リアリティ

最近、ふたたび写真を撮るようになり、といってもぼくが撮れるのは人間以外のものに限られるので小さな虫とか草とか石とか落ち葉になるのですが、とても楽しい。小学生みたいだな。もう少し寒くなると蚊も出てこなくなるでしょうし、そうしたらいまのように痒い痒いと言いながら茂みに紛れて撮ることもなくなります。とにかく、そういう小さなものを撮るのが好きです。普段ぼくらが見過ごしてしまいがちな世界も、そこに焦点を当てて固定すると、当然ですがそこにも美があることに気づきます。善悪を超えた美しさ。存在することの確かさといっても良いかもしれません。いえ、最初からそれらは見えているし、ぼく程度の腕ではむしろその1/1000も写して残すことはできないのですが、わずかに撮れたその写真によって、ぼくが観ている風景を共有することができる。それはとても面白いことです。

ぼくは自分の専門を環境哲学/メディア論と(一応は)名乗っています。ただ環境哲学というのはあまりメジャーではなく、基本的には環境倫理などと類縁的なものとして扱われることが多い。それはそれで間違いではないでしょう。いずれにせよそういったジャンルの研究者たちをずいぶんと見てきましたが、これは批判というよりも疑問として、彼ら/彼女らはあまり小さな景色に関心がないように思えるのです。例えば学会の大会があったりして、研究者たちがぞろぞろ集まってくる。そういったときに足下の蟻んこや落ち葉を見ている人ってあまり居ないのです。いやこれではぼくの方が変な人かもしれませんが、けれどもやはりどうにも肌が合いません。だってきみら環境とか生命とか言ってんじゃん、と思ってしまうのです。人間中心主義を乗り越えるなんて大前提で、もう乗り超えた顔をしている。でもきみら足下見ていないじゃん。落ち葉踏んでんじゃん。

話がマクロだとかミクロだとかではなくて、ではお前は一つも命を奪ったことがないのかなどということでもなくて、その言葉、その立ち居振る舞いにリアリティがあるかどうかなのです。どうしても、ぼくはそこを見てしまいます。最初からウルトラな議論をしているんだぜというのであればそれはそれで構いません。でも生命について少しでも考えるのであれば……。足下を見てくれよと、ぼくはいつも思っていました。

あるいは、例えば環境破壊とか何とか、まあ何でもいいですがそういう議論になるとキリスト教の影響がなどという話が出てくる。そしてたいてい創世記が参照され、人間中心主義がうんたら……などとなります。それはそれで一つのストーリーにはなるでしょう。だけれども……。たとえば

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』マタイによる福音書5章39節

彼ら/彼女らはこの言葉をどう思うのでしょうか。ぼくは自分の論文において(これを言うと毎回意外な顔をされるのですが)常に民主主義について考えてきました。とはいえ、「主義」という言葉には違和感があるので、より人間の本質から生み出されるものとしての「根源的民主性」といったりもしますが、いやまてよ、論文で本当にこの言葉使ったことあるかな。まあいいや。どのみち「民主」という言葉もまた難しいし。しかしいずれにせよ、マタイのこの箇所には、或る人間が自分自身の一切から手を離す途轍もない覚悟が――覚悟するのが〝自分〟であるが故にこれもまた矛盾なのですが――示されています。恐らく、ここにしか、いや他のあらゆる信仰でも文化でも文学でも何でもいい、とにかくこれによって示される在り方にしか可能性はない。ぼくはそう思います。だからぼくは常に怖い。だいたいいつもちびっています。

ぼくは一体何を言っているのでしょう? ぼく自身には分かります。分からないということも含めて。しかしそれを表すには数万の言葉が必要で、しかもそれは結局、数万の言葉では表現できないことを表現するための数万語です。だからお互いに伝わらないし、別段、それはそれで構わないのです。ただ、リアリティのないあらゆる語りには、決して力は宿りません。

blueskyで良い映画の紹介を――といってもわずか数百文字での紹介に過ぎませんが――していて、きょうはLocal Heroについて書きました。これとても良い映画なのでお勧めです。ぼくはこういう単なる紹介が好きで、ただ単に面白いよ、面白いよね、面白いのか、ということをしたい。そこに、我田引水で自分の研究にむりやり接続して暴力的な解釈をしたり、知識の量を誇ったり、ほんとうにそういうのは嫌なのです……。自然につながるのはいいのです。それは凄く良い。そういう研究を私はしたい。けれども、まあぼくの狭く短い経験ですが、純粋な愛を持って映画や文学を語れる研究者を、ぼくはほとんど知ることがありませんでした。じゃあ研究者以外ならいるのかというとそれはそれで難しいですが、けれども、あの異様な特権意識のようなもの、知識マウント、自己が常に先に来て作品はその自己の閉じた眼差しの対象でしかないという異様な酷薄さ、それはやはり研究者特有のものではないかと感じていました。

例えば……今回Local Heroを観ていてあらためて気づいたのは、主人公をサポートする現地支社の社員Danny Oldsenを演じるPeter Capaldi、どこかで見たことがあるなあと思ったらケン・ラッセルの『白蛇伝説』、これ本当に変な映画で、あの時代だから作ることのできたものだと思いますが、そのAngus Flint役だったとか、あるいはホテルオーナー兼会計士であるGordon Urquhartを演ずるDenis Lawsonはスターウォーズで最後まで生き残るパイロット役の人だったとか(子供心にも人がどんどん死んでいくのが嫌だったので、生き残った彼のことは非常に印象深かったのです)、この年になってはっと思い出して一致するような発見があって、それが凄く面白い。でもそれって、そこで伝えたいことって、ぼくが子どものころに、あるいは若いときに観た映画があって、その埋もれていた記憶がふと甦っていま・この瞬間と繋がって、そこから一気に沸き起こる諸々の想念があって……、その全体の雰囲気なんです。知識とかどうでもいい。

なんかね、そういう話をしたいのです。でもって、ぼくにとっての環境哲学とかメディア論とか倫理とかって、そういうことなのです。例によって何を言っているのか分かりませんが。あ、なんか暗いままで終わってしまっ [ここで通信は途絶している。]