デジタルの向こう側

「ぼくはハンバーガーが食べたい、ぼくはハンバーガーが食べたくない」という言葉があって、ぼくにとってはけっこう大きい意味を持っています。単純に言えば人間は相反する感情や意思を同時に持ち得るということを表しているだけなのですが、けれども、或る言葉が誰かにとってどれだけの重要性を持ち得るのかというのは、その言葉に付随する様ざまな背景によっても決まりますよね。だから共有することは難しいかもしれません。莫迦みたいに聴こえるかもしれません。とはいえ、矛盾したものを矛盾したままで抱え続けるというのがぼくの信条、というか信念、いやいや性質でして、それを明確に意識したきっかけの一つです。

などと言いつつ、実はこの言葉、どこで読んだのかがはっきり思い出せません。ぼくの記憶ではルディ・ラッカーの翻訳本のどれかだったはずなのですが……。きょう彼の本を読み直してみたのですが、ちょっと見つけられませんでした。けれど読み直しを通して、改めてラッカーの面白さを思い出せました。そうそう、若かったころのぼくはずいぶん影響を受けていたのだなあ。

ここから脱線するのですが、ラッカーは工作舎の『アインシュタインの部屋』(エド・レジス著、大貫昌子訳、1990)にもちょこっと登場する数学者です。ここでラッカーはプリンストン高等学術研究所に居たゲーデルに会いに来ている。このシーンはラッカー自身によって『無限と心』(好田順治訳、現代数学社、1986、出版社には既に情報がありませんでした)でも描かれていますが、相当オカルトです。「ゲーデルとの会話は、非常に直接的精神的感応の伝達のように感じられた」(p.177)。ゲーデルが抱える世界に対する恐怖心と猜疑心――それはやがて彼自身を殺すことになるのですが――そしてラッカーの空気の読まなさがストレートに表現されていてとても面白い。この本、翻訳に難ありすぎてお勧めしにくいのですが(そもそもこの本持っている方、ぼく以外には一人も出会ったことがありません)、ラッカー好きなら必読書です。翻訳が凄すぎて難物ですが……。とにかくこの辺りの本、高校時代のぼくはすごく影響を受けました。世界は謎に満ち溢れていて、いつかは自分もそういう謎を解く天才たちに交じって研究するのじゃとか思っていた。いやはや。まあ、いまはそんなんでなくても研究っていうのはできるということが分かったので、無駄な半世紀ではまったくないのですが。工作舎とか本当に良いですよね。楽しい思い出。いま読んでも面白いし。遡るとブルーバックスとかにも影響を受けたのかもしれません。これは小学校とか中学校くらいのころか。岩崎一彰氏の宇宙のイラストを見て天文学に憧れたりしていました。野山を駆け回りツチノコとバトルをしていた自分と、本だけあれば満足していた自分。どちらの記憶が正しいのかは分かりませんが、人生なんてそんなものです。さあどんどん話がずれます(大丈夫です、ちゃんと戻ります)。つい最近、といってもいつのことかもう思い出せませんが、島を買おうと思って公的競売の情報を眺めていました。もちろんそんなお金はないですよ? 3万円くらいで買えないかしら。でもってカエルやトカゲや鳥の天国にする。「死ね」と内なるブラック・ジャックが突然叫びます。「この空と海と大自然の美しさのわからんやつは――生きるねうちなどない!!」(『宝島』)。自分だけの世界を持ちたい――それは我執としての自我であったり近代的自己に基づいた私的所有の話であったりではなく――そういう気持ちはあります。そうだ、昔父とイギリスのとある地方を歩いていたとき、あれはぼくが十歳くらいでしょうか、廃墟のようなお城があり、それがけっこう(ぼくには、ではありませんが)買える値段だったのを覚えています。もちろん、維持費などを考えれば現実的ではないのですが。だけれども、まあ、それは良い記憶です。そうそう、なんで岩崎氏からこんな話になったのかというと、岩崎氏の「宇宙美術館」が競売に出ていたのです。寂しいですね……。

話がずれることでは定評のあるぼくです。言葉だけではなく実人生でさえどこかにさまよいだしてしまい、つまるところ、いまだにこんな人生です。だけれども、だけれども、ぼくには力業という武器がある。なので力業で話を戻します。

ぼくの数少ない才能のひとつにプログラミングがありますが、いやまあ、才能といったって「アリを眺めるのが得意です!」みたいな感じで、あまり実社会では役には立ちません。それでも、一時期はひたすら0と1だけの世界を生きていて、それでどうにかこうにか生き延びていたのは確かです。それがなければ……。

世界って怖いじゃないですか。突然ですけれども。ぼくは怖いです。意味が分からない。それでもあらゆることがもし0と1に還元できたら、その奔流が見えるようになったら、もしかするとぼくはその流れを読み取ることができるかもしれないし(そのくらいには自分の才能を信じていたのですね、若かったので)、ぼく自身もまた0と1に還元できるのであれば、世界をそこまで恐れる必要もなくなるかもしれない。そしてある程度は実際にそうなのです。

「なぜおれにあの娘を見せつけるんだい、こん畜生。それも繰り返し、繰り返し。おれを引っかき回しやがる。あの娘、殺したのはおまえだろ。千葉で……」/「いいや」/と少年は言う。/「冬寂か……」/「いいや。あの娘が死ぬのは眼に見えてた。きみが時おり、巷の舞いにパターンが読み取れそうに思っただろう。あのパターンは本当なんだ。ぼくはね、ぼくなりの限られたあり方で、複雑にできているから、そういう舞いが読める。冬寂よりずっと上手さ。ぼくはあの娘の死を読んだ。《安ホテル》のきみの棺桶の扉についていた錠前の磁気符号にも、ジュリー・ディーンの香港のシャツ仕立屋との取引口座にも、ね。腫瘍の影が、走査像を見る医者にとって明々白々なのと同じこと」

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986、pp.421-422

これはギブスンの『ニューロマンサー』ですが、いうまでもなく、ニューロマンサーは人間が0と1のパターンだと言っているのではありません。超越的なAIでさえ、あるいはだからこそ、マトリクスに、すべてを数え上げることができるマトリクスに連れてきたその殺された娘を見つつ「でも、あの娘の心はわかるまい」(p.420)と言います。しばしば『ニューロマンサー』を、あるいは主人公のケイスを単なるデジタル主義のように捉える読解があり激怒を通り越して絶望するのですが、そうではありません。あれは、人間はデジタルでは表現できないものをどうしようもなく抱えているということ、そしてデジタルのなかにさえ分からないもの(=生)があるということを美しく描いた唯一の物語なのです。三部作の他の物語はあれだけれど。

例えばラッカーはセルラー・オートマトンについて説明するとき、しばしばスティーブン・ウルフラムを参照しています。ウルフラムもやはり天才ですし、これまた一時期、ぼくは滅茶苦茶ウルフラムの世界観に影響を受けていました。しかしウルフラムの場合は世界を0と1で捉えられるという思想が非常に強い。いやそうだとしても、それは単にそれでおしまい、それですべてが表現できるということなのでしょうか。どうなんだろう、と、ぼくはだんだん感じるようになっていきました。というよりも、ギブスンやラッカーを読んで共感するのは、まさにそこの部分なのです。

ゲーデルの定理とチャーチの定理をもたない世界は、すべての属性が加算的な世界であろう――いかなる種類の人間活動にも、結果が善であるかどうかを判定する決まったコードがあることになるだろう。そのような世界ではアカデミーは何が芸術であったかということや何が科学であったかということに関して判定を下すことができるだろう。創造性はアカデミーの規則に達するかどうかの問題になるだろうし、落選作品展覧会はゴミだけしか含まないものになってしまうだろう。/しかし[…]私たちの世界は有限なプログラムや有限な規則の集合以上に果てしなく複雑である。あなたは自由だ、あなたは実際に生きている、そして次に自分が何を考えるかを言いあてることもできないし、過去の足跡をはねのけて好きなときに新生活をはじめてはならないという理由も存在しないのだ。

ルディ・ラッカー『思考の道具箱 数学的リアリティの五つのレベル』金子務監訳、大槻有紀子、竹沢攻一、松村俊彦訳、工作者、1993、p.304

ラッカーは数学者です。どこまでも。だからと言って良いのかどうか分かりませんが、まあ、だから彼は0と1を信頼している。というよりもそれに拠って立っている。数学的センスがまったく欠落したぼくには想像もできないレベルで。けれどもそれはすべてがクリアになるということをまったく意味していません。むしろ逆なのです。だからこそ、分からない。だからこそ、自由がある。

ここで、もう一度問おう。リアリティとは何か? それは、不可逆な次元をもつフラクタル・セルオートマトン(CA)による圧縮不可能(incompressible)な計算である。そしてこの巨大な計算はどこでおこなわれているのか? あらゆるところで、である。私たちはそれからできているのである。

同書、p.393

これは例えばダニエル・ヒリスの名著『思考する機械コンピュータ』のラストにも通じるところがあります。ヒリスもまた、コンピュータがロジカルなものであることを大前提としたうえで、コンピュータ(マシン)のロジカルな海のなかに拡がる可能性を信じ、感じ取っているひとです。

私は、知性の源を侮辱しようとして「脳はマシンである」と言っているわけではない。私は、マシンの能力の潜在性を認めようとして「脳はマシンである」と言っているのである。人間の頭脳は我々の想像以下のものではなく、マシンは我々の想像をはるかに超えるものである。私は、そう信じている。

ダニエル・ヒリス『思考する機械 コンピュータ』倉骨彰訳、草思社、2000、p.272

いずれにせよ『思考の道具箱』、これはあの時代、工作舎でなければ出せなかった本でしょう。こういう、いやこの本でなくたっていいんです、ある瞬間その本があったから救われた何かというのは確かにあって……、それは音楽でも演劇でも何でもいいんです、でも確かに在る。そしてもし本がそれであったのなら、かつ、「この私」が救われたなどという下らない話ではなく、あくまでどこまでもその本こそが先に存在して、それが誰かに語りかけたその誰かがきみであったのなら、きみはきっと本読みなんです。ぼくはそう思います。

ぼくはいま、技術とは何かということを、人間存在と不可分なものとして考えています。そして人間が在るということがあらゆる他者なしにはあり得ないものである以上、それは倫理でもあります。つまり人間存在=倫理=技術ということです。それは技術礼賛でも技術批判でもなくて、ただひたすら人間はそうでしか存在し得ないものとしての原理です。無限の可能性があるのなら、そしてあると思うのですが、それは虚構としてのロマンティックで素朴な人間性には見いだせないだろうし、まして電通的な謳い文句に塗れた楽観的テクノロジストの無責任な夢想にもないでしょう。いま、ぼくはラッカーともヒリスとも思想上の立場は異なりますが、けれども彼らが見ているものの千分の一くらいは分かるし、共感もするのです。

論文とか学会発表とか、どうしてもあれかそれかになります。それはそれで仕方がありません。「生きて在ることって……何でしょうかね……」などと言っていたら研究にはなりません。「技術には……あれもあり……これもあり……」それでは困ります。それでも、そういった曖昧で漠然としているように思えるそれは、単に総体であるからそう見えるだけなのではないかとぼくは思います。同時に、だからこそその総体がもつ巨大な質量は、それ自体で分裂しようとしつつも強大な引力を持ち得る。それを表現し得る文体を、あるいは構造を超えた構造を表現しようとするのは、まあたかがぼく程度の才能ではその実現可能性はたかが知れていますが、それでも楽しいことです。

ほんとうに、楽しいばかりの人生です。