きみに語る言葉がすべて音楽になるように

こんにちは。あるいははじめまして。けれどもきっと本当は、いつだって「はじめまして」なんだろうなあ、などとも思います。
まだ、しばらくはブログを再開できないかもしれませんが、何かを書いてもよい場所があるというのは、それ自体ですばらしいことです。だからまずは、場所だけを準備してみました。
だけれども、何もないとやはり寂しいものです。ですので、先日とある場所で発表したときの原稿の一部をのせてみることにしましょう。何を言っているのかよく分らないと、各地で絶不評(そんな言葉はない)だったものです。

誕生と死は、我々の生の始まりと終わりにある、この私が決して到達できない極点として在るだけではない。他者から呼びかけられることにより、他者を根源に抱えるが故に語り得ない自分を語りなおすたびに、私は誕生する。そして死にゆく他者に寄り添い、超えられない境界により別たれつつも無媒介に接触している他者に手を差し伸べるとき、私はその都度死ぬ。
そのとき、我々は、他ならぬその他者が、この「私」の存在に欠かせないものであったということに、この「私」と他者という主体の前に、そしてその後に、つねに共‐出現するものとして、脱自の場における有限性として分割=分有されるものがあったということに、気づくのである。
可傷性を通して他者に開かれているというのは、自己を自己として完全に理解できるという幻想から手を離すことによる途轍もない恐怖をともなう。死にゆく他者に寄り添うということは、耐えがたい死の苦しみをともに引き受け、その他者を送り、残されなければならないことによる耐えがたい悲しみをともなう。
私は存在論的に他者とともに在る。ともに在るものとしてのみ、私と他者は存在する。私は、私として既に共同体である。すなわち、他者に対する責任=倫理は、外在的な規範として我々に与えられるのではない。それは私自身の真の名前として、この「私」に先行して私の根源に刻まれ、あるいはこの「私」の外側で分割=分有されている。それ故、カントの言葉を借りていうのであれば、「恐怖と悲しみは、私と共=出現する他者に対する直接的な感情なのである」。
それが我々の、他者に対する責任=倫理の出発点となるであろう。

とにもかくにも、気負わず倦まず、ここからまたいろいろなことを書いていこうと思います。願うのは、きみに語りかける言葉を失わないこと。時折覗いてみていただければ、幸いです。

コメントを残す