Read it, Want to weep.

ここしばらく集中して書いていた草稿がほぼできあがり、少しだけほっとしました。今回は自分の単著の原稿ではなく、ある翻訳書の解題なのですが……、とここまで書いてそういえばそもそも解題って何だ? と思い調べてみたら、いやこれ、ぼくの書いた内容は解題なのだろうか……。ちょっと心配になってきました。でも編集者さんからはGOサインをいただけたので、大丈夫でしょう。というか大丈夫です。名文です。Read it, Want to weep.

「Read it, Want to weep.」というのはウィリアム・ウォートンの『クリスマスを贈ります』(雨沢泰訳、新潮文庫、1992年)の解説から。『クリスマス…』は名著です。これは裏表紙のあらすじから引用。「第二次大戦中、はからずも無人の城を占拠し、ドイツ軍と対峙することになった少年兵たちが体験した、寒さと恐怖と空しさと、そして無意味な死」。この突き放した感じ。実際、そうなのです。「無意味な死」。どこか明るくさえある青春小説でありつつ、徹底して乾いている。乾いてしまう。小説冒頭に置かれている詩を、最後まで読んでからぜひ読み直してほしいのです。物語の最後で描写される世界はひたすら「無意味」で、あるいはもはやそれすら超えてただひたすら乾いてしまった「ぼく」の視線だけがある。あるのはただ、死、そのものであって……。冒頭の詩はこのラストと見事に呼応している。だから実は「Read it, Want to weep.」はあんまり適切だとは思えないのですが、でもほんとうに読んでほしい一冊です。

ウィリアム・ウォートンは、え、嘘でしょ!? Wikipediaで日本語の記事がありませんが、とても優れた作家です。映画『バーディ』は有名ですが、その原作を書いています。あとは『晩秋』も映画化されていますね。それからこの『クリスマスを贈ります』。本人は『クリスマス…』の解説によればそうとう奇天烈な方のようで、これもちょっと面白い。残念ながら2008年に亡くなっています。

むしろ、さあまた話がずれていくのですが、「読んでほしい、泣けてくるから」にふさわしい小説といえば、ぼくはジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(高橋源一郎訳、新潮文庫、1991年)を想起します。これはもうほんとうに泣けてくる。主人公の焦燥感、虚栄心、絶望、そして最後に訪れる微かな救いの気配……。これも名著です。で、この小説は文体がちょっとめずらしく、「きみ」が主人公として語られています。第一章「午前六時。いま、きみのいる場所」から。

またここへ来てしまった。きみは何もかも台無しにしてしまった。もう行く場所はどこにもない。

だけれども、これは別段奇を衒ってとか、文体実験としてではないのです。そうではなく「読者と「直接取り引き」をするためにどうしても必要な手段」(「訳者あとがき」より)なのです。これはきみの物語なんだ、ということを一切の介在物なしに表現する。「80年代アメリカ青春小説の金字塔」というのは嘘ではありません。

話はだいぶずれましたが、今回の解題も「きみ」の物語で始めています。結局、これがぼくのスタイルなんだなと改めて思いつつ書いていました。いやしかし本当に解題なのか……? まあいいや、とにもかくにもこういう機会をいただけるのはほんとうに有難いことで、ぼくのように無名の、しかもパーマネントでもない研究者に声をかけていただけるのは……語彙の少なさが露呈しますがほんとうに有難いことです。いや、同じ言葉を繰り返して強調するのもレトリックさと嘯く程度には薄汚れている。というよりも汚れている。いや汚れてはいないです。ちゃんと洗濯している。

けれども、つい先日どこかへ行きまして、どこへ行ったのか思い出せないのですが、そこで突然ジーンズの膝が破けました。ちょっと、破けてはいけないような場所で破けた気がするのですが、記憶が封印されているようです。ともかくこれでもうぼくが持っているジーンズはあと一本だけ。靴なんて一足しかない。Tシャツは高校時代に買ったのがいまだにあるし、着られます。自分でも何が何だか良く分からないのですが、しかし一つだけ言えるのは、もう怖くて買い物に行けないということです。裾上げとか刈上げとかもみ上げとか意味が分からない。どうしたら良いのでしょうか。

例えば近所の食堂に行くとします。喫茶店でも良いです。チェーン店とか混んでいてそもそも近寄れないので個人のお店。美容院でも床屋さんでも良いです。で、店主さんとお話をしたりする。そうすると演技モードがオートで始まり、架空の人格が応答し始めます。相手が求めている人物像を演じてしまう。それはそれで良いのですが、問題は記憶力がほぼないということです。だから次にそのお店に行ったとき、相手の反応を見ながら前回どんな人物を演じていたのかを手探りで再現していかないといけません。そもそも人物を演じたのかどうかも怪しい。土星人だったり。いやきみは土星人を差別するのか、土星人だって人物だろう。とにかくもう何も分からない。そうするともうそのお店には行けません。基本、地元のお店を利用したいのですが、でもこうなってしまう。ぼくはこれを「焼き畑式地産地消」と呼んでいます。

そんな感じでコミュニケーションは非常につらい。その昔、まだ博士課程にいたころ、研究室の先生の講義でTAをしたことがあります。で、お昼休みにご飯を一緒に食べに行くかいと言われ、他にもゼミ生がいたのでみんなで行くのかと思い、ほいほい行きますなどと答えてしまった。ところが他の子たちはお弁当があるとか言って、言いやがってですね、先生とぼくだけで大学前のお蕎麦屋さんに行くことになりました。そもそもぼくは博士課程からその研究室に入ったので、あまりじっくり先生とお話したこともない。先生も一生懸命いろいろお話してくださるのですが、何しろコミュニケーションの反物質からできているという噂のあるぼくです。先生の専門は公共圏論とかコミュニケーション論でこれはもう対消滅するしかない。

でもまあ研究のお話はできますので、そのとき先生が仰ったのが、きみも他者論ばかりではなくてせっかくプログラミングなどもしているのだから情報系の議論も取り入れたらどうかな? ということでした。実際、当時のぼくはバトラーの可傷性(vulnerability)の議論に強く影響を受けていて、というかいまでもこれがぼくの技術論の根幹にあるのですが、ゼミとかで公共圏における言語的コミュニケーションについて議論しているのに、ぼくだけ「コミュニケーションが持つ根源的暴力性が……」とか、ヤクでもやっているのかみたいな目つきをして呻いている。これじゃあ困ります。なので情報系。ぼくもぼくで例によってオートモードになり「そっすね! 情報系織り交ぜてvulnerabuleに行っちゃいますか!」とか、これ何が憑依しているのか。

けれどさすがに恩師の言葉は先見の明があって、恐らく、あの蕎麦屋での会話があったから、いまでも研究を続けられているのだと思います。本質的なところでテーマなんて変えられません。恐らく、それは何かから与えられたものなんです。でもそれをどう表現するかというのは無限に選択肢があって、これが大変です。それを見つけるのには幸運が必要だと、ぼくは思います。このときの先生の(苦し紛れだったかもしれませんが)アドバイスによって、語りたいことを語る枠組みはかなり拡がったなと、あとになってからしみじみ思いました。

そんなこんなでですね、明確に自分の研究テーマがこれだ、というのはけっこう難しいのですが、難しいなりに技術論ではある。なので今回の翻訳書の解題にも声をかけていただけたのですが、要するにただの偶然と幸運のみ。どこまでやっていけるのかは分かりませんが、体調不良で今年の大半を潰してしまった身としては、書きたい言葉を書けるというだけでも嬉しいものです。書誌情報が公開されたら改めて広告いたしますので(売れてほしい!)、その際にはぜひぜひお読みいただければ。嘘じゃなくて、泣けてくるから。