矛盾に耐え続けるということ

なぜ書くのか、などと言うと偉そうに聞こえてしまいますが、そういうわけでもなく、ぼくの書く文章はあまりに拙いかもしれませんが、それでも書かなければならないという衝動がある限り、なぜ書くのかということは、つねに自分に対して問わなければならないことです。

去年から今年にかけて、ぼくは幾つかの死に関係しました。しばしば、死者は生者の心の中で生き続けると言います。これはたしかに真理かもしれません。けれどぼくは同時に、生者こそが死者によって心を、少なくともその一部を殺されるのだと思っています。誰かと関わるということは、自分の心が変化し、それまでとは異なる新たな命を手にする、ということです。また、そうでないのであれば、ぼくらが誰かと関わる意味などないでしょう。自分が変化しないのであれば、それは要するに、ただ独りでいるのと同じことです。けれど他者と関わるとき、ぼくとその誰かさんとの交わりによって生まれた新たな自分というものは、その二人の存在によって保証されるものです。ある人は、だからこそその片割れが死んだ後でも、その一部が残った片割れの心の中に生き続ける、と言うのでしょうし、またある人は、だからこそ片割れが死んだとき、生き残った片割れの心もまた同時に死ぬのだ、と言うでしょう。どちらが正しく、どちらが間違っているということではありませんが、しかしぼくは、いつも後者の見方に囚われています。ぼくらは生きるためには人と関わらざるを得ませんが、同時に、だからこそぼくらは、生きようとすれば生きようとするほど、常に、絶え間なく、自分の中に死を内包し続けていかざるを得ません。

死は自分の外に独立してあるものではなく、ぼくらの内側に、ぼくらの一部として存在しています。にもかかわらず、それは完全な暗闇で、無で、そしてそれらでさえありません。だからこそ、それはぼくらが認識できる、認識そのものとしての「ぼくら」であることの基盤を根源的に揺るがします。そしてだからこそ、ぼくらはそれに形を与えようとする。どうにかして表現しようとする。それは言葉でも写真でも絵でも音楽でも、いやもっと漠然とした、生き方とか笑い方とか、そういったことを通して形を与えようとする。けれどもちろん、そもそも形を持たないものを形として表現しようとする以上、それは最初から矛盾しており、不可能な営みであることが約束されてしまっています。

誰かが死んだときに、それをそのまま悲しいと、ぼくは言えません。それは、悲しいという言葉によっては(あるいはそうでなくとも、要するに悲しみを直接的に表現することによっては)、ぼくが感じているもの、あるいは感じることができなくなってしまったものを表すことは決してできないとぼくが思っているからです。それはぼくにとってあまりに安易で、失われたものへの想いを放棄することにしか感じられません。念のため申し上げれば、他の人が悲しみを悲しいという言葉によって表すことに対しては、まったく違和感を感じません。むしろ、例えば相棒がストレートに悲しみを表現するのを見ると、それは人間として自然で、美しくさえあると感じます(これは別段、彼女を理想化しすぎているとかそういった話ではありません)。ですから、ぼくがここで書いていることは、あくまでぼくの個人的な感覚の問題であり、ぼくがとるべき態度の問題です。

結局のところ、ぼくは表現できないものの周りを、いつまでもぐるぐる、一向に近づくことなく回り続けることになります。しかし考えてみればそれは表現と言われるものすべてに共通することでしょう。絵を描くとき、もし目の前にあるものをそのまま表現したいのであれば、それは写真を撮れば良い。同時に、写真を撮ったところで、それは自分が見たもの、表現したいと思ったものをそのまま写し撮れるわけでもありません。ぼくらはある対象をそのままに表現したいと思ってるわけではないし、かつまた、そのままに表現できるわけでもありません。それはどのような表現にも共通して言えることですし、その断絶があるからこそ、あらゆる表現は唯一独自のものであり、表現は無数のバリエーションを生み出すことができます。けれども、その対象が死であるとき、ぼくらはさらに重ねて、もうひとつの断絶を抱え込まざるを得ません。すなわち、対象をそのまま表現できるわけではなく、表現したいわけでもなく、なおかつその対象自体が存在しないという断絶です。

ぼくらはぼくらである限りにおいて、自分自身を表現しなくてはなりません。表現するためには他者が必要ですし、また他者なくしては表現すべき自己も存在し得ません。けれど自己認識が生存を前提としたものである以上、他者はやがて必ず死者として現れることになり、それはぼくらの中に絶対的に表現し得ないものとしての死を導きます。ここでぼくらは初めに戻ることになります。ぼくらは、ぼくらである限りにおいて、自分自身を表現しなくてはなりません。しかしそのぼくらとは、決して表現し得ない他者の死を内包したものであって、要するに、生きるということは、つねにかつ必然的に、矛盾に耐え続けるということなのだとぼくは思っているのです。

ひさしぶりのお出かけ

「ごめん、待った~?」「ううん、いまきたところ」みたいなシチュエーションに、昔あこがれてた。いやそうでもないけど。ぼくの相棒は約束の時間に来るということがまずなくて、一方ぼくは遅刻するということがない。こう書くとよくある話っぽいが、ぼくらはこれに関して命を削るような闘争を二十年近くにわたり繰り広げてきた。だがいまだに彼女は遅れてくるし、ぼくは時間前に来て無駄に待つことをやめようとしない。ほとんど不死の神々の戦に近いのではないだろうか。と思いつつ、きょうはひさしぶりに二人で美術館に行ってきたのだが、相棒はめずらしく、というより奇跡的に約束の時間の十分前に到着した。だがまだまだ甘い。ぼくはさらにその四十分前には到着しており、暇だったので母方の墓地まで歩いていってお参りをしてしまった。デート前に墓参り! これは流行るね。「ごめん、待った~?」「ううん、いま拝んできたところ」

というわけで、きょうのお目当ては国立新美術館で展示中の「野村仁 変化する相 ― 時・場・身体」。地下鉄千代田線の乃木坂からすぐだけれど、まずはお昼ご飯。我が家の墓地がすぐ近くなので、せっかくなので幼稚園のころから墓参りの後に親戚一同で昼食を取るのが恒例だった中華料理店に彼女を連れて行った。ここには年取った鸚鵡がいて、ぼくが幼稚園のころすでに年取った感じだったけれど、きょうもちゃんとお出迎えしてくれた。ちょっと嬉しい。でもこの鸚鵡はなかなか喋ってくれなくて、ぼくが毎回一生懸命話しかけても、答えてくれたのはこの三十余年で恐らく三、四回しかない。けれどきょう、帰りがけに相棒が何やら話しかけたら、お返事をしてくれた。これは天運というかまあ、嫉ましかったです。ぎちぎちぎち(歯を噛み鳴らしている音)。だいぶおなか一杯になってしまったので、しばらく墓地を散歩。墓石の上の黒猫にガンを飛ばされた。再び国立新美術館に戻り、企画展へ。

結論から申し上げますと、ぼくはあまり感心しませんでした。その原因は大まかにふたつありまして、一つは暴力性を感じたということ。例えばぶった切られた木に化石化した木を継ぎ足した作品は、恐らく作者の意図とは正反対に、生命への冒涜、死体を弄ぶ不気味さ、「芸術」を自称するものの傲慢さをしか、ぼくは感じられませんでした。あるいは幾つかの色のLEDで照らされた植物たち。まるで生体実験の生々しい現場を見せられているようで不快です。漏れ出した水が痛々しい。それが狙いであれば、悪趣味であれ少なくとも製作意図に沿ったものであると言えるのでしょうが、しかし本人が書いたものではないにせよ「自然に寄り添い、宇宙のリズムに従う」とか「自然と科学技術との共生」などといったキャッチコピーを見るに(少なくとも作者自身が了承したはずですし、していないとすればそれは無責任です)、強い違和感だけが残ります。ソーラーカーのプロジェクトも、何故わざわざアメリカまで行って、トラックを随行させながら走らなければならないのか。それがどうして自然との共生につながるのか、ぼくにはまったく理解できません。

もう一つは、これは先のものと重なるかもしれませんが、物事の捉え方があまりに恣意的でしかも浅く、かつ押しつけがましく思えます。例えば月の運行や鳥の飛行の軌跡から音楽を作り、そこに万物を支配する調和とか何とかを見出すのですが、ちょっとこれはどうでしょう。どうしてその「音楽」が「五線譜」に表され、ある特定の「楽器」で演奏されるのか。五線譜や楽器、そして音楽という言葉の歴史や背景を無視して宇宙の摂理などに結びつけるのであれば、それは無神経も良いところです。星の運行が「音楽」になるその過程すべてにおいて存在するのは、ただひたすら、人間の恣意のみです。そしてもちろん、それはそれで良いんです。あるものに何を見出そうが、それはその人の自由です。それを芸術だと言うのも勝手でしょう。しかし「宇宙の摂理」とか何とか、そんなことを言い出した瞬間、その言説は暴力性を帯びたものにならざるを得ません。芸術家を名乗る者が、暴力を肯定するにせよ否定するにせよ、少なくとも無自覚であってはお話にならないとぼくは考えます。

いやまあ、この方の作品が好きだという方がいるのなら、それはそれで良いのです。別に批判したいわけではない。批判しなければならないほど力がある作品だとも感じませんでした。それにどちらかと言えば、ぼくの感じ方の方が異様で病的なのかもしれません。それもまたどうでも良いことです。彼のアプローチによって自然との共生とやらが可能になるのであれば、それはそれで良し。ぼくはぼくの感じ方に従って進むのみです。

それよりも深刻に感じられたのは、地下のミュージアムショップです。これは本当に最低だった。あそこの担当者だか責任者だかは、恥じるべきですね。卑しくも国立の美術館として、美術館が果たすべき機能を果たしていないどころか、むしろ穢しています。「売らんかな主義」の圧力の下ぎりぎりの努力だと言うのなら、そんなん、ぼくらの誰もがそういった中で、なおかつ自分の技術や知識に誇りを持って戦っているのだから、言い訳にもなりやしません。心の底から、あの売り場の荒廃した雰囲気にはぞっとしました。

そんなこんなで、国立新美術館でした。とりあえずしばらくは行くこともないでしょう。でも、展示室の中を巡る相棒は本当に格好良く美しかった。ぼくは美術館に行っても、基本、作品を見るより、作品を見る彼女を見ているのがいちばん好きなんです。いろいろな美術館に行ったけれど、記憶に残っているのはごく一部の作品と、あとはどこでも、作品を前にした彼女の立ち姿の美しいラインだけです。

ま、のろけではなくて深刻な話なんですけれども。

いかにして死者に語らしめるか

最近どうもお話が書けません。例えば論文を書いているときというのは自分の書きたいことのすべてを、というより書きたいという欲求のすべてを論文に叩きつけることになるので、お話を書けなくなるのはむしろ当然ではあるのです。けれど、それ以外のときにもなかなかお話が書けません。まあぼくにとってはこのブログ自体がひとつの物語ですし、どのみち、あらゆるものごとはある誰かさんを通して、そのひとの言葉で語られることによって、ただそのひとだけの物語として再構築されることになる。それは物語に対するすごく素朴な捉え方だけれど、ぼくはそんな風に思っています。でもやっぱり、論文は論文で、ブログはブログで、いまぼくが言っている「お話」とはちょっと違う。それはすべて、ぼくというフィルタを通して世界を映すことには変わりないのだけれど、でもやっぱり違うんですね。

で、この前、ある方々と物語を書くということについてお話をする機会があって、そのときにふと気づいたのですが、ここ数年、というより十数年でしょうか、ぼくは自分のことで悩んだり苦しんだりということがなくなってしまっているんです。

最初の大学に行っていたとき、ありふれた青春の悩みというやつなのか、とにかくいろいろなことが少しずつずれてしまいました。それは誰にでもある(傍から見れば)つまらない話で、でもまわりの連中は「誰だってそんなもんだよ」とか言いながら結局平気な顔をして卒業して就職していく。

そのころから、ぼくは結構、真剣にお話を書くようになりました。ぼくと世界との間にあるギャップを(ある意味において)客観的に測るためには、ぼくが見る世界の形を、他のひとに伝わるように記していかなければならないと感じたからです。いや他人がどうであれ知ったことではないのですが、けれど自分の立ち位置っていうのは、それが結局は主観に過ぎないとしても、できる限りこの世界の中で客観的に把握できるようにしないといけないとぼくは思っています。そのためには、表現しなければならない。別に書くだけではなく、どんな形式でも良いから、世界につながる形で表現しなければならない。生き残るためには、表現しなければならないんです。

けれども、あるとき以降、ぼくは自分のことで悩むということができなくなってしまって、これは人間としては進歩や退歩っていうよりある種の欠落だったのですが、とにかく悩まなくなってしまいました。いやもちろんいろいろ悩みますが、それは例えば、ぼくはブラックジーンズが好きなんですね。でも、何か買うブラックジーンすべて、もの凄い染料が臭いんですよ。臭くないですか? 履いていて気持ち悪くなってしまう。でもブラックジーンズが好きだから、毎回ジーンズを買いに行くたびに(イトーヨーカドーですけれどね!)延々悩む。履きたいけど、どうせこれも黒の染料が臭いに決まっている。でも履きたい。まあ悩みと言えばそんなものです。

いまぼくが悩んでいるのは…いや悩むっていうのは違うな、引っかかってしまっているのは、自分と世界の間のギャップではなく、他人(ひと、ですね)と世界との間にあるギャップ、それも、死者と世界との間にある根本的な断絶についてなのです。というと何やらひどく偉そうですが、けれど物語というものは、おそらくその根っこのところに、死者を語るということがあると思います。ぼくがアーヴィングやオブライエンの小説が好きなのは、彼らが死者の語りについて自覚的で、そこに書くという行為を自然に位置づけているからです。いやもちろん単にお話が面白いから、というのがいちばんの理由ですけれども。

たぶん、そういうことなんだろうなあ、とは思うのです。けれどもそのとき、当たり前なんですけれども、ぼくらは死者を語ることしかできない。例え死者が語るように語ったとしても、それは語ると言う時点で死者を生者に引き戻してしまっている。でも確かに他にどうしようもなくて、死者っていうのはそもそも語ることができない存在だから、それが語るのは、矛盾ではなく、単に生者に転移してしまうことになるんですね。もちろんそれはそれで良くて、なぜかと言えばそれを読むぼくらは生者だからです。けれども、それは分かっていても、いまの時点でぼくは、そこに囚われてしまっています。いかにして死者に語らしめるか。明らかに不可能ですね。

誰かが物語りを物語る、その理由のひとつは、ある断絶を埋めるためだとぼくは思います。けれどもし、その断絶が決して埋めることのできないものだとしたら、その時点で、物語は生起すると同時に消滅せざるを得ません。繰り返し生気しつつ消滅し、いつまでも足踏みを続けます。

とは言え、死者に語らしめることの不可能性をいかに乗り越えるかについては、論文としてはひとつの結論に達して(などと書くと、お前はいったい何について書いているんだと言われそうですが、極普通に、まっとうな共生倫理について書いているのです。本当だってば! 査読でもそう言われたもん!)、そろそろ、物語においても踏み出さないとなあ、と思っています。

というわけで、これからしばらく、一週間にひとつを目標に、1000文字程度の短いお話を書いていくことにします。もちろん内容はここで書いたこととは何の関係もないものになるでしょうけれど。以前、長いお話を書くためにしばらく短いお話はお休み、などと書いた気がかすかにするのですが、ハードボイルドです。今朝何を食べたかすら覚えていないのです。

ま、どこまで書けるか分かりませんが、目標は10週連続。こう宣言すれば退路を断つことになるでしょう。とか言って、絶った退路を平然と退却していくのがcloud_leafさんの良いところです。この方向性のまったく定まらないブログをお読みくださっている奇特な方々におかれましては、一切の希望を捨てた上でお待ちいただければ、幸い。

愛について、ほにゃらら

物質は光速を超えては移動できない、らしい。ぼくの物理に関する知識は等速直線運動止まりのままで、けれどいまさら物理の教科書を紐解くのも億劫なのであやふやな知識のまま話を進める。この話を聞くたびにぼくがいつも考えるのは、名づける、ということについてだ。例えば夜、空を見上げる。もし街の灯りもなく、晴れてさえいれば、そこには無数の星々が浮かんでいるだろう。ぼくらは、その星々に名前をつけることができるし、実際、そうしてきたのだ。そして、名づけた瞬間、その星はその名前を持つ。それは何百何千という光年すら超えて、瞬間的にぼくから星へと伝えられる、関係性の絶対的な変化だ。

もちろん、それは一方的な思い込みであって、名づけるという行為がその星に伝わるには、それこそ光速の限界があるのかもしれない。けれどもそれは物理学者たちのパラダイム内における言説でしかなく、詩人には詩人の、長距離走者には長距離走者の、そしてぼくにはぼくの世界があり、論理がある。物理は存在の原因となり得るかもしれないが、愛は存在の理由だ。そしてぼくは原因ではなく理由を愛する。

ぼくが名づけたその星が、いま、この瞬間にも存在しているかどうか、そんなことの保証はどこにもない。ただ、ぼくらはそれを信じることができる。そこに星があると信じ、それに名をつけることが、できる。

無論、それは極めて一方的な関係で、レヴィナス的に言えば迫害でさえあるだろう。その通り。ぼくが言っているのは愛の問題で、愛とは常に暴力的なものだ。言うまでもなく、暴力は決して愛ではない。しかしもし愛が理性によってコントロールできるのであれば、それもまた、決して愛ではないのだ。

地球の裏側に住む誰それさんが、いまこの瞬間存在することを信じ、それに名づけること。それはひどく倣岸で暴力的で、しかも孤独な営為だ。しかし恐らく愛とは、例え互いに向かい合っていたとしても本質的にはそれと同じことをしているに過ぎない。そして世界に、それぞれただ独りとしてしか存在しない無数のぼくらから放たれる無数の軌跡が、ある一瞬偶然交わり鋭く輝くとき、例えそれを見るものが誰もいないとしても、やはりそれは美しいとしか表現しようのない何かなのだ。

ふらりとやってきた野良猫はそこで一息つくと、「そういうわけで、きょうからきみは『モンプチくれるひと』ね!」と言った。ぼくは「断る」と答え、彼の口にカリカリをひとつ、放り込んでやったのさ。

Yes, I can fly!

ここ数年トレッキングシューズをずっと履いていて、もちろんお風呂に入ったり布団に潜ったりするときはちゃんと脱ぐんだけれど、とにかくトレッキングシューズが大好きだ。いちばん上までしっかり紐を結んだときの安定感がいい。それになにより、極度に用心深いぼくにとって、万一災害が起きたときのことを考えると、どのような状況下でも移動しやすい靴は絶対的に必要で、あとブドウ糖と懐中電灯とペットボトルと医薬品も必需品。これさえあればまあ数日はどうにかなるだろうと思っている。本当はロープとかバールとかも持ち歩きたいのだけれど、ただでさえ身分が怪しいので、職質にでもあったらどえらいことです。

で、そのトレッキングシューズなんだけれど、先日雨の中をカメラを抱えて散歩していたらすっかり濡れてしまった。ついでにカメラも濡れてしまって、ファインダーの中に水滴が! ああ水滴が、水滴が! と風流にも川柳を詠んでしまうほど動揺した。それはともかくトレッキングシューズで、ぐっちょんぐっちょんの汚れ放題になってしまったので洗うことにしました。

けれどもこれ、ゴアテックスのそれなりのやつなのですが、どうもこれは丸洗いしてはいけないらしい。しかし水洗いするのだ。いやしないのだけれど、例えばあれです、たまたま水道水みたいな水が流れている川に落ちてしまって、しかもたまたまそこに洗剤の箱が沈んでいてそれを踏み抜いてしまう、などということは、まあ山に登っていればしばしばあることです。あるのです!

というわけで、そんな感じのシチュエーションにいま俺は置かれているのだ! と強烈な自己暗示をかけつつ、何しろ自己暗示にかけては天才的ですから、洗っているんじゃないよ、川の水は冷たいなあ、などと思いつつ丸洗いしました。そうして天日に干すのは駄目、とかいううろ覚えの知識に従い、玄関の内側に放置。それが確か三日前くらいで、どうもいまだに乾きません。えへへ。キノコさんこんにちは! 悲しみよこんにちは! コンニチハコンニチハ!

とかわいい子のふりをしつつ、履いていく靴がない。仕方がないので、埃を被っていたウォーキングシューズを出してきて、埃を払い、ここ数日はそれで歩き回っているのです。すると何しろ、これが軽い! 数年間トレッキングシューズで歩き回っていた感覚のままだと、歩くつもりが走り出し、走るつもりが空を飛ぶ勢いです。大統領にならって”Yes, I can fly!”です。そんな大統領は嫌だ。

そう言えば、昔まだがんばって「社会性」とやらを堅持しようとしていたころ、ぼくもちゃんと床屋さんに行って髪を切ってもらっていたのです。そうして、髪を切ったあとの頭の軽さたるや! 自分の脳みそがいかに軽く、頭と思っていたものの大半が髪でしかなかったことに気づくときの絶望感がぼくは好きでした。そんな感じで、いま足が軽いです。

GWですか? ぼくは何も予定がありません。庭のカエルくんを撮るくらいですね。あと帽子を買ったんですけど、相棒に「変質者みたいだからやめた方がいいよ」と言われました。

そんな感じです。ぼくは元気です。Yes, I can fly!

ある日見た光景

あれは一昨日だったか、珍しく定時に会社をあがり、普段とは少しだけ違う道を歩いて帰ることにしました。朝の電車はたいてい本を読んでいるし、会社につけば一日モニタを睨んでいるだけだし、けれども仕事が終わって遠くの駅まで散歩をするときは、一日の中で初めてゆっくりと周りを見回す余裕ができます。すると風景が途轍もなく鮮やかに見えたのです。だいぶ日も長くなり、ちょうど夕暮れ時で、空は赤みがかった金色に燃え立ち、雲やビルがその光を反射して、世界は恐ろしいまでに、その1ドット1ドットすべてが鋭く立ち上がっていました。

ぼくはいつも、いまこの瞬間に死んでも後悔しないようにと思って生きています。大げさに言っているのではないし、格好をつけているのでもありません。ただ単に、無為に生きることに対する恐怖感が強すぎるだけで、それはむしろ、格好悪いことでさえあるかもしれません。けれども、とにかくこの一瞬一瞬を全力で生きていたいし、感じていたい。だから、いま死んでも恐れずにそれを受け入れる、というより、いま死ぬとしてもその瞬間まで生き続けている自分を感じていたいのです。目に映るすべての光景は、ぼくがぼくとして見るこの世界の最後の光景です。

けれども、頭でそう思っていても、やはり身体はまた別の論理(でさえないかもしれないもの)で動いていて、だからすべての瞬間においてその光景が美しくかけがえのないものとして見えているわけではありません。残念だけれど。でもその日は、本当にすべての光景が最後の瞬間に目にするもののように、美しくぼくの目には映ったのです。美しいというのは、何て言うのかな、単にきれいだ、ということではなく、その一瞬にしか存在しないもののみが持ち得る絶対的な永遠性みたいな、自分でも何を言っているのか分からないけれど、でもみなさんにそれが伝わるであろうことは結構確信しているのです。

そうして一時間くらい歩いて電車に乗って、地元について、その頃にはもう真暗になっていたのですが、街灯に照らされた街路樹の枝々に、まだ先ほどまでの異様な感覚の残滓が残っていました。

別に薬をやっていたわけではありません。ぼくは薬でハイになるとか感覚が鋭敏になるとか、そういった考え方自体が大嫌いです。薬を飲んで世界を見ると云々みたいなことを言う自称芸術家とかっていますけど、てんで可笑しい。普段の自分の目に映る世界が真の世界で、そこに美を見出せないなら、それはきみ、才能がないんだよ、とぼくは思う。特別なことをしていないのに特別になってしまうのが天才の悲劇であって、ひとと違うことをしたいというだけでするのであれば、それは単に肥大化した自己愛の醜い自慰行為に過ぎない。

父が最後のころ、入院していた病室からは海を見ることができました。いま思えば船乗りだった父にとって、それは本当に良かったなあと思うのだけれど、ともかくそこから変な形をした建物が見えていたのです。父を支えて窓際まで行って、あれは何だろうねえ、などと話したのですが、ぼくはあれは江戸東京博物館だろうと主張しました。父はそんなはずはないと言ったのですが、でも江戸博っぽい。みなさんは呆れるかもしれませんが、ぼくは何しろ地理感覚がなくて、自分が自分の足で歩き回ったその範囲のことしか分からない。いまだに神奈川県がどんな形をしているのか知らないし、興味もありません。町田が東京か神奈川かも良く分からない。ああいま、ぼくは全町田市民を敵に回したかもしれない。

ともかく、その建物は東京ビックサイトというものだったのです。ずっと後になって、たまたま地図を見ていて知りました。でも、何となく形が似ていませんか?

そうしてもうひとつ思い出すのは、やはり同じとき、壁に幻覚が見えてきていた父が、ほらあそこに××が、と言って指を指して不安がるので、彼が指を指すその壁際に立って腕を振り回し飛び跳ねて、ほらぼくしか居ないだろう、何が見えたってそれは嘘さ、と父に繰り返し繰り返し言い聞かせたことです。もちろんそんなことで幻覚が消えるものではないことくらい知ってはいますが、しかしその幻覚の世界にぼくが登場することで、少しでも日常的な光景を割り込ませることができればと思っていました。

いまでも、そのときの事々を思い出すと、名づけ様のない感情に気が狂いそうになります。仕事柄使い慣れた双眼鏡すら動かせなくなった父に、ピントを合わせたそれを手渡し、けれどやはりうまく使えない彼とああだこうだと言い合ったこと、あるいはその他すべての、恐らく一生誰にも語ることのないであろう事々。

言うのも恥ずかしい当たり前のことですが、人間は常に独りでいるものです。愛という奇跡は確かにそれを乗り越えるだろうけれど、それはあくまで奇跡であって、ぼくらはまずそれを手にすることはない。独りであることをことさら声高に叫ぶマッチョも、逃避としての甘っちょろい愛を語る嘘つきも、ぼくは好きではない。事実は、単に事実としてそこにあるだけです。

それでも、窓から見えたあの光景が、せめてある一瞬においてだけであっても、彼にとって美しいものであれば良かったと、ぼくは願わずにはいられません。

あらゆる一瞬は、それが始まりから終わりに至るまでのすべての時間においてただその一瞬のみに存在するが故に、永遠性を内包しています。きょう、ぼくの目に映る光景はいつもどおりの日常です。蟻が這い、マンホールが鈍く光り、葉の上では蛾の幼虫が食事をし、緑の落ち葉が見えない風の動きを教えてくれます。それでも、その光景の向こうにある永遠をぼくは知っています。神も救いも存在しないこの世界で、それでも永遠を見る目を持ったぼくらもまた同様に不壊であることを、ぼくは、ある日見た光景にかつて存在した、死んでいったすべての人たちに語りかけるのです。

良い論文を書こう

きょうは一日論文を書いていました。締め切りは三月一杯なのですが、その前に教授に目を通していただくことになっているので、そろそろ仕上げなければなりません。しかし論文の引用数などが少々弱いですし、まあ今回は査読で落とされるだろうと思っています。とは言えここで一本まとめておくのは他の投稿予定の論文にも役立ちますし、六月にある学会発表の準備にもなりますので、最後までしっかり書くつもりです。

とか言っておいてあれなのですが、来週末に京都へ行くのです。先だって鹿児島へ行ったばかりですが、普段は仕事やゼミがない限り家に引きこもっているので、まあこんな月があっても良いでしょう。っていうかですね、遊びに行くのではないのです! 学会があるのでそれに参加するのです。参加するっていっても自分の発表は何もないので、まあ適当に見るものを見て、あとは観光するつもりですが。わあやっぱり遊びに行くのか!

でも一日論文を書いていて、ちょっと飽きたなあとぼんやりするときなど、ふと昔のことを思い出したりするのです。きょうはたまたま細野さんのメディスン・コンピレーションを聴きながら書いていたので、人形劇をやっていたころのある日の夕方のことを思い出しました。

その日は特に公演が近いわけでもなく、いつも通りのメンバーで、ぼくらはだらだらと部室でくつろいでいました。そもそもぼくはほとんど講義というものに出なかったので、芝生でのんびりするか部室で遊んでいるか、で、相棒が(彼女は何だかんだ言ってぼくとは正反対に真面目な人なので)講義から帰ってくるのを待っていたりするのです。

彼女が部室に帰ってきて、何だかニコニコしながら紙コップを持って近づいてくる。どうしたのかな、なんてのんびり思っていたらアウトでして、「戻ってくるときに見つけたの」とか言って中を見せてくれると、ぼくの嫌いなひーさんとかがとぐろを巻いていたりする。本当に怖い目にあうと、自分のあげた悲鳴がまるで知らない誰かさんが叫んでいるように聴こえるのが不思議です。

まあそんなことをしながらぼくらは過ごしていたのですが、その日はなぜか部室にあったダンボールを漁ろう、ということになりました。意外に歴史のある部でしたので、入り浸っているぼくらでさえ知らないようなモノのつまった箱がけっこうあったのです。そうしてごそごそと荷物をひっぱりだしたりしていたら、大きなスピーカーが出てきました。

もちろんぼくらは劇をやっているわけですから、すでに巨大なスピーカーやアンプはあるのです。でももうワンセットあるとは思っていなかったので、ちょっとびっくり。何しろ暇なぼくらですので、早速みんなで線をつないで、いままで使っていたスピーカーと合わせて四つ、部屋の四隅において音楽をかけることにしました。

良く知りませんが、何かサラウンドとか5.1chとか7.1chとか言いますよね、でも貧乏だったぼくらにはそんなもの別世界の話です。でもぼくらにだって、おお見よ! 巨大スピーカーが四つもある!

そうしてかけたのが、細野晴臣のメディスン・コンピレーションでした。最初のイントロ、深く澄んだ音が部屋に溢れたときの衝撃ははっきり覚えています。感動すると、ぼくは思わず笑ってしまう人間でして、思わず「えっへっへ」と鬼太郎のエンディングテーマみたいに笑ってしまいました。

あのとき、あの部室に居た人たちと、もうぼくは相棒以外には何のつながりもないし、今後もつながりを持つことはないけれど、でもやっぱり、それはぼくの中に一生残る光景です。そしてたぶん、それだけで十分だったのだと思います。

けれども、人生はどこでどうつながるかは分りません。先日、うちの研究室から事務方や発表者としてだいぶ参加した学会がありました。ぼくは仕事がつまっていたので参加しなかったのですが、あとでそのときの発表者一覧を見て驚きました。人形劇で一緒だった子が、いま他大の院に所属して、その大会で発表していたのです。年齢もたしかぼくと同じだったはずだから、この年齢で互いに博士課程に在籍しているというのも、なかなかに面白い共時性です。

もしぼくが参加していて彼と会っても、恐らく互いに「お久しぶり」とか「やあ」とかもごもご言って、それで終りだったとは思います。けれども、その想像は、ちょっとだけ楽しいのです。いつかその学会で彼に会い、「やあ」と言っている自分を想像すると、なぜか、ぼくは少し笑ってしまいます。

良い論文を、書かなくてはね。