ぼくにとってのリアル

数か月前になるのでしょうか、よく覚えていないのですが、博士課程で在籍していた大学の集中講義で、一時限分だけ話す機会をもらったのです。そのときはオムニバスっぽい感じで、研究室が一緒だった人たち(いまはみなそれぞれに非常勤で教えています)の講義を聴講することもできて、いろいろと学ぶことがありました。何よりも、ああ、俺の講義はぜんぜん講義っぽくなくてダメだな! というのを再認識できたのがいちばんの収穫でした。やはり、大学時代にまともに講義なんて聴いていないと、こういうことになります。

ともかく、そのときは何がリアルで何がヴァーチャルか、みたいなことをだらだらと話したのですが、基本的にぼくの立ち位置というのは、ヴァーチャルと呼ばれるものにだってリアルはあるじゃない、というものです。まあでもこれはけっこう賛否があって、こうやってブログを書くということをとっても、そこに現れる誰かさんとの関係性を感じ取れるか取れないかっていうのは(善悪ではなく)そのひとの才能の問題ですから、そういうのがないひとには、幾ら話しても伝わらない。それでも話してしまうのは、そこにぼくのリアルがかかっているからです。リアルっていうのは要するに自分が生きている場そのものですから、まあね、とかいって済ませるわけにもなかなかいきません。

しかし、さすがに農学をメインにやっている学生さんたちだけはあって、やはりヴァーチャルはヴァーチャルじゃん、という雰囲気が強い。土がない! みたいな。いや分かりませんが。でも、繰り返しますが、別段、これは善悪の問題ではないのです。ただ、ぼくみたいに変に絡んでくる講師がいると、自分にとってのリアルというのを改めて考える機会になる。講義なんていうのはそれで十分なわけです。

それで、そのときにぼくが面白いなと感じたことがひとつありました。ネット越しに現れる他者と、真に関わり合うことができるか否か、みたいなことを訊いたとき、ひとりの生徒さんが、それはできない、なぜならそこには殴ったり殴られたりという痛みがないからだ、と答えたのです。

これは、とても良く分かる話です。でも同時に、うーん、どうだろうかな、とも思います。技術さえ発展すれば、実際に痛みを与えることなんて、恐らく簡単にできてしまいます。例えば遠隔操作できるロボットのようなものがあれば、ネットの向こうでグローブをはめて殴ると、その通りにロボットが動き、画面の向こうの誰かさんを殴る。あるいは頭蓋ジャックか何かによって脳に電気信号を流し、殴るという動作をネット越しに電気信号として送り、相手に直接的に痛みを与える。そういう技術ができれば、そこには他者とのほんとうの関係性が生まれるのかといえば、けれどももちろん、そんなはずはないですよね。これはただの莫迦莫迦しい技術論でしかありません。もちろん、その生徒さんが言いたかったことも、そういうことではないはずです。直接的な対面関係がない、ということを、「殴ったり殴られたり」によって表現したかったのではないかと思います。

だけれども、直接的な対面関係のみがぼくときみの関係性を可能にしているなんてことは、もちろんありません。昔誰かさんが書いた言葉を読んでぼくらは感動するし、遠くにいる恋人の声を電話越しに聴いてほっとするし、川の流れを眺めては下流にいる誰かさんを思い浮かべてその生活を想像したりするわけです。それらはみんな、単なる妄想ではないし、独り言でもありません。そこには確かに、リアルな他者との関係性が生まれているわけで、それを否定してしまったら、ぼくら人間の生活というものは、とんでもなく閉鎖的で、かつ極めて他者に対して残酷なものになってしまう。他者との関係性を大切に思うのは分かりますが、その思いが強いあまり、新しいコミュニケーション形態に対する訳の分からない嫌悪感や忌避感が強まってしまう人びとが多いのは、残念なことです。ぼくらの生活なんてものは、そんな小難しい理屈によって動いているものではないのですから、もっとシンプルに考えれば良い。ぼくはそう思います。まあ、シンプルなことを表現するのはこれまた難しいことでもあるのですが……。

ともかく、話を戻しますと、その学生さんの話を聴いていていちばん違和感を覚えたのは、痛みって物理的なものだけなの? ということでした。他者との関係性の基盤に痛みがあるというのは同意します。まあだいたい、痛みしかありませんよね!(極論) でも、その痛みって、そんな、物理! みたいなことだけではなくて、普通に精神的な苦痛も含まれるのではないでしょうか。電話越しにだって、フラれたら泣くんですよ。胸が痛くて。それ、別に心筋梗塞になっているわけではない。あたりまえですけれども、そのあたりまえが大事なのです。だってぼくらの日常って、あたりまえのことの連続でなりたっているんですから。(いうまでもありませんが、だからつまらないとか、だから退屈だなんてことにはまったくなりません。あたりまえっていうのは、途轍もないことです。)

だからちょっと話はずれますが、例えば映画で3Dとか最近いっていますけれど、別段、あんなんどうだって良いんです。それによって表現されるものが(ある次元においては)リアルに近づくわけではまったくない。いやそれはそれで興味深い変化はあるのでしょうし、良い面も悪い面も生まれてくるのでしょう。ぼくはいまのところ3Dの映画など興味はありませんが、だからといって昔のサイレント時代が良かったと思っているわけでもありません。でも、ぼくが思うのは、どんなメディア形態であっても、そこにはぼくらが通常使っているのとは異なるレイヤーで”リアル”と”ヴァーチャル”のせめぎ合いがあるし、それに注意深くなければならない、そうでないと、ぼくらはぼくらの生きている現代社会において、他者と真の関わりを持つことができなくなる危険性があるよ、ということなのです。

うわあ、さすがにこんな時間に書いていると、内容がぐだぐだですね。しかも明日は早朝から会議だというのに……。まあでも、こうやって話すことで、憂鬱な心持というのが少し和らいだりする。ようやく眠気が訪れたりもする。それはやっぱり、ただの独り言ではできないことなんですよね。やっぱり、そこには誰かさんと誰かさんのつながりがある。そんなふうに思います。ぼくにとってのリアル。

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