例えばぼくの世代だと、好き嫌いがあったり我儘を言ったりすると「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」的な感じで叱られたりしなかったでしょうか。うーん、どうだろう、いまはこういうのってあまりない気がします。そしてそもそもぼくは両親にこんなことを言われた経験は恐らくなくて、当時の文化というか雰囲気というか、それがぼんやりと形を取ったに過ぎないように思います。
いずれにせよ、ぼくはいまでもこういう言葉が頭のなかに固く残っていて、何か嫌なことや大変なことがあっても、その固いナニモノかが「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」と言ってきます。言うまでもなくこれはめちゃくちゃな話で、完全に差別です。何も知らないのに上から目線であの人たちは可哀そうと決めつけている。そして同時に、まさにぼくは何も知らないのであって、だから何の意味もないほど漠然とした言説になっている。繰り返しますがこれは本当にめちゃくちゃな言説です。ただ、それが自分の頭のなかに残ってしまっているということと、それを俯瞰で理解できているということとは併存するということですね。
そしてその漠然性が恐らくポイントでもある。ぼくは自分の頭のなかにあるこの固い何かを倫理マシンと呼んでいます。この倫理マシンは非常に抽象的で、だからこそあらゆる局面に適用可能で、ぼくの行動や思想をつねに監視しています。と書くと何だか常軌を逸しているように思えるかもしれませんが、ぜんぜんそういう話ではありません。誰でも自分のなかにそれぞれ独自の倫理的規範を持っていて、それがいろいろな状況で自分を律してきますよね。要するにそれです。
あ、これ、暗い話ではないですよ。けっこうばかばかしい話です。で、この倫理マシン、他にも幾つか言葉を持っています。そっちはもっと具体的で、あるとき読んだ本の一節が元になっているもの。恐らく上記の「アフリカの……」が倫理マシンの根源で、それが育つなかで、本の言葉を覚え、取り込んでいったということなのだとぼくは理解しています。ともかく、その言葉のなかでも汎用性が高いものが幾つかあり、そのうちの二、三を以下ご紹介します。一つ目は『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』から。
逃げてしまっては、きみは惨めな敗残者になるだけだ。きみはソクラテスのことを思い出す。彼は差し出された毒杯を黙って受け取り飲み干してしまったのだ。
ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』高橋源一郎訳、新潮文庫、1991、p.85
怖いこと、嫌なことが待ち受けているとき、それでもその場に行かなければならないというのはしばしばありますよね。そんなときに倫理マシンはこの言葉をぼくに言うのです。「なーに、ソクラテスだって毒の杯を飲んだじゃないか」。確かにそうだなあとぼくは思ってしまいます。これはつらい。ソクラテスを持ち出されたら、もう逃げるわけにはいかないじゃないですか。
二つ目。これはカロッサの『ルーマニア日記』から。この本、素晴らしさに反してあまり知られていない気がするのですが、機会があればぜひお読みください。ぼくが持っているのは新潮文庫版でこれは恐らく絶版ですが、岩波文庫版はいまでも手に入ります。ちょっと長いのですが引用。
朝食の時、少佐が壺からマーマレードをだそうとすると、小さな鼠の死んだのがでてきた。どうして壺の中にはいったのか、誰にもわからない。[…]少佐はちょっときめかねた様子でいたが、それも一瞬間のことで、鼠の死骸を棄てさせ、気味わるさに眼玉の飛びだすような思いをしながらパンにマーマレードを塗り、壺をわれわれの方へまわしてよこした。われわれが身ぶるいするのを見ると、少佐はなおさら沢山塗りつけて、言葉すくなに無愛想にいいだした、鼠は昨夜落ちこんだばかりだ、腐敗の懼れはない、ドイツの町々は飢えにおそわれているのだ、こんなマーマレードをみじめな糠入りのパンに塗って子供たちにやれたらと思っている母親はどれほど沢山いるかわからぬのだ、と。そういいながら、少佐は気味のわるさに顔を歪めて、パンをむりむたいに噛んで呑みこんでしまった。とうとう彼は立ちあがって、立ったままで二枚目のパンにマーマレードを塗りつけ、われわれもまた彼に見ならうかどうかを見定めることなく、その場を外した。そうすると二三の者が声を立てて笑った。少佐を豚という者もいた。しかし誰の顔にも、ぴしりとやられたような気配が認められた。
ハンス・カロッサ『ルーマニア日記』高橋義孝訳、新潮文庫、1994、pp.57-58
ぼくはかなりの潔癖症で、床に落ちたパンとかを拾って食べるのには(その床は毎日拭き掃除をしているので汚くはないのですが)ものすごく抵抗があります。子供のころはとても無理でした。でも倫理マシンがこの一節を取り込んでからは、まあだいたいの汚れについては意思の力で、というほど大げさなものでもないのですが、食べられるようになりました。あと消費期限切れのものとか、表面がカビてしまったジャムとか。倫理マシンがぼくに言います。「こんなマーマレードを……子供たちにやれたらと……」。これもまた強力な命令になります。
挙げればきりがないのですが、あと一つ。サン・テグジュペリの『人間の土地』。言わずと知れた世紀の名著(堀口大學)からの一節です。砂漠に不時着したサン・テグジュペリと同僚のアンドレ・プレヴォー。生還が絶望的ななか彼らが何十キロも走破した晩、プレヴォーはついに泣き出してしまいます。けれどもそれは自分を憐れんで泣くのではありません。――ぼくが泣いているのは、自分のことなんかじゃないよ……。そしてサン・テグジュペリもそのときはっきりと理解します。むしろ助けを求めているのは、もうサン・テグジュペリもプレヴォーも見つからないと思って苦しんでいる、彼らを愛した誰かたちの方なのです。だからこそ、二人は一秒でも早く生還しなければならない。自分のためではなく苦しむ彼ら/彼女らを助けるために。そしてそこで驚異的で偉大な逆転が生じます。
ところが、彼方で人々が発するであろうあの叫び声、あの絶望の大きな炎……、ぼくは考えるだけで、すでにこれには耐えかねる。この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動きだす、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか? なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる! ……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!
サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、1994、pp.143-144
この逆転! 苦しんでいるとき、しかし本当に苦しんでいるのは、苦しんでいるぼくを見る誰かなのかもしれません。あるいは、本来であればぼくが果たすべき責務を果たせないが故に誰かが苦しみ嘆くことになるのであれば、自らの苦難などから無理やりにでも足を引き抜き救援に向かわなければならない。自らの苦難は、だからむしろ、救援するものとしての自己を自らに知らしめるための契機にすぎない……。そんなことを、倫理マシンはぼくの背後で語り続けています。
言うまでもなく、ぼく自身は適当でいい加減で、逃げること以外に関心がない人間です。本を読むのは自分が楽しいからであって、それ以外の理由はありません。物語は常に物語として、それのみで美しい。だけれども同時に、ぼくのなかにある倫理マシンもまた、貪欲にそれらの物語を咀嚼し、そこから彼の糧となるフレーズを取り込み続けていきます。恐ろしいことに、その過程はいまでも続いています。
もちろん、これもまた言うまでもなく、倫理マシンなどといったものは存在しません。頭蓋骨を切り開いてみたところでそんな器官はどこにもない。要するにそれは、誰にでもあるありふれた倫理規範の言い換えにすぎません。それでも、やはりそれは在る。矛盾した言い方ですが、それはぼくに取りついている。だけれども、最初に書いたとおり、これは暗い話ではなくばかばかしい話です。いまだかつて他に見たことがないほど、ぼくは自分をいい加減な人間だと思っています。いい加減オリンピックがあったら金メダルを取れるでしょうが、授賞式をうっかり忘れて欠席するくらいです。そして同時に、薄気味が悪いほど倫理的に自分を律している面もある。誰でもがそうです。そういった分裂を、でもちょっと突き放して眺めてみること。常にぐだぐだ寝そべっている誰かが居て、その誰かをつねにエイエイとどこかへ急き立てようとしている誰かが居る。それって、ちょっと可笑しい光景ですよね。自分自身の生き方とか信条とかイデオロギーとか、まあいろいろありますが、それに囚われつつもどこかから眺めて笑ってもいる。倫理ってそんなものだし、たぶんそれで良いのではないかと、ぼくは思っています。