例えば、ちょっと面白かったこと。地元の本屋に自分の本が並んでいるのを(根が単純なので)わーいと思って見に行ったとき、たまたますぐ近くにあり目にとまって購入した『フューチャーデザインと哲学』(西條辰義他編集、勁草書房、2021)の一つの章を、院生時代に良く知っていた人が執筆していた。懐かしくなって連絡をしようかと思ったけれど、まあ、元気にやっていればそれでいいかと思ってそれきりになった。
また別の日にこれもたまたま購入した『技術と文化のメディア論』(梅田拓也他編集、ナカニシヤ出版、2021)を読んでいたら墓石について書かれた章があった。そんな研究をしている人も珍しいのでその章の執筆者を見たら、またもや院生時代に少し知り合いだった人だった。彼はぼくらがやっている同人誌に寄稿してくれたこともある。品の良い文章を書くなあと思っていた。懐かしくなったけれど、彼にもやはり、特に連絡はしなかった。この本は湘南T-SITEの蔦屋書店にて開催中のフェア「ソーシャルメディアとデジタルテクノロジーを考える」でぼくの本と共に選書されているものの一冊。
その他にもいろいろ。最近は本に関連したシンクロニシティがけっこうあった。無論、狭い世界だから当たり前だと言えば、それはそうなのかもしれない。けれどもやはりそれはシンクロニシティなのだと思う。無数に出版される本のうち、たまたま手に取ったものに誰かの名前があること、院生時代はぜんぜん専門が違っていた誰かが、ぼくの研究分野で共著を出しているということ。とはいえそれ自体は普通のことで、最近はそういった普通のできごとを通して見えるシンクロニシティが多い。そういう時期なのだろう。
だけれども、シンクロニシティはおかしな形を取って現れることの方が多い。ぼくはけっこう、そういったシンクロニシティとかコインシデンタリーなできごととかを重視している。重視しているという表現は「重視する私」を主にしているようなので、なんだろう、そういったものに避けようもなく目が行ってしまうという感じだろうか。そしてそういったものを凄く面白いなあと感じる。しんくろ山の熊のことならおもしろい。多くの場合、ぼくが見たり感じたりするそれらのものをそのまま口にすれば正気を疑われるかもしれない。しかしぼく自身、自分の主観は自分の主観でしかないと割り切っているので、要するにそれは何かの物語を読み、読み解いているようなものでしかない。でしかない、だけれども、とても楽しいことでもある。
それらが指し示している意味はよく分からない。けれどもそういったシンクロニシティが、惰性で飛行しつつ徐々に高度を落としていくぼくらの人生を、その瞬間にすっと掴んで引き上げる。見回す、ということを忘れて飛んでいたことをふいに思い出したりする。
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或る日彼女とフェリーに乗っていたとき、彼女がぼくに、きみのお父さんは海でいろいろ不思議なものを見たのかな、と訊ねた。たぶんオカルトとか妖怪とか、何かそういった意味では、父は奇妙なものは見なかったと思う。何しろ理性の塊のような人だったし。信じられないような自然現象については幾度か話してくれたけれども、それは例えば子供のころにぼくがツチノコに襲われたのとはまったく次元が異なるだろう(ツチノコはツチノコで、ある出来事とシンクロしていたのだが、それはまた別のお話になる)。
もちろん、ぼくは本当にツチノコが実在していて、それにぼくが襲われたというのが客観的な事実だと思っているわけではない。それは完璧なまでに主観の世界における出来事でしかない。ツチノコは極端な例かもしれないけれども、それでも、そういった訳の分からない主観的な記憶の堆積は、論理を積み上げなければならない研究にも影のように投射されている。
ぼくは自分がときおり見るおかしなものについて父に話したりはしなかった。というよりも、そもそも父はぼくに対して常に議論をしかけてくるようなところがあった。まだ幼かったころには物語も読んでくれたけれど。だからどのみち、「いやツチノコがさあ! それが示しているところのものがさあ!」などとは、ちょっと言えなかったと思う。BBCラジオの短波放送を聴き、わざわざThe Economistを海を越えて購読しているような人だったので、それをベースにしかけられる議論に対して「ツチノコがさあ!」はさすがに無理がある。
だけれども、この年になって、ぼくもだいぶ自分の主観を変換する術を覚えた。論文も、自分なりのかたちで論理に色をつけることができるようになったのではないかと感じている。無論、まだまだどうしようもなく稚拙なレベルであることは言うまでもないとしても。だから、いまであれば、ストレートにツチノコではなく、ぼくの感じているシンクロニシティだらけの世界についても、父と議論ができるのではないかと思うし、実際、別段、手遅れということはないのだとも思っている。
まあ、向こうは相当呆れて笑うだろうけれど。