それとは別の格好悪さを

ぼくはTSUNDOKUという言葉があまり好きではなくて、いえ本当のことを言えばものすごく嫌いで、漢字で書くのも嫌なのです。その行為、というかその状態が嫌なのではなく、その言葉を平気で使うような精神性が嫌なのです。本って、あっという間に絶版になってしまいますよね。ぼくは90年代から00年代にかけてずいぶん本を買いましたが、いろいろあってその多くを手放しました。いまようやく本を集める余裕が再び少しできてきたときに、じゃあそれらの本をまた手に入れられるかというとこれがひどく難しい。地味地味と集めてはいますが、もう手に入らないものもあるでしょう。ですので、これは欲しいなと思った本は出たときに買っておいた方が良い(実際、ぼくの持っている本には第一版第一刷が多くあります)。そしてそれが重なれば読むのが物理的に追いつかないということも当然生じ得る。それは間違いないのです。

そしてまた、本は大切に保存すればぼくよりもずっと長く生きるものです。だから本を持つということは単に自分が読むためだけではなく、次の時代に残していくための一時的な保管者になるというだけのことでもあります。実際に引き継げるかどうかはともかくとして、理念としては確かにそういった側面がある。

だから、購入した本をすべてすぐに読めなくても、あるいは読まなくても、それ自体が悪いというはずはありません。だけれど、それをその言葉で表現して正当化することに対しては、本読みの本分が直感的に「それはちょっと違うんじゃない?」と抗議の声を上げるのです。そこに何か美しくない居直りを感じ取ってしまう。それは仕方がないことではあるけれど誇るべきことではない。当たり前だけれど、本はやはり読まれなければ命が吹き込まれないものなのですから。本読みってそれができる人のことを言うのですから。

もちろん、ぼくの本棚にも、読んでいない本は幾冊かあります。例えば岩波文庫の『相対性理論』は、いつかすべての義理や雑務から解放されたらじっくり読もうと思っているのです。「時間、空間に対する相対性理論の考え方という、この理論の最も特徴的な部分は[・・・]代数の初歩さえ覚えていれば、誰にでもこの有名な論文の最も素晴らしい点を十分に〝鑑賞〟してもらえるものと確信する」と訳者/解説者の内山龍雄氏も書いていらっしゃるので、物理音痴のぼくでも時間をかければ概要を理解できるのではないかと楽しみにしているのです。あとはチャイティンの『知の限界』、ニュートンの『Opticks』、などなど。もう自分の論文とか関係なしにゆっくり読みたい。それがいまから楽しみです。ちなみにぼくはOpticksはこれを持っていて例によってこれも第一版ですが、ぼくは世俗塗れの人間なのでちょっと自慢してしまいます。とても美しい装幀。

なあんだ、それならこれだってTSUNDOKUじゃないの、と言われれば、けれどもやっぱり違うんだよなあという気がします。その本とぼくの関係は、少なくともその言葉によって示されるような関係性ではなく、物凄く個人的で固有なものであって、だから公言しようのないものです。少なくとも、それは本読みのスタイルを表す言葉ではない……。

本を読むって、何よりもまずコミュニケーションであるはずです。その著者が生きているのであれ死んでいるのであれ、読むときに、そこに対話が立ち現れる。そうでなければ意味なんてないですよね。そして、例えばぼくらが誰かをふと目にしたときに、面白そうだな、魅力的な人だなと思って、でもいまは忙しいとか気分ではないとかで、とりあえずその人を自分の家に連れて帰って、ぼくがその人と話す気になるまで家に居てもらう。そんなことはあり得ないわけです。

もちろん、本は人間そのものではありません。繰り返すけれど、だからTSUNDOKUという言葉で自らの行為を正当化したり居直ったり何故か誇らしげにさえ公言したりするのが嫌なだけで、それが指し示す行為自体を否定しているのではありません。でも最近、こういう居直り、開き直りの言葉が増えてきているような気がして、それがとても怖い。そもそも本を読むひとであれば、言葉に対して鋭敏であってほしい。いやあろうとしてほしい。ぼくだって全然だめですけれども、少なくともそうでありたいと願っています。だから余計に……。

暗い話になってしまった。本来のぼくはとにかくいい加減で能天気なのです。もうこれだけはぜひ知っておいていただきたい。

それはともかく後期の非常勤が始まったのですが、けっこうこれ、暗い話題が多い講義になります。技術者倫理なので、要は問題が起きたときにどうするかみたいなお話をせざるを得ないわけですね。しかも答えは出ない。もちろん、学問としての枠組みはあります。けれど或るXという事例に対して倫理的にはこう応答するのが正しいのじゃ、みたいなものはない。様ざまな枠組みを使ってそのXを多角的に眺めてみることはできるようになるかもしれないし、自分を客観視することも多少はできるようになるかもしれない。それはそれで非常に大切なことです。でも本質的に答えはない。ぼくはそう思います。答えがでないなかで悩み続けること、悩み続けることを引き受けること。

ぼくは体育会系って嫌いでして、もう筋肉嫌い。根性とか大嫌い。武道を学べば礼節を知ることが……、とか聞くと、いわゆる反吐状の物質が口状の生体器官から噴出するくらいです。んなもん人を殴る訓練をしなくても端から知っとるわい、と思う訳ですよ。そんなことを言いつつ筋トレはしているし、ぼくの行動原理は気合と根性が9割くらいを占めている。なので講義では「倫理って答えがない問題ばかりで疲れちゃうかもしれないけれど、普段から悩まないといざというときに悩むことさえできなくてびっくりするから、まあ筋トレだと思ってがんばろう!」とか言っている。どうなんでしょうねこれ。いや本当に筋肉とか根性って嫌いなんですけれども。

だけれど、こんな話をするときには、いつもティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳、文春文庫、1998)を思い出します。とても良い本なのでお勧めですが(とはいえ、ぼくは翻訳者は村上春樹ではなく中野圭二の方がよかった)、ここに印象深い挿話があるのです。

私は思うのだけれど、人は誰しもこう信じたがっているのだ。我々は道義上の緊急事態に直面すれば、きっぱりと勇猛果敢に、個人的損失や不面目などものともせずに、若き日に憧れた英雄のごとく行動するであろうと。[・・・]どうやら私は、勇気というものは遺産と同じように、限定された量だけを受け取るものだと思い込んでいたようだった。無駄遣いしないように倹約して取っておいて、その分の利息を積んでいけば、モラルの準備資産というのはどんどん増加していくし、それをある日必要になったときにさっと引き出せばいいのだと。それはまったく虫の良い理論だった。そのおかげで私は、勇気を必要とする煩雑でささやかな日常的行為をどんどんパスすることができた。そういう常習的卑怯さに対して、その理論は希望と赦免を与えてくれた。

『本当の戦争の話をしよう』「レイニー河で」、pp.71-72

『本当の戦争の話をしよう』は短編集でして、上の引用は「レイニー河で」からのもの。ベトナム戦争時に徴集され、良心的兵役拒否をするかどうか悩み続ける主人公。「私は卑怯者だった」というラストの言葉がほんとうに重い。これと「勇敢であること」は、勇気について考えるときぜひ読んでいただければと思う短編です。あとは同じくティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』(中野圭二訳、白水社、1990)、これも短編集ですが「賢く耐える」、「勇気とは一種の保持である」も強くお勧めです。

でも、まあそうなんですよね……。いま目の前にあることに相対できない人間が、応答できない人間が、その十倍、百倍のできごとに対して責任をとれるはずがない。難しいことだけれども……。そう、やっぱり難しいんです。答えもないし、正解を引き続けられる誰かさんも恐らくいない。だからといって居直るのも違う。それは絶対に違う。「スミス中隊長は自分は臆病者だということを、ためらいもなくその言葉を使って認めた」(「賢く耐える」p.176)。これは「レイニー河で」のラストにおける「私は卑怯者だった」とはまったく異なる、まさに居直りの言葉としての臆病さです。

そしてまた、ぼくらは誰だってそんな超人的にはなれないし、なれなくて良いのです。居直りとしてではなく。

そして臆病者でもなければ英雄でもない人々、恐怖のあまり大粒の汗を浮かし、失敗し、泣きべそをかき、ふたたびやりなおす人々――アルファ中隊の大多数の兵士たち――彼らでさえ、名誉を挽回するチャンスはあるかもしれない。格言のように簡単に断定されてしまうと、普通の人間は救われない。なんとかやってみたいのだけれど、すでに一度ならず死んだ人間、銃弾の下で恐怖におののき、死の行為を経験し、それを切り抜けてみごとに生き返った人間は救われない。降ってくる弾が瞬時止まる。スローモーションのように、弾丸の形がはっきり見え、光っている。音が消える。終わりかと思って、おそるおそる顔を上げて窺う。それから他の兵隊たちを見て、彼らの目の奥に、自分自身の深く陥没した腹を見てとる。歯医者の椅子の上でノヴォカインから醒めて行くように、恐怖がゆっくりと消える。次回はもっとちゃんとやるぞと、ほとんど唇まで動かして、約束する。そのこと自体が一種の勇気である。

『僕が戦場で死んだら』「賢く耐える」p.179

そんな感じで訳の分からぬことを話しつつ授業をしています。受講生さんたちには、こんないい加減で適当なやつでもまあ半世紀はどうにかこうにか生きていられるんだなという、そういう生きた実例として私を見てほしい。そういうことを私は伝えたい。現場からは以上です。