確信

いま年末調整をしているのですが、でもって本当に大変なところはすべて会計事務所にお願いをしているのですが、しかしぼくはこういう作業が滅茶苦茶苦手で、法人を作ってから今回で二回目とはいえ何が何だか混乱したまま資料を探したり作ったりしています。けれども何より分からないのは、自分が何で食べているのかということです。もちろん、表面的にはプログラマとしての収入があって、あとはやればやるだけ赤字になる非常勤があって(赤字になるというのは、仕事をわざわざ休んで時間単価の低い講義をしたり、そもそも無給の時間で準備をしたりするからです)、だから数値的にはまあ分かります。でも感覚的に全然分からない。どのようにしてそれが可能なのかというよりも、なぜそれが可能なのか。そして分からないという感覚の方が恐らく正しくて、ぼくはとことん偶然に助けられて、いま、偶々食べることができているに過ぎないのだなと思うのです。いつ終わっても不思議はない偶然。

例えば『愛と栄光への日々』という映画があって、マイケル・J・フォックスとジョーン・ジェットが主演している。凄く良い映画なので(名画、という訳ではないが)ぜひ観ていただきたいのですが、それはともかくラストシーン、マイケル・J・フォックスがライブハウスで歌うのです。これが本当に上手いんですよ。ただテクニックがあるとかいうことではなく、ああ、歌っているなあという。マイケル・J・フォックスはシリアスな演技が素晴らしい。これぼくの逆鱗スイッチなのですが、マイケル・J・フォックスのシリアス演技を批判するひとって何故か居るんですよね。ぼくはね、そういう人はね、地獄に堕ちるべきだと思うんだけどね。まあともかく、『カジュアリティーズ』、『ブライトライツ・ビッグシティ』、そしてこの『愛と栄光への日々』、ぜひ観てください。ただ邦題は酷いですね。『愛と栄光への日々』の原題は『Light Of Day』で絶対このままが良いし、『ブライトライツ』なんて正確には『再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ』ですよ。「再会の街」どっから出てきたんだ。

で、ライブの話に戻しますが、彼が歌っている途中で姉役のジョーン・ジェットが現れて一緒に歌い始め、やがて彼女がメインで歌う。これが凄まじいパワーを感じさせるのです。マイケル・J・フォックスの歌もギターも良いんですよ。それは全然変わらない。でもジョーン・ジェットが一声出した瞬間、全然別のものだというのが分かる。マイケル・J・フォックスの場合は、彼が歌っている。それが凄く良い。でもジョーン・ジェットの場合は、そこに歌が在るんです。

ちょっと何を言っているか、例によって分からないかもしれませんが、ぼくにとってはこれがプロの在り方、スタイルとかではなくて存在そのもののことですけれども、それなんです。そして翻って自分自身を眺めてみると、全然、いかなるジャンルにおいてもそんな力は持っていない。要するにそれはぼくが凡人だという当たり前の事実を示しているに過ぎないのですが、でもそれだけではない。いや、というより、やっぱり自分がいま何とか生きていられるのが、ナイーヴな意味でではなくて、もっと恐ろしい意味で、ただ偶然に救われているからに過ぎないということ。それがジョーン・ジェットの歌によって逆照射される。

もしあれだけ歌えたら、それは当然才能とか天才とか運とか本人の努力とか人間性とか、そんなことはどうでもいいんです、とにかくあれだけ歌えたら、確かにそこには固有性を帯びた価値が生まれる。じゃあそれで食べていけるのかといえば、それはそれでそんな保証はどこにもありませんよ。もちろんです。だけれど、それなら余計にぼくはどうなるのか。卑下しているのではなく純然たる事実として、凡人たるぼくは置き換え可能でしかないのだから。悩んでいるとかではないです。そんな話ではない。本当に置き換え可能なものは自分のことで悩んだりはしません。だから繰り返すけれどもナイーブな意味ではまったくなくて、ただただ偶然生き残っているに過ぎないという事実そのもの、その圧倒的な確信ということです。

最初の、結局中退した大学で偶然プログラミング実習の講義に出て、ぼくがまじめに受けたのってそれだけだと思うのですが、それがなかったら間違いなく、これは心底間違いなく、ぼくはとっくにこの世界から退場していたと思います。にもかかわらず別段プログラミングの才能があるということでもなくて、特に仕事で要求される能力についていえば平々凡々というところ。2、3秒鍛えれば、誰だってできる仕事です。

ときおり、誰かさんたちが自分を規定する言葉を聞くと、うーん、どうなのかなと思います。何でも良いですが理系とか文系とかあるいは職業とか肩書とか。でも、たぶんそこにあまり意味はなくて、だって天才ではないのですから、そのレベルであれば、ぼくらは何だってできるはずです。傲岸なんだか謙虚なんだか分かりませんが。その程度でしかないし、だから明日をも知れないし、だから自由なのかもしれません。そう、callingなんてあったら、それこそ大変です。

ただそれはそれとして、自分で自分に出している給与明細を眺めつつ、こんなんで明日も食べていられるのかしらと、やっぱりそれは、いつでもまったく確信がありません。

まったく使っていなかったinstagramをやめて、blueskyを始めました。個人的なことはいっさいポストしなくて、ただ写真と本の短い紹介だけ。そもそもぼくは、固有であることを目指そうとする騒音にまみれたSNSって嫌いなのです。偏屈。でもまあ、置き換え可能であることを知っていれば、それはそれで、なかなか静かで良いのではないでしょうか。