胡乱な不審者の

また歯の話で、このブログもう「歯の物語」で良いんじゃないかと思うのですが、けれどもぼくだけではなく金魚のお話でもあります。今年の夏、金魚の歯が八本生え変わりました。そして主に彼女の観察眼によりそのすべての回収に成功しました。ぼくは子どものころに金魚を飼っており、それは十数年生きたのですが、歯が生え変わるなんて知りませんでした。けれども実際に見てみるとなかなかに立派な歯です。そして歯の定期健診の一週間前、ぼくの歯の詰め物も取れました。セラミックのちいさな欠片。ぼんやり眺めていると、何だか金魚の歯とそっくりです。

金魚は餌をぼりぼり食べ、ぼくもシリアルをバリバリ食べます。生命なんて皆同じようなものですね。

非常勤をしている大学を通り抜けた向こうに通っている歯医者さんがあるので、てくてく歩いていきます。歩いて一時間を切るくらいでしょうか。歯医者が終わればそのままさらに歩いてどこかの駅に出て職場に行きます。行って帰って、その日の移動時間は合計で六時間以上。ルソーのように孤独な散歩者の夢想とはいきませんが、それでも移動しているときにはいろいろなことを考えます。歩いていれば考えることができますし、電車なら本を読むこともできます。ぼくにとっての研究の時間。

けれどもそれ以上に面白いのは道を歩いているときに、電車に乗っているときに目にしたり耳にしたりする何かです。面白い……? そう、それは研究ではないでしょ、となるかもしれませんが、そういう何気ない光景こそ、ずっとあとになって自分の研究の何か漠然とした雰囲気のようなもの(非常に曖昧)になっていくように思うのです。

歯医者さんに行く途中、向こうからご高齢のご夫婦が歩いてきて、すれ違う少し前くらいのところでふたりは道端の花壇の縁のようなところに腰を下ろしました。調子が悪いのかなと思って心配になり、少し注意して(気配を殺しながらオーラセンサーで)様子をうかがったのですが

オーラセンサーってなんだ!? いや嘘じゃなくてぼくは人間の魂の形が見えるのですが、最近魂の形が無いひとが居ることに気がついて、これホラーのお話なんですけれども。いやそれはまた別の機会にお話しするとして、あの、時折ぼくを知っている人からこのブログがリアルのお話だと思われているような形で言及されることがあるのですが、これブログのタイトルの通り物語です。物語って、真実を語るための嘘であり、嘘を語るための真実でもある。

それでオーラセンサーですけれども、それによるとそのご夫婦は「もっと普段から歩かないと足腰弱るよ」「そんなこと言ったってねえ」などと話している。これ単に耳で聞いているだけだな。ともかく、その雰囲気が何だかとても良いんですよ。うまく伝えられないのですが。二人には千葉か埼玉に住んでいる子どもが居て、休みの日にはその家族が車で遊びに来たりする。そんな姿が見えてくる。オーラセンサーです。何かね、ちょっと、嬉しいというのとは違うのですが、少し気持ちが明るくなって歯医者さんに行きました。

最近、ほんとうに酷い論文を読んでしまって、心が落ち込む以上に、自分の正気を保つだけで大変でした。ぼくはいま一応研究者を名乗っていますが、だけれども研究者の社会というかアカデミズムというのか、ともかく、そこで語られていること、というよりもその動機が良く分からなくなることがあります。どうしてこいつらこんなことを喋ったり書いたりしているの? ということ。無論ですが、というよりもほんとうに幸運だったことに、ぼくはまだ若いころに尊敬できる大学教員というものと知り合うことができたので、全面的に否定的にはならないで済んでいます。でも、心底やばいなと感じることが多いし、やばいことに気づいていない人びともまじめにやばいなと思います。しかもそれは伝染性のもので、だからもっと恐怖した方が良い。

自分を守れるのは、結局のところ強迫観念じみた動機、そして文体しかありません。ぼくは最近、といってももうとっくに人生の折り返し地点をはるかに越え、いまさら、あるいは未だにかもしれませんが、自分の文体が目指しているものが分かってきたような気がするのです。それはとにかく個性を消すということです。誰が書いたのか分からないようなフラットな文章。とはいえそれはマニュアル文体ではなく、Chat GPT文体でもなく、客観性を装っている癖に自己愛しかない論文文体でもなく、日常の言葉であり透明な言葉であり……。あと一歩でそこに到達できるような感触があります。でも実際には、そのあと一歩とは、死ぬまで無限に続く一歩の積み重ねなのかもしれません。だから書いて、歩いて、生き続けるしかありません。そして、飽きたらやめます。そのくらいでいいんだと思います。

年を取って良いことの一つは、我慢できないことが増えていくということです。ゲームはいくらでも続けられます。でも、やめていいんです。やめていいし、続けることもできないし、続けられないという自分が在ることが自分で分かってくる。

まあでも、そのことで、極直近に数少ない研究仲間に迷惑をかけてしまって、それはほんとうにいかんよなあと反省しきりです。結局、よいものを書くしかありません。何年も前から同じことしか言っていませんが、よいものを書くしかありません。よいものを書くしかありません。

何だか暗いトーンですね。でもそんなことはなくて、いまは自分にしか見えていない世界を言葉にして誰かに読んでもらう(その可能性が生じる)というのは、とても楽しいことです。「おもろいじゃーん」「まじで」みたいな。先日、自宅に編集者さんが来てくださり、どんな感じで書いていくかについてお話をしました。編集者さんの知識や経験、そしてセンスはとてもありがたいもので、これは売れるものになるでぇ、ビルが建つでぇ、と内面では盛り上がります。でも編集者さんにお出ししたコーヒーが(彼は最初紅茶を所望していたのにぼくがわざわざコーヒーを勧めてしまった)めちゃくちゃ薄くて、アメリカ―ン! みたいな感じで、それから数日はダメージで倒れていました。

どのみち社会的にまともな人生は送れそうもありません。だから要するに、結局のところ、よいものを書くしかないのでしょう。