地面に耳を押し当てる。何かが近づいてきている。

眠れないからブログを開いただけで、書くことなんて何もないんですけれども、でもほんとうはそんなことってあり得ませんよね。死体にでもならない限り、ぼくらには必ず書くべきことがあるはずです。そうしてたぶん、ぼくらは死体になったって、書くべきことがあり続けるんです。どうなんでしょう、暗闇とか墓地とか、一般的に怖いみたいにいわれているものを、ぼくはあまり恐れる感覚がありません。威張っていっているのではなくて、まあ、根暗、みたいなものです。でも、そういったところで耳を澄ませてみてください。死者たちが何かを書くかりかりかりかりという音が、きっと聴こえてくるはずです。ぼくは、その密やかな音に耳を澄ませるのが好きなのです。

生きている人間の発する音というのは、どうにも大きすぎて、大変です。良いのか悪いのかは置いておき(けれども、自分の声の大きさを自覚できないのだとすれば、それは悪ですらなく、単なる愚です)、純粋にぼくの性質として、だいぶつらいのです。相棒は、街に流れる屑のような音楽を耳にすると、それをすぐに覚えてしまい、長く苦しみます。ぼくはまったくそういうことがなく、そもそも関心のない音楽は聴こえませんし、仮に聴いても、覚えていられません。けれども、ある種のひとびとが発する音――それは声だけではなく、身振りや表情の変化から生まれる空気の振動も含めてですが――の大きさには、ほんとうにダメージを受けます。

ノイズキャンセラーつきのヘッドフォンを持ってはいるのですが、でも、あれは音を消してくれるのではなくて、何ていうのかな、空間全体をのっぺりと塗りつぶしてしまうだけなのです。だから、ぎりぎりのとき以外は、あまり使う気にはなれません。

そういうわけで、ぼくは夜が好きです。山のふもとから風に乗って届く、資本主義市場経済システムが作りだしたバイクに乗りながら反体制だぜなどと阿呆くさくも思い込んでいる阿呆どもの撒き散らす騒音も、夜の静けさをいっそう強調するにすぎません。一万年以上昔から人びとが住んでいたこの土地では、過去の死者たちが地層のように透明に重なり、みな、かさかさかさかさ、秘めやかに何かを書きつらねているのが聴こえてきます。

いったい、死者たちは何を書いているのでしょうか。分かるはずもありませんが、だからこそ、耳を澄ませるたびに、ぼくらは無数の異なる物語を聴くことができるのです。そして、その物語はただの想像などではなく、確かに、その死者たちの地層の上で生きているぼくらにとってのリアルなのです。

だから、眠れないからブログを開いただけで、書くことなんて何もないなんて、そんなこと、あり得るはずがないのです。

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