闘争コミュニケーション

例えば、ぼくは通勤に往復で五時間半前後かけています。だいたいにおいて行きも帰りも遅延するので実質的にはもう少しかかっているでしょう。しかしその間にいろいろ考えることができますし、本を読むこともできるので、それほど悪くはありません……いや、悪いですよどう考えても。物凄いストレスがかかります。毎朝三時間自己暗示をかけ、おしまいに「父さんの行った道だ! 父さんは帰ってきたよ!」とかパズーの真似をしつつ叫んでから出発します。そのストレスの大半は何かといえば、人びとの魂の形が見えてしまう苦痛ですほらまた変なことを言い出した。でもこれ「物語」ですから、大丈夫ですから、凄く大丈夫。とにかく、だから、そういった魂の、しかもぼくにとってちょっと耐え難いような形のそれらと格闘しなければならない……だってものすごくうるさいから……自分の魂を守らないと……などと意味不明な供述を……。

まだ幼稚園にも入っていないようなころのお話。毎晩毎晩、ぼくは「目が痛い、目が痛い」と言っては泣いて、そのたびに母がぼくを負ぶって家の前の川沿いを歩いたそうです。病院に連れていっても原因になるようなものは何もなく、「この子は神経質なんじゃないですか」と医者に言われた母は激怒したそうな。結局原因はいまでも分かりませんし、頭痛は生きている限り悪化する一方です。けれども天使のようだったぼくも既に薄汚れたおっさんとなり、頭痛で倒れてよだれを流しながらも「なあにこんなもの人類に対するハンデさ」とか譫言を言いつつニヤニヤしている。たださすがにこの年になると頭痛を引き起こすきっかけのようなものは幾つか(あくまでも幾つかですが)分かってきて、一つは湯気です。湯気!? そう湯気。あとは尖ったもの。これが問題で、文字もダメになるときがあります。文字って尖ったところがあるじゃないですか。彼って良い年なのに尖ったところがあるじゃないですか。これが始まるともう本も読めません。あとは眼。他人の眼を見ると一気に頭痛が始まるので、ぼくは人の顔を周辺視野でしか捉えられません。これはコミュニケーションにとってはかなり致命的です。始まってしまったときの対策としては目を瞑る、瞼を強く押さえる、などがありますが、ひとと話しているときに突然指で目を押し付け始めて「うがああああ! こんにちは」とか[絶筆]

でもまあ大丈夫です。別にこれが本筋ではなくてですね、まあ要はコミュニケーションって大変よねというお話です。じゃあしなければいいじゃない、という訳にもいかなくて、基本は生存競争。というよりももっと根源的なもので、〝存在〟競争のようなものです。意味が分からないけれど。でもどうでしょう。神林長平の傑作、といっても傑作がたくさんあるのでそのうちの一作ということですが、『永久帰還装置』。これはとても面白いエンターテイメントSFでありつつ、神林長平特有のコミュニケーションを巡る物語でもある。その一節。

〈コミュニケーションは他者との格闘だ〉とわたしは言う。〈おまえはあらゆる生命体が備えているその能力、その使い方、それによる闘争の凄まじさがわかっていない。人間の脳が巨大なのは、それに勝つためなのではない。その闘いのストレスに対処するためなのだ。それに関してまったく無知なおまえは、生命体ではないな。ギブアンドテイク、ということがわかっていない。自分も相手に食われる存在だ、という意識が備わっていない。奪うだけでなにもかも手に入ると思い込んでいる、そういうおまえは、そうバグだ。〉

神林長平『永久帰還装置』ソノラマ文庫、2002年、pp.227-228

まさにこれなんですよね。そしてこのコミュニケーションはあらゆる次元において発生し得る。この世界に在るというだけで避けがたい闘争です。もちろん、単純に勝てばよいとかいうお話ではなくて、生命体が存在するという、その原理です。だからハードだし、とはいえ、だから生きているということでもある。ぼくはいつでも、仕事先から帰ってくると「生きて帰ってきたお祝い」をしています。

また別の闘争。花田清輝の短編に『七』というのがあって、これタイトルが良いですね。花田清輝は評論が知られていますが、短編もとても良いです。同じく下記講談社文芸文庫所収の『悲劇について』も名品です。で、この『七』もまた或る種の闘争についての物語。七という数字に異様なまでに魅了されている主人公ペーテル。隠遁者のような生活を送る彼の手元には美術品として名高いエルトリアの花瓶がある。そしてあるときベルリン財界の大物マックスがそれに目をつけ、金に糸目をつけず買い取ろうとする。ペーテルは最初のうちはマックスの申し出を無視し続けるのだが……、という、不思議なストーリーですが魅力的な短編です。そしてこれはお互いの存在をかけた闘争――ではなく、実は闘争にすらならなっていないということの恐ろしさを描いた物語なのです。

最終的にペーテルは死に、マックスはペーテルの「七」への執着を利用して策略を巡らせ勝利したことを誇ります。

――取引には調査が必要だよ。マックス・シュルツは徹底的に調査する。結果のわからない仕事に手は出さない。/――命の取引きには、なおさらのことじゃ。

花田清輝『七/錯乱の論理/二つの世界』講談社文芸文庫、1989年所収、p.45

けれどもマックスはここで、そもそもペーテルにとっては命さえ問題ではなかったことにまったく気づいていません。マックスは初めにペーテルがお金に対していっさいの価値を見出していないことを知り(だからこそ自分の最大の価値観であり自分自身の価値の裏付けでもあるお金を否定されたマックスはペーテルに殺意を抱くのです)、そしてペーテルが「七」のみを至上の価値としていることに気づいてさえいるのですが(だからこそマックスは「七」をルールに組み込み、ペーテルの選択を完全に制御できると確信するのです)、それにもかかわらず結局は「七」を道具としてしか理解できず、命のやりとりをしかけ生き残ることを勝ちだとしてしまった。それはこの社会においては、あるいはマックスの世界においては勝ちかもしれないけれど、でもペーテルには何も、まったく何も届いていないのです。その断絶。しかしこれはぼくらの日常に極ありふれた闘争の一つの元型でもあります。

だからまあ――なにが「だからまあ」なのかは不明なまま人生は過ぎていくのですが――いつでもへとへとです。でもそのへとへと具合が自分でも面白くって、だいたいいつでもニヤニヤしています。昨日は解題のゲラが届き、いつもよりさらにニヤニヤしながらチェックをしています。単著原稿の方も調子が戻ってきましたし、だからまあ、やっぱり来週もまた、父さんのように生きて帰ってこなければなりません。

追記:『永久帰還装置』、「帰還」を「機関」と誤字っていました……。これ気をつけていてもやってしまいます。還らなきゃならないのに。すべては還っていくし、還さなければならないのに。そもそもぼくはこのタイトル、時折『永久帰還刑事(えいきゅうきかんデカ)』と何故か言っちゃったりして、もうアレです。でも傑作。