ふたたびありがたいことに、『現代思想』の編集の方にお声をかけていただき、9月号のメタバース特集に原稿が掲載されます。最初、編集の方から届いたメールがなぜかスパムボックスに入っていて、普段だったら機械的に削除してしまうのですが、このときは偶然気がつき、あとになってぞっとしました。こういう機会をいただけるってぼくにとってはまずあり得ないことなので、ほんとうに危なかったです。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3718
「宇宙の修理とメンテナンス」というタイトルで書いています。ちょっと面白そうじゃないですか!? 面白いと良いのですが。修理する権利と保苅実の「歴史のメンテナンス」の議論を参照しつつ、メタバースが宇宙になるための条件について考えています。ただ、メタバースというと現時点では「この私」のアイデンティティ表象にまつわる諸問題がクローズアップされることが多いと思います。そういった意味では今回の原稿、そもそもメタバースなるものを成立させるには他者という観点が不可欠だよねというお話なので受けは悪いかもしれません。とはいえ、『ニューロマンサー』に影響を受け、かつ数十年プログラミングを生業としつつ生きてきた人間から見るとメタバースってどうなのというのは、それはそれで意味のあるものではないかと思いますので、もしご興味があればぜひお手に取っていただければ幸いです。
今回個人的に良かったのは、同じ特集に郡司ペギオ氏が寄稿していることです。郡司氏といえばぼくの最初の印象はやはり『内部観測 複雑系の科学と現代思想』(郡司ペギオ・幸夫、松野孝一郎、オットー・E・レスラー、青土社、1997年)で、これぼくが最初の大学を中退するかしないかくらいの時期に手に取って読んだのですが、まったく意味が分からなくて衝撃的でした。その大学では一応情報科学を専攻していたはずなのですが(とはいえ完全に落ちこぼれでしたが)、なぜ勉強するのか、何を勉強するのかまったく分からなくなってしまい、それでも何か考えなければならないことが「そこ」にあるのは感じていて、でもじゃあその「そこ」ってどこ? ということも分からずにいたころです。そんなときに手あたり次第本を読んでいたのですが、その一冊がこの『内部観測』でした。
今回改めて本棚から引っ張り出して読み直したのですが、やはりめちゃくちゃ難しい。でも自分のいまの研究に引き寄せて考えてみると三割くらい分かる……ような気がします。いやともかく、当時の「ぜんぜん分からない!」というのは結構重要で、何だろうかな、本能的にこれは面白いぞ、でも分からんな、というのが、結構、当時のぼくにとっては支えになっていた気がします。空転ばっかりする頭だけれども何かかみ合うものがこの世界にはあるかもしれないという期待。
そんなこんなで、まあ別にいまだって何も進歩はしていないのですが、そんな自分が郡司氏と同じ雑誌に原稿を載せられるというのは、うーん、当時のぼくに伝えたいし、やっぱり嬉しいです。根が単純なので嬉しい。
あともう一つ、『現代思想』といえば忘れもしない2015年の「人工知能」特集号で『ニューロマンサー』についての滅茶苦茶な解釈、といってもほんの数行ですが、それが記載されている論考があって、ぼくは激怒しました。ぼくのような無名の研究者がぶうぶう独り言で文句を言っていたって何の意味もないのですが、しかしあまりに酷いその無理解に激怒し、激怒し続け、今回自分の原稿のなかで『ニューロマンサー』に触れることができて、ようやく供養ができた気がしています。何の供養だ。自分の激怒への供養かな?
メタバースっていうと大抵『スノウ・クラッシュ』が挙げられますが、物語としても描かれた世界の広がりとしても『ニューロマンサー』の方がはるかに優れているとぼくは思っています。『スノウ・クラッシュ』も面白いので悪く言うということではなく、でもやっぱりエンターテイメントです。メタバースという言葉が出てくる以外、思想的には特に参照することがない気がします……。いやそれが悪いっていうことではないですよ。ぜんぜんそんなことはないです。そもそも『ニューロマンサー』だって純粋にエンターテイメントとしても最高に面白いし。
そうではなくて、メタバースを考えるのなら『ニューロマンサー』だし、既に当時サイバースペースに関するいま読んでも優れた論考がたくさんあったのだからそれを辿り直しても良いんじゃないかなとぼくは思います。『スノウ・クラッシュ』で止まってしまってはもったいない。あとは神林長平の『魂の駆動体』は、メタバースを考える上で(「この私」のアイデンティティ表象というよりも、この世界とは何か、そこで生きるとはどういうことか、人間はなぜモノを作るのかといったことをより根源的に考えるときに)ほんとうに素晴らしい物語なので、これも凄くお進めです。
いま現在、メタバースに関連したまともな本ってほとんどありません。はっきり言って読むに堪えないものばかりです。それでも、今後何年くらいのスパンでそうなっていくのかは分かりませんが、メタバース的なものが避けがたいのも事実です。ですので今回の特集がそれに関する思想的な取り組みの端緒になるようなら良いなあと思います。あ、ぼくが読んだ中で一冊だけ、これはとてもお勧めです。
今回のぼくの原稿ではこの岡嶋氏の著作、比較的批判的に扱っているように見えるかもしれませんが、少なくとも現時点では唯一、メタバースが現代社会を生きる人間にとってなぜ必要なのかを、もっとも真摯に、率直に、説得的に描いていると感じました。ぼく自身は岡嶋氏の主張には同意しませんが、不同意でありつつ90%は共感できるものでもあります。矛盾していますが……。けれども、凄く良く分かるんだけど、でも……、という感じで、そのぐにゃぐにゃ葛藤するところに、きっとこれからの現実のラインがあるのではないでしょうか。いずれにせよ、この本はとても面白かったですし、思想的な面でメタバースに関心がある方には唯一お勧めできます(純粋に技術的な面についてはまたいろいろ良い本がありますが、それはそれで)。
最後に。メタバースって、言葉がダサいですよね(ダサいという言葉自体がダサいということはさておき)。社名の「メタ」ならまだ良いですが、たぶんこれ、残らないですよ。『ソーシャル・ネットワーク』で、まあこれは映画の中のお話ですが、ショーン・パーカーがザッカーバーグに「The facebook」から「The」を取れとアドバイスをするシーンがあって、これが凄く印象的なんです。そして決定的に重要でもある。こういうサービスって、ダサいと思われたらもう御終いです。いつだったか「Clubhouse」とかいうサービスが話題になったことがありますよね。これ、初めて耳にしたときから「こんな阿呆な名前のサービスすぐに消えるぜえ」とぼくは言っていました。嘘じゃないって。ちなみにぼくの最初に行っていた大学にもクラブハウスってありました。嫌な感じですね。滅びないかしら。
それはともかく「The facebook」。これはダメでしょ、というのを、映画のなかのザッカーバーグは理解していました。あくまで物語ですけれども。しかし「メタバース」もダメでしょ……。いやSF小説のなかのギミックとしてはかまわないですよ。でもこれ、ぼくらの日常にはなりませんよ……。「きょう帰りにちょっとメタバース寄ってく?」とか。
そんな感じでした。もしよろしければ、ぜひ。