただ戻されるのではなく、確かにその映画の世界と交わったことによって変化した軌跡を得た者として送りかえされる。

改めて映画を観返せば、恐らくこのかたちを取っている映画って多いはずです。ぱっと思いつかないけれど。でもきょうたまたま思い出したのが『王立宇宙軍 オネアミスの翼』です。ラスト、人類史の辿り直しがあり、そこでは音楽が極めて重要な役割を果たしている。そしてついに人類は原爆を手にし、同時に鉄を鍛錬している情景が重ねられ……。ここで場面は街で宗教パンフレットを配るリイクニに移る。このときまた音楽は消えるのです。街の背景音はあるけれど。パンフレットを受け取る者は誰も居ないし、リイクニの言葉を聞く人も居ない。それでも、遥か上空で神へ祈るシロツグが乗る人工衛星が在るし、空からは雪が降ってくる。その雪の一片がパンフレットに落ち……、空を見上げるリイクニ、そしてカメラは急速に上昇しリイクニが小さくなっていき……、このタイミングでエンディングテーマが始まります。あ、音楽監督は坂本龍一ですね。これも構造的には炎のランナーと同じです。

いや断言しているけれどただの感想ですよ。でもぼくは、映画のラストにおけるこの動⇒静⇒動という流れが好きなのです。それは確かに生きられていた世界だった、それは不壊なるものでもう手を触れることさえできないものになった、そしてぼくらはこの世界に戻っていく……。

前にも書きましたが、ぼくは一つ目の大学は中退して、社会人をしばらくしてから入った二つ目の大学では神学士を取りました。取るっていうのかな。まあいいや。神学士って、恐らく日本では比較的数が少ないと思います。ぼく自身はいわゆる神を信じているということはなくて、むしろ神に対しては異様な、と言っても良い殺意を抱いていました。そのきっかけはアスファルトの上で焼け死んでいる一匹のミミズであって……。でもこんな話をしても、皆さんちょっとこいつどうかしているんじゃないのか? とお思いになりますよね。ぼくだって誰かが突然そんなことを言いはじめたら目を逸らさないまま後退りして距離を取りますよ、森を出るまで。

でも当時は神学校生(つまり牧師になるための勉強をしているひとたち)と毎日のように議論をして、それはやはり楽しかった。あちこちの教会にもお邪魔をさせていただいたし、アメリカまで行って神学校の本拠地みたいなところのサマースクールに参加したり。どう考えてもコミュニケーションの反物質と言われているぼくのような人間が世界各地から集まった神学校生と話をしたりして、いまとなっては信じがたい時代ですが、ほんとうに得難い体験でした。

いずれにせよ、信仰について誰かと議論する機会というのはもう今後はないと思っていますし、信仰のない人とそういう議論をする(ことに意義を見出す)気力ももはやないのです。尊敬していた牧師先生の多くは亡くなりました。かつての神学校生たちは……どうだろう、とうに牧師になっている彼ら/彼女らが居る教会に、或る日行ってみたいという気持ちはあります。ぼくがもっとほんとうに年を取ったら。

だけれどもそれらのことの全体は、寂しいとかつまらないということではないのです。物語、つまりぼくは世界をこういうふうに見ていますよという語りの良いところは、どのようなかたちでも可能だという点にあります。本として残せれば最高ですし、ブログだってかまわないし、あるいはそもそも頭のなかでもう居ない誰かに語るのだって十分なのです。本のことも映画のことも雲のことも虫のことも。

生きているうちに語れることを楽しく語って、最後に少し静寂があって自分の息遣いだけが聴こえていて、そうしてそのさらに先には……。そんな感じで、適当に生きています。

スタイル

トークイベントが無事に終わり、ほっとしています。非常勤の講義やら(最近はすっかりやる気をなくしていますが)学会発表などでさんざん喋っているのでいまさら緊張はしませんが、けれども来ていただいたみなさんと楽しさを共有したいという気持ちは人一倍強いので、そういった点では良いイベントになったのではないかと感じています。無論ですがそれはぼくの発表が良かったからではまったくなくて、スタッフの皆さん、そもそもの中心である『修理する権利』の面白さ、もうひとりのスピーカーであった中村健太郎さんのトークの面白さに全面的に拠っています。ぼくはといえば忍びの者として目立たず突然訳の分からないことを言い出したりせず終えられただけで大成功です。いや本当かな? 本当に訳の分からないことを喋っていなかったかな? しかしすでにすべての記憶が靄の彼方なので、成功したと思い込めばそれが現実です。

けれども真面目な話、たとえばシンポジウムとかってありますよね。まだ真面目に学会活動をしていたとき、しばしばシンポジウムの企画やらにかかわることがありました。実際自分が喋ったり、提題者になったり。そういうときにいつも残念だったのは、どうしてもシンポジウム全体としての統一感を作ることができなかったなあ、ということでした。特に学会主宰のシンポなんて、喋るのも聴くのも研究者ばかりじゃないですか。そうするとどうしても皆、自分の専門の話をすることになる。全体のテーマがあってそれに合わせて喋るにしても、やっぱりそれだけでは(ぼくにとっては)どうしようもなく足りませんでした。例えばバンドとして一つの曲を演奏するような……。あるいはアルバムを作るような……。うーん、うまく言えませんが、シンポにしろトークイベントにしろ、要するにひとつのイベントな訳ですので、それを聴きにきてくれた方にひとつのまとまりとして自然に受け止めてもらえるような、そういった統一感がぼくは欲しいのです。

今回は少しそれができたような、自分としては比較的納得がいったような感覚がありました。

どうなんでしょうね、恐らくぼくは、やはり純粋な研究者ではなくて、純粋なプログラマでもなくて、楽しい物語を作りたいというのが根本にあるのだと思います。楽しいといってもげらげら笑えるということではなくて、悲しい物語だって作ったり聞いたりするのは楽しいですよね。言葉って、まったく逆の意味を持つものだし、それを使いこなせないのであれば、それじゃあ論文くらいしか書けないですよ。「苦しい」「あ、苦しいんだね!」みたいな。ぼくはそれは莫迦ではないかと思う。いやもちろん苦しいのは嫌ですが。

そう……だから……イベントもひとつの物語で、でもそれは統一感があるという意味でひとつなのであって、誰にとっても同じ物語である必要はまったくないのです。というよりも誰一人として同じ読みができないからこそ、物語はひとつの世界になるのです。

博士課程のとき以降お世話になっていた先生が、彼は恐らくただひとり、いまぼくが唯一メインで参加している研究会に対して肯定的に、しかも鋭い批判を含めたコメントを下さっていたのですが、しばしばぼくに「まずは言葉の定義をしっかり共有しなければ研究会なんて意味がない」ということを仰っていました。それはまったくその通りで、これほど必要なことはありません。ただ同時に、ぼくは言葉なんてその人の捉え方次第でぜんぜん構わないし、結論だってどう読み取ってくれても構わないとさえ思っていました。なぜならぼくが書きたいのは物語だから。世界をこういう風に見ることができますよ、面白くないですか? ということ。それが正しいスタイルだと言いたいのではなくて、ぜんぜんそうではなくて、それは結局、人間はその人が取れるスタイル以外のスタイルは取れないというただ単純な事実を示しているに過ぎません。そしてだからまあ……ぼくはいわゆる一般的な意味での「研究者」ではないのだろうとも最近思います。ネガティブな意味ではなくて。最高にポジティブな意味で、です。そもそも、この世界をこう見てみようと考えるひとであれば、もうその時点でそのひとは研究するひとだし、物語を書くひとです。

太宰の……このひと太宰のことばっかり書いていますが、まあともかく『如是我聞』は人文系の研究者なら絶対に読むべきだとぼくは思います。しかし今回は『如是我聞』ではなく「葉」から。

芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。

太宰治「葉」『晩年』(新潮文庫)所収、p.13

これも伝わらないひとには伝わらないのですけれども、ぼくにとっての研究も、できればこの域にまで達したい。そう思っています。いま、トークイベントが終わって、それこそ学会発表やらシンポやらよりもよほど準備に時間をかけて、けれどもこれで再び自分の単著原稿に戻れそうです。というか戻ります。戻る。絶対に戻るのだ。そして書きかけのまま中断していた原稿を眺めてみたらこれが硬い。何じゃこりゃみたいに硬い文章。ただ、それに気づけたということはこの遅延がまったく無駄ではなかったということの証左でもあります。だからまあ、いま、気持ちは明るいです。

突然話が変わるようで変わらないのですが、ぼくが最初に単著を出した共和国の代表、下平尾直氏の本が出版され、刊行記念イベントも開かれるそうです。

共和国はほんとうに良い本ばかり出している稀有な出版社です。ぼくはそうとうに暗い、陰湿な、陰惨で陰鬱で湿った犬のような匂いがする人間ですが、それでもある種の希望を持ってこの社会で生き残っているのは――という割には常にニヤニヤ笑ってもいてこれまた薄気味悪いと言われる所以ですが――とにもかくにもこういった素晴らしい出版社が幾つもあるからです。思想系なんて、本という具体的な、しかも極めて幸運に恵まれれば美しく手触りの良いものに具現化されなければ、誰かになんて伝わらないです。いやそんなこともないかもしれないけれど、本とともに育ったぼくは、そう思います。

共和国はそういった出版社のもっとも先端のひとつであり、(いまでもそうですが)まったく無名だったぼくの原稿を引き受けてくださったというとんでもない出版社でもあります。下平尾さんにはお会いした数回のすべてにおいてただただ迷惑ばかりをかけ、毎回毎回その凄まじい迫力に緊張しっぱなしでしたが、ぼくが自分のスタイルをあがきながらも自覚し作れたのはこのときの経験があったからこそなのは間違いありません。その緊張は、ただ単純にぼくの筆力が未熟であるが故でもあったのですが、それ以上に、下平尾さんのようなスタイルに対して、ベクトルは違えどその絶対値として対抗し得るほどのスタイルをぼくが持っていなかったからでしょう。

いずれにせよ、たぶん共和国の本のなかでもぼくのはダントツで売れなかったのであろうなと……。全力を出したし恥じるところのない原稿だったとは断言できるのですが、でもなあ……迷惑をかけただけだったという忸怩たる思いばかりが残ります。でも『メディオーム』、良い本なので買ってください。涙あり笑いあり、最後はどんでん返しの大団円です。

いやそうではなくて、『版元番外地』、ぼくもこれから購入します。皆様もよろしければぜひ。もうこれ、絶対面白いですよ。例によって業腹ですがAmazonリンクを(kindleに飛んでしまうので、アマゾンで詳細をご覧になりたい場合は画像下のリンクをクリックしてください)。あ、ついでに『メディオーム』のリンクもはっちゃおう。ぼくはそういうやつなんだ。もうこれはしようがないんだ。そもそもAmazonで「メディオーム」って検索すると強制的に「メディウム」になって絵具とかが出てきちゃうんだもの。

https://x.gd/UMXsi
https://x.gd/O5cOt

【出版記念イベント】修理する権利とそのローカライゼーション――あらかじめ壊れた世界におけるテクノロジーと私たち

FabCafe Tokyoにて開催されるアーロン・パーザナウスキー著『修理する権利――使いつづける自由へ』(西村伸泰訳、青土社、2025)の出版記念イベント告知が公開されています。

https://twitter.com/fabcafe_com/status/1932674040881397933

恐らくですが、研究会とかではなく一般向けのイベントとして「修理する権利」運動を扱う初めてのイベントではないかと思います。そもそも修理する権利は(法的、技術的な側面としては専門的にならざるを得ないところがあるにせよ)ぼくらそれぞれの日常生活の中で、ごく普通の営みとして息づいてこそ力を持ち長く続くものですので、こういう形でイベントを開催していただけるのはとてもありがたいことだと思います。特にぼくの場合は半分は技術者なので、研究会やらでわあわあやるのも良いのですがもっと自然に「直せるものは直したいじゃな~い」みたいに話題を共有できるのは嬉しいです。

ぼくはただ解題を書いただけですので売れ行きは詳しくは分かりませんが、本書、なかなか反応が良いようです。けれどもやっぱり分厚いし、ぱっと見だと法律絡みが多いので敷居が高いと思われてしまうかもしれません。そもそも「権利」って何か凄く大上段に構えた感じがするし、「修理」っていったってスマホをばらす技術力も知識もないし、と感じてしまうのも無理はありません。というかぼく自身がそうです。けれどもそんなことないよ、というのがぼくのトークテーマになります。本書の内容を、そこに書かれている具体例を辿りながら概観し、それをこの私の生の営みとして内面化すること、そしてそこからさらにローカライズしていく手がかりを探る……、みたいな内容になります。一般的な答えはないのですが、だからこそ「じゃあ自分にとって修理ってなんじゃろか」と考えるきっかけになってくれればと思っています。本筋はデジタルデバイスをどうするかなのですが、でもそのベースにぼくらの自然な生の営みが位置づけられていなかったら、どのみちそんな運動は一過性のもので終わってしまいますからね。

もう一人のスピーカーである中村健太郎さんのお話は非常に面白いです。今回のイベントだけでなく、それぞれがお家に持ち帰って「なるほどなぁ……」と時折思い出しては考えてみたりする、そういうふうにつながっていくのが真の意味で良いテーマであり思想の枠組みだとぼくは思います。で、彼のテーマのひとつは「Broken World Thinking」。もうこの時点で面白い。著者のパーザナウスキーさんは、修理はモノを完全に元の状態に戻せるものではない、そもそもそれはエントロピーが増大し続けるこの世界においては不可能なことだ、ということを指摘しています。箇所は少ないですがとても重要な観点です。そしてBroken World Thinkingはこの指摘とある面において――あくまである面においてですが――共鳴するものです。以下、中村さんご自身によるBroken World Thinkingの紹介です。コンパクトで分かりやすいのでぜひ。

「常に壊れ、修復されるもの」として技術の本質を捉え直すこと。これはよくよく考えてみると相当衝撃的なものですが、同時に深く納得できるものでもあります。ぼくはソフト屋さんとしてはまあまあな腕を持っているはずですが……たぶん……そうであってほしい……でもね、もうソフトなんてほんとうに壊れ続けていますからね! そしてこれを修理と結びつけていく。それは気候変動とも関連するし、テクノロジー抜きには語れない現代社会のお話にもつながります。今回のイベントだけで終わることのない、まさにいま必要とされている思想です。ぼく自身、中村さんのお話を聴くのが楽しみです。

中村さんは本書の書評も書いています。これも読みやすく、また重要なポイントを的確にまとめた良い書評なのでぜひお読みください。もしイベントに興味があり、でもまだ本は読んでいないんだよなあという方がいらしたら、これはとても良い事前準備になります。

会場となるFabCafe Tokyoさんは渋谷にあるお洒落なカフェ+FABの拠点です。とても面白そうなイベントを多々開催しているのでお勧め。そういえば初回のミーティングではじめてFabCafe Tokyoさんに行ったとき、ちょうど「節度ある食卓 #01 肉食再考」という企画展をしており関連書籍が幾冊も置いてあったのですが、そのなかに青土社さんの現代思想『特集=肉食主義を考える』が置いてありました。ここには数少ない研究仲間が原稿を寄せていたので、有朋自遠方來! などとちょっと嬉しかったです。

いずれにせよ、ぼくは最近もう駅に行くことさえ辛いのですが、もし皆さんが人間が大丈夫であれば――人間が大丈夫ってどういう意味だ――渋谷の! お洒落な! カフェ! であるにもかかわらず、意外や意外とても入りやすいところなのでぜひ覗いてみてください。

そうだなあ……あとおすすめポイントは……あ、チケットを見たら「ワンドリンク付き」と書いてある。これ怖いですねぇ。よくライブとかで(ライブなど恐ろしくて行ったこともないが)ワンドリンク付きとかってあるじゃないですか。もうその時点でダメです。まざまざと想像できる。会場に入っていって受付でチケットを出して、心の中で「ワンドリンク……」とか思っているけれど言い出せない。どこでそれをもらえるのかも分からない。受付でくれるのか? でもくれなかったな……なんてうじうじ考えている。みんながどこかでもらったドリンクを片手に音楽をノリノリで聴いているけれどぼくは手ぶらだ。もう音楽を聴くどころではない。ああ、つらい、つらい。僕はもうワンドリンクをのまないで餓えて死のう。いやその前にもうワンドリンクが僕を殺すだろう。

あとはまあ……ぼくのトークなんてアレですが、いや面白いですよ、面白くします、でも人間性がアレですからね……。それでもイエティなみの遭遇率ではあるかな……。だってイエティに遭えるとなったら皆さんも渋谷に行きますよね。ぼくは行かないですけれども。そもそもぼくは自分自身の写真っていうものが存在しませんでして、今回イベントページのために鳴く鳴く(イエティ化している)ポートレートを撮りました。っていうかパートナーに撮ってもらったのですが、もうやってらんねえやコンチクショウと思いながら「じゃあ太宰的にポーズ取っちゃう?」とか言って顎に手を当てたら手首を痛めました。

いまも痛いです。イベントご来場、お待ちしております。

夜の渋谷のアウトサイダー・アート

昨日は45分ほどの会議に出るために往復6時間弱かけて職場に行って帰ってきました。さすがにそれだけではつらいので、(研究のためではない)趣味の本を読みながら。昨日読んだのは『ミック・カーン自伝』(リットー・ミュージック、中山美樹訳、2011)。例によって業腹なのですがamazonリンク。本当にamazonって嫌なのですがリンクがきれいにはれるのですよね……。

これとても良い本です。特にJAPANが好きではなくても読んでいて面白い。内容はデヴィッド・シルヴィアンに対する怒りと諦め、自らの女性関係や当時の音楽シーンにおける交友関係などなど、ゴシップ的に読めば読めるのかもしれませんが、そういった次元にとどまるものではありません。これ本当に面白い本なので、また改めてご紹介しようと思います。

で、もうお家に帰ってきたらヘトヘトな訳です。べとべとさんなら「お先にお越し」と言うところですが、へとへとさんなのでそこにはただぐったりした中年男性がいるだけです。侘び寂びえぐみ。しかしその日はそれで終わりではなくその後渋谷に行かなくてはならない用事がありました。渋谷。30年近く昔、彼女に――彼女というのはそのときにつき合っていたナントカとかいう意味ではなくいまのパートナーのことですが――ほとんど無理やり連れられてずいぶん行きました。セゾン美術館とか、あと美術書の専門書店とかもありましたよね。訳が分からないままに色いろつき合って、それでもその経験は確かにいまのぼくの大きな部分を形作っているのかもしれません。そのころから既にしてぼくは人間がダメで、というよりもぼくという人間がダメなのですが、あの渋谷の混雑は辛かった。当時は彼女にええかっこ見せようと踏ん張れましたが、いやいまだってそうですけれども、もうあれです、えぐみ。とにかくずいぶんといろいろなものを観ました。

そんな渋谷も行かなくなって数十年、近所のお店でさえ一度足が遠のくともう一生行けないくらいです。渋谷なんて無理でしょう。しかしとても面白そうなミーティングにお声をおかけいただいたので、これはもう死ぬる思いで行かねばならぬ。ぼくらこそは救援隊だ! などと譫言を言いながら、思い出した、しかも昨日は朝から頭痛がひどく、痛さのあまり眼が覚めたくらいです。そういうときはまっすぐ歩くだけで超人的な努力が必要になります。それでも吉祥寺から井の頭線に乗ってだいぶ超人になりつつ神泉で降りて、そういえば昔は神泉って電車の一部しかホームに止まらないくらい小さな駅だったよななどと思い出しながら、目的地はFabCafe Tokyo。とてもおしゃれなカフェです。何だか最近こういうお洒落なところばかりに行くことになっているな……。ぼくの本来のモードは石や落ち葉の下とかなんですけれども。

FabCafe Tokyoは神泉からはすぐ近くです。しかし何しろ渋谷で、夜で、カフェで、窓ガラスの向こうに見える店内は明るいライトでぴかぴかです。お洒落なひとたちがmacとか広げて何かしています。ほんとうはここで集合だったのですが、外から見た瞬間「あ、これ俺には無理なやつだな」と悟り、そのままスイングバイして加速しながら飛び立っていきました。ぼくはそうやって最初の大学を中退したのですが、だけれども、もうそれも四半世紀昔の話。すっかりえぐみの深まったいまのぼくは、そのまましばらく渋谷の街を歩きながら強烈な自己暗示をかけ悟りを開いたふりをして、時間前にはFabCafeに戻っていきました。いや喫茶店で待ち合せというだけなんですけれども。

FabCafeではアールグレイを頼み、といってもアールグレイが何かも分からないのです。グレイと名前がついているのできっと宇宙人でしょう。ぼくは利口だから分かるんだ。スイングバイしながら宇宙の果てを目指すボイジャー。頭痛は悪化の一途を辿り目は霞み、意識は朦朧としています。それでもその後のミーティングはとても楽しく参加できました。ぼく以外の人びとはみなプロフェッショナルかつ優秀で、そういった人の話を聴けるだけでも渋谷に行った価値がありました。とはいえぼく一人が楽しんでいても仕方がありません。昨日のミーティングからは何か面白いものが生まれる感じですので、それはまた改めてご報告できればと思います。

とにもかくにも、渋谷はやっぱりダメでした。昔からそうでしたが、ダンゴムシとアリだけが友達のようなぼくにはハードに過ぎるしハードルが高すぎる。けれども完全に気配を殺しながら凄まじいまでに混沌とした人の流れに沿って浮遊していると、ふとそういった表面的なものごとがすべて剥がれ落ちその向こう側が浮かび上がり、そこには30年前彼女と歩いた地形がほとんど変わらず透けて見え、そしてそんな幻視をしているぼくというダメ人間そのものもまた変わらず、そのことのおかしみにふいに心が軽くなったりもするのです。

昔、生きることに混乱したまま訳の分からないことを彼女に喋っていたぼくは、研究者として多少の訓練を受けたとはいえ本質は変わらず、四半世紀を過ぎたいまでも訳の分からないことを言ったり書いたりしています。若く優れた人に交じって「ほへえ」などと相槌を打ちつつ、もうここまでくればぼくという存在自体がアウトサイダー・アートだよねなどと開き直り、夜の渋谷のなか、のたのた歩いて帰っていきました。

アーロン・パーザナウスキー『修理する権利 使いつづける自由へ』西村伸泰訳、青土社

例えば、皆さんがお使いのスマートフォン、購入してから何年目でしょうか。他方でいま(もし皆さんが自宅でこのブログをお読みになっているとして)座っている椅子は購入してから何年目でしょうか。もちろん、引っ越したばかりだったりすれば椅子の方が使用年数は短いかもしれません。けれども一般的には、普通の椅子よりもスマートフォンの方が使用年数は短いのではないでしょうか。にもかかわらず、スマートフォンは椅子と比べてはるかに大きな環境負荷をその製造と使用と廃棄のすべての段階において必要とします。またその背後には紛争鉱物や児童労働など、悲惨としか言いようのないできごとも隠されています。さらにその上、スマートフォンに代表される多くのデジタルデバイスは簡単な修理をすることさえ――さまざまな要因によって――困難です。これはどう考えてもおかしな話です。

同時に、いまぼくは「購入してから」と書きましたが、ここにもまた問題があります。椅子であれば確かに購入したと言えるでしょう。音楽CDも映画のDVDもそうです。けれどもNetflixで映画を観る場合、Kindleで本を読む場合、あるいはSpotifyで音楽を聴く場合、ぼくらは物理的なモノとしてそれらを持てるわけではなく、ただ一時的に視聴する権利を購入しているに過ぎません。ネット接続が前提のスマートデバイスなども同様に、所有の幻想をぼくらに与えるのみです。

だから、(あくまで一般論としてですが)先進諸国に住みそれなりの生活を送るぼくらは、様ざまなものを得ることができて、豊かな暮らしを送っているように思えますが、実際には途轍もない欺瞞がそこにあることになります。滅茶苦茶環境負荷を与え奴隷労働まで必要とするようなデバイスは、壊れても修理できず、実際には所有すらしていない。それでも企業によってその買い替えを強制され、あるいは莫大な資金と人員、時間をかけて買い替えを善しとするような文化を作られてしまったら、もうぼくら個人ではどうしようもありません。

単純にただの椅子であれば、脚が折れても傷が付いても、ぼくらはそれを修理できるかもしれません。しかしデジタルデバイスの場合はこれがなかなか難しい。そこには技術的、法的に高いハードルが存在します。でもおかしいですよね、それって。せめて修理できるのなら修理をして長く使おうよ、というのが自然かつ当然な反応です。でもその自然かつ当然の反応を実現させるためには、いったんそれを「権利」として顕在化させなければなりません。それがいま大きな注目を浴びている「修理する権利」運動です。

2025年4月28日に発売されるアーロン・パーザナウスキー著『修理する権利 使いつづける自由へ』(西村伸泰訳、青土社)は、この「修理する権利」運動に関する初の包括的な入門書になります。

著者のパーザナウスキー氏については青土社のサイトの紹介が良くまとまっていますので引用します。

アーロン・パーザナウスキー(Aaron Perzanowski)
ケニオン大学卒業後、カリフォルニア大学バークレー校法科大学院を修了。現在はミシガン大学教授として著作権や商標、財産法などについて教鞭をとる。専門はデジタル経済圏における知的財産法や物権法について。これまでの著作として『所有の終焉(The End of Ownership)』や、共編著『法なきクリエイティビティ(Creativity without Law)』がある。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=4018

このように専門は法学なので、本書も修理する権利を妨害する/保護する法に関する記述が比較的多いです。けれども極めて多くの具体的な事例を通して語られるので、決して難しくもとっつき難くもありません。何より、修理は私たちの生の営みにおける基本要素であるということ、そして修理することは環境破壊や劣悪な労働環境で働く人びとに対する責任であるだけではなく、企業に支配された私たち自身の生を解放することでもあるということを、パーザナウスキー氏は常にしっかり見据えて議論を展開していきます。これが本書を、ただ無味乾燥に法的解説を書き連ねたようなものではない、魅力的なものにしているのではないかと思います。

あと、上記リンク先には目次もあるので、そちらもぜひご覧ください。各節タイトルからも本書が具体的かつ包括的なものであることが分かります。そして最終章の「修理を再構築する」からも、本書のトーンが前向きかつ希望を感じさせてくれるものであることが伝わるかと思います。そう、実際、ぼくらの置かれている状況は極めてシビアでシリアスなのですが、そしてそのこともパーザナウスキー氏は冷静に正確に描写していくのですが、それでも、そこにはぼくらが実際に加わることができる運動によって実現されるであろう希望があるのです。

それなりに分厚いですが、手で持った感触もとても良いです。これはとても重要なことです。モノとしての質感が優れているということは、紙の本の持つすばらしさの一つだから。装丁は北岡誠吾氏。実際に見ると分かりますが、帯が一部透けていて”The Right to Repair”のタイトルが薄く見えています。とてもお洒落。表紙を外してもまた美しいですので、ご購入なさったらぜひご覧ください。

なかなか写真では伝えにくい良さなので、ぜひ書店で手に取って見てください。

技術について考えていると気が重くなるばかりのこの時代、手に届くところで確かにできることがあるのだということを伝えてくれる本です。興味のある方は、ぜひ。4/28発売ですが、いまちょうど中野のBook+東中野店で青土社フェアをしており、そこで本書も先行発売しているとのこと。お近くの方は覗いてみてください。

ぼくは偶々青土社さんの『現代思想』のメタバース特集に原稿を書いた際、そこで原著の”The right to repair : reclaiming the things we own”を参照していた関係で、今回の翻訳本の解題を書かせていただくことになりました。ぼく自身は研究者をやりつつ技術者をやっています。技術者としてのぼくにとっても、あるいは子供のころから工作好きでいろいろ分解/組み立てばかりしていたぼくにとっても、「修理する権利」を日本に紹介する本書に少しでもかかわれたのは本当に嬉しいことです。

やはりデータではなく紙に自分の名前があるのを見ると感動するのです……。

修理する権利は決して法的な問題だけのものではありません。誰もがデジタルデバイスと無関係には生活できない以上、それぞれの立場から修理する権利を捉えることが可能だとぼくは思います。ぼくの場合はメディア論/環境哲学の立場から考えますので、そういった場合に次の書籍などは参考になりました。本当は他にもご紹介したい本がたくさんあるのですが、それはまた別の機会に。いずれにせよ以下、どれもお勧めです。Amazonリンクなので業腹なのですが……。

ブライアン・マーチャント『ザ・ワン・デバイス iPhoneという奇跡の〝生態系〟はいかに誕生したか』倉田幸信訳、ダイヤモンド社、2019。
ユッシ・パリッカ『メディア地質学 ごみ・鉱物・テクノロジーから人新世のメディア環境を考える』太田純貴訳、フィルムアート社、2023。
ケビン・ベイルズ『環境破壊と現代奴隷制 血塗られた大地に隠された真実』大和田英子訳、凱風社、2017。
ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術 価値の探求』五十嵐美克訳、早川書房、2008。
ベン・グリーン『スマート・イナフ・シティ テクノロジーは都市の未来を取り戻すために』中村健太郎、酒井康史訳、人文書院、2022。

あ、これで本当に最後。『環境思想・教育研究』16号に掲載されているぼくの論文「限界の時代における修理する権利」の冒頭で、なぜ修理する権利が重要なのかを説明しています。上記と少し重なっていますが、修理する権利に対するぼく自身の興味をまとめていますので、よろしければ。

先進諸国で暮らす多くの私たちにとって、高度なテクノロジーによって実現される様ざまなデバイスやサービスは豊かで便利な生活を送るためには欠かせないものになっている。オンラインであらゆるモノが購入でき、スマートフォンでは無限に娯楽やニュースを受け取れる。SNSで誰とでも/好きな人とのみつながることもできるし、AirPodsで音楽を聴きながらジョギングをしてFitbitで自分の身体状況を管理もできる。それは陳腐ではあるけれどスマートな生活で、そのような空間を創出してくれるそれらのデバイスやサービスは、個人が十全に幸福な生活を享受し自由なコミュニケーション空間を実現してくれるものであるという点で、民主的な社会を構成する必要不可欠な要素にさえなっている。

現代社会を生きる私たちにとってある意味自明視されるこれらの生活の背後には、しかしよくよく眺めてみれば多くの矛盾と歪さに満ちた構造が隠されている。そのデバイスは抑圧と不正義、そして危険に満ちた奴隷労働や児童労働によって得られる紛争鉱物なしには製造不可能であり、その精製過程は大量の電力と水を消費し、有害物質を撒き散らす。使用時にも莫大な電力は必要であり、そしてその廃棄においてもまた有毒な物質を撒き散らしつつ、生態系や人間の健康を破壊していく。その生成から廃棄に至るすべての過程において害悪をもたらすデバイスによって私たちの自由で健康な生活を保とうとすることの異様さに、けれども私たちはどれだけ気づいているのだろうか。[…]

同時に私たちは、無自覚的な神として他者を支配し搾取するだけではなく、現実的にはそれらのテクノロジーを通して企業や国家により支配されてもいる。Fitbitは私たちの極めて個人的な情報を収集し分析するが、この私の身体から生み出されたそれらの情報から生成される統計データが保存されるのは私には決して手の届かないどこかのサーバーで、そのデータは私たちを支配し管理するために転用される。[…]つまるところ私たちは、与えられた選択肢を自由だと思い込まされたまま、ただのリソースとして生かされているに過ぎない。[…]

近年注目されている「修理する権利(The Right to Repair)」は、あらゆる製品が企業や国家に支配され、ひたすら有限のリソースの消尽を強制されるこの状況に対抗し、自らの手でそれらの製品を修理し、自律的に使用できるようにすることを目指している。[…しかし]これは修理のしやすさという設計思想の変革を求めるだけのものではなく、ここまで見てきたような、日常的な理解を超え複雑化した技術によって支配された私たちの生を取り戻すことを目的としており、さらには気候変動や経済格差など、現代技術が内包する様ざまな構造的問題への抵抗運動でもある。

『環境思想・教育研究』第16号(環境思想・教育研究会)、2023

そんなこんなで、ひさびさに真っ当な研究者的投稿などをしつつ、これ本当に重要な運動なので、書店で見かけたらぜひに。

単に眼鏡を買った話

ひさしぶりに銀座へ行きました。といっても、ぼくがかつて銀座へ行っていた理由はただひたすら書店巡りのためだけだったので、いわゆる銀座的な銀座を知っているわけではありません。銀座的な銀座って何だ。ともかく、まずは昔の日本橋丸善に行き、いまはなきLIXILブックギャラリーを覗いて銀座の教文館の洋書フロアに立ち寄り(そういえばここでシリア語辞典を買ったなあ……シリア語! これも年を取ったら勉強したいものの一つです)、ぐるっと回って八重洲ブックセンターに行き……、という感じです。とても贅沢な散歩。偶には京橋の明治屋に寄って彼女に何かを買って帰ったり。いまは人間が怖くて、もうとてもできません。

できないよう、できないようと言いつつ、数少ない友人である彫刻家に連れられて銀座に行ったのです。土曜日だから、ということもないのでしょうが異様な混雑。「土曜日の銀座なんてめちゃくちゃ混んでいるに決まっていますよ」「いや混んでいないよ」と、明らかな誤認、欺瞞、あるいは虚偽の証言により無理やり連れられて行きます。脳内に流れるのはドナドナですが、売られていくのは死相を浮かべた人面中年子牛です。祟りしかない。

で、まあ、案の定彫刻家には「きみの人間に対する恐怖心はもう完全に心の病の域だよ」と言われつつ、銀座の次には外苑前に売られていく。いや売られはしませんが、ここで彼と眼鏡を買う予定だったのです。外苑前のシャレオツな眼鏡屋さんで眼鏡を買う人面中年眼鏡子牛。その日の朝、夢の中でイメルダ夫人ごっこをしていました。ピープルパワー革命、1986年ですよ、みなさんご存じないでしょう。ぼくはリアルタイムの記憶があります。夢の中のぼくはマラカニアン宮殿に踏みこみ、何故かそこにあるのは自宅の玄関の靴箱で、開けると履き古した登山靴が一足しかない。「一足しかないぞ!」とか言っているうちに目が覚めました。「セーターも一着しかないぞ!」「ジーンズも一本しかないぞ!」などと呟きつつ、いま現実に目の前にいるのはお洒落な眼鏡屋さんのお洒落な店員さんです。

人の眼を見ると頭痛を発症するぼくにとって眼鏡屋さんは鬼門なのですが、そういえば最近また一つ頭痛が起きる原因を発見しました。糠味噌をかき混ぜるときの自分の手を見ていると瞬間的に頭痛が始まるのです。しかし見なければ糠味噌がこぼれるし、頭痛が始まったときに目に指を突っ込もうとしても指は糠味噌まみれです。無論精神的にはとても元気なのですが、嘘じゃないです、ぼくは嘘なんてついたことありません、でもそう、いまはそれよりも目の前のお洒落な店員さんです。しかしお洒落なだけではなく、丁寧にぼくの話を聴いてくださりつつ、極めてプロフェッショナルで的確なアドバイスと診断をしてくれます。普段は石の下の暗がりで暮らしているぼくには敷居が高すぎるということを除けば、ほんとうに良い眼鏡屋さんでした。

いや過去形にするにはまだ早い。いままさにぼくは眼鏡を選んでいる状況なのです。ぼくは丸眼鏡が好きなのですが、実際にかけてみるとどうしても愛新覚羅溥儀になる。坂本龍一のラストエンペラーのテーマ曲が脳内だけではなく周辺一帯にまで鳴り響くレベルです。なので自分で選ぶのは諦め、その只者ではない店員さんのお勧め眼鏡を幾点か試しにかけつつ、彫刻家の批評も受けつつ、結局そのなかでいちばんのお勧めをそのまま買いました。もう何年も前、これまた彫刻家と一緒に眼鏡屋さん巡りをしたとき以来の新調。自分では決して選ばないデザインの……というよりもそもそも怖くって自分独りで眼鏡屋さんなんて入れませんから選ぶも何もあったもんじゃないのですが、しかしそうやって自分の枠を壊すというのは、なかなかに楽しい経験でした。

あと、今回ぼくはブルーライトカットはやめました。仕事柄一日中モニタを眺めていることが多いのですが、ブルーライトカットがあろうがなかろうが目が疲れるということは幸いありませんし、もし疲れそうならモニタの輝度を調整すれば良い。何しろ色調が変わりすぎて、写真の調整をするときにわざわざ眼鏡を外してチェックして、また眼鏡をして構図を確認して……、などと手間がかかるのです。「お恥ずかしいのですが……趣味で写真を撮っており……色味が変わって見えるのが辛くて……人生も辛くて……もう働くのも嫌で……」などとその店員さんに相談したところ、レンズそのものもなるべく自然な色に近くなるものを選んでくださいました。

まあね、写真とかいっても、ぼくの撮る写真なんてこんなもんです。

Piyokko Brothers

黄色が欲しくて彼女とじみじみガシャポンをしているのですが、何故か青と紫だけが増えていく。けれどもついに白が出ました。白くんはちょっとおしゃれをして牙が付きました。兎にも角にも自然色に近い視界が得られるのならありがたい。人生は辛いままですが、来週出来上がるという眼鏡だけは楽しみです。

ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

太宰治「葉」『晩年』所収、新潮文庫、p.7

太宰はやはり天才ですね。「葉」は、これを読めただけでもぼくはこの世に生まれた意味があったと思うくらいに好きな作品です。いやそれはともかく、だから、そう、これは一週間後にかける眼鏡であろう。一週間後まで生きていようと思った。でもぼくは太宰と違って凡人なので、できれば百年後くらいまでも生きていようと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

人間性に追いつこうとして

しばらく集中していた作業に一区切りがつき、ほっとしています。これでようやく再び自分の研究に戻れるのではないか、といえばそんなはずもなく、ただただ雑務が山積みになっていくばかりです。若いころは失敗することが恐ろしく、これほど積もった仕事を見たら間違いなくちびっていたと思いますが、この年になると……いえ、やはりちびっています。やるべきことが何も終わらないままに時間が経っていきます。先日、履いていたジーンズが破けたため棚の奥底から引っ張り出してきた得体の知れないジーンズをはいていたのですが、それも破けました。しかたなくさらに得体の知れないジーンズをどこからか拾ってきて履いていたのですがこれも破けました。もう進退窮まったわい、などと言いつつそのまま出社するのですが、さすがにそれは。人としての限度がありまする。そうして仕事先の偉い人の前で不具合原因の報告とかをするまする。そうすると冷や汗をかく。足元に洪水のように冷や汗が溜まる。仕方がないので雨漏りする天井の下に置いてあった盥を持ってきてその中に立つ。そう、ぼくはスクッと立つんだ。「産湯!」などと叫びつつ、どうにかこうにか生き延びています。

きょうは寝起きのまま活動していたので、夕方鏡を見たら髪型がバートン・フィンクのジャケットみたいになっていました。なので彼女の前で表情も真似をしてみたのですが、「ちょっと似ている」と言われました。ちょっと似ている。そうだ、そういえば昨日までは髭も剃っていなかった。客先常駐なのにもう滅茶苦茶だな……。けれども顎鬚って剃るの痛くないですか? ぼくは痛い。だからついつい無精髭を伸ばしてしまう。ところで顎ってなんだかごつい漢字ですよね。オードリー・ヘップバーンの顎鬚とかないじゃないですか。どうしてぼくはオードリー・ヘップバーンではないのだろうか。でもまあ、「仕方のないことは、仕方ないのだ」。これは樋口有介『ともだち』(中公文庫、2002)から。樋口有介の作品は好き嫌いは相当分かれると思いますが、面白いものは、面白いのだ。『ぼくと、ぼくらの夏』(文春文庫、2007)なんかはやはり傑作ですね。あとは『枯葉色グッドバイ』。主人公は過去に自らが起こしてしまった事故から立ち直れず、そのために生活を棄て刑事も辞めホームレスになっているのですが、ひょんなことからある事件について調べていくことになります。そして被害者一家の唯一の生き残りである少女との会話のなかで、「心貌合一」という言葉がでてきます。

「だけど、ねえ、元警官のホームレスって、仲間から苛められない?」
「江戸時代の牢屋じゃあるまいし……でも代々木公園の連中には内緒だぞ。警官嫌いはホームレスも不良女子高校生も変わらない」
「あたしは不良じゃないよ」
「ふーん、それは良かった」
「どうでもいいよ。どうせあんたも、人を見かけで決めるんでしょう」
「君もおれのことを見かけでホームレスと決めている」
「だって、あんたは、ホームレスじゃない」
「うん、そういえばそうだ」
「ほかのホームレスはホームレスらしくしてないのに、あんた、ヘンだね」
「心貌合一という思想があってな、見かけと中身が一致しないのは、他人に対して失礼になる」
「どういうことよ」
「もし堅気に見えるヤクザがいたら、他人はそのヤクザに対して、つい気を許してしまう。あとでヤクザと分かったときにはもう手遅れだ。だからヤクザはヤクザらしく見えないと、他人に対して失礼になる」
「ヘンな理屈だね」
「そうでもないだろう。バカのくせに利口ぶったり、利口なのにバカを装ったり、そういう人間は、下品じゃないか」

樋口有介『枯葉色グッドバイ』文春文庫、2006、pp.168-169.

不思議なことに「心貌合一」、他で聞いたことがありませんが、これとても面白いのでお勧めです。樋口さんの本を読んだことがないのであれば上記の『ぼくと、ぼくらの夏』の方が長さ的にも読みやすいかもしれません。ともかく、心貌合一。何しろぼくなんて存在そのものが胡散臭いですしうろんげなので、そういった意味では無精髭に目は落ちくぼみ、破れたジーンズに履き潰した登山靴なんて超心貌合一です。そうして、だからこそ、合一していない連中のことは一目で分かる。そういうのは怖いし、下らないし、近寄りたくはありません。

でも同時にそうではない人も居て、つまり良い意味で心貌合一している人は居て、それは奇跡みたいに少ないですが確実に居て、しかもものすごい幸運なことに、実際に出会って話をして気にかけてもらえたりする。そういうことがあるから、ぼくはまだ生きていられるのだと、それは心底そう思います。

このお正月に心から尊敬する牧師先生から年賀状をいただき、もう御年九十六歳であるにもかかわらず、はがきの短い文面からでさえ凄まじいまでの魂の気迫を感じました。ぼくは年賀状を書かない主義なので、毎年、お返事として手紙を書いていました。今年も、もうとうに人生の折り返しを越え、いまだに召命とは何かについて考え続けていますと記しました。数日して、友人から先生が突然お亡くなりになったという知らせを受けました。

ぼくはすべての一瞬は絶対的に常に在り続ける一瞬だと思っています。そしてまた、誰かと会話をしたいと願えばいつでも必ずできるとも思っています。そうでなければぼくは何かを考えることなどできません。だからそれは途轍もなく大きい損失ではあるのだけれど、悲しいというのとは少し違うのです。途轍もない損失ではあるけれど……。

その先生の風貌には、人生の一瞬一瞬に常に誠実に向き合う、そういう人のみが持ち得る精神が刻み込まれていました。そういう人間は、繰り返しますが残念ながらほとんど居ません。一度だけお食事をご一緒したに過ぎませんが、小山晃祐先生もまた――とても穏やかで笑みを絶やさない方でしたが――そうでした。そういった出会いが、その一瞬の記憶が、あるいは運が良ければ一瞬の連続の記憶が、ぼくらを一歩ずつ人間に引き上げてくれます。それは何かひどく表面的に心酔するとか批判を禁じるとかいうことではなく、その人が完全無欠であったなどと勝手に盲信するということでもなく、お会いした瞬間、ああこれが人間だと思えるということです。人間で在るということは、逆説的にですが、人間で在る自分から手を離すことができるということだと、ぼくは思います。ぼくらの大半が、だけれども、まだ人間にすらなっていない。ぼくらは人間にならなければならない。ぶかぶかの人間の皮を被っただけの泥の塊のような何かではなく、人間にならなければ。

ぼくはマドリードの戦線で、塹壕からわずか五百メートルの所に、簡単な石垣をめぐらして小山の上に設けられた、学校を訪れたことがある。一人の伍長が、そこでは植物学を教えていた。雛芥子の花の脆弱な器官を、手先に示しながら、彼はそこいらじゅうの泥の中から這い出してくる髭もじゃの巡礼者たちを集めていた。彼らは砲弾の中も厭わずに、彼のもとへと巡礼に登ってくるのだった。[…]彼らには、講義のことはたいしてわからなかった。ただ、〈きみたちは野人だ、きみたちは原始人の洞窟からわずかに一歩出ただけだ、人間性に追いつかなけりゃいけない!〉こう言われると彼らは、重い足を引きずりながら、人間性に追いつこうとして、ひたすら急ぐのだった。

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、pp.197-198

まあぼくなんてダメな方の最たるものです。髭もじゃで泥まみれの野人。だけれども……。恐らく読まれなかったであろう先生へのお手紙に、ぼくは、良い本を書くのでそのときがきたらぜひお読みいただければ幸いです、と書きました。だから、そうしなければなりません。