お、帰りにちょっとメタバに寄ってく?

ふたたびありがたいことに、『現代思想』の編集の方にお声をかけていただき、9月号のメタバース特集に原稿が掲載されます。最初、編集の方から届いたメールがなぜかスパムボックスに入っていて、普段だったら機械的に削除してしまうのですが、このときは偶然気がつき、あとになってぞっとしました。こういう機会をいただけるってぼくにとってはまずあり得ないことなので、ほんとうに危なかったです。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3718

「宇宙の修理とメンテナンス」というタイトルで書いています。ちょっと面白そうじゃないですか!? 面白いと良いのですが。修理する権利と保苅実の「歴史のメンテナンス」の議論を参照しつつ、メタバースが宇宙になるための条件について考えています。ただ、メタバースというと現時点では「この私」のアイデンティティ表象にまつわる諸問題がクローズアップされることが多いと思います。そういった意味では今回の原稿、そもそもメタバースなるものを成立させるには他者という観点が不可欠だよねというお話なので受けは悪いかもしれません。とはいえ、『ニューロマンサー』に影響を受け、かつ数十年プログラミングを生業としつつ生きてきた人間から見るとメタバースってどうなのというのは、それはそれで意味のあるものではないかと思いますので、もしご興味があればぜひお手に取っていただければ幸いです。

今回個人的に良かったのは、同じ特集に郡司ペギオ氏が寄稿していることです。郡司氏といえばぼくの最初の印象はやはり『内部観測 複雑系の科学と現代思想』(郡司ペギオ・幸夫、松野孝一郎、オットー・E・レスラー、青土社、1997年)で、これぼくが最初の大学を中退するかしないかくらいの時期に手に取って読んだのですが、まったく意味が分からなくて衝撃的でした。その大学では一応情報科学を専攻していたはずなのですが(とはいえ完全に落ちこぼれでしたが)、なぜ勉強するのか、何を勉強するのかまったく分からなくなってしまい、それでも何か考えなければならないことが「そこ」にあるのは感じていて、でもじゃあその「そこ」ってどこ? ということも分からずにいたころです。そんなときに手あたり次第本を読んでいたのですが、その一冊がこの『内部観測』でした。

今回改めて本棚から引っ張り出して読み直したのですが、やはりめちゃくちゃ難しい。でも自分のいまの研究に引き寄せて考えてみると三割くらい分かる……ような気がします。いやともかく、当時の「ぜんぜん分からない!」というのは結構重要で、何だろうかな、本能的にこれは面白いぞ、でも分からんな、というのが、結構、当時のぼくにとっては支えになっていた気がします。空転ばっかりする頭だけれども何かかみ合うものがこの世界にはあるかもしれないという期待。

そんなこんなで、まあ別にいまだって何も進歩はしていないのですが、そんな自分が郡司氏と同じ雑誌に原稿を載せられるというのは、うーん、当時のぼくに伝えたいし、やっぱり嬉しいです。根が単純なので嬉しい。

あともう一つ、『現代思想』といえば忘れもしない2015年の「人工知能」特集号で『ニューロマンサー』についての滅茶苦茶な解釈、といってもほんの数行ですが、それが記載されている論考があって、ぼくは激怒しました。ぼくのような無名の研究者がぶうぶう独り言で文句を言っていたって何の意味もないのですが、しかしあまりに酷いその無理解に激怒し、激怒し続け、今回自分の原稿のなかで『ニューロマンサー』に触れることができて、ようやく供養ができた気がしています。何の供養だ。自分の激怒への供養かな?

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メタバースっていうと大抵『スノウ・クラッシュ』が挙げられますが、物語としても描かれた世界の広がりとしても『ニューロマンサー』の方がはるかに優れているとぼくは思っています。『スノウ・クラッシュ』も面白いので悪く言うということではなく、でもやっぱりエンターテイメントです。メタバースという言葉が出てくる以外、思想的には特に参照することがない気がします……。いやそれが悪いっていうことではないですよ。ぜんぜんそんなことはないです。そもそも『ニューロマンサー』だって純粋にエンターテイメントとしても最高に面白いし。

そうではなくて、メタバースを考えるのなら『ニューロマンサー』だし、既に当時サイバースペースに関するいま読んでも優れた論考がたくさんあったのだからそれを辿り直しても良いんじゃないかなとぼくは思います。『スノウ・クラッシュ』で止まってしまってはもったいない。あとは神林長平の『魂の駆動体』は、メタバースを考える上で(「この私」のアイデンティティ表象というよりも、この世界とは何か、そこで生きるとはどういうことか、人間はなぜモノを作るのかといったことをより根源的に考えるときに)ほんとうに素晴らしい物語なので、これも凄くお進めです。

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いま現在、メタバースに関連したまともな本ってほとんどありません。はっきり言って読むに堪えないものばかりです。それでも、今後何年くらいのスパンでそうなっていくのかは分かりませんが、メタバース的なものが避けがたいのも事実です。ですので今回の特集がそれに関する思想的な取り組みの端緒になるようなら良いなあと思います。あ、ぼくが読んだ中で一冊だけ、これはとてもお勧めです。

アマゾンリンク業腹

今回のぼくの原稿ではこの岡嶋氏の著作、比較的批判的に扱っているように見えるかもしれませんが、少なくとも現時点では唯一、メタバースが現代社会を生きる人間にとってなぜ必要なのかを、もっとも真摯に、率直に、説得的に描いていると感じました。ぼく自身は岡嶋氏の主張には同意しませんが、不同意でありつつ90%は共感できるものでもあります。矛盾していますが……。けれども、凄く良く分かるんだけど、でも……、という感じで、そのぐにゃぐにゃ葛藤するところに、きっとこれからの現実のラインがあるのではないでしょうか。いずれにせよ、この本はとても面白かったですし、思想的な面でメタバースに関心がある方には唯一お勧めできます(純粋に技術的な面についてはまたいろいろ良い本がありますが、それはそれで)。

最後に。メタバースって、言葉がダサいですよね(ダサいという言葉自体がダサいということはさておき)。社名の「メタ」ならまだ良いですが、たぶんこれ、残らないですよ。『ソーシャル・ネットワーク』で、まあこれは映画の中のお話ですが、ショーン・パーカーがザッカーバーグに「The facebook」から「The」を取れとアドバイスをするシーンがあって、これが凄く印象的なんです。そして決定的に重要でもある。こういうサービスって、ダサいと思われたらもう御終いです。いつだったか「Clubhouse」とかいうサービスが話題になったことがありますよね。これ、初めて耳にしたときから「こんな阿呆な名前のサービスすぐに消えるぜえ」とぼくは言っていました。嘘じゃないって。ちなみにぼくの最初に行っていた大学にもクラブハウスってありました。嫌な感じですね。滅びないかしら。

それはともかく「The facebook」。これはダメでしょ、というのを、映画のなかのザッカーバーグは理解していました。あくまで物語ですけれども。しかし「メタバース」もダメでしょ……。いやSF小説のなかのギミックとしてはかまわないですよ。でもこれ、ぼくらの日常にはなりませんよ……。「きょう帰りにちょっとメタバース寄ってく?」とか。

そんな感じでした。もしよろしければ、ぜひ。

夜中にカメが訪ねてきて「あのとき助け(原稿はここで終わっている)

近所の大病院の敷地内にカメがたくさんいる池があることを以前に発見し、ときおりふたりで散歩に行くようになりました。天気の良い日には100匹を少し切るくらいのカメが日向ぼっこをしています。池の中央にある石段で組まれた島のようなところがあるのですが、この前行ってみるとその隙間に1匹のカメが頭を下に向けてはまり込んでいました。これはどうしたことかと思ったのですが、いくらなんでも自分で脱出できるだろうと思い――なにしろそれまで一年近く観察していて、嵌りっぱなしのカメなど見たことがなかったので――その日は帰りました。

しかし心配になって翌日もまた確認しにいってみると、やはり嵌ったままです。ときおり後ろ脚をじた……ばた……と動かしています。もうこれは明らかに自力脱出が無理な状況ですので、ぼくらはどうするかを相談しました。けれどもたまたま通りかかった(明らかにその病院の関係者である)おじさんに声をかけ、「カメが……! カメが……!」と訴えたところ、最初は困惑していたそのおじさんもぼくらの目が本気であることに気づき、こいつら放っておいたらやばいと思ったのか、力を貸してくれることになりました。というかもうその方がほとんど全部やってくれたのですが、使っていないポールを二本とガムテープを持ってきて、その二本をつないで長くしてくれます。ぼくはそれを借りて池の柵から身を乗り出すとえいえいと石段を突き、ようやくカメはぽちゃんと水面下に戻っていきました。

何だかいろいろなことがあったような気がしますが、何もかもが既に遠い過去のお話になっています。あ、金魚が卵を産んでびっくりしました。どえらい数。生命ってやっぱり爆発しますよね。

それはそれとして次の本に向けて、といっても出版の目途などないのですが、原稿を書き始めています。こんな感じの内容だよ、と誰に言ってもたいてい「?」となりますが、良い本になる気がしています。この、気がするというのがいちばん大事で、これがないとぼくの場合はどうにも書き始めようがありません。と同時に気がするというときには頭のどこかに全体像が既にぼんやり見えていて、これが見えてしまうと何となく安心して文字を書く気にならなくなります。どっちにしろ書けない! いえでも本当に名著になる予感があります。嘘じゃなく。

とはいえまずはいまの本が売れなければお話になりません。『メディオーム』、ありがたいことにふたたび書評で取り上げていただけました。美学/芸術学がご専門の増田展大氏によるもので、2022年6月4日号の図書新聞に掲載されています。残念ながら有料版ですが以下からpdfで購入できます。

https://dokushojin.stores.jp/items/628eec5c9a70625d59e6750d

「「ポストヒューマンの倫理」という難題へと向けられた果敢な取り組み」というタイトルで、本書の問題点も含め極めて的確な評を書いてくださっています。増田氏はブライドッティの『ポストヒューマン』の翻訳者のおひとりでもあり、『ポストヒューマン』は本書でも引用している重要な著作なので、その翻訳者からの鋭い批判は格段に嬉しいことです。ありがたや!

きょうはお休みの日なので、朝からたくさん洗濯をしました。いよいよ本をしまう場所がなくなってきたので、冬服をどこかに片づけてそこに本をしまうつもりです。といっても、ぼくはほとんど服を持っていません。ジーンズも靴も一着と一足しかありません。そういうと社会人としての常識を云々と言われますが、きみ、常識のある人間がこんな生き方に行きついたりするはずもないだろう、と虚空に向かって語りつつ、洗濯物を干したら原稿を書こうと思っています。

良い日。

土曜日に親知らずを抜き、だんだん頬が腫れてくるなか、西荻窪の本屋ロカンタンさんに行ってきました。月曜社さんの本を幾冊か取り寄せをお願いしていたのが届いたのと、あとは『スヌープ・ドッグのお料理教室』(スヌープ・ドッグ、KANA訳、晶文社、2022)ほか購入したい本があったため。ぼくの料理スキルはこれでさらに躍進する予定です。

本屋ロカンタンさんは前にも書きましたが選書のセンスが非常に良く、ぼく自身の興味関心と重なるところも多いので、いまは本を買うときはだいたいここが中心になっています。西荻窪は(ますます外に出るのが怖くなっているぼくにとっては)遠いですが、行くと楽しいですね。

ロカンタンさんの外観はこんな感じ。すごく広くはありませんが、その分良い本がぎゅっと詰まって美しく並んでいます。

ただでさえコミュニケーション能力に不安のあるぼくですが、きょうは珍しく店主の(映画批評家でもある)萩野さんにお願いをして、自著を撮らせていただきました。とても好きな書店に自分の本が置かれることなど、もうぼくの人生においてはないと思った方が良いでしょう。ですので死ぬる思いで「写真を撮っても良いでしょうか?」などと話しかけたりもするのです。顎の痛みが激しくなっており、自分でも何をしゃべっているのかもはや判然とせず、意識も朦朧としています。しかし萩野さんは気持ちよく対応してくださり、わざわざぼくの本を表紙が見えるように置いてくださいます。ありがたや。

わざわざ平積み状態にしてくださいました。やらせだっていいじゃない。

そんなこんなで本の買い出し紀行から戻ってきて、買おうと思っていた本を二冊買い忘れていたことに気づきました。がっくり。まあ、また買いに行けばよいでしょう。ロカンタンさん、とても良い本屋さんなので、西荻窪近辺に行かれることがあればぜひ覗いてみてください。西荻窪はその他にもたくさん良いお店がありますのでお勧めです。

本を抱えて帰ってきて、家にたどり着くころには顎の痛みですっかりばったり倒れ屋さん(チェブラーシカ)です。一緒に西荻窪へ行った彼女はしかし元気に庭に出て、片隅からジャガイモを掘り出してきました。痩せた土地なのでこの大きさが精いっぱいのようですが、小さな仲間たちからすれば何食分にもなる巨大ジャガイモ。

左は新しい仲間。イチゴを抱えたトラ。

夕方、固いモノが食べられないぼくに彼女が寒天ゼリーを作ってくれました。ありがたや。いやもちろん、ぼくだって作ってもらってばかりではありません。彼女のお弁当はぼくが作りますし、しかもきょうはロカンタンさんでスヌープ・ドッグのお料理教室を買ったのでお弁当スキルもさらにグレードアップです。とにもかくにも寒天はおいしかった。

ちょっと宇宙っぽい寒天になりました。銀河が浮かんでいそう。
オシャレな感じ。しかし食べるのは顎が腫れて唸っている不審者なのです。

そう、あとは図書館に本を返しに行くついでに、亀がたくさん居る池を観察してきました。もう痛みでふらふらになりつつ、それでも亀を見ていると心が和みます。少し小柄で、いつもアクティブに他の亀に向かっていき挨拶をする亀が居て、ぼくらはそれを挨拶亀と呼んでいるのですが、きょうはその亀が他の亀の顔をぺちぺちぺちぺちと挟んでいて(強く叩くわけではありません)、その謎行動に思わず笑ってしまいました。帰ってから調べてみたらどうやら求愛行動らしい。もう春ですね。

夜、鏡の前に立って口の中をマグライトで照らしたら、親知らずを抜いたところがぽっかりと穴になっていて恐ろしい気もしますが、でも、なんだかんだでなかなか良い一日だったように思います。やるべきことが山積み過ぎて何が何だか分からない、ほんの少し先の未来さえ予測できない状況が続きますが、またこんな感じの日が来ると、いいなあ。

ツチノコオカルトシンクロニシティ

例えば、ちょっと面白かったこと。地元の本屋に自分の本が並んでいるのを(根が単純なので)わーいと思って見に行ったとき、たまたますぐ近くにあり目にとまって購入した『フューチャーデザインと哲学』(西條辰義他編集、勁草書房、2021)の一つの章を、院生時代に良く知っていた人が執筆していた。懐かしくなって連絡をしようかと思ったけれど、まあ、元気にやっていればそれでいいかと思ってそれきりになった。

また別の日にこれもたまたま購入した『技術と文化のメディア論』(梅田拓也他編集、ナカニシヤ出版、2021)を読んでいたら墓石について書かれた章があった。そんな研究をしている人も珍しいのでその章の執筆者を見たら、またもや院生時代に少し知り合いだった人だった。彼はぼくらがやっている同人誌に寄稿してくれたこともある。品の良い文章を書くなあと思っていた。懐かしくなったけれど、彼にもやはり、特に連絡はしなかった。この本は湘南T-SITEの蔦屋書店にて開催中のフェア「ソーシャルメディアとデジタルテクノロジーを考える」でぼくの本と共に選書されているものの一冊。

その他にもいろいろ。最近は本に関連したシンクロニシティがけっこうあった。無論、狭い世界だから当たり前だと言えば、それはそうなのかもしれない。けれどもやはりそれはシンクロニシティなのだと思う。無数に出版される本のうち、たまたま手に取ったものに誰かの名前があること、院生時代はぜんぜん専門が違っていた誰かが、ぼくの研究分野で共著を出しているということ。とはいえそれ自体は普通のことで、最近はそういった普通のできごとを通して見えるシンクロニシティが多い。そういう時期なのだろう。

だけれども、シンクロニシティはおかしな形を取って現れることの方が多い。ぼくはけっこう、そういったシンクロニシティとかコインシデンタリーなできごととかを重視している。重視しているという表現は「重視する私」を主にしているようなので、なんだろう、そういったものに避けようもなく目が行ってしまうという感じだろうか。そしてそういったものを凄く面白いなあと感じる。しんくろ山の熊のことならおもしろい。多くの場合、ぼくが見たり感じたりするそれらのものをそのまま口にすれば正気を疑われるかもしれない。しかしぼく自身、自分の主観は自分の主観でしかないと割り切っているので、要するにそれは何かの物語を読み、読み解いているようなものでしかない。でしかない、だけれども、とても楽しいことでもある。

それらが指し示している意味はよく分からない。けれどもそういったシンクロニシティが、惰性で飛行しつつ徐々に高度を落としていくぼくらの人生を、その瞬間にすっと掴んで引き上げる。見回す、ということを忘れて飛んでいたことをふいに思い出したりする。

或る日彼女とフェリーに乗っていたとき、彼女がぼくに、きみのお父さんは海でいろいろ不思議なものを見たのかな、と訊ねた。たぶんオカルトとか妖怪とか、何かそういった意味では、父は奇妙なものは見なかったと思う。何しろ理性の塊のような人だったし。信じられないような自然現象については幾度か話してくれたけれども、それは例えば子供のころにぼくがツチノコに襲われたのとはまったく次元が異なるだろう(ツチノコはツチノコで、ある出来事とシンクロしていたのだが、それはまた別のお話になる)。

もちろん、ぼくは本当にツチノコが実在していて、それにぼくが襲われたというのが客観的な事実だと思っているわけではない。それは完璧なまでに主観の世界における出来事でしかない。ツチノコは極端な例かもしれないけれども、それでも、そういった訳の分からない主観的な記憶の堆積は、論理を積み上げなければならない研究にも影のように投射されている。

ぼくは自分がときおり見るおかしなものについて父に話したりはしなかった。というよりも、そもそも父はぼくに対して常に議論をしかけてくるようなところがあった。まだ幼かったころには物語も読んでくれたけれど。だからどのみち、「いやツチノコがさあ! それが示しているところのものがさあ!」などとは、ちょっと言えなかったと思う。BBCラジオの短波放送を聴き、わざわざThe Economistを海を越えて購読しているような人だったので、それをベースにしかけられる議論に対して「ツチノコがさあ!」はさすがに無理がある。

だけれども、この年になって、ぼくもだいぶ自分の主観を変換する術を覚えた。論文も、自分なりのかたちで論理に色をつけることができるようになったのではないかと感じている。無論、まだまだどうしようもなく稚拙なレベルであることは言うまでもないとしても。だから、いまであれば、ストレートにツチノコではなく、ぼくの感じているシンクロニシティだらけの世界についても、父と議論ができるのではないかと思うし、実際、別段、手遅れということはないのだとも思っている。

まあ、向こうは相当呆れて笑うだろうけれど。

オブセッション

例えば、いまどこかで起きている出来事に対して何ができるのかというのは、職業とか年齢とかあらゆる属性を超えて、誰でも考えることだと思います。ぼくの場合は半分研究者ですので、自分の研究テーマを通して何ができるのか、何をできているのかというのは常に頭のなかにあります。これが例えば創薬で、具体的なある病気を治す薬を開発するぜ! とかだとけっこう明快かもしれません(実際には途轍もなく複雑で一進一退で無関係な雑事に足を引っ張られることばかりなのでしょうが)。けれども思想系になると、なかなかはっきりすっきり、これはこの世界の役に立っているぜ! という感じにならないかもしれない。というかなったら危ない。思想改造か、みたいな。でもやっぱり根底には凄まじい強迫観念はあると思うのです。多くの人がそうであるように、何とかしなきゃという強迫観念。もちろん、ぼくが尊敬すると或る研究仲間のように実際の問題のなかに飛び込んで行ってそこで戦うという人も確かに居るし、別段思想系だからといって直接行動につながらないということではありません。でもどうしてもそれができないタイプも恐らく居て、それは格好つけとか斜に構えるとかではなくて、思想の表現のスタイルなのではないかと感じています。例えば彫刻家に、表現したいことを音楽でやってみて、というのは(人によってはそれが新たな表現方法につながるかもしれませんが)一般的には無茶な要求です。でも強迫観念はある。自分はいったい何をやっているのか? 何かをやれているのか? そしてそれには両面あって、自分のなかでは確信があるにしても、その確信は世界に対しては実際何の保証にもならない。そんなとき、外からの反応があるというのは、結構、誰にとっても救いになるのではないでしょうか。承認欲求とかの話ではありません。強迫観念は迫られるものではなく迫るものが主だからこそどうしようもないのであって、前に書いた「ぼくらこそが救援隊だ」というサン・テグジュペリの言葉は、あれはヒロイズムとかではない。徹底して自己なんてものを超越した、繰り返しますが誰もがきっと心に抱え続けている責任のお話だとぼくは思います。

そんなこんなで、話がつながるのかどうか、いえつながっているのですが、自著広告です。湘南T-SITEの蔦屋書店にて開催中(02/12~03/31)のフェア「ソーシャルメディアとデジタルテクノロジーを考える」で、ありがたいことに私の本を採り上げてもらっています。



これ、ぜひ上記のリンク先をご覧ください。選書のセンスが非常に良くて、現代社会を考えるうえでメディアとテクノロジーは不可欠の要素だと思いますが、それらについての新しい面白い本がたくさんあります。ぼくも半分は持っているのですが、うーん、現地に行って手に取って購入したいです。とてもお勧めなので、こういうところに自分の本を混ぜてもらえるのはとてもありがたく、嬉しいことです。

ぼくの本については「「デジタル・ネイチャー」などという言葉に我慢ならない方々にとっては「スカッ」とする内容となっています。」とのこと。私自身の人間性はスカッと爽やかの対極にあるようなオブセッションの塊人間で陰鬱で陰惨なのですが、でも、何か嬉しいですね。書いてよかったなと思えます。

湘南に行かれることがあれば、お立ち寄りいただければ幸いです。

ボイジャー・エンドクレジット

あまり大きな声では言えないことですが、ここ一年ほどめちゃくちゃ映画を観ています。なぜ大きな声で言えないのか。それはそんな時間があるのなら研究をしろという正論オバケに襲われるからです。しかし映画って本当に素晴らしいですよね。そしてメディア論をやっていますなんていうことのいちばんのメリットは、映画を観ているだけでも「研究しているもん!」と言い張れるところにあります。しかもぼくはあらゆる技術をメディア技術とする立場を取るのでこれは強い。もう何をやっても研究だと言い張れる。言い張るだけで実際のところどうなのかはぼく自身にも分かりません。なにも分からないまま人生は過ぎていきます。

ところでぼくは友人が少ない人間ですが、根本的なところで美意識の異なる人を受け入れることに対する許容量が極端に少ないのもその原因の一つにあるでしょう。映画を観るとき、エンドクレジットを最後まで観るかどうかも、その人と美意識が一致するかどうかを判断する基準の大きな要素になります。いやもう、これは本当に、最後まで観ない人とはつき合えない。大学時代、彼女と初めて二人で映画を観に行ったとき――何しろ都会の映画館なんてハイカラすぎて恐ろしく恐ろしくて死ぬる思いで行ったのですが――彼女もぼくと同じ感覚を持っていて、それは本当に嬉しかったのをよく覚えています。

それはともかくエンドクレジット。映画って、やっぱり一つの世界なんですよね。それだけで完成された一つの世界。その奇跡的に美しい物語世界が、あるとき偶然どこからかやってきて、薄暗い映画館のスクリーンに映し出される。ぼくらの世界と、その一点、その一瞬、奇跡として交差する。そして90分、あるいは120分、ぼくらはその完璧な世界を垣間見ることができる。どこか別の宇宙、別の次元からやってきた完璧で美しい物語世界。でも時間がくるとそれはまたどこか別の宇宙へと遠ざかっていく。物語が終わり、ぼくという目をスイングバイして、映画は再び真っ暗な宇宙をまっすぐ遠ざかっていく。その直線運動こそがエンドクレジットなのです。

だからエンドクレジットを観ない人というのは、これは偏見を承知で言います。というかこのブログ偏見しかありませんが、エンドクレジットを観ない人というのは、映画が在るということの奇跡を知らない人です。その完璧な物語世界と出会い別れる、人生において一度きりの奇跡の美しさと恐ろしさ、それを見送るときの喜びと悲しみを知らない人なのです。ぼくはそう思います。

気に入った映画は何度も何度も、何度も何度も何度も観ます。それでもその一回ずつが絶対的な固有性を帯びた、繰り返されることの決してない奇跡です。遠ざかっていくボイジャーを見送るぼくら。けれどもそれが残す軌跡はぼくらの心に永遠に残ります。それが感じ取れない人と、ぼくは映画館には行きたくない。

などと真顔で言うぼくなのできょうも友人がいませんが、でもまあ、映画がある人生、別段、寂しくはありません。

倫理マシン

例えばぼくの世代だと、好き嫌いがあったり我儘を言ったりすると「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」的な感じで叱られたりしなかったでしょうか。うーん、どうだろう、いまはこういうのってあまりない気がします。そしてそもそもぼくは両親にこんなことを言われた経験は恐らくなくて、当時の文化というか雰囲気というか、それがぼんやりと形を取ったに過ぎないように思います。

いずれにせよ、ぼくはいまでもこういう言葉が頭のなかに固く残っていて、何か嫌なことや大変なことがあっても、その固いナニモノかが「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」と言ってきます。言うまでもなくこれはめちゃくちゃな話で、完全に差別です。何も知らないのに上から目線であの人たちは可哀そうと決めつけている。そして同時に、まさにぼくは何も知らないのであって、だから何の意味もないほど漠然とした言説になっている。繰り返しますがこれは本当にめちゃくちゃな言説です。ただ、それが自分の頭のなかに残ってしまっているということと、それを俯瞰で理解できているということとは併存するということですね。

そしてその漠然性が恐らくポイントでもある。ぼくは自分の頭のなかにあるこの固い何かを倫理マシンと呼んでいます。この倫理マシンは非常に抽象的で、だからこそあらゆる局面に適用可能で、ぼくの行動や思想をつねに監視しています。と書くと何だか常軌を逸しているように思えるかもしれませんが、ぜんぜんそういう話ではありません。誰でも自分のなかにそれぞれ独自の倫理的規範を持っていて、それがいろいろな状況で自分を律してきますよね。要するにそれです。

あ、これ、暗い話ではないですよ。けっこうばかばかしい話です。で、この倫理マシン、他にも幾つか言葉を持っています。そっちはもっと具体的で、あるとき読んだ本の一節が元になっているもの。恐らく上記の「アフリカの……」が倫理マシンの根源で、それが育つなかで、本の言葉を覚え、取り込んでいったということなのだとぼくは理解しています。ともかく、その言葉のなかでも汎用性が高いものが幾つかあり、そのうちの二、三を以下ご紹介します。一つ目は『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』から。

逃げてしまっては、きみは惨めな敗残者になるだけだ。きみはソクラテスのことを思い出す。彼は差し出された毒杯を黙って受け取り飲み干してしまったのだ。

ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』高橋源一郎訳、新潮文庫、1991、p.85

怖いこと、嫌なことが待ち受けているとき、それでもその場に行かなければならないというのはしばしばありますよね。そんなときに倫理マシンはこの言葉をぼくに言うのです。「なーに、ソクラテスだって毒の杯を飲んだじゃないか」。確かにそうだなあとぼくは思ってしまいます。これはつらい。ソクラテスを持ち出されたら、もう逃げるわけにはいかないじゃないですか。

二つ目。これはカロッサの『ルーマニア日記』から。この本、素晴らしさに反してあまり知られていない気がするのですが、機会があればぜひお読みください。ぼくが持っているのは新潮文庫版でこれは恐らく絶版ですが、岩波文庫版はいまでも手に入ります。ちょっと長いのですが引用。

朝食の時、少佐が壺からマーマレードをだそうとすると、小さな鼠の死んだのがでてきた。どうして壺の中にはいったのか、誰にもわからない。[…]少佐はちょっときめかねた様子でいたが、それも一瞬間のことで、鼠の死骸を棄てさせ、気味わるさに眼玉の飛びだすような思いをしながらパンにマーマレードを塗り、壺をわれわれの方へまわしてよこした。われわれが身ぶるいするのを見ると、少佐はなおさら沢山塗りつけて、言葉すくなに無愛想にいいだした、鼠は昨夜落ちこんだばかりだ、腐敗の懼れはない、ドイツの町々は飢えにおそわれているのだ、こんなマーマレードをみじめな糠入りのパンに塗って子供たちにやれたらと思っている母親はどれほど沢山いるかわからぬのだ、と。そういいながら、少佐は気味のわるさに顔を歪めて、パンをむりむたいに噛んで呑みこんでしまった。とうとう彼は立ちあがって、立ったままで二枚目のパンにマーマレードを塗りつけ、われわれもまた彼に見ならうかどうかを見定めることなく、その場を外した。そうすると二三の者が声を立てて笑った。少佐を豚という者もいた。しかし誰の顔にも、ぴしりとやられたような気配が認められた。

ハンス・カロッサ『ルーマニア日記』高橋義孝訳、新潮文庫、1994、pp.57-58

ぼくはかなりの潔癖症で、床に落ちたパンとかを拾って食べるのには(その床は毎日拭き掃除をしているので汚くはないのですが)ものすごく抵抗があります。子供のころはとても無理でした。でも倫理マシンがこの一節を取り込んでからは、まあだいたいの汚れについては意思の力で、というほど大げさなものでもないのですが、食べられるようになりました。あと消費期限切れのものとか、表面がカビてしまったジャムとか。倫理マシンがぼくに言います。「こんなマーマレードを……子供たちにやれたらと……」。これもまた強力な命令になります。

挙げればきりがないのですが、あと一つ。サン・テグジュペリの『人間の土地』。言わずと知れた世紀の名著(堀口大學)からの一節です。砂漠に不時着したサン・テグジュペリと同僚のアンドレ・プレヴォー。生還が絶望的ななか彼らが何十キロも走破した晩、プレヴォーはついに泣き出してしまいます。けれどもそれは自分を憐れんで泣くのではありません。――ぼくが泣いているのは、自分のことなんかじゃないよ……。そしてサン・テグジュペリもそのときはっきりと理解します。むしろ助けを求めているのは、もうサン・テグジュペリもプレヴォーも見つからないと思って苦しんでいる、彼らを愛した誰かたちの方なのです。だからこそ、二人は一秒でも早く生還しなければならない。自分のためではなく苦しむ彼ら/彼女らを助けるために。そしてそこで驚異的で偉大な逆転が生じます。

ところが、彼方で人々が発するであろうあの叫び声、あの絶望の大きな炎……、ぼくは考えるだけで、すでにこれには耐えかねる。この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動きだす、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか? なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる! ……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、1994、pp.143-144

この逆転! 苦しんでいるとき、しかし本当に苦しんでいるのは、苦しんでいるぼくを見る誰かなのかもしれません。あるいは、本来であればぼくが果たすべき責務を果たせないが故に誰かが苦しみ嘆くことになるのであれば、自らの苦難などから無理やりにでも足を引き抜き救援に向かわなければならない。自らの苦難は、だからむしろ、救援するものとしての自己を自らに知らしめるための契機にすぎない……。そんなことを、倫理マシンはぼくの背後で語り続けています。

言うまでもなく、ぼく自身は適当でいい加減で、逃げること以外に関心がない人間です。本を読むのは自分が楽しいからであって、それ以外の理由はありません。物語は常に物語として、それのみで美しい。だけれども同時に、ぼくのなかにある倫理マシンもまた、貪欲にそれらの物語を咀嚼し、そこから彼の糧となるフレーズを取り込み続けていきます。恐ろしいことに、その過程はいまでも続いています。

もちろん、これもまた言うまでもなく、倫理マシンなどといったものは存在しません。頭蓋骨を切り開いてみたところでそんな器官はどこにもない。要するにそれは、誰にでもあるありふれた倫理規範の言い換えにすぎません。それでも、やはりそれは在る。矛盾した言い方ですが、それはぼくに取りついている。だけれども、最初に書いたとおり、これは暗い話ではなくばかばかしい話です。いまだかつて他に見たことがないほど、ぼくは自分をいい加減な人間だと思っています。いい加減オリンピックがあったら金メダルを取れるでしょうが、授賞式をうっかり忘れて欠席するくらいです。そして同時に、薄気味が悪いほど倫理的に自分を律している面もある。誰でもがそうです。そういった分裂を、でもちょっと突き放して眺めてみること。常にぐだぐだ寝そべっている誰かが居て、その誰かをつねにエイエイとどこかへ急き立てようとしている誰かが居る。それって、ちょっと可笑しい光景ですよね。自分自身の生き方とか信条とかイデオロギーとか、まあいろいろありますが、それに囚われつつもどこかから眺めて笑ってもいる。倫理ってそんなものだし、たぶんそれで良いのではないかと、ぼくは思っています。