喉が痛くて目が覚めた。頑健さだけが取り得のぼくだけれど、考えてみればその頑健さは精神的な鈍感さでしかなく、身体はけっこう脆弱だったりする。それを普段は忘れていること自体が鈍感さの表れでもある。ともかく、ひと月近く体調を崩していたけれど、治ったと思ったらまた風邪かというのも、何だか憂鬱だし、しかも夜中だというのに外から雨音が聴こえてくる。風邪を引いて、雨が降っている。言葉にすればただそれだけのことだけれど、そうして、実際にそれだけのことなのだけれど、そんなことだけで簡単に憂鬱になるのだから、人間の心は面白い。
数日前、用事があって新宿に行ったついでに、めずらしく独りで御苑を歩いてきた。温室が新しくなってから相棒とふたりで来たことはあるけれど、独りで来るのはほんとうにひさしぶりだ。温室は、これは好みかもしれないけれど、つまらなくなってしまったように思う。あまりに明るく、きれいで、管理され過ぎているように感じる。昔の温室の、狭いけれども謎が隠されているような雰囲気はなくなってしまった。もっとも、ある程度時間が経てば、生命たる植物たちは管理をすり抜け叢生していき、また無数の小さな謎を葉の裏に隠すようになっていくのかもしれない。
御苑ではたくさんの人びとが、それぞれ思い思いのスタイルで写真を撮っていた。携帯電話やスマートフォンのカメラで、自分の子どもや互いの姿を撮りあっている人たちもいれば、高そうなデジタルカメラにこれまた高そうな巨大ズームレンズをつけ、綺麗なだけの花を撮っている人たちもいる。もちろん、それらを否定するつもりはないけれど、何となくどことなく、その全体を寂しく感じる。偉そうに言っているわけではない。ぼくだってそのうちのひとりでしかない。だけれども、その全体の寂しさを感じているひとが、どれだけいるのだろうか。
しばらく、彼女の家にルーターを忘れてしまい、ネットにつなげなかった。それはそれだけのことでしかない。インターネット的なものに対して強い拒絶反応を示す研究者が周りには多いけれど、でも、ほんとうに、それはそれだけのことでしかないとぼくは思う。ぼくは人生の半分近くをコンピュータを相手にして過ごしてきたけれど、そうして、ネットのなかに現れる途轍もなく巨大なリアルを(決してポジティブな意味ではなく)信じているけれど、それでもなお、ネットにつなげなければ、それはただそれだけのことでしかないと感じるし、だからこそ、それはリアルなのだと思う。つなげなければそれに依存している人間が云々、というのであれば、そんなものはもはや宗教でしかない。けれども、もし宗教がリアルであるのなら、神が居なくなって、そこでぼくらは信仰を保ち続けるだろう。
彼女のバイトが終わるのをビルの前で待つ間、ボードリヤールの『象徴交換と死』を読んでいた。警備の警官がうろうろとしているが、影のように平凡で目立たないぼくは決して職質を受けることはない。受けたが最後、身分を証明するものなど何もない(ほんとうに、何ひとつとしてない)のだけれど、警官の目がぼくに向けられることはない。そして、『象徴交換と死』は何を言っているのかさっぱり分からない。1頁中に存在する「の」の数を数えたりする。昔から、退屈な授業のとき、ぼくは教科書のなかの「の」の数を数えて時間を潰していた。そんなことをふと思い出して、ひっそりと笑う。
別段、何も参ってなどいないにもかかわらず、何だか参ったよなあ、と呟いてみる。何が、と訊かれ、それがぼくに分かれば良いんだけどね、と答える。