本読みのためのちょっとお洒落かもしれないツールかもしれない3選

あ、なんか軽い感じでよいですね。ぼくは人格破綻レベルで軽薄な人間なので、こういうブログを書くのはすごく楽しいのです。でもまだそこまで人生に絶望はしていないので「お洒落なアイテム」とか言えない。「本好きのためのライフハック」とか。ぼくが「ライフハック」とか言い出したら、もう宇宙人にアブダクションされて人格改造されたと思ってください。とてもしらふで口に出せる単語じゃありませんね。ライフハック。ライフハックにマストなアイテム。アルファケンタウリからコンニチハ。

それはともかく、ぼくはそこそこ本を読む方だと思います。何しろ通勤時間が長いので、本を読むくらいしかすることがありません。あと、趣味も食事や服に対する関心もないので本くらいしか買うものがなく、だから少しずつ本がたまっていってしまいます。そんな感じで生きているひとには、もしかすると参考になるかもしれない、ならないかもしれない、なると嬉しいな、ということで、早速。

1.付箋

いきなり地味な感じですが、しかし重要です。ぼくはなるべく本をきれいに残したい派なので、読みながら線を引くというのは許されざる残忍な行為だと感じます。もちろん、他のひとがやる分には構いません。古書なんかで変な書き込みがあるとふふっと笑ってしまうこともあるし、ああこのひとはここに関心があったんだなあと分かって、自分とは違う読み方に気づいたり、そのひとのそのときの気持ちを想像したり。でも自分自身はそれは嫌なんですね。痕跡を残すことなくこの世界から消えたいし、だから死ぬ前にはぼくの名前に関連したすべての情報をネットの世界から消すウィルスをばらまいて死にたい。それはまあ良いのですが、付箋です。

ぼくの場合は、付箋を貼るのは必ずしも重要なポイントだからということではありません。本を読むときには、その本をそのときに読む、そのタイミングでのみ現れるリズムがあります。そのリズムを記録するために貼ることが多いです。そしてそのリズムさえ記録してあれば、そのときに自分がその本を読んで何を考えたのか、感じたのかを、後になっても容易に再生できます。

これは無印良品の付箋を使っていた時代のものですね。『世界宗教史1』だから卒論のころだな。無印の付箋はコンパクトだし値段もそれなりだし悪くはなかったのですが、しかしぼくのような使い方をする人間にとっては、ちょっと付箋が厚すぎます。これはこれで、このわさわさ感も悪くはありませんし、最後に付箋をまとめて剥がす場合もあるのですが、そんなときは「収穫!」みたいな満足感もあります。いやないか。とにかく本がぱんぱんに膨れ上がってしまって、ちょっとこれは本を傷めてしまいそうですね。で、いまはこれを使っています。

これは3Mの683NEH683MHという商品もありますが、違いが良く分かりません)。

こんな感じ。見た目もかわいいですね。しかしこのままだと接着位置が交互になるように積み重ねられているので、必要に応じて一枚一枚取り出すには便利なのですが、電車の中で立ちながら本を読むときにはそんなことはできません。ですので、このようにあらかじめ裏表紙部分に貼ってしまいます。こうすると分かりますが、色は片側にだけついていて、透明な方が接着面になります。あと表面には適度にざらつきがあり、シャーペンでも文字が書けます。優れもの。

これであれば、片手で本を読みつつ、リズムをつけたいところがあれば電車が止まっているときにでも、もう片方の手でここから剥がして、目的の場所にぱぱっと貼れます。

こんな感じ。2/3くらいは透明なので、文字を読む邪魔にもなりません。

上に書いたように、大事な箇所に貼るというよりも、読むときのリズムをつけるために貼る、という感じでぼくは使っています。色にはこだわらず、ある色を適当に使う。あまり細かなルールを決めても忘れてしまう。盛り上がってきた、貼る! 盛り上がってきた!! 貼る!!! みたいな、もう原初のリズム太古のリズム。まあ、そのあたりは使うひとそれぞれだと思います。

2.ブックスタンド

個人的にブックスタンドは好きではありません。高級なものは大げさすぎるし、嵩張るし、なんかブルジョアとか帝国主義とか、そんな単語が頭に浮かんできます。「抵抗」とか「革命」とか唐突に叫びたくなる。かと言って安い金属むき出しのは無骨だし幾らなんでも事務用品すぎます。学校の図書室とか市の図書館とか、機能一辺倒なスチールの本棚が思い起こされる……。そんなこんなでブックスタンド、運用上は必要なのですがどうにも納得のいくものがなく、使わずにやりくりしていました。けれどもあるときふと、L字金具で代用できるんじゃない? と思いつき試してみたところ、これがなかなか良かった。意外に値段がするのですが、嵩張らず、目立たず、ちょっとかわいい、ということで気に入っています。ホームセンターですぐに買えますし。

こんな感じ。支えたい本によって、L字の長さを選ばなければなりませんが、まあ数種類手元にあればだいたい対応できます。

あーでも、これ、何が良いのか伝わらないかもしれませんね……。ブックスタンドだけれどブックスタンドじゃない、というのが好きなんです。帝国主義に死を!

3.ブラシ

これは京都の恵文社さんで購入した「REDECKER Book Dust Brush」。恵文社さんは本以外にもいろいろ素敵なものをオンラインで販売しているので、ぜひご覧になってください。

恵文社一乗寺店 オンラインショップ

ブラシはその名の通り、本の埃を払うのに使います。前は掃除機のブラシノズルを使っていたのですが、いま使っている掃除機はブラシノズルの毛が硬いし固定されているしで使い勝手が良くありません。それで何か良いブラシないかなあと思っていたら、本屋さんでこれを売っていたので、早速購入。本専用のブラシがあるなんて、この年になるまで知りませんでしたが、道具はやはり手に持ってなじむもの、楽しいものであるほうが良いですし、これはその点でとても良い買い物でした。

そんな感じで、本棚の整理や本読みがちょっと楽しくなるマストなアイテムでライフハック。アルファケンタウリからサヨウナラ。

ホットドッグで食べていくぜヤンキースタジアム。正直自信はないけれど。

実際にはヤンキースタジアムなんて行ったことないのですが、彼女とふたりでお昼を食べているとき、なぜか一日にどのくらいの本数を球場で売れれば生業として成立するかという話になりました。そこで、まず一般的にはニューヨークでホットドッグを食べるとなると幾らくらいするのかなあと思って調べたところ、意外に高いのです。で、高いと怒っている記事がけっこうあったりする。そりゃそうですよね。ああいう食べ物って、チープな方がおいしい。安くて太いだけのソーセージに、これまた安くてチープな味のトマトケチャップと真っ黄色なマスタードをたっぷりかける。ピクルスだけはきちんとしたものを使う。他のものは安くたっておいしいし、安いからこそのおいしさがあるけれど、ピクルスだけは安いのって掛け値なしにまずいから。でもってそれらを焼き立てで表面がパリパリの、あと一歩で焦げるくらいに焼き立てのホットドッグ用のパン(あれ何て呼ぶのでしょう)に大胆に挟んでかぶりつく。真っ白なYシャツにブチャーッ!! なんてケチャップをこぼしてしまったりして、しかもそれが隣の席のひとだったりして。ともかく、そういう、チープだからこその味ってあると思います。ピザとかもそうです。やたら高級ぶっているものよりも、あくまでぼく個人の好みとしては安い方が良い。彼女と暮らすようになってから、食材とかに拘るようになって、といっても高級食材という意味ではなく、なるべく添加物のないものということですが、けれども、ホットドッグを作るときに使うソーセージなんて、もう添加物目いっぱい使っていますみたいな方が合っている。むしろ添加物100%で肉0%。いやそれは極端ですが、うわあ、もうほんとこんな添加物まみれのソーセージ食べたら……みたいな方がおいしい、気がする。

そもそもどうしてそんな話になったのか。ぼくは、何かで食べていくということがいまだに良く分かっていません。職業的な研究者にはおそらくならないだろうし、いまさらどこかの正社員になるとも思えない。笑顔と「ヨロコンデー!」しかしゃべらないコミュニケーション能力によってこの年までフリーで生きてきましたが、それをこの先いつまで続けられるかも分かりません。毎日スーツを着て満員電車に乗って出社してというのは超人的な偉業にしか思えないし、とはいえ不安定な収入でこのままどこまで生きていけるのか、自信があるわけでもありません。どうしたものか。

ケイスにも最初からわかっていたことだが、闇取引きの力学では、売り手買い手ともケイスを本当には必要としていない。仲介人の仕事とは、自身を必要悪に転じることだ。〝夜の街〟の犯罪がらみの生態系の中に、ケイスは自分のための怪しげな隙間を嘘で切り開き、ひと晩ごとに裏切りでえぐっていかなくてはならない。(ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、新潮文庫、1986年、p.24)

この年になると、ケイスの状況がひどく切実に感じ取れるようになります。無論、ぼくはケイスの倍くらいの年齢だし、別段闇取引をしているわけでもありません。でも、その本質のところ、この社会に自分が潜り込めるだけの隙間を嘘でこじ開け、喰っていくという点では変わらないように思います。

先日、古いデータが必要になり、どこか奥底に仕舞っていた外付けHDを取り出して探していたら、卒論が出てきました。最初の大学は中退しているので、その後会社勤めをしてそこも辞めて入りなおした大学の卒論です。ついつい読んでしまったのですが、これがなかなか良い出来で、思わず昔の自分のセンスにびっくりしました。「わあ!」なんてびっくりしているだけなので、明らかに昔のぼくより退化している。かどうかはともかくとして、一生懸命書いていたんですね。その一生懸命具合が面白くも懐かしい。

でも、それよりずっと前、中退した大学では、ぼくは何を勉強したらよいのか、そもそも勉強って何なのかがまったく分からなくなっていました。表向きは情報科学を学び、多少はプログラムというものを理解できるようになっていたので、中退後に喰わざるを得なくて就職した先もソフトウェア会社でした。自分の能力は必ずしも求めるものとは一致せず、別段、プログラマになりたかったわけではないのですが、考えてみればあの大学で最低限のプログラミングの技能を身に付けていなければ、その後の生活も研究もあり得なかったでしょう。ぼくがプログラミングを学んだ先生はぼくのことなどまったく覚えていないことに全財産を賭けることができますが、アルメニアから来ていたあの教授――いまは大使をしているらしい――には、ぼくはいまでもこっそり、深く深く感謝をしています。ぼくのinformationの発音は、だからいまでもアルメニアっぽい。まあ嘘ですが。でも、良い思い出というのは、いつだって嘘にまみれたものばかりです。

研究は、修士まではコンピュータを用いたシミュレーションベースのものでしたが、博士からは一転して自然言語のみで勝負する世界に移りました。それでも、いまでもぼくの生活を支えている根本はプログラミングのささやかな技能だし、研究上のテーマも、死とかミミズの死についてとか、そんなことを言いつつも、やっぱり情報技術についてのものだといえます。最初の大学にいたとき、ぼくはなぜ勉強をするのか、コンピュータについて、情報科学について学ぶとはどういうことなのか、さっぱり分からないまま混乱し、そしてそれほど苦労もなく適応して知識を深めていく(ように見えた)周囲の学生たちに恐怖していました。結局、いまでもぼくは混乱したままです。情報技術っていったい何なのか、プログラムを組むってどういうことなのか。混乱したまま、でも、だからこそそれについて考えることもできるのだと、すっかりふてぶてしくなり無精ひげまで生えてしまったいまのぼくは、そんな風に思っています。

すべては中途半端で、明日、果たして自分はまだ社会のなかでどこかに位置づいて、何かの対価として収入を得て、食べていられるのか。どうにも自信はありません。それでも、どうにかこうにか会社にたどり着き、どうにかこうにか不具合を調査し修正しドキュメントをまとめ、やれやれなんて思いつつひさしぶりに仕事帰りに海沿いを歩いたりしていると、その不安定さのすべてが重なり合った奇跡的な交点の、これまた奇跡的に安定したいま・ここの完全さを感じ取ったりもするのです。

仕事帰りに父の遺したCONTAX TVS IIで撮った写真。デジタルに慣れてしまったいまではほとんど呪物のようなカメラですが、でも、かわいい見た目も含めて気に入っています。数日前、仕事が一段落して食堂まで飲み物を買いに行ったとき、ひさしぶりに虹を見ました。最初はとてつもなく巨大な虹の一部で、少し目を離してから見てみると、今度は小さく、そして普段とは逆向きに地平線に対して凸になった虹になっていました。職場のなかなので写真を撮るわけにもいきませんでしたが、記憶に残せるので、別段、構いません。いずれにせよその不思議な光景は、いつかぼくの論文のどこかに現れるのだろうと思っています。

メディア、記憶、記録あるいは天使について。

その昔、『家族ゲーム』という映画があった。松田優作が主演していた。たぶんぼくと同世代以上の人ならそのポスターを覚えているのではないかと思う。長い食卓があって、家庭教師役の松田優作を中心に伊丹十三や由紀さおりが一列に座っている。ちょっと想像しにくいかな。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い浮かべてもらえるといい。ぼくらは何となくあの晩餐の光景を普通に受け入れてしまっているけれど、あれが家族の食事だとすると相当に変ではないだろうか。普通は向かい合って食事をする気がする。そうでもないかな。ともかく、いま、ぼくと彼女もまた、長いテーブルに二人で並んで座り、食事をする。テーブルの向こうには庭に面したガラスがあり、ぼくらの姿が映っている。それをふと目にするたびに、ぼくは『家族ゲーム』のポスターを思い浮かべてしまう。まあ、大した話ではない。

でも、この前実家に帰ったとき、最初の大学生だったころの写真を発掘した。まだ若いぼくと彼女が、その他数人の人形劇仲間と一緒に、そして人形も一緒に、写真に写っていた。いまガラスに映るぼくらと比べればもちろんひどく若い。だけれどもその本質はほとんど何も変わっていないようにも思う。

写真。二人で写っているものもあれば、一人でどこかへ行ったときにあとで彼女に見せるために撮ったものもある。クルト・ゲーデルはありとあらゆる資料を遺して亡くなったらしい。嘘か本当かは分からない。それでも、いうまでもなくゲーデルの100万分の1の才能もないぼくだけれど、何かを残す、ということに関してはゲーデル並みに強迫観念にかられており、だからいつか、どこか延焼の危険性がないところですべて燃やそうと思っている。それはともかく、だからぼくは、アナログ/デジタルを問わず自分が撮った写真も残していて、だけれど、ある期間に撮った写真だけなぜか見つからないことがある。その一つについてのお話。

それは会社を辞めて二つ目の大学に入り直し、三年目くらいだっただろうか、ミネソタにあるLuther Seminaryに10日間か2週間ほど行ったときのものだ。ちょうどそのときぼくの恩師が神学の修士号を取得するためにSeminaryに在籍していて、オリエンテーション期間中に講義を受けることができるからおいでよ、みたいなことだったと思う。どういうアレかはいまでも良く分からないけれど、ぼくはそこでヘブライ語の講義に潜り込んだりしていた。大学ではヘブライ語の授業は英語のテクストを使っていたので、英語恐怖症のぼくでも講義にはついていけた。あとの時間はだいたい近場を徘徊していたような気がする。

時間があるときには恩師(U先生)がセントポールをあちこち案内してくれた。立派なコンサートホールがあり、学生だとチケットがめちゃくちゃ安いので聴きに行ったり。そんななかでよく覚えているのが、小山晃佑先生に会いに行ったことだ。U先生は修士論文の指導を受けており、何の関係もない、クリスチャンですらないぼくのような若造がくっついてホイホイと会いに行ってしまった。無知というのは恐ろしいもので、小山先生は日本だけではなく世界レベルで見ても20世紀を代表する神学者の一人だ。だけれどもまったく偉ぶるところなどなく(それでも、対峙しているときの緊張感といったら凄まじかった。それはきっと小山先生の、生きていることそのものに対する真剣さであり、誠実さであり、神に対する責任が否応もなく感じ取れたからだろう)、ぼくらは先生のご自宅で昼食をご一緒させていただいた。先生の著作”Waterbuffalo Theology“についてお話したのを覚えている。

小山先生は食事の後に四人全員で写真を撮ろうと仰り、その言い方から、先生は写真がお好きなようにぼくには感じられた。けれども結婚相手のLoisさんは写真が嫌いなようで、嫌だなあ、という雰囲気がありありと感じられ、ぼくはそれを、うまく言えないけれどすごくほほえましく思った。どちらかが我を通すとかどちらかが我慢をするとかではなく……、やはりうまく言えない。でもそのときの写真には、そして先生がそういうときにお撮りになったであろう写真にはすべて、その雰囲気が写っているのではないだろうか。

そのあと、小山先生はU先生とぼくをアパートメントの外までお見送りくださり、そこでまた写真を撮った。そのときの小山先生の「三人で撮るときは気兼ねなく自由だぞ!」みたいな無邪気な率直さで写真をお撮りになる姿がとてもおかしく、だから間違いなく、その写真も良い写真になっていたと思う。

ここまで書いて気づいたけれど、そうだ、だから、小山先生と一緒の写真は、ぼくはそもそも持っていなかったのかもしれない。U先生にお訊ねしてみれば、もしかするとU先生はその写真をお持ちだろうか。いつか尋ねてみよう。

だけれどもその他の写真については、ぼく自身が確かに撮った。当時はもうデジタルカメラになっていた。SonyのDSC-F1ではなかっただろうか。その写真も、いまちょっと見つからない。ゲーデルが地下室に遺したレシートのように、バックアップデータの階層の最深部に埋もれているのだろうか。Seminaryの寮にぼくは泊まらせてもらっていたけれど、インターネット回線は極めて貧弱で、当時の画質でさえ写真をメールに添付するなどは無理な話で、だからぼくは彼女へ送るメールに、帰ったら写真を見せるよ、と書いていた。そう、ぼくはそのとき、ほとんど毎日彼女にメールを送っていた。

そしてぼくは父にもメールを送っていた。でも、こちらは彼女に送るよりもずっと簡素で、ほとんど報告に近いもの。だけれど、帰国してから父と話をしていたとき、いやもう少しあとになってからだっただろうか、父にしてはめずらしくぼくのメールを誉め、「面白く読んでいた」と言った。父がぼくの文章を誉めることはなかったので、そのときのことはいまでも覚えている。ぼくが博士課程に進んで査読論文を書くようになる少し前に彼は亡くなり、もしいまぼくの論文を読んでいたら父はどう評価するかな、と、ぼくはときおり考える。そしてもうひとつ、あのとき、もう少し長くいろいろなことを書いて――短い滞在期間の割にはいろいろな目に遭ったので――父に送れば良かったなと、後悔とは違うけれど、思ったりもする。それは本当にそう思う。

日々不連続な出来事に翻弄される誰かさんの人生が、それでもその誰かさんにとっての人生であるように、このばらばらな話にも通底する何かがある。そしてぼくにとってそれは、研究する動機であり、テーマであり、方法論であったりする。

Waterbuffalo Theology“は、いまも本棚にある。いつかアカデミックなしがらみから完全に解放されるときがきたら、もう一度読もうと思っている。

think like singing

ほんとうにひさしぶりの休日を過ごしていました。今年は査読論文を書きますとあちこちに宣言しており、実際、頭の中には無数の木の実が乱雑に散らばっているのですが、まだまだ芽を出して木となり言の葉をつけるまでには至りません。そういうときはじっと自分の心の中を覗く時間が必要です。日に当て水をやる感じ。けれども相棒がいま味噌づくりに挑戦中で、大豆を煮ているのです。そうして彼女がどこかに行ってしまったので、代わりにぐつぐつぐつぐつ、煮えていく豆を見守り、適当なところで引き揚げ、今度はそれをぐりぐり潰します。そんなことをしているうちに休日は終わりました。

いえ、そういえば他にもしていたことがあります。いま家の中にはどこからか羽蟻が侵入してきて、普通の蟻も侵入してきて、それを食べようとする蜘蛛も発生していて、なんやかんや、大変な騒ぎです。見つけるたびに外へ放り出すので、近所から見るとしょっちゅう胡散臭い中年男性が出てきては玄関先でティッシュ(蟻をそっとつまんでいる)をはたき、また家の中に戻っていく、五分に一度はそんな行動を繰り返している。ホラー気味の鳩時計か、と自分でも思いつつ、それはそれで有意義です。ちょっと表現が難しいのですが、フローリングの板と板の間ってちょっと窪んでいますよね、そしてその窪みと壁の接点のところから蟻が入ってくる。だからそこを壁の白に合わせて白いペンキで塞ぐと、隣の板と板の隙間のところから入ってくる。蟻が相手なのにいたちごっこ。でもやっぱり、そういうバカげた日常も楽しいのです。

そうそう、そういえば他にもしていたことがあります。あれ、けっこう遊んでいるな。たまたま、Youtubeで自転車競技の動画を見つけたのです。それは急な坂の多い街中の細い道をものすごい勢いで下っていくというもの。運動神経は前世に置いてきたぼくのような人間には、そのテクニックはもはや魔法のようなものです。怖すぎるのでうらやましくはありませんが、やはり天才であることは確かです。そしてこういう動画を観ていていつも思うのは、世の中には無数のジャンルがあって、それぞれに無数の天才がいるということなのです。ぼくは普段ぼんやりと本を読むか、ぼんやりとプログラミングをしているか、ぼんやりと論文を書いているかしかないので、ときおり異なるジャンルを見るとびっくりします。びっくり。子供みたいだ。

そしてさらに、他にもしていたことがあります。いやこの男遊んでばかりだな……。ひさしぶりにこのブログを更新するついでに、いや逆ですね、ぼくの好きなブログを見ようと思ってそのついでにこのブログを書いているのですが、それはともかく、ぼくの好きなブログ、大半が消えています。これは本当に残念なことだし、寂しいことです。いえ、ブログだけではなく、好きな小説家もここ何年も新作を書いていなかったり、その小説家のブログも数年前から更新が途絶えていたり、好きだったバンドのオフィシャルサイトを見てみたら信じられないことに解散していたり、そういうのって、本当に不思議です。あれだけ優れた言葉を、音楽を生み出していたひとたちが、あるとき消えてしまって、もうどこにも探すことができない。もちろん作品は残っているし、本気になればそのひとたち自身を探し出すことだってたぶんできます。ストーカー的な意味ではもちろんなくて。でも、やっぱりそれは違うんですよね。そういうことではない。

またまたその上、きょうは査読報告書を提出したのですが(良かった、遊んでいるだけではなかった)、その査読対象の論文中でダナ・ハラウェイが引用されていました。以前に読んでいた論文ですが、改めて読み直してみると、そこでダナ・ハラウェイは、ラヴクラフトをSF作家だと書いている。ぼくはこういうのは好きではありません。ラブクラフトはSF作家ではないだろう……。いうまでもなく、SFを低く見ているということではありません。それどころではない。ちょっと脱線しますが昨日たまたま彼女とオールタイムベスト5のSF小説は何か、という話をしていて、ぼくはギブスン『ニューロマンサー』、神林長平『魂の駆動体』、ストガルツキー『ストーカー』、ディック『暗闇のスキャナー』、そしてイーガン『ディアスポラ』を挙げました。いやもっといくらでも挙げたいのですが(最近では小川哲氏の小説は素晴らしいですね)、とにかくSFは好きだし、ぼくの思考と感性の多くを形作っているし、だから繰り返しますが低く見るとかではなくて、でもラヴクラフトがSF作家って、それはダメだろう……、と思うのです。

ぼくはそういう、物語に対する無神経さは嫌いですし、そういう人文学者は信用できないのです。物語とは畢竟言葉によって作られた世界なのだし、言葉に対して残酷な人文学者なんてあり得ません。そして残念ながら、前にも書きましたが、そういう人文学者って少なくないのです。それはとても怖いことですし、悲しいことです。

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あるとき彼女とふたりで近くの図書館に行き、帰りにちょっとした山道を歩いていたとき、小さく茶色い、とてもかわいらしい小鳥が草藪のなかにいるのを見つけました。くちばしをいつまでもパカッと開けていて、ちょっとアホな子っぽい感じが何とも言えません。ガビチョウでした。それ以来、その道を何度歩いてもなかなか見かけなかったのですが、その日、山を越えた向こうにある公園の池を二人で眺めていたら、二羽のガビが水浴びをしていました。現実的にはあらゆる問題が山積みの人生ですが、でもなんだかそれだけで、ぼくらはしばらくの間、幸せに生きていけるように思えたりするのです。

そんなことの一つ一つが、ぼくの頭の中にある小さな木の実です。いまは夜中で、明日、というかきょうはもう仕事の日。でも眠りにつくまでは休日だとジョン・レノンも歌っています。いやそれはぼくの脳内レノンかもしれない。ともかく、だからそれまではぼくも、頭の中の木の実をそっと眺めつつ、次に書く論文の姿を思い浮かべたりしています。

メジンペンギロと魔法の国

忙しい忙しいなどと言いながら、紙粘土で遊んでいました。最初はペンギンを作ろうと思っていたのですが、春先に庭に来ていたメジロを偲び、途中から方針転換。しかしその転換も遅すぎたようで、ほとんど緑のペンギンになっています。隣は彼女の作ったコアリクイ。粘土を手で捏ね何かを作ると、不思議に、その人の魂の形が現れてしまったりします。ぼくの魂、緑ペンギン。

あと、自分の研究サイトをようやくSSL/TSL対応させ、ついでにスマートフォンにも対応させました。まだ最低限のレスポンシブデザインでしかないのですが、大事なのは中身なので、とりあえずはこんなもので良いと思っています。ABOUTから行けますので、良かったら見てみてください。いや面白いものでもないのですが。

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だけれども、ぼくはスマートフォンってやはり好きになれません。一応、ぼくは組込系のプログラマなので、仕事となると最低限ノートパソコンがないとどうしようもない。だからスマートフォンに求める機能って通話が主になります。それ以外のことは普段持ち歩いているノートでできてしまうから。そしてこの通話に関してはPHSと比べてほんとうに酷い。VoLTEとか、スペック上はPHSより良いんだよなどと言われてもぼくは絶対に信用しない(ドクサ)。いや実際ぜんぜん違いますよね。どのみちいったんデジタル変換されたものだから偽物の音声だと言われればそれはそうなのですが、それにしてもあまりに切り貼り感が強すぎます。人の声を雑に輪郭線で切り抜いて、こちら側に持ってきてペタっと貼って、はい、これがあの人の声ですよと澄まし顔でのたまうスマホが憎い。ぼくはスマホが憎い!

もちろん、しょせんそれは技術的な問題に過ぎないので、リソースを気にしないのであればいずれは解決されるかもしれません。ぼくは別に反技術主義者ではないので、そうなったらなったでありがたいことです。でもどうでしょう。リソースは常に限られているし、だからこそアーキテクチャとアルゴリズムが重要になるのです。

あるいはまた、音質が悪いというのも悪いことではないのかもしれません。最初から最高品質の通話が可能だったとすると、もしかするとぼくたちはそのとき、そのデジタル変換を通した音声をその人の声そのものと何の違いもなく受け入れてしまうかもしれない。いや、対面で聴く相手の声だって空気を介在しているでしょ、というのであれば、それはあまりにデジタル化に対して無防備すぎるようにぼくは思うので、そういう偽物時代を体感しておくということには、それなりの意義がある気もします。でも、これもどうでしょう。それなりの音質でさえ、ぼくらはすぐに慣れてしまうかもしれないし、それが普通になってしまうかもしれない。ぼくらが本来優れた耳を持っていたとしても、酒場の腐れはてた音楽を聴いて育つモーツァルトになってしまっては万事休するわけだ(サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫)。

またまた他方で、最初から通信だと割り切ってしまえば、音質の悪さなんてものはどうでも良いのです。以前にkickstarterで入手したWiPhone(https://www.wiphone.io/)、これはWiFi経由で通話するためのモバイルフォンですが、機能的には大したものではありません。それにWiFiという既存のインフラに依存しているという点でも、個人的にはあと一歩だと思っています。それでも、ぼくは最近「修理する権利」に興味があって、といってもだいぶ上っ面だけの適当な興味ですが、でも、これって大事よね、とけっこう真剣に考えています(修理する権利についてはこんなサイトも面白いです(https://www.repair.org/))。で、話が長くなってしまったけれど、こういうデバイスであれば、通話品質とかはあまり重視しません。

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つまるところ、音質は最初から良い方が望ましいのか、徐々に良くなっていく方が望ましいのか、音質が悪くても自分の手が介在できる余地の残されている方が良いのか。脈絡なく矛盾したことを書いているようですが、自分のなかでは明確な判断基準があるのです。端的に言えばそれは、そこ(そのデバイスが生み出す場)に魔があるかどうか、です。自然が生み出す魔法とは同じようで違い、違うようで同じな、人間の欲望が生み出す技術という固有の場における固有の魔法。ぼくの経験上、従って非常に偏った見方であることは認めた上で、現状の、システムによって与えられた、切り貼りされたデジタル音声を相手の声だと漠然と信じこみ疑問も覚えない人びとは、そこに立ち現れている魔に対して極めて無感覚な場合が多いように思うのです。それを感じ取れるのであれば、相手の声と聴きまがわんばかりの音に魔を感じ取ると同時に、バリバリカクカク、戯画のような音にもまた、魔を感じ取るでしょう。そしてその魔の根っこを探っていくと、辿り着くのは、その場を生み出す技術を生み出す人間の魂が抱えている欲望、人間自身にさえコントロール不可能なその欲望の根源的な渦巻きであるはずです。

そしてそれは、音だけではなく、VR/ARのような視覚であっても、あるいは3Dプリンタによって生み出されるフィギュアへの触覚であっても、結局同じなのではないでしょうか。解像度の精細さではなく、魔が立ち現れるかどうか。そしてそれは、技術を、外から与えられたものとしてではなく、人間の魂から生み出され、分かち難く分かたれたものとして受け入れることによってのみ可能になるのだとぼくは思うのです。

こういう訳の分からない話を書くの楽しいなあと、明日の仕事から目を背けつつ元気に生きています。

beyond, beyond

少しずつ自分の活動を――というほどのものでもないのですが――ここに集約していこうと思い、とりあえずInstagramとnote、研究サイトへのリンクを追加しました。あと、できればいずれ同人誌も表紙くらいは載せられればなあと思います。instagramはいつのまにかログインしないと大きなサイズの写真が見られなくなっていますね。そういう囲い込みは反吐が出るので、いつか気力が湧いたら写真もぜんぶこのブログに移そうと思います。でも問題は気力が湧かないということです。魂はいつだってびよんびよん元気にどこかを跳ね回っていますが、精神と身体は所詮肉の問題なので、この世のしがらみで年々重力がつらくなっていきます。noteは地味に本紹介を続けているので、良かったら覗いてみてください。

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昨日は仕事帰りに駅で彼女と落ち合い、もう遅かったので駅前のスーパーでお弁当を買い、家に帰ってから二人でベランダに出て食べました。小さなライトを手許に置き、小さな小さなベランダでひっそりこっそり。そんな風にすると、出来あいのお弁当もなかなかおいしく感じます。食べた後片づけをしてから、ひさしぶりにミラーレンズを引っ張りだして、丸く浮かんだ月を撮りました。この巨大な岩石の塊が宙に浮いているって、感覚的には不思議です。地球の大気という海の底の底からういよんういよんと電波を飛ばし、しばらく月と交信をしてから部屋に戻りました。

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どうということのない話。紙粘土を捏ねてペンギンの形を作りました。表面の凸凹を削ろうと思い、どこかにしまった篆刻刀を探して段ボールをひっくり返していたら、ミック・カーンのCDが出てきました。ぼくの好きな数少ないミュージシャンの一人。ひさしぶりに聴くとやはりそのベースは最高です。あまりに最高だったので『ミック・カーン自伝』(中山美樹訳、RittorMusic、2018年)を入手しました。ぼくはいつもならアーティストの自伝なんて読まないし、作品とその人を結びつけるような手合いを嫌悪するのですが、これは本当に良かったです。要するにぼくは、ミック・カーンという人間そのものが好きだったんだと思います。この自伝はいつかnoteで紹介するかもしれません。

ミック・カーンを知らない方は、ぜひyoutubeでD.E.P.の”Mr. No Problem”を検索してみてください。これ、どういう経緯かは知らないのですが(ぼく自身はJAPANやその後のJBKなどにおけるミック・カーンを主に聴いていたので、D.E.P.はずっと後になるまで知りませんでした)、メンバーが均等に映っているバージョンと、ミック・カーンにフォーカスしているバージョンがあります。どちらも本当に良い雰囲気です。前者では特に土屋昌巳のパフォーマンスに華があって素晴らしい。だけれども後者のミック・カーン版も、ミック・カーンがそれはそれは楽しそうに演奏していて、観ているだけで幸せになります。演奏ってこういうものだよな、と思います。

ずっと昔、二つ目の大学に居たころ、同じ時期に入学した神学生たちが中心になって讃美歌を演奏する管弦楽サークルを作り、何故か、その大学の学生でもないのに彼女も参加してチェロを弾いていました。何しろ彼女に対する異様な執着心しか取り柄のないぼくなので、気がつけばコントラバスを入手し、そのサークルでびよんびよんと演奏をしていました。当時は当時で楽しかったけれど、いまなら、もっと、ベースを演奏することそのものを楽しめるような気がしています。

好きだった何か、数少ない仲間だった誰かが少しずつ減っていく、年を取るというのは生き残るということで、寂しいことばかりです。でも、かつて在ったものたちが残していった可能性を、身勝手ながらも引き受けざるを得なくなるというのは、きっとそれはそれで、楽しいことです。存在するということは、楽しまなければならないということです。でもそれは義務ではなくて、いや義務なのかもしれませんが、でも、すべての上位に在る魂にとっては、そんな言葉を軽々と超えて、いつでもびよんびよんと楽しんでいるようです。

Always halfway

同人仲間から同人誌の7号が届きました。今回はちょっと薄めなのですが、それもまた引き締まった感じがして気に入っています。ぼくは論考と小説を載せていますが、論考が素晴らしい(笑)。『神無き世界の名探偵』というのですが、タイトル、良いでせう。自分でも(自分だけは)非常に気に入っています。最近は自分の神学的傾向を隠さなくなってきています。小説の方は『人形のための祈り』。これも傑作です。いや真面目に。

言葉というのは面白いもので、毎回何かを書き終えると、明らかに自分の能力を超えているなあと感じます。もちろん、凡庸が服を着て脱いで歩いているぼくの才能など、たかが知れてはいます。それにしても、あるいはだからこそ、言葉というのは凄いものです。だからいつも、もうこれ以上のものは書けないよなあと思っているのに、それでもまた藻掻いて足掻いて何かを書くと、自分を超えたものになる。それは自分の才能ではなく、言葉の力なんですよね。そしてこれもまた言うまでもなく、それは何かの基準があってそれを超えているとか、あるいは他の誰かと比べて優れているとか、そんな優劣の話ではなく、ぼく自身を超えたものになるというだけのことでしかありません。けれどもそれこそ不思議で、途轍もないことです。そうじゃないでしょうか?

いずれにせよこの同人誌、なかなかレアなので、もし水戸芸術館か茨城県近代美術館に行くことがあれば、ミュージアムショップを覗いてみていただければ幸いです。まだ置いてもらっているのかどうかは分かりませんが……。

仕事はとにかくどたばたしていますが、どうにかやっています。今度は新しい言葉を覚えなければならなくて、あと、これは研究の方ですがヘブライ語もやり直そうと思っているので、なかなか大変です。今年はひさしぶりに依頼論文とか所属している研究所の紀要とかではなく、査読論文を書こうとも思っています。これって要するに何をしているのでしょうか。自分で自分の人生を悩むほどナイーヴではありませんが、他人に説明するのは意外に難儀です。

何で勉強をしているのか、何を勉強しているのかがまったく分からなくなってしまっていちばん最初の大学を中退して、唯一の才能であったプログラミングで食べるようになって、というかそれで食べざるを得なくなって、24時間プログラミングのことばかり考えなければならない状況に数年置かれるなかで――何しろ夢の中でもデバッグしていたのですから――改めて自分が言語そのものに興味があることに気づいて、だったらいっそのこと非常に古い自然言語から学んでみようと思ってとある大学の神学科に入って……、いまでは環境哲学/メディア論研究者を名乗っていますが、自分のなかではここに至るまでのはっきりとした道筋があります。でも、ヘブライ語を学ぶことと環境問題について考えること、道端で干からびたミミズに神を見ることと現代メディア技術について考えること、何がどうつながっているのかって、なかなか伝わらないと思います。それに、結局すべてが中途半端だと言われれば、それはそうかもしれません。

だけれども、中途半端って、悪いことではないと思うのです。自分が進んできた道と先行きは自分にさえ見えていれば良くて、論文やら何やらは、ある意味においてその途上にある自分自身の心象風景をスケッチした旅行記のようなものです。ぼくの見ているものが漠然とでも伝わり、面白いと思ってもらえれば、それで十分です。それに、これだけ分断と憎悪が激化している時代において、中途半端であることって大事だよねと、中途半端な人生を送って中途半端な研究者になったぼくは思います。研究者っぽい言葉遣いというのは苦手ですが、だからこそ語れるものがあるし、伝えられる先がある。それは確信しています。

これはもう何年も前に出した研究会誌の表紙をデザインしたときの元データになった〝Digital Embryo〟という作品です。最近泣く泣くスマートフォンに切り替え、ホームの背景画像を何にしようかと悩んでいたときにふと思い出して引っ張り出してきました。Processingという言語で作ったのですが、この言語とても可愛いのでお勧めです。それはともかく、これを銅版画でリメイクしようと思っていて、ただ銅版画に転写するだけというのもつまらないので、kickstarterで入手したXPlotterで原版を作ってみようかなとか、どのみちすべてにおいて中途半端な技術しかないのですから、その組み合わせから何を生み出せるのか、いろいろ楽しく考え中です。いやちゃんと研究もしていますが、自分の手とデジタルを重ね合わせて固有のメディア空間を作り出してそこに何かを存在させる行為だって、ぼくにとっては研究のひとつの在り方なのです。

メディアって要するに中途半端なところに在るものですし、メディアに満たされたこの世界も、だから、中途半端なものなのではないでしょうか。ぼくらは誰も神のように苛烈にはなれないし、線を引くことさえできないし、引いたら必ずミスるけれど、だからこそ、中途半端であっても、見よ、それは中途半端に良かった! そして、それで良いんだと思います。