あまり大きな声では言えないことですが、ここ一年ほどめちゃくちゃ映画を観ています。なぜ大きな声で言えないのか。それはそんな時間があるのなら研究をしろという正論オバケに襲われるからです。しかし映画って本当に素晴らしいですよね。そしてメディア論をやっていますなんていうことのいちばんのメリットは、映画を観ているだけでも「研究しているもん!」と言い張れるところにあります。しかもぼくはあらゆる技術をメディア技術とする立場を取るのでこれは強い。もう何をやっても研究だと言い張れる。言い張るだけで実際のところどうなのかはぼく自身にも分かりません。なにも分からないまま人生は過ぎていきます。
ところでぼくは友人が少ない人間ですが、根本的なところで美意識の異なる人を受け入れることに対する許容量が極端に少ないのもその原因の一つにあるでしょう。映画を観るとき、エンドクレジットを最後まで観るかどうかも、その人と美意識が一致するかどうかを判断する基準の大きな要素になります。いやもう、これは本当に、最後まで観ない人とはつき合えない。大学時代、彼女と初めて二人で映画を観に行ったとき――何しろ都会の映画館なんてハイカラすぎて恐ろしく恐ろしくて死ぬる思いで行ったのですが――彼女もぼくと同じ感覚を持っていて、それは本当に嬉しかったのをよく覚えています。
それはともかくエンドクレジット。映画って、やっぱり一つの世界なんですよね。それだけで完成された一つの世界。その奇跡的に美しい物語世界が、あるとき偶然どこからかやってきて、薄暗い映画館のスクリーンに映し出される。ぼくらの世界と、その一点、その一瞬、奇跡として交差する。そして90分、あるいは120分、ぼくらはその完璧な世界を垣間見ることができる。どこか別の宇宙、別の次元からやってきた完璧で美しい物語世界。でも時間がくるとそれはまたどこか別の宇宙へと遠ざかっていく。物語が終わり、ぼくという目をスイングバイして、映画は再び真っ暗な宇宙をまっすぐ遠ざかっていく。その直線運動こそがエンドクレジットなのです。
だからエンドクレジットを観ない人というのは、これは偏見を承知で言います。というかこのブログ偏見しかありませんが、エンドクレジットを観ない人というのは、映画が在るということの奇跡を知らない人です。その完璧な物語世界と出会い別れる、人生において一度きりの奇跡の美しさと恐ろしさ、それを見送るときの喜びと悲しみを知らない人なのです。ぼくはそう思います。
気に入った映画は何度も何度も、何度も何度も何度も観ます。それでもその一回ずつが絶対的な固有性を帯びた、繰り返されることの決してない奇跡です。遠ざかっていくボイジャーを見送るぼくら。けれどもそれが残す軌跡はぼくらの心に永遠に残ります。それが感じ取れない人と、ぼくは映画館には行きたくない。
などと真顔で言うぼくなのできょうも友人がいませんが、でもまあ、映画がある人生、別段、寂しくはありません。