老象のように

××先生、などと書かれたメールに添付されたレポートを受け取り、他人を偉そうに評価をする。正直、そんなことを平常心でやれるような人間は、みなどこか異常だとぼくは思います。もちろん、それでお金をもらう以上、ぼくだってプロとしてきちんと仕事はこなします。けれども、やはり、反吐を吐きそうになります。では、評価などやめて、全員に優をつければ良いのかといえば、そういうことでもないのです。

ルールを表面的には莫迦にしつつ、結局のところ、そんなルールによって成立しているこの社会で自分が生きていることに何の疑問も感じない。もらえて当然のクリスマスプレゼントのような人生。気に入らないプレゼントであればサンタが悪い自分の人生。そんな連中には、ただひたすら、嫌悪感しか覚えません。

ぼくは、下らないルールだと分かっていて、なおそのルールに自分を合わせ、所詮はゲームだよなどと嘯きつつも適当に、あまりにも軽々と自分を合わせ、けれども内臓は捻じれて腐って、それでもへらへら笑いながら生き残っていく誰かさんが好きです。ぼくは、下らないルールを軽蔑し、憤怒と諦念をもって自らをシステムから排斥し、やがて老象のように誰も知らないどこかへと消えていく誰それさんが好きです。

評価などやめ、いっそのこと全員を不可にしてしまう。あるいは全員を優にしてしまう。それはそれで、お話としてはおもしろいかもしれません。だけれども、所詮、そんなことをしても、それはこのぼくの物語にしかなり得ません。ぼくは、単なる舞台背景に過ぎない。だからけっこう、反吐を吐きつつ、極々常識的に成績をつけたりします。けれども、勝手な言いぐさであることは承知でいえば、優がつこうが不可がつこうが、そんなことは、みな、些事です。

けれども、もしほんとうにそれが些事なら、なぜぼくは反吐が出そうになるのでしょう。思うにそれは、つまるところ生きるということは、些事の連続で、しかし同時に反吐が出るようなことの連続でもあるからです。

* * *

ずっと昔、最初の大学にいたころ、定期試験のときに、ふと、すべてが莫迦莫迦しくなったのです。その講義の先生が、テスト用紙を抱えて大教室に入ってきたとき、ぼくは隣に座っていた相棒に、――ああ、えっと、俺、帰るよ。と言いました。そうして先生と入れ違いで教室を出て行き、

……出て行き、結局いまだに、どこかをうろうろと歩き回っています。

シャッターを切る

街に出るたびに、そこに氾濫する暴力的に発信される暴力的な内容の信号に撃たれ続け、心身ともに疲れ果てます。疲れ果てますが、疲れた部分を遮断してしまえば、自分の内側は守ることができます。でも、「内側」なんてほんとうにあるのでしょうか? 無いような気もします。無いような気がしつつ、それでも「外側」を切り離していくうちに、いずれはすべてがなくなってしまいます。基本的に、ぼくは人間を信用していません。生きるのって大変よね、などと口で言っても、所詮はまともに就職をしてまともに結婚をして、あるいはまともに表通りを歩ける連中など、糞のようなものです。そしてもちろん、何だかんだと言いつつも、へらへら笑って生き残っているこのぼくもまた、同じように糞野郎です。

糞野郎同士、仲良くしなければなりません。仲良きことは美しきかな、です。白樺派だってそういっています。A面B面。クラウドリーフ君っていつも何言っているのかよく分からないけれど義理でつき合ってあげているのよ。どうもありがとう。

けれども、ただへらへら笑っているだけではありません。最近疲れてしまっていたので、しばらく研究もお休みしようかな、などと思っていたのですが、どうもなかなか、そんなに甘くはありません。ここ数年、自分が追いかけているナニモノかに対して名前をつけようと苦労していたのですが、ほんの数日前、それをようやく見つけることができました。これでまたしばらくは、研究を続けるしかないようです。

研究なんていうものは、いつも書いていることですが、魔術と同じです。魔法を使えない人間、ただ知識とロジックを弄ることができるだけの人間に、研究などできるはずもありません。そうして、もしそれが魔術であるのなら、相手の真の名前さえ知ってしまえば、そこで勝負はついたも同然です。

とはいえ、問題は、相手もまた、ぼくら人間の真の名前を知っているというところにあります。

* * *

とてもあたりまえのことだけれど、最近、あらためて腑に落ちたこと。

多くの人びとが、パシャパシャパシャパシャ、あらゆる眼前のものごとを写真に撮っていきます。それは、時折いわれるようにその対象を所有するためなのでしょうか。どうも違うのではないかと感じるのです。撮った写真は、永遠に残ります。しかしそれは、被写体を永遠に所有したいということの表れではなく、その永遠性を反射させ、「撮っている自分」に永遠性を付与しようという欲望の表れなのではないでしょうか。撮ってしまった写真を多くの場合見返すことがないのは、ぼくらが撮っているものが、本当はそれを撮っているぼくらでしかないからなのかもしれません。

けれど、そんな永遠性など、所詮まやかしにすぎません。だからぼくらは、その幻影が薄れてしまわないように、不死への欲望に突き動かされ、シャッターを切る指を止めることができなくなります。一口飲めば、一秒命が伸びる生命の水。それが事実だとしても、そうであれば、ぼくらの不死の生は、ただひたすら生命の水を飲み続けることに費やさなければならなくなります。

シャッターを切るとき、写真がぼくらに与えてくれるのは、ほんとうは、死です。世界に向けてシャッターを切るたびに、世界は死んでいきます。撮っているぼくらも死んでいきます。シャッターを切るたびに、ぼくらは何度でも新たに死に直しています。だけれども、それもまた正しくはない。生も死も、所詮は言葉でしかありません。二元論というのは、どうにも胡散臭い印象をぼくらに与えます。シャッターを切るときのカシャッという音。それが、その薄っぺらい二元論をぺしゃんと押しつぶし、その瞬間だけ、生と死がぐるぐると煉りこまれ一様になりけれど無限の複雑さを秘めた、世界のほんとうの姿をぼくらに垣間見せるのです。ぼくのいうコミュニケーションというのは、要するにそういうもので、要するに、それだけのものです。

クラウドリーフ君っていつも何言っているのかよく分からないけれど義理でつき合ってあげているのよ。どうもありがとう。

calling

仕事を終えて家に帰り少し身体を休めると、別の仕事を片づけ始める。0時を過ぎ、気がつけば1時を過ぎている。2時になり、眠気を覚ますために洗面所へ行き、電気もつけないまま凍るような水で顔を洗う。そのまま、窓越しに届く街灯の微かな灯りに浮かび上がる、鏡に映った自分の輪郭を眺めている。3時を過ぎ、布団に潜りこむと、しばらく真暗な天井に向けて突きだした手の甲を眺め、それから、ほんの少しだけ眠りにつく。

目覚ましをかけた3分前に、必ず目が覚める。枕元の湯冷ましで頭痛薬を飲む。脳に痛みを感じる神経はない、と、いつかどこかで読んだ、嘘か本当かも分からない言葉を思いだす。いつもと変わらない朝。けれども、そろそろ、いろいろな嘘が破綻しているのを感じる朝。

存在しない神からの召命がある限り、きみの身体にはどこからか熱が流し込まれ続ける。熱がある限りきみは動き続ける。そしてそれはもちろん祝福では、ない。

* * *

ひさしぶりにぼくは、コーヒーを飲みたくなる。本物のコーヒーではなく、インスタントの、甘くてぬるい、絵具のような泥水のような、あれだ。けれども風邪をひいてしまい、裏手の山を登ったところにあるコンビニまで行く気力がない。身体のなかで熱をおこせない。古いセーターを二枚重ねて着、しかたなく本物の コーヒーなどを飲みながら、紙のノートに鉛筆で字を書いていく。誰にも届かない呼びかけ。ぼくが書きたいのは、どこにも届かないことでよってのみどこからも届かなかったところへ届く言葉だ。本物のコーヒーは熱いほどだけれど、ぼくの望む味ではない。

手元においたPHSが着信を告げ、震える。かかってくるはずのない相手からの、数年ぶりの着信。通話ボタンをそっと押す。スピーカーの向こうから届くホワイトノイズ。無言で耳を澄ませ、数分後にそっと切る。

* * *

ぼくはきみにはなれない。きみはもう誰にもなれない。きみに呼ばれなかったぼくが、いつまでもきみの呼び声でない呼び声に耳を澄ませている。身体のなかからとっくに熱は失われているけれど、存在しない神に対する戦いにおいては、すべてが逆転する。

だから、届かない声は、きっときみに届く。きみではない誰かから、ぼくではない誰かに。

きみに伝えたい沈黙

最近、LifeLogに関心を持っている。その概念は、ぼくらの持っている技術と不死への欲望の、ひとつの見事なまでに醜く美しい到達点だ。そこに人間は存在しないが、その人間の非在にこそ、人間の匂いが色濃く残されている。

技術について語るとき、結局、(技術論者、反技術論者を問わず)技術の次元にとどまった議論にしかならないのは何故だろう。そこには常に、人間の持つ悲しみ、希望、愚かさ、そして恐ろしいまでの高慢がともなう。けれども、多くの研究者がそれを見ようとしない。

だいぶ前に投稿した論文の査読結果が戻ってきた。ぼくとしてはかなり自由に書いてしまった論文なので、リジェクトされたらされたでしかたないね、と思っていたのだけれど、意外にも高く評価されていて、ちょっと嬉しかった。ただ、査読者のコメントのなかで、筆者(ぼく)はバタイユ的な非知へと傾きすぎているという指摘があって、確かにそうだよね、とぼくは思った。

友人の彫刻家が一時期帰国して、ほんのわずかだけれど、共に過ごす時間を持てた。ぼくは最近、研究というものが持つ枠組みに息苦しさを感じることが多い。――研究って、学会発表とか論文とかでしか表現できないんですかね、もっとこう、ライブハウスとか、いやどこでもいいんですけれど、アートってことではなくて、でも何か、みんなの耳や目や肌や魂に直接伝えるようなかたちで表現できないんでしょうか。そんな、訳の分からないことを彼に訊ねた。――分からないけれど、やってみればいいじゃない。そう、彼は答えた。

大学で喋るのは楽しい。大学というシステムはまるで糞のようだけれど、ぼくはやっぱり、若い子供たちに語りかけるのが好きだ。でも同時に、語るのではなく、沈黙する講義があったっていいのにな、とも思う。瞑想とか、そういう下らない話ではなく、ただたんに沈黙する。別に、そこから何が生まれる訳でもない。ただ、ひたすら沈黙をする。じっと、耳を澄ませる。そうしてもちろん、何も聴こえてはこない。そういう講義を、いつか、ぼくはしてみたい。

研究をする、ということは、自分にしか見えていない光景を見ること、そしてそれを、他のひとに伝えるということだ。ぼくの見ている非知の世界を、きみにどうやって伝えられるのだろう。分からないけれど、でも、やってみるしかないのだろう。

ひああふたあ

用事がなければ延々部屋に篭り続けるクラウドリーフさんですが、今年は(まだ終わってはいませんが)けっこう旅行に行きました。とはいえ、どこに行っても何を見ても、何を食べても何をしても、いっさい覚えることのできない彼のことです。そもそも本当に旅行に行ったのかどうかさえ怪しいのですが、まあ、それはそれでどうでも良いことです。

ともかく、つい先日、相棒とふたりで、丸の内に近いあの駅の、改装したばかりのあのホテルに泊まってきました。いまはそこそこ混んでいるようですが、予約開始とほぼ同時に申し込んだときには空き部屋はじゅうぶんにありました。

駅全体が改築されたということもあり、たくさんの見物客が写真を撮っています。ぼくらはドームに面した側の部屋をとったのですが、ドームを撮ろうとする人びとの焚くフラッシュで、部屋が明るく照らされます。バッバッババッバッバババッ。部屋に入り、ほっとくつろいでカーテンを開けたぼくは、眼下に蠢く無数のカメラとフラッシュに恐れをなし、すぐにカーテンを閉じます。部屋の電気をすべて消し、相棒と二人でベッドの上に身体を伏せます。少しでも顔を上げれば、天井を撮る人びとのレンズに撃ち抜かれます。もともと写真が苦手なぼくらにとって、これは予想外の危難です。しかし厚いカーテンを閉めてしまえば、もう部屋はシャンデリアの人工的な明かりに照らされた、面白くもない空間でしかありません。薄いカーテンだけを閉め、二人で寝転がったまま、高めの天井を眺めます。薄暗い部屋を、外のフラッシュの光が断続的に照らしだします。

最近、どこかへ泊りにいくと、相棒は「年をとったらまた泊まりに来ようね」といいます。彼女の言いたいことは、何となく分かる気がします。

どこからか、電車の行き来する音が、音というより振動として伝わってきます。ホームのアナウンスが、何を言っているのか分からないままに、ぼんやりと響いてきます。外からのフラッシュは相変わらず、音もなく、ぼくらが並んで眺める天井を一瞬白く浮かび上がらせます。

やがって眠ってしまった彼女の隣で、やはりうとうとしているぼくは、もうまるですっかり、余生を通り抜けて来世の自分を眺めているような心持になっています。

生きている!

いま、自分が生きているということに対する絶対的な疑義。ぼくらが生きているということは、ある日海岸を歩いているとき、ふと波打ち際に打ち寄せられた人形を手に取れば、それが昔自分の失くした人形であったというのと同じくらいの偶然でしかない。

不思議なことに、講義をしていると、何十人かいる学生のうちの4、5人はぼくの人間性を強く嫌悪する。そして同じように不思議なことに、1、2人はぼくの講義スタイルを結構強く好いてくれる。憎まれ嫌われる方が慣れているぼくとしては、好意は苦痛でしかないけれど、それでも、無論、嬉しいことではある。けれども、ぼくを憎んでくれる学生の方が、ぼくには理解できる。なぜなら、ぼくも同じように、あるいはより強く、彼女らを憎んでいるからだ。

信じてもらおうとは思わないけれど、ぼくは、自分が生きていて当然だと思っている人間を見分けることができる。例えそこに不安や恐れがあったとしても、それは所詮、「自分は生きていて当然なのになぜそれを脅かすものがあるのか」という甘えの反射に過ぎない。そんなものには、何の意味もない。もちろん、それはすべてぼくの妄想だ。きみの世界がきみの妄想であるように、ぼくもぼくの妄想を抜けだすことはできない。だから、いうまでもないけれど、彼女たちを憎むとはいっても、それを成績に反映するとか態度に表すとか、そういう下らない次元の話をしているのではない。

それは単純な憎しみではなく、そこにはぼくにとっての倫理がある。自分が生きていて当然だと思う、当たり前のように光を纏った人間に対する全力の憎悪。けれども、恐らく、より正直に自分のなかを覗きこめば、ぼくら誰もが、きっと多かれ少なかれ自分の生を当然のものとして感じている。だから結局のところ、ぼくの憎悪は生きている人間すべてに対する憎悪になりかねないし、それはそのまま、自罰という逃避をしか生みださない。そうでないというのであれば、それは人間に対する憎悪であってはならない。だから、ぼくが憎むのはそういった人間それ自体ではない。ぼくのなかにある、そういったもののあらわれを憎んでいるということだ。

とはいえ、それはそれ自体としては憎しみであることに違いはなく、ぼくの憎悪は鏡像として彼女たちの憎悪を引き起こす。楽しいはずの大学生活に無遠慮に土足で入り込み、それは嘘だと唾を吐かれれば、誰だって良い気はしない。

だけれども、ぼくが本当に感じているのは、憎悪ではなく、恐怖だ。自分の生を前提にできる人間に対する本能的な恐怖。決して分かり合えない断絶と深淵。

1限などとい阿呆臭い時間にわざわざ大学へ行く。教室にはすでに何人か学生たちが座り、思い思いに、あるいは友人同士でそれぞれの時間を過ごしている。定刻になればそれなりに教室が埋まり、講義を開始する。いつも通り遅刻する子たちはいつも通り遅刻してくる。

本当は講義なんてする必要はない。ぼくはそう思う。そんなもの、本を読み、自分の足で歩き回り、人とぶつかり、最後に地面を踏み外して死んでいけば、それでけっこう、ぼくらはこの人生において学ぶべきことはすべて学べる。

狭く明るく白く空調の効いた教室で本当に伝えたいのは、「生きている!」ということだ。「存在している!」ということだ。ほんの一瞬、何の保証も支えもなく表れては消えてしまうその一瞬を、もし共有することさえできれば、ぼくらはもう、それ以上学ぶべき何ものもない。

生きている! ぼくは叫ぶ。学生たちがぎょっとしてぼくを見つめる。ぼくは何ごともなかったかのように笑みを浮かべ、おはよう、出席を取るよ、という。

じみじみ

証明写真のストックが切れたので、近所の写真屋さんに行ったのです。ひさしぶりにスーツを引っぱりだし、ネクタイを締めたりします(普段会社に行くときは、以前友人にもらったジャケットと黒ジーンズでごまかしているのです)。スーツなんぞを着るとまるで真っ当な社会人のようですが、下半身はカーゴパンツに登山靴です。はっきりいって不審者です。けれども、登山靴でがしがし歩くのは気分良く、どこまでもどこまでも歩いていけそうです。そういって彼は時折歩いて海まで出てしまったりするので要注意です。

彼の彼女はフィールドワーカーなのですが、登山靴のことを「ザングツ」などと言ったりします。プロっぽいね。彼はそう思います。彼は自分の分野でそういうプロっぽい感じの言葉使いができないかしらなどと考えたりします。マルティン・ハイデガーを「マルデガー」なんてどうでしょう。ちょっとキュートな感じがしませんか。しませんね。だいいち、マルデガーはナチだから嫌いなのです。あの業突親爺のような顔からして無理です。むりむりむりむり。何だかカタツムリの行列のようです。うふふ、カタツムリみたい、などと呟きながら、写真屋さんへと歩いていきます。ザングツにカーゴパンツ。ワイシャツにネクタイ。婉曲にいっても不審者です。

* * *

良い学者というのは、あたりまえですが、良い顔をしているものです。これは本当。まず間違いなく、学者として本物かどうかは一目で分かります。だいたい、お勉強が得意なのを研究だと勘違いしている研究者などというものは、「リアル」のない顔をしている。けれどもそういう自分だって、証明写真を撮る前に鏡を見せられると、別段リアルがあるわけでもありません。まあ、ぼくの場合はお勉強が得意ということはまったくなく、ただそれだけが救いです。それでもやっぱり、写真屋さんのひとに「レンズを見て、レンズを見て、トートトト」と何やら鶏を呼ぶように声をかけられながら、コーティングされたガラスに映る自分の顔を見るのが苦痛です。何とまあ気迫のないのほほんとした顔つきをしていることか。

そう、ぼくは顔を見るのも見られるのも苦手です。講義のとき、何十人と居並ぶ女の子たちを前に、いったいどこに目を向けたら良いのかいつも困惑しています。しかたがないので、白目を剥きながら「見るなっ! 俺をミルナーッ!」と裏声で叫びつつ、黒板に、鬼に追われるキース・ヘリング的赤ちゃんを書いたりします。いったい何の講義なのでしょうか。この前はシュミラクラ現象について話をしました。黒板に点を3つ描き、「これ顔に見えるじゃん? 見えるじゃん? これ顔、顔に見えるじゃん? 消せないじゃん、罪悪感すげーじゃんうわあああ!!」と絶叫しながら黒板消しで3つの点を消したりします。でも本当のことをいえば大丈夫。実際、起きて講義を聴いてくれている子はほとんどいません。みな嵐に倒れる稲穂のようにばたばたと眠りについていきます。「あの先生声が良いよね、すごくよく眠れる」ぼくは挫けません。だいいち、みんな眠っている方がぼくは安心なのさ、などと油断して顔を向けると、ぼくを凝視している生徒さんと目が合って失禁したりします。ぼくは講義が大好きです。

などと考えているうちに、証明写真も撮り終わったようです。6枚くらい撮られ、好きなものを選べといわれます。正直、みな白目を剥いて涎を垂らしているので、どれでも同じだろうという気がしますが、無難にいちばん最後のものにしておきます。「良いのを選んだな、小僧。そうでなければ死んでいた」みたい表情をした写真屋さんに怯えつつ、これでまたしばらくのあいだは、お祈りをされるためだけに公募に出すことができるでしょう。お祈りをされ過ぎて、最近どうも後光がさしてきたようです。もう少しすればきっと、雲間からレンブラント光線だってだせるでしょう。

会社も、来季の契約を無事に更新できそうです。あと1年、という区切りで考えるのであれば、これでどうやら、またもう少しだけ生き延びることができそうです。パスポート以外には身分を証明するものなど一切ない生活ですが、そもそも保証された身分なんて幻想にすぎません。

ああ、早く何もかもが滅茶苦茶にならないかなあ! などと思いつつ、でもやっぱりそうじゃないよね、などとも思いつつ、その「そうじゃないよね」にかけられた気が狂いそうなほどの凡庸な苦痛だけを誇りに、毎日じみじみ生きています。