きみに語る言葉がすべて音楽になるように

こんにちは。あるいははじめまして。けれどもきっと本当は、いつだって「はじめまして」なんだろうなあ、などとも思います。
まだ、しばらくはブログを再開できないかもしれませんが、何かを書いてもよい場所があるというのは、それ自体ですばらしいことです。だからまずは、場所だけを準備してみました。
だけれども、何もないとやはり寂しいものです。ですので、先日とある場所で発表したときの原稿の一部をのせてみることにしましょう。何を言っているのかよく分らないと、各地で絶不評(そんな言葉はない)だったものです。

誕生と死は、我々の生の始まりと終わりにある、この私が決して到達できない極点として在るだけではない。他者から呼びかけられることにより、他者を根源に抱えるが故に語り得ない自分を語りなおすたびに、私は誕生する。そして死にゆく他者に寄り添い、超えられない境界により別たれつつも無媒介に接触している他者に手を差し伸べるとき、私はその都度死ぬ。
そのとき、我々は、他ならぬその他者が、この「私」の存在に欠かせないものであったということに、この「私」と他者という主体の前に、そしてその後に、つねに共‐出現するものとして、脱自の場における有限性として分割=分有されるものがあったということに、気づくのである。
可傷性を通して他者に開かれているというのは、自己を自己として完全に理解できるという幻想から手を離すことによる途轍もない恐怖をともなう。死にゆく他者に寄り添うということは、耐えがたい死の苦しみをともに引き受け、その他者を送り、残されなければならないことによる耐えがたい悲しみをともなう。
私は存在論的に他者とともに在る。ともに在るものとしてのみ、私と他者は存在する。私は、私として既に共同体である。すなわち、他者に対する責任=倫理は、外在的な規範として我々に与えられるのではない。それは私自身の真の名前として、この「私」に先行して私の根源に刻まれ、あるいはこの「私」の外側で分割=分有されている。それ故、カントの言葉を借りていうのであれば、「恐怖と悲しみは、私と共=出現する他者に対する直接的な感情なのである」。
それが我々の、他者に対する責任=倫理の出発点となるであろう。

とにもかくにも、気負わず倦まず、ここからまたいろいろなことを書いていこうと思います。願うのは、きみに語りかける言葉を失わないこと。時折覗いてみていただければ、幸いです。

謝辞

この連休中に、論文を一本書こうと思っています。特に出かける予定も遊ぶ予定もないのですが、それでも、一つだけでも自分の考えていることをまとめられるのであれば、それはきっと良い休日だったと言えるでしょう。考えてみれば、昨年は博論に追われ、五月の連休もお盆もひたすら読むか書くかで過ごしていました。今年もいろいろな締め切りが迫っているのですが、この連休くらいは自分のペースで論文を書く余裕があります。

昔、人形劇をやっていたころ、何しろ少人数の部活でしたから、ぼくらはそれぞれ、仕事を兼任しなければなりませんでした。ぼくの場合は、たとえば脚本と役者と大道具小道具など。思えば、いまぼくは女性がひどく苦手でして、相棒以外の女性に近づくなど考えただけで胃が痛くなるのですが、当時は狭いけこみの中で、ほとんど女の子ばかりの部員に混じって人形を操ったりしていたのです。不思議です。もしかしたら、あのころのぼくはつねに幽体離脱状態で生きていたのかもしれません。

それはともかく、大道具を作るとき、自分の癖なのでしょうか、結局ごみになってしまう多くの試作品を無駄に作ってばかりいました。不器用だったということもないので、そういったスタイルでないとものを作れないということなのかもしれませんね。十の無駄から一の完成品。良いことではないのですが、どうしてもそうなってしまう。

それはいまも変わらないんですね。文章を書くとき、大量の下書きのなかで、残るのはせいぜいほんの少しの断片だけです。けれども、その断片だけをいきなり手にすることはできません。どうしても、無数の書き損じがなければならない。論文の最終稿にはまったく残らない多くの思いつき。けれども、最後には消えてしまうそれらすべてが、残ったひと欠けらに、確かにその痕跡を残しています。

当たり前のことですね。論文もそうですし、写真だってそうです。そもそも、ぼくらの人生そのものがそうではないでしょうか。忘れてしまった多くのものごと、いなくなってしまった多くの人びと。けれども、それらすべてが、いまこの瞬間ここに在るぼくというものを形づくっています。思い出せないすべての出来事が、確かに、このぼくという存在そのものに、直接その存在を記録している。

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論文には書けないような、ただの空想。例えば、こんなことを考えます。

ぼくらは、可傷性を通して他者に開かれています。この私がいまだ私でないとき、その私ならざる私に対して、お前は誰だときみが呼びかけます。呼びかけられることにより、この私はそれに応答を強要されるものとして、在ることを強制され、答えるものとして私になります。したがって呼びかけは暴力、根源的かつ最大の暴力です。けれどその暴力がなければ、それを暴力と呼ぶ私は存在し得なかった。そしてその暴力に対して互いに剥き出しに曝されているからこそ、ぼくらは真に(どうしようもなく)つながっているのだし、互いに責任を持つことができる。だから、この原初の呼びかけが、ぼくら人間にとって、倫理の根源にあるし、それは単に外在的な規範ではなく、ぼくらの存在そのものでもある(例えばバトラー)。

けれども、神は違います。出エジプト記でモーセが神に名を問うたとき(すなわちお前は誰だと呼びかけたとき)、神は答えます。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(新共同訳 出エジプト記3:14)。これは様々な解釈が可能な箇所ですが、思うに、神はここで、自分が人間のように呼びかけられることによって存在を始める、存在が規定されるようなものではないことを明らかにしているのではないでしょうか。あらゆる関係性から切り離されている神は、何ものに対しても責任を負う義務を持ちません。むしろ神に呼びかけられ、侵害される我々人間こそが、神に対して一方的に責任を持たなければならないのです(例えばレヴィナス)。

けれども、神を信じるという能力の欠如したぼくからすれば、こんなことはまったくのたわ言です。思えば昔からぼくは倣岸不遜な人間でした。いつでもつねに、いつかぼくが死に、存在しない神の前に立つときのことを考えていました。そのとき神はぼくに訊ねるでしょう、「お前は誰か」と。ぼくらは、ただ独りで存在しない神の前に立ち、この世界のすべての歴史を引きうけ、答えなければなりません。ぼくの答えは決まっています。「俺は俺だ、這いつくばって死ね」。最後の瞬間、存在しない神に対してそう言い放つ。なぜ神がそう問いかけてくるのか、そしてなぜ自分がそう答えなければならないのか、ずっと分らないでいました(その理由を考えることもなかったというほうが正しいでしょう)。けれど、この数年間何か分らないものに突き動かされるまま考え続け、いまようやく、その理由が少し分ったように感じています。神というものは、それ自体で、ぼくの信じる責任と倫理に敵対しているのです。

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60mm、F4.0、1/30秒、ISO100、WB:オート、クリエイティブスタイル:AdobeRGB(一部モザイク)

大学へ行ったら、写真部が展示をしていました。新歓の案内もあります。ぼくらの研究室がある建物の一階に展示ができる小さなスペースがあり、写真部の人びとが時折そこで展示をしています。ぼくのようなイレギュラーな学生にとって、サークルとか部活とか、そういったものはもうまったく関心の対象にはなりません。もちろん、向こうだってぼくのような年嵩が入ったら扱いに困るでしょう。

けれども、そんなことではなく、ぼくはもう何かの集まりに入ることはないだろうと思っています。昔、ぼくは犬を飼っていました。ずっと昔です。昔、ぼくは人形劇のサークルに入っていました。これも、信じられないくらいずっと昔のお話です。もう、それで十分過ぎるほど十分な記憶を、ぼくは得ました。楽しいことを抱えきれないほど経験しました。「楽しいヨ!」と書かれた看板に見えるのは、ただ、過去の時間です。

だけれども、暗い話ではないのです。決して暗い話ではない。ぼくらはつねに何かに対して開かれています。すべてに対して、開かれています。あらゆるものがぼくに、そしてきみに呼びかけてきます。ぼくはその看板にカメラを向け、一枚だけ、写真を撮ります。きっと、伝わらないかもしれません。あるいは、伝わるかもしれません。けれどこの一枚の写真から、ぼくには、ぼくがいままで関わり、いまはもういないすべての存在と過ごしたときの声が、微かに聴こえてくるように思うのです。

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きょう、あちこちに配るために改めて製本した博論が届きました。謝辞に、このブログを通して知り合った人びとへの感謝を記しています。ネットはぼくにとって、他者への開かれのひとつの希望であり、ぼくらの頑迷な人間観を打ち壊す確かな可能性です。周りにはお気楽な主張だと言われ続けていますが、それで結構。もしもぼくがお気楽に生きているというのであれば、それはぼくにとって誇るべきことです。

個人名がたくさん出ているので、写真に撮って載せる訳にいかないのが残念ですが、せめて謝辞の一部を、これを読んでくれているきみに。多くのものごとをここでも切り捨ててきたけれど、それでもそのすべては、論文のなかの一つ一つの言葉に、見えないけれどはっきり見える足跡を刻んでいます。

他大に所属していた頃から数え、計十年近くに及んだ仕事と研究の両立は、時に大きな労苦を伴うものでした。そのようなとき、ネットの向こうから常に私を「書くこと」へと繋ぎとめ続けてくれた幾人もの仲間にも、心から感謝します。ネットは決して空虚なものではないという信念を、名前も知らないきみたちが証してくれた。

本当に、ありがとう。

曝されることへの不安

最近、軽いことを書いていませんね。cloud_leafさんといえば、そのあまりの軽さ故に三年以上つき合ってくれる友人が絶無であるというほどなのです。でも性格は暗い。これはいちばん困りものです。それはさておき、何だかまじめなエントリーばかり続いてしまったので、きょうはちょっと明るいお話を書こうと思います。

ブログにも書きましたが、先日、相棒とふたりでNYに行ってきました。ぼくは(ぼくを知っているほとんどの人が信じてくれないのですが)昔イギリスに住んでいました。帰国子女。でも帰国子女って変な言葉ですね。どうして子女なのかな。帰国人間。でももっと言えば、ぼくは国という考え方が大嫌いなのです。いまはまだいいですね。「国という考え方が大嫌い」とか言っても、まだ何とか生活していける。いつまでそんな状況が続くのか分りませんし、ここで続くと言われる対象とはまさに国によって担保された「国民」の意識そのものなのですから、どうしたって自己矛盾を孕み続けるのでしょうけれど。

ともかく帰国子女なのです。でも本当に英語ができない。というと社交辞令というか遠慮というかへりくだりというか、そんなふうに捉えられてしまうけれど、本当にできない。どのくらいできないかといえば、NYで友人が住んでいるアパートメントに行ったときのことです。なかなかに立派なアパートメントで、フロントにちゃんと担当の人がいる。いま、このフロントにいる人のことを何と呼ぶのかを考えたのですが、だんだん分らなくなってきました。そもそもホテルとかで入ったすぐのところにあるあれ、フロントって言いましたっけ? 最近どうも言葉がよく分からなくなってきました。でも元気に生きています。

で、そのフロント(?)で、「お前は誰だ、何の用だ」みたいなことを言われる。何を言っているのか分らないが、ともかくそんなオーラを感じる。オーラで話す英会話。こっちも必死にオーラを返すわけです。この時点でもう会話ではない。でも、何かが伝わる。伝わって戻ってきた返事(オーラ返事) が「お前は新居を探しているのか、その隣にいる女性は妻なのか」でした。隣に相棒がいたんですね。凄い! オーラ英会話、何も伝わっていない! まあでも、こいつダメだみたいな目つきの相棒がぼくに代わってその人と話をして、そこに住んでいる友人に会いにきた旨を伝えてくれました。最初から俺にオーラ出させないでよ、と泣きながら思ったのですが、まあその冷たい目つきにゾクゾクできたので良しとしましょう。

そのくらいに英語ができませんので、今回のNY行き、最初は本当に憂鬱でした。ものすごく憂鬱。まじめな話、ストレスのあまりポルトガル人の霊に憑かれてポルトガル語が話せるようになったくらいです。どうせなら英語を!

けれどもこれ、よくよく考えてみると(こういうことをじとじと考えるから、一見軽いのに実は暗くてcloud_leafくん気持ち悪いと言われる所以ですね)、ただ単に言葉が通じないところに行くのがいや、というだけの話でもない。何というのかな、ぼくは、普段このブログをお読みくださっている方はご存知だと思うのですが、言葉というものに対する執着がとても強い人間です。昔、とても弱くて(いまでもそうですが)自分を守ることができなかったころ、そしてかつ死に対する恐怖が異常に強かったころ、ぼくは自分自身を守る術として、言葉しか持ちませんでした。と言っても、それは交渉や脅迫、あるいは阿諛追従によって自分を守るということではありません。物語を作ることを意味していました。物語を作るというのは、幻想の世界に逃げ込む、ということとは異なります。この世界を眺める、もうひとつ別の視点をかたちづくるということ、すなわちもうひとつ別の世界を作るということです。ぼくはまだまともに言葉を扱えないころから、必死にその技術を磨いてきました。生き残るために。おお危ない! 暗い話になりかけてきました。

でまあ、それはいまでも変わりないんですね。いまではぼくは自分自身の死を恐れることはなくなりました(無論、死にたい、ということではまったくありません。むしろその逆です)。でも、物語を通して世界をかたちづくるということはずっと変わらない。このブログもそうです。昔相棒が書いていましたが、cloud_leafさんって本当にいるんでしょうか。相棒って本当にいるんでしょうか。いるかもしれないし、いないかもしれません。「真実」なんてどうでもいいんです。そんなもの、どのみちないのですから。同時に、物語を物語ることによりその場で、一回限りの真実は生まれるし、そしてそれだけでいいのです。

もちろん、その物語とは、ぼくがどのようにこの世界を語るか、そういった自己中心的なもの(だけ)ではあり得ない。言葉というものが「語る」ことによってしか成立し得ない以上、そこには必ず語られるきみとの共同作業があるし、その共同作業こそ/のみが言葉だとも言える。同時にしかし、それはぼくときみの間で同一の言葉が語られるということではない。必ず、そこには差異や断絶が生じる。だからこそ「伝える」ということが可能になるのだし、そこに意味が生まれる。同一であれば、そもそも伝えることなんて不可能です。伝える前から伝わってしまっているのだから。

そういった意味で、海外に行くということは、ぼくにとって物語を物語ることにより自分の世界をきみに伝えるということが不可能になるということでもあるのです。すなわちそれは、ぼくがぼくとして在ることを極限まで危険に曝すということです。ぼくは物語る世界なしに、生の自分を相手に曝け出さなければならない。それは自分の魂を賭け金にした冒険です。それは途轍もなく恐ろしいことです。ポルトガル人に憑かれるレベルです。ボア ノイチ! エストウ マーウ チャウ、チャウ!

でもね、それで良いんです。だってオーラで語る英会話があるから。いや違う違う! ぼくらは、先に書いたとおり、同じ言葉を共有していると思っている相手とでさえ、実は同じ言葉など決して共有していないからです。「言葉の通じない」海外へ行くことはその極端なかたちではあるけれど、ぼくらは日常的に、それをやっている。そしてそれは、自分自身との会話においてさえそうなのです。そうじゃないでしょうか? だからこそ、ぼくらは自分自身にさえ問いかける意味を持ち得る。ぼくはそう思います。

友人のアトリエで、一人の少女と出会いました。友人も相棒も素知らぬ顔でぼくを放置です。でも泣かない。オーラです。彼女はぼくに、「facebookはやっているか?」と訊いてきます。なかなか友だち作りに積極的じゃない、さすがアメリカンじゃない。ポルトガル人であるぼくはそう思います。「OK、きみにぼくのfacebookアカウントを教えよう」ぼくはクールに答えます。すると友人と相棒が、冷静な(というより無表情な)顔でぼくに言いました。「彼女はきみに、『タバコを吸っても良いか』と訊いているんだよ」。

OK、表へ出ろ。ぼくは自分にそう呟きました。無論オーラで。

その後、何がどうなったのか、ピザの入った平箱を片手で肩の上に掲げ、人っ子一人いない街中を相棒とふたりで歩いたのも良い思い出です。何をしに行ったのかよく分かりませんが、いろいろ学ぶことがありました、アメリカ。もうしばらくは行きたくありません。

いまはもういないきみに、存在しない神の祝福を

ほんの数日前、仕事から疲れ切って帰宅して布団に潜りこんでいるとき、ふいに、とてもひさしぶりに心が穏やかであることに気づいた。客観的にいえば、落ち着いているような状況ではない。いろいろな物事はむしろ悪化しているといってもよいくらい。にもかかわらず、やはりぼくの心はとても穏やかだった。

ブログには書いていなかったけれど、博士号を取得した。Ph.D.(agriculture)。 Ph.D.の扱いに関してはいろいろな指摘もあるけれど、教授陣のひとりが「Doctor of AgricutureではなくPh.D.であることに誇りを持て」と言っていたことが印象に残っている。どちらが上という話ではない。農学研究科にある思想系の研究室を出たのだという自覚を持て、という叱咤だろう。博論は、政治的な配慮で書いた部分もあるけれど、それも含めて、自分の戦いの痕跡だ。既にいま読み返しても拙いところばかりだが、恥じることだけはないだろう。

幾つかの幸運がかさなり、今年度から都内のとある女子大で非常勤講師をすることになった。無論、キャリアとしては非常勤講師に先はない。けれど、もとより先があると思ってこの道に進んだわけでもない。途轍もない時間とお金を、回収しようと思って研究などできるはずがない。それは何かの甘ったれた美学などということではなく、たんに、やらざるを得なかったから、やるより他にどうしようもなかったから、というだけに過ぎない。そしてそういった衝動のない研究など、そもそも在り得るはずがない。

この一年は在籍していた研究室に顔を出しつつ、相変わらず仕事と研究を並行させていくことになる。素朴に考えて、これは良いことではない。標準的な人間が自分の能力を仕事と研究に割り振れば0.5ずつにしかならない。自己満足でやっているつもりはないから、少なくとも残りの0.5をどこからか引っ張りださなければならず、要するにそれは、自分の身を削るということ。しかし考えてみれば、それは誰もがやっていることだ。結局のところ、自分の体力がある限り、進むしかない。

修士の最終口頭試問の当日に父が亡くなり、留年してもかまわなかったけれど、葬儀社の手配までしたところで大学に走り、ぎりぎりで試験を受けて号を取得した。博士の受験も、たまたま友引を挟んだため通夜の日に当たり、試験を受けに行くことができた。友引でなければ、告別式当日と受験が重なり、博士に進むこともしばらくは諦めていたと思う。

別に、号の取得などどうでも良い。急がなければならない理由もない。研究とは、そんな枠組に縛られるものではない。現実的にはそうでない部分が大きいとしても、現実を語る人間がこの年で大学を一からやり直すはずもない。ただ、できれば父に、自分の研究の一端でも伝える時間が残されていたらとは思う。それはいまでもそう思っている。

ぼくは、他人の死を消費するような下種を嫌悪する。あらゆる存在は、きみの娯楽のために存在しているのではない。きみの自己満足、自己愛の喉元を擽るために在るのではない。だからそういったつもりで書くのではないということを本当に信じてもらいたいのだけれど、この数年のあいだに触れてきた幾人かの死を通して、おかしくなりそうな怒りと苦痛で、実際しばらくはおかしかったと思うのだけれど(博士の二年目半ばまでくらい、実際、ぼくは連続して安定した記憶がない)、それでも、つねに自分の魂が求める何ものかがぼくを引きずって前に進ませてくれた。頼んでもいないのに。けれどそういうもので、そういうものがないのであれば、ぼくはそれは研究ではないと思う。

笑ってしまうくらい、将来なんてものは見えない。けれど、この「ぼく」という人格を超えたところで、それはぼくの魂が選んだものだ。だから、引き受けるしかない。

ぼくが考えるのは、既にいなくなってしまった人びとのこと。苦痛と恐怖のなかでのた打ち回り、救いのないまま死んでいった無数の人びとの声に、決して聴こえないとわかったうえでなお耳を澄ませること。存在しない神の前にいつか立つとき、存在しない神に唾を吐きかけ死ねと言うこと。

いつでもそうだったけれど、いまも、ぼくはとても楽しい。

The sky in NY


SONY α700(DSLR-A700) + シグマ 30mm F1.4 EX DC, F1.4, 1/15秒, ISO200, WB:オート, CS:AdobeRGB

7年ぶりのアメリカ。以前に訪れたミネソタとは異なり、街全体が良くも悪くも尖っていた。いろいろなものを見たけれど、すべてが抽象的に渦を巻くひとつの印象に塗りこめられ、いまはそのひとつひとつを取りだすことはできない。それでも、幾つか記憶に残っているものを書いてみよう。肥満で膝を痛め杖をつく人びと。地下鉄のホームでギターを弾きつつ歌っていた少女。若いアーティストが集う街区のカフェテリアでは、男の店員が壜のキャップを手で空け、得意そうに笑っていた。おとなしすぎる犬たち。事故を起こしかけた歩行者と車の運転者が喧嘩をし、大通りの向こうからも人が野次を飛ばし見物する。巨大な鉄の塊でバリケードが組まれたウォールストリート近くの街路。タクシーの運転手はつねに、ヘッドセット越しに歌うように何かを連絡していた。Bellevue Hospital Center。アパートメント屋上のペントハウスから眺めたNYの夜景。ニイハオ、と挨拶をしてきたブロードウェイの呼び込み。
JFKに向かう地下鉄を乗換駅で降りたとき、若い黒人の車掌が身を乗りだし、ぼくにずっと手を振ってくれていた。ぼくも、手を振りかえした。

きみの弱さが罪だったのなら/ぼくの強さは醜さだろう

とあるピアノコンサートに行ってきた。といっても目的は音楽を聴くことではなく、そこである人に会うことだった。コンサートそのものは盛況で、早めに行ったぼくは隅の方に座ったけれど、ほどなく周囲もすべて人で埋まった。ブザーが鳴り、座席側の照明が落とされる。ざわめきが静まる。演奏が始まる。

するとすぐに、ぼくの心はここではないどこかへ漂い始めてしまう。無論、周囲への警戒はつねに怠らないけれど、それはほとんどサブルーチン化されている。おかしな素振をしている人間はいないか、天井に吊られた照明器具は手入れがされていそうかどうか、最短の避難ルートをどうとるか。そういったものごとを半分無意識に判断しつつ、けれど頭の中では、すでに勝手な会話が始まっている。いわゆる独り言とは少し違う。独り言はぼくも言うが、あれはまさに、独りで喋っているだけでしかない。

会話の相手は、ぼくが知らない/知っている/知っていたあらゆる人びとだ。もうこの世界には居ないひともいるし、いつも会っているひともいる。著書を通してしか知らないひとであり、あるいはぼく自身でもある。会話の内容は、研究に関すること。要するに、ぼくが世界をどう見ているかということ。ぼくにとっての研究とはつねに、ぼくが世界をどう見るか、その物語を語り続けるということでもある。

そしてこういうとき、ぼくはいつも、実際に自分がその会話を口に出してしまっているのではないかと不安になる。というと少々語弊があるかもしれない。ぼくは他人にどう思われようと知ったことではないと言い放つ程度には傲岸不遜な人間だ。仮にぼくが異言を語り、おかしな奴だと思われたところで、それがいったい何だというのだろう。所詮、彼ら/彼女らはぼくの人生に何の関わりもない。

けれど、ほんの十数年昔のぼくは、そうではなかった。すぐに自分の想念に囚われ、そこでの妄言を現実の世界に垂れ流しているのではないかということを恐れ、怯えていた。誰もが多かれ少なかれそういった面を持っているのかもしれない。けれど、その恐れを本当に共有できた相手は、極わずかしかいない。

***

そのとき、ぼくらは部室にいた。どうしてそんな話になったのかは覚えていないが、ぼくはその子に、ぼくの恐怖心について話した。彼女は目を大きく見開いて頷くと、――そうそう、私もそうなの、すごく怖いよね、と言ってくれた。うまく伝えられないけれど、彼女の仕草にぼくは、確かにその恐れが共有されていることを感じたのだ。そのころのぼくはひどくええかっこしいで、しかもその格好悪さに気づいていないほどに救いがたく格好悪い人間だった。それでも、彼女の、その開け広げな態度に、普段のぼくなら決して言わないような、そのときのぼくだったら格好悪いと思うようなことを素直に言ってしまっていた。――ずっと黙っているとさ、唇が乾いてくっついちゃうよね。つまらない講義を聴き流しながらぼーっと考え事をしていて、ふと我に返って、ああ俺いま考えていたことぜんぶ喋っていたんじゃないかとか思ったときに、乾いた唇がしっかりくっついているのに気づくとさ、すごくほっとするんだ。あ、喋っていなかったんだ、って。そうすると、彼女はまた強く頷き、――そうそう、私もそうなの、と言った。そしてそのすぐ後、ぼくらはほとんど同時にお互いが上唇と下唇を堅く合わせ、おかしな表情をしているのに気づき、思わず笑ってしまった。

たぶん、これを読んでくれたひとは、そんなことは誰だって感じているのだと思うかもしれない。きっとそうなのだとぼくも思う。大した話ではない。けれども、これもまたたぶん、大したことではないと言えることこそが、きっと大したことなのだ。ぼくは根が粗暴で、難しいことは良く分からないし、あまり物事を深く考えることもない。楽しいことも寂しいことも、みなすぐに忘れてしまう。他人にどう思われようと知ったことではない。そうやって、ぼくらは生き延びてきたし、生き延びていく。けれど、あり得たひとつの未来として、頭の中で延々繰り広げられるその会話を止めることができず、それが漏れることへの恐怖心から逃れられないぼく、というのもきっと存在していたのだ。ぼくはたまたま、自分の愚劣さゆえに、そちらへは行かずに済んだだけでしかない。そちらに行った彼女は、いま、ぼくの頭の中の会話相手として、しばしば現れる。現実と呼ばれるこの世界で、その子と話すことは、もう決してできない。

***

コンサートの会場で、ふと我に返る。あらゆる音、あらゆる光、あらゆる感触。そういったこの世界の無数の欠片が、あっという間にぼくをノイズのような想念に引きずり込んでいく。ぼくはその渦の中で、かつて知っていた/いまだ見知らぬ大勢の人びとと会話をしていた。

ぼくはそれを、声に出してしまっていただろうか? すっかりふてぶてしくなってしまったぼくは、まあ、もしそうなら、会場の係員がぼくをつまみだすか何かをするだろうなどとぼんやり考える。それでもふいに、ぼくは自分の唇の感触を確かめてみる。考えてみれば、今朝からひとことも発していないぼくの口は、堅く乾き、開こうとすればばりばりと音がしそうですらある。――ま、こんなもんだよね。そうぼくは思う。――そんなものよ、と、頭の中のどこかで、笑みを含んだ彼女の声が答える。

雑記

隣に座っていた女子高生たちが、合格発表をどうするか真剣に話していた。電車から降り地下からの階段を上りきると、ビルの合間から見える空が恐ろしいほどに美しかった。そういえばあれはいつのことだったか、昨日かもしれない。まだ日差しが明るいとき、道を歩いていて空を見上げたら、白と青のコントラストが信じられないほど精緻に空に描かれていた。本当に見た光景なのか、その瞬間ですら信じられないほどだった。ぼくらは、もしかしたら眼が可能にしてくれている以上の高解像度で、頭の中に映像を思い浮かべることができるのかもしれない。

けれども、どんなに美しいものでも、ぼくはほんの一瞬しか目を向けない。それは隙だ。ぼくらはつねに、どんな事故に巻きこまれないとも限らない。注意をしていても防げないことはあるけれど、防げることまで防ごうとしないのであれば、それは愚かだ。少なくともぼくは、そう思う。すぐに通りに目を戻し、無表情を装って道を歩く。

用があって、待ち合わせの喫茶店につくまでにある和菓子の店へ寄った。そこで可愛らしく作られた和三盆を買う。包んでもらうあいだ、入れてもらったお茶を飲む。無害で無意味な笑顔を浮かべ続ける。店を出ると、もう、先ほどの奇跡のように美しかった空は消えていた。

喫茶店につき、並んでいると、後ろに立った初老の会社員がぼくを妙にしつこく眺めている。いや、別段妙ではない。むしろ妙なのはぼくの方。何しろジーンズのポケットには穴が開いているし、着ているセーターときたらやはり擦り切れて穴だらけ。靴は履き古した登山靴。年齢も職業も不詳、身なりもぼろぼろというのでは、きっと彼の価値観では、相当に胡乱な人間だということになるのだろう。分らないでもないし、責めるつもりもない。だから薄ら笑いを浮べ、やり過ごす。

ぼくは冬が好きだ。朝、まだ暗いうちに目が覚め、布団から這いだし、着なれたぼろぼろのセーターに身体をもぐりこませる。とても幸福な一瞬。冷たい水で顔を洗い、雨戸を開け、新聞を取りに行き、牛乳を飲みながら見出しと天気予報だけを確認する。鞄に読みかけの論文や参考文献を突っ込み、会社か、あるいは大学へ行く。疲れていると、どちらへ行ったらいいのか、しばしば分らなくなる。けれども、それもまた幸福だ。自分には居場所がないということ。

居場所がないということは、けれど、許されないことでもある。大学に行き直すなんて凄いね、という人びとの目の奥にある侮蔑と嫌悪、困惑と憎悪。ぼくもそれは良く分かる。きょう、注文していた書籍が届いた。幾つかの文献における幾つかの用語の、原語での使われ方を確認するための、ただそれだけのもの。ただそれだけで、ほんの数冊の本だけで、カメラを一台買えるくらいの値段が軽くなくなる。ぼろぼろだけれど、暖かいこのセーターが、ぼくは好きだ。靴を見ればその人間の、などという人間をぼくはひっそりと嫌悪するし、彼らもぼくを嫌悪するだろう。いや、単に無視するだけかもしれない。

空いている喫茶店の片隅に座り、ノートを起動し、ぽちぽちと文字を打ち込んでいく。腐ったような音楽と人びとの声が混じり、ただうわーんというノイズとしてぼくの耳に届く。腐っていると思うものは腐っているというのが信条だけれど、まあ、それはぼく自身が腐っているということを如実に表しているに過ぎないのだろう。それでも、論文を書いていると、ある瞬間、思いもしなかったところで思いもしなかった論理がつながるときがある。無論、そうそうあることではないけれど、それはやはり、研究をする最大の喜びのひとつだろう。

気がつけば、彼女が向かいの席に座っている。篭ったノイズが、再びさまざまな音として認識されるようになる。ぼくはノートを閉じ、彼女とともに席を立つ。外に出て手をつなぐ。見上げれば空はもう暗く、雲は見えない。――セーターが穴だらけだね、と彼女は朗らかに笑い、穴に指を通す。そうだね、と答え、ぼくも笑う。

たぶん、ぼくはとても幸福なのだと思う。