メディア、記憶、記録あるいは天使について。

その昔、『家族ゲーム』という映画があった。松田優作が主演していた。たぶんぼくと同世代以上の人ならそのポスターを覚えているのではないかと思う。長い食卓があって、家庭教師役の松田優作を中心に伊丹十三や由紀さおりが一列に座っている。ちょっと想像しにくいかな。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い浮かべてもらえるといい。ぼくらは何となくあの晩餐の光景を普通に受け入れてしまっているけれど、あれが家族の食事だとすると相当に変ではないだろうか。普通は向かい合って食事をする気がする。そうでもないかな。ともかく、いま、ぼくと彼女もまた、長いテーブルに二人で並んで座り、食事をする。テーブルの向こうには庭に面したガラスがあり、ぼくらの姿が映っている。それをふと目にするたびに、ぼくは『家族ゲーム』のポスターを思い浮かべてしまう。まあ、大した話ではない。

でも、この前実家に帰ったとき、最初の大学生だったころの写真を発掘した。まだ若いぼくと彼女が、その他数人の人形劇仲間と一緒に、そして人形も一緒に、写真に写っていた。いまガラスに映るぼくらと比べればもちろんひどく若い。だけれどもその本質はほとんど何も変わっていないようにも思う。

写真。二人で写っているものもあれば、一人でどこかへ行ったときにあとで彼女に見せるために撮ったものもある。クルト・ゲーデルはありとあらゆる資料を遺して亡くなったらしい。嘘か本当かは分からない。それでも、いうまでもなくゲーデルの100万分の1の才能もないぼくだけれど、何かを残す、ということに関してはゲーデル並みに強迫観念にかられており、だからいつか、どこか延焼の危険性がないところですべて燃やそうと思っている。それはともかく、だからぼくは、アナログ/デジタルを問わず自分が撮った写真も残していて、だけれど、ある期間に撮った写真だけなぜか見つからないことがある。その一つについてのお話。

それは会社を辞めて二つ目の大学に入り直し、三年目くらいだっただろうか、ミネソタにあるLuther Seminaryに10日間か2週間ほど行ったときのものだ。ちょうどそのときぼくの恩師が神学の修士号を取得するためにSeminaryに在籍していて、オリエンテーション期間中に講義を受けることができるからおいでよ、みたいなことだったと思う。どういうアレかはいまでも良く分からないけれど、ぼくはそこでヘブライ語の講義に潜り込んだりしていた。大学ではヘブライ語の授業は英語のテクストを使っていたので、英語恐怖症のぼくでも講義にはついていけた。あとの時間はだいたい近場を徘徊していたような気がする。

時間があるときには恩師(U先生)がセントポールをあちこち案内してくれた。立派なコンサートホールがあり、学生だとチケットがめちゃくちゃ安いので聴きに行ったり。そんななかでよく覚えているのが、小山晃佑先生に会いに行ったことだ。U先生は修士論文の指導を受けており、何の関係もない、クリスチャンですらないぼくのような若造がくっついてホイホイと会いに行ってしまった。無知というのは恐ろしいもので、小山先生は日本だけではなく世界レベルで見ても20世紀を代表する神学者の一人だ。だけれどもまったく偉ぶるところなどなく(それでも、対峙しているときの緊張感といったら凄まじかった。それはきっと小山先生の、生きていることそのものに対する真剣さであり、誠実さであり、神に対する責任が否応もなく感じ取れたからだろう)、ぼくらは先生のご自宅で昼食をご一緒させていただいた。先生の著作”Waterbuffalo Theology“についてお話したのを覚えている。

小山先生は食事の後に四人全員で写真を撮ろうと仰り、その言い方から、先生は写真がお好きなようにぼくには感じられた。けれども結婚相手のLoisさんは写真が嫌いなようで、嫌だなあ、という雰囲気がありありと感じられ、ぼくはそれを、うまく言えないけれどすごくほほえましく思った。どちらかが我を通すとかどちらかが我慢をするとかではなく……、やはりうまく言えない。でもそのときの写真には、そして先生がそういうときにお撮りになったであろう写真にはすべて、その雰囲気が写っているのではないだろうか。

そのあと、小山先生はU先生とぼくをアパートメントの外までお見送りくださり、そこでまた写真を撮った。そのときの小山先生の「三人で撮るときは気兼ねなく自由だぞ!」みたいな無邪気な率直さで写真をお撮りになる姿がとてもおかしく、だから間違いなく、その写真も良い写真になっていたと思う。

ここまで書いて気づいたけれど、そうだ、だから、小山先生と一緒の写真は、ぼくはそもそも持っていなかったのかもしれない。U先生にお訊ねしてみれば、もしかするとU先生はその写真をお持ちだろうか。いつか尋ねてみよう。

だけれどもその他の写真については、ぼく自身が確かに撮った。当時はもうデジタルカメラになっていた。SonyのDSC-F1ではなかっただろうか。その写真も、いまちょっと見つからない。ゲーデルが地下室に遺したレシートのように、バックアップデータの階層の最深部に埋もれているのだろうか。Seminaryの寮にぼくは泊まらせてもらっていたけれど、インターネット回線は極めて貧弱で、当時の画質でさえ写真をメールに添付するなどは無理な話で、だからぼくは彼女へ送るメールに、帰ったら写真を見せるよ、と書いていた。そう、ぼくはそのとき、ほとんど毎日彼女にメールを送っていた。

そしてぼくは父にもメールを送っていた。でも、こちらは彼女に送るよりもずっと簡素で、ほとんど報告に近いもの。だけれど、帰国してから父と話をしていたとき、いやもう少しあとになってからだっただろうか、父にしてはめずらしくぼくのメールを誉め、「面白く読んでいた」と言った。父がぼくの文章を誉めることはなかったので、そのときのことはいまでも覚えている。ぼくが博士課程に進んで査読論文を書くようになる少し前に彼は亡くなり、もしいまぼくの論文を読んでいたら父はどう評価するかな、と、ぼくはときおり考える。そしてもうひとつ、あのとき、もう少し長くいろいろなことを書いて――短い滞在期間の割にはいろいろな目に遭ったので――父に送れば良かったなと、後悔とは違うけれど、思ったりもする。それは本当にそう思う。

日々不連続な出来事に翻弄される誰かさんの人生が、それでもその誰かさんにとっての人生であるように、このばらばらな話にも通底する何かがある。そしてぼくにとってそれは、研究する動機であり、テーマであり、方法論であったりする。

Waterbuffalo Theology“は、いまも本棚にある。いつかアカデミックなしがらみから完全に解放されるときがきたら、もう一度読もうと思っている。