というわけで、まだデザインその他で変更はするかもしれませんが、ようやくこのサイトを使い始めることができる状態になりました。まだまだ息がつけないほどに忙しい日々が続くので、なかなか以前のようなペースでは書いていけないかもしれませんが、まあ、気長に続けていくつもりです。
はてなもtwitterもfacebookも、すべてアカウントを削除するか閉鎖するかしました。そのことについて少し。
だいぶ以前からでしたが、はてなで書くことにだいぶ息苦しさを感じるようになっていました。ぼくは、当たり前のことかもしれませんが、誰かに語りかけるために書いています。けれども、これはtwitterもfacebookもそうなのですが、どうもぼくが思うような形で語りかけることが難しくなってきたと思うようになったのです。語りかける、つながるということが、結局そのまま、語りかけない、つながらない境界を作り出してしまっているかのように思えたのです。
これは本当に困ったことですが、ぼくはどうも、良い人間、優しい人間だと思われてしまいがちです。けれども、ぼくがコミュニケーション論や倫理を通して語っているのは、他人というものがどうしようもなく存在し、避けようもなくこの私に迫ってくるものだということ、そこには途轍もない恐怖と悲しみがともなうのだということです。決して、仲良しクラブがいいね、などと言っているわけではありません。
また、他者との関係を絶つことなど不可能だというのも、いつまでもだらだらと表面的な「友達」状態を引き延ばそう、ということを意味しているのでもまったくありません。ある一回限りのできごとの(そして一回限りでない出来事など果たしてあるでしょうか)、恐ろしいまでの取り返しのつかなさをいっているのです。
例えば人ごみのなかで、(そのようなことが可能だとして)徹底して他を廃絶した集団で固まり、その内だけでお喋りに興じること。あるいは拡声器を使い、ざわめきを圧するほどの大きさで叫び続けること。どちらも、語りかけるということの対極に位置しているとぼくは思います。
そうではなく、例えば誰もいない草原で、草の擦れる音に消えてしまうほどの小さな声で語り、にもかかわらずなおその声が、地平線の向こうにいる見知らぬ誰かに届くように語ること。ぼくが願うのは、そのような形で、開かれた――まさにこの地球上のすべての大気中に開かれたものとして――声を発することなのです。
インターネットによって可能となるコミュニケーションへの批判の大半は、前者のような形式に対するものです。ぼくは、そのような議論には興味がありません。
耳を澄ませば、無数の他者が語る声が、あらゆるところから届き、静かに、けれど確かに響き合っています。騒々しいノイズの背景に、誰かが届けと願い発した声が隠されているのです。
もしあえて言うのであれば、目の前で語っている見知った誰かもまた、本当はきっと、見知らぬ誰かであるはずです。もしそれが見知った誰かであるというのであれば、そのときそう語るぼくの世界には、実際にはただこのぼくひとりしか存在しないことになるでしょう。
親密圏から始まる共生倫理など、糞食らえ、です。それは、幻想に過ぎません。
ぼくらは、いついかなる時代においても、徹底して異なる他者の声に、地平線のはるか彼方から、あるいは足下から届くそれらの声に耳を澄ませ、その声に声でない声で応答するものとしてこの私になってきたのだとぼくは信じています。自分を知っている、自分が知っている関係性のなかから自らを生みだすなど、矛盾でしかないでしょう。お互いに知らない何かのなかから生まれるからこそ、この私はかけがえのない(それは価値のある、という意味ではなく、端的な事実としてのみ理解されるべきですが)唯一の存在者になるのです。
言葉が、道具が人間を人間たらしめるように、インターネットもまた、ぼくらを真の意味での(ある完成した状態、あるいは完結する地点としてではない)人間に近づけるものです。下らないネットワーク批判にも、ありきたりなネットワーク礼賛にも、うんざりです。ぼくらは、聴こえないものに耳を澄まさずにはいられないし、手の届かないものに手を伸ばさずにはいられません。そうすることにより、このぼくは、知っているということにより可能となったこのぼくという矮小な枠組を乗りこえるものとして、自らを顕すことができるのです。
何らかの関係性に安定するのであれば、ぼくは別段、インターネットの中を流れる風に自分の声を乗せる必要性を感じません。地域性とやらにへばりついているのと何が違うのか、ぼくにはまったく理解できないのです。
そんなこんなで、改めまして。こんにちは、cloud-leafです。聴こえていますか? ぼくは聴こえています。感度は、いつだって良好です。