圏外

東京からほんの少し離れたところにいる。だからというわけではないが、PHSの圏外になってしまう。仕事の連絡が届かないのは良いことだが、相棒にメールが届かないというのは心配で不安で、困ったものだ。けれども、なぜ困るのかということを考えると、あたりまえだけれど、けっこうそこには、自分は心配したくないとか、そのために彼女を厚さ5mのコンクリートの壁のなかに閉じ込め「守りたい」とか、そういうエゴイスティックな理由があったりする。でも、これまたいうまでもなく、完全にエゴイスティックでなくなってしまえば、それはほんとうに愛なのかという気もする。それはきっと人間に対する愛ではなく、自分を殺しにくる神をなお信仰する絶対的な崇拝のようなものではないだろうか。まあ、ありきたりの悩みではあるが、ありきたりということは、答えを出すのが難しいということでもある。

けれども、少なくともこうやって圏外が存在する限り、普段は当然だと思ってやっていることを振り返るきっかけにはなる。問題はきっと、当然が真の意味で当然になってしまったときだろう。どこにいても、誰かと必ず瞬時につながることのできるような技術が生みだされたとき、そしてそれは近い将来現実化されるだろうけれども、それはきっと、誰かさんと誰かさんの関係性に根本的な変化をもたらすだろう。技術が進化していくのは、そこに技術があることをぼくらが意識できる限りにおいて、たいした話ではない。しかし、それが環境化し不可視化していくとき、それはもはや技術とは呼べないなにものかになってしまっている。それは本質的な次元においてぼくらを支配するものに変貌する。しかもぼくらはその支配に気づくことはない。それを例えば適当にUTと呼ぼう。

当然、ぼくらの生活は既に、無数のUTによって成立している。ぼくらはふつうに暮らしている限りにおいて、そのUTに気づくことはない。歴史はその存在を教えてくれるかもしれないが、けれども、そもそもいま見えないものの起源を歴史に求めることは、それ自体難しい。あるものは単に歴史のなかで失われたのかもしれない。むしろそれが一般的で、その大量の、極自然に消えていったものの中から、残り、不可視化したUTを探りだすということは、想像するだに困難だ。もしUTなるものが在るとすれば、それは電気が切れても顕在化することはない、いわば神話レベルでぼくらの生活の根底に組み込まれてしまっているものだ。

それでも、時折、うろうろ歩き回っていると、偶然、ほんとうに万に一つの偶然として(そして恐らく同時に大きなリスクとともに)UTの圏外に出てしまったりする。そうして、あれ、と思う。その、見過ごしそうに微かなあれ、という感覚こそが、UTの影を指し示している。その瞬間を忘れずにつかまえ続けておく。漠然とした印象。茫漠とした感覚。そうであってもなお、手の中には極僅かに違和感が残っている。別段、UTそれ自体が悪なのではない。むしろそれは、いまのこのぼくの生を成り立たせている不可欠の要素でさえある。にもかかわらずそれをつかもうとするのは、要するにぼくの気質として、無自覚的なものに規定されるのが嫌だという、ただそれだけの理由に過ぎない。

だからぼくは、圏外を探してうろうろ歩き回る。見知らぬ街。見たことのない景色。言葉の通じない外国。そして、ぼく自身の頭の中。想像のディスプレイを覗き、アンテナの本数が0になり、圏外の表示がでるところを探し、うろうろと歩き続ける。

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