いま、自分が生きているということに対する絶対的な疑義。ぼくらが生きているということは、ある日海岸を歩いているとき、ふと波打ち際に打ち寄せられた人形を手に取れば、それが昔自分の失くした人形であったというのと同じくらいの偶然でしかない。
不思議なことに、講義をしていると、何十人かいる学生のうちの4、5人はぼくの人間性を強く嫌悪する。そして同じように不思議なことに、1、2人はぼくの講義スタイルを結構強く好いてくれる。憎まれ嫌われる方が慣れているぼくとしては、好意は苦痛でしかないけれど、それでも、無論、嬉しいことではある。けれども、ぼくを憎んでくれる学生の方が、ぼくには理解できる。なぜなら、ぼくも同じように、あるいはより強く、彼女らを憎んでいるからだ。
信じてもらおうとは思わないけれど、ぼくは、自分が生きていて当然だと思っている人間を見分けることができる。例えそこに不安や恐れがあったとしても、それは所詮、「自分は生きていて当然なのになぜそれを脅かすものがあるのか」という甘えの反射に過ぎない。そんなものには、何の意味もない。もちろん、それはすべてぼくの妄想だ。きみの世界がきみの妄想であるように、ぼくもぼくの妄想を抜けだすことはできない。だから、いうまでもないけれど、彼女たちを憎むとはいっても、それを成績に反映するとか態度に表すとか、そういう下らない次元の話をしているのではない。
それは単純な憎しみではなく、そこにはぼくにとっての倫理がある。自分が生きていて当然だと思う、当たり前のように光を纏った人間に対する全力の憎悪。けれども、恐らく、より正直に自分のなかを覗きこめば、ぼくら誰もが、きっと多かれ少なかれ自分の生を当然のものとして感じている。だから結局のところ、ぼくの憎悪は生きている人間すべてに対する憎悪になりかねないし、それはそのまま、自罰という逃避をしか生みださない。そうでないというのであれば、それは人間に対する憎悪であってはならない。だから、ぼくが憎むのはそういった人間それ自体ではない。ぼくのなかにある、そういったもののあらわれを憎んでいるということだ。
とはいえ、それはそれ自体としては憎しみであることに違いはなく、ぼくの憎悪は鏡像として彼女たちの憎悪を引き起こす。楽しいはずの大学生活に無遠慮に土足で入り込み、それは嘘だと唾を吐かれれば、誰だって良い気はしない。
だけれども、ぼくが本当に感じているのは、憎悪ではなく、恐怖だ。自分の生を前提にできる人間に対する本能的な恐怖。決して分かり合えない断絶と深淵。
1限などとい阿呆臭い時間にわざわざ大学へ行く。教室にはすでに何人か学生たちが座り、思い思いに、あるいは友人同士でそれぞれの時間を過ごしている。定刻になればそれなりに教室が埋まり、講義を開始する。いつも通り遅刻する子たちはいつも通り遅刻してくる。
本当は講義なんてする必要はない。ぼくはそう思う。そんなもの、本を読み、自分の足で歩き回り、人とぶつかり、最後に地面を踏み外して死んでいけば、それでけっこう、ぼくらはこの人生において学ぶべきことはすべて学べる。
狭く明るく白く空調の効いた教室で本当に伝えたいのは、「生きている!」ということだ。「存在している!」ということだ。ほんの一瞬、何の保証も支えもなく表れては消えてしまうその一瞬を、もし共有することさえできれば、ぼくらはもう、それ以上学ぶべき何ものもない。
生きている! ぼくは叫ぶ。学生たちがぎょっとしてぼくを見つめる。ぼくは何ごともなかったかのように笑みを浮かべ、おはよう、出席を取るよ、という。