アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが共演している『ヒート』(マイケル・マン監督、1995年)という映画が好きで、特にラストシーンは何度も繰り返し観てしまいます。銃撃シーンで有名な映画ですが、まあ、あそこはただのアクションです。観ていない方のために内容には詳しく触れませんが、映画の中盤でアル・パチーノとデ・ニーロがレストランでしょうか、語り合うシーンがあって、これも凄く良い。この二人でなければ演じられない、彼らそれぞれの人生の背景の重みが感じられます。で、ラストシーンはこの場面での二人の語りを受けてのものになるのですが、もう一つ、ヴァル・キルマーがアシュレイ・ジャッドのところに行って、でもそこに警察が張り込んでいることに気づいて、どうしようもなく立ち去る、そのシーンとの対比でもあります。ヴァル・キルマーは確かにとんでもない犯罪者なのだけれど、同時にごく普通の人間でもある。愛する人と逃げたいけれど、でもそれができなくて引き裂かれる思いで立ち去る。ヴァル・キルマーのここの演技も素晴らしい。でも、(映画の中の)彼はあくまでただの人間なんです。
もちろん、アル・パチーノもデ・ニーロもそうであって、だからアル・パチーノが娘を病院に運び込むシーンも、最後にデ・ニーロがエイミー・ブレネマンの車に乗るのを断念するシーンも、本当に胸を打つ。だけれども、この二人に関してはやはりそれだけではない。
そう、だから、ヴァル・キルマーが立ち去るシーンが対比されるのは、デ・ニーロがブレネマンとの逃亡を諦めるシーンではない。いやそれもあるのですが、そこが本筋ではない。対比されるのはあくまでラストシーンなんです。ここで、アル・パチーノとデ・ニーロのふたりの、ある種非人間的な本質が現れてくる。ヴァル・キルマーにはない、非人間的な問いに突き動かされた彼らの根本的な悲劇性が、ヴァル・キルマーの人間性によって逆照射される。
特にそれが現れるのがアル・パチーノの眼です。デ・ニーロの手を握り締めて、でもデ・ニーロを見つめるのではない。あそこで、アル・パチーノの眼が何かを探してさまよい始める。というよりも、追い詰めようと、問い詰めようと、けれども同時にどこまでも空虚に何かを探している。そのことが、空虚があるということが、ふたりを結び付けているんですね。それは例えば男の友情とか、そんな阿呆臭いマチスモの話ではなくて、この世界は何なんだという無音の絶叫のような、ほとんど神学的な究極の問いを共有しているということです。
銃を構えてデ・ニーロを探しているときは、その「さまよい」はない。けれどもデ・ニーロが逝ってしまうとき、再びアル・パチーノはこの世界の空虚のただなかで、自らの抱える――それは孤独とか何とかいうことではなく、存在そのものが抱えている空虚さです――その空虚さのただなかで、なぜ、という永遠の問いかけに取り残される。神から切り離された人間の永遠の問いが彼の眼に表れている。
恐らくそれを共有していたであろうデ・ニーロはもういない、いなくなってしまう。夜の空港というのがまた良いんですよ。すべてが飛び立っていってしまう。暗闇の中に。もし魂というものがあるのなら、彼の魂もまた飛び立ってしまった。デ・ニーロにとっての答えは何だったのでしょうか。「ムショには戻らないって言ったろ」。もしかするとデ・ニーロはその瞬間、何かしらの答えを得たのかもしれません。彼にとっての答えは、アル・パチーノに勝つことではなく、むしろアル・パチーノに撃ちこまれた銃弾にあったのかもしれない。けれども、残されたアル・パチーノにはそれは決して分からない。ただ、再び彼は独りに戻るしかない。彼の眼は空虚の中で、人間の意志を超えた異様な強度をもってさまよい、さまよい続け……。
繰り返しますが、アル・パチーノもデ・ニーロも、この映画では極めて人間味のあるキャラクターとして描かれている。だけれども、それだけだとすると、この映画は結局、ただの、何だろう、ダンディズムみたいな、そんな感じになってしまう。そうではないんです。これは永遠の問いに突き動かされた人間の、決して答えは得られないという意味で存在そのものについての悲劇の物語なんです。そしてそれは、もしその人がそうであるのなら、誰にとってもそうである物語でもある。
観たことのない人には訳が分からない感じになってしまいましたが、そんなこんなで、『ヒート』、お勧めです。機会があればぜひご覧になってください。いやあ、映画って、ほんとうに素晴らしいものですね。それではまたお会いしましょう。