私は結界を張る

信仰心の対極にあるにもかかわらず神学士を持っているクラウドリーフさんは、同じように、土を触れないにも関わらず農学の博士号を持っています。最近、とある事情があって、ほんの数日ですが、小さな植木鉢を家のなかに入れなければならなくなりました。いったいそれがどうしたというのでしょうか。普通のひとには分からないかもしれませんが、土を怖れるクラウドリーフさんにとっては生命の危険を感じる非常事態です。いえ、土そのものが怖いわけではありません。土のなかに潜む、あのあれ、あれあれ、口にだすことすら憚れる名状しがたきあの者どもが怖い。鉢植えのなかとか、想像するだにふんぐるいむぐるうなふという感じです。手のひらに載るような植木鉢ですが、もうそれだけで、その鉢植えを中心に家全体が不定形の悪夢に満ちた異界へと変貌します。気分はもうエイリアンのシガニー・ウィーバーです。「なーに、たかが有機体じゃないか」その有機体が怖いっつってんだよ! と彼は映画に逆切れします。

けれども、クラウドリーフさんはこれでなかなか才能ある魔法使いなのです。彼は台所に行くと何やら持ちだしてきて、さっそく植木鉢の周りを大きく取り囲むように結界を張りました。そう、塩です。ぼくの、いや違うクラウドリーフさんの苦手なあれは塩が苦手なので、出てきたとしてもびっくり、慌てて植木鉢へと引き返していくことでしょう。

これは、歴とした魔術です。クラウドリーフさんは、妙に座った目つきでそんなことを言います。彼は自分のことを20世紀最高の合理主義者などと思っていますが、同時に魔法を使うこともできると思っています。別段、それは彼のなかで矛盾するものではありません。というより、矛盾などあってあたりまえです。ぼくは本当に嫌いなんですけれども、何かっていうと「西洋」に対する「東洋」みたいなものを持ち出したり、あるいは「一神教」に「多神教」を対置したりすることってありますよね。で、たいていそういう文脈だと二元論はダメだみたいな話になるけれど、その主張自体が二元論だったりして、聞いているとその浅薄さに頭がどうかしそうになります。

もちろん、その混沌を混沌として受け止めるだけではなくて、そこに言葉でもってあるかたちを呼びだすこともできるし、ぼくらはつねにそうしている。でも、それだって立派な魔術です。それは理性なんかではなくて、何よりもまずはじめに魔術なんですね。言葉が持っている力というのは、そういうものです。混沌とした世界に全面的に触れているぼくらから生みだされるからこそ力を持つ。直感的にそのことを理解していないのであれば、結局のところそれは魔術を使うのではなく、魔術に使われているに過ぎない。そう考えてみると、研究者を名乗る多くの人びとがつまるところ式神のようなものでしかないということにも納得がいきます。

ある日、とある裏通りを歩いていました。すると何やら微かな噴出音とともに、化学的な匂いがただよってきます。「うっ!」クラウドリーフさんは呻きます。これは殺虫剤です。草生した敷地のむこうに古びたアパートがあるのですが、その一階の部屋で、おじいさんが殺虫剤を噴射しているようです。ゴキブリでもいたのでしょうか。少しもごもごした声で、おじいさんが「死ねよ」と言っています。クラウドリーフさんはこういうときだけ無駄に耳が良いので、微かに届く様々な音から、その部屋の光景をまざまざと思い浮かべることができます。「死ねよ」ふたたびおじいさんが冷静な憎しみをこめていいます。呟くでも叫ぶでもない、その自然な発声が逆に鬼気迫る雰囲気を生みだしています。ともかく、クラウドリーフさんはその言葉と殺虫剤によって死にそうになります。這う這うの体でそのアパートから遠ざかりました。

家に帰り結界を確認すると、どうやら最初から失敗していたらしく、大きく抜け道があることに気づきました。所詮、クラウドリーフさんの魔法なんてこんなものです。まあ、それはそれだと彼は諦めます。その抜け道から何がでてきたのか、そもそも植木鉢のなかには何かがいたのか? 彼には何も分かりません。家のなかは既に太古の恐怖に満ちた暗黒宇宙と化しています。だけれどもその混沌と恐怖が、彼にとってはなぜか心地よいのです。

凡庸な一日

きょうはほとんど機能を停止していた。実質、この48時間で8時間程度しか起きていない感じだ。でもまあ、調子は悪くない。ほんとうに、ちょっと薄気味が悪いくらいに気持ちが落ち着いている。ただ、それは薬を飲んでいるときの感じに似ていて、どこかぼんやりとした、霧のなかの凪いでいる海のような雰囲気。実際、いまぼくには早急にやらなければならないことがあるはずなのだけれど、それが何かを思いだせない。まあ、生き死にに関係することではないし、そうである以上、無理をして思いださなければならない理由もない。どうせくだらない、学会だか義理だかの仕事だろう。

あまり信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくはプログラマとしてはけっこう腕が良いほうだと思っている。もっとも、これでかれこれ十数年食べている――しかもその大半をフリーでやっている――わけだから、腕が良くなくては困る。つい数日前、そろそろ終わりが見えてきているプロジェクトのドキュメントをまとめつつ、何故こんな、仕事と研究とのどっちつかずの生活をしているのかふと疑問に思った。大学やら学会やら、そういったものに少しばかり関わって思うのは、本当になかなかに相当に、これは歪な世界だなあ、ということだ。別に、悪人やら人格破綻者ばかりがいるということではない。そういった意味でいうのなら、むしろほかのどことも同じ、ありきたりの人びとの方が多い。そしてそれは悪いことでは決してない。ただ、生きていくうえでの当たり前の覚悟というものがないひとが多いのは、主観的にだが強く感じる。生きていくことへの覚悟。それは、自分が踏みだす一歩先に踏みしめるべき大地があるかどうかが分からないということを受け入れる覚悟だ。自分には一歩先の 大地を踏みしめる権利があると無邪気にも思い込むこと、踏みしめるべき大地があると愚かにも信ずること、あるいはないかもしれないと怖れ踏みだせないこ と。それらはみな等しく、世界から断絶した自己への執着という醜さを持つ。

いや、そういった人間はどこにでもいる。ただ、思想やら哲学やらを口にする連中がそうであることの醜さを、ぼくは許容することができない。自分でも驚くほどの無関心さを持って、そういう人間との関係性を絶ち切ってしまう。

とはいえ、こんなことを書くことには、もちろん何の意味もない。切れるものは切れるし、切れないものは切ろうとしても決して切れない。そしてすべてのものは、必ずいつかは切れていく。

* * *

面白い話をしよう。しばらく前までの半年くらいの間、磨りガラスの向こうに黒い人影がいつも見えていた。飛蚊症の変化形のようなもので、別段困るほどのものでもなかったけれど、どこにいっても磨りガラスがあれば必ず、その向こうに無言で佇む黒い人影がある。おかしなことに普段はそんなことを忘れていて、見た瞬間になってようやく、ああそういえば俺は最近こんなものを見ているんだなあと思いだす。普段から飛蚊症がひどいので、それと脳の疲労が変な風に結びついてしまったのだろうと勝手に思っていた。

その次に、これはほんの二週間ほどで終わったのだけれど、だいぶん参ってしまった幻覚(というより思い込み)があった。言葉というのは恐ろしいもので、簡単に他人に伝染してしまう。だからここには書けないけれど、これには本当に消耗した。ただ、ぼく自身は子供のころからこういうスイッチが入ってしまうことが多々あって、しばらくすれば止むことが分かっているので、どうにかやり過ごしている。

面白いというのは、いやそれほど面白くもないかもしれないけれど、こういった内面的な不整合というものが止まるきっかけというのが、ぼくの場合だけかもしれないけれど、たいていは外面的な不具合の発生だということだ。今回は左の脇腹にそれが出て、めずらしく病院に行ってきた。もちろんそんな深刻な話ではなく、薬をもらう程度の意味でしかない。ただいずれにせよ、ぼく自身にさえ判然としないような、心の奥底にあるぐちゃぐちゃとした不整合の塊が外面化することによって、それは対処できる何ものかになる。人間は本能的にそのようにして名づけられないナニモノカを処理していく。外に現れてしまえば、それは極普通に、勝つか負けるかはともかくとして、勝負できる何ものかになってしまう。とてもシンプルな話だ。

このブログを読んでくれているわずかなひとにはいうまでもなく、ぼくはこんなことをこの言葉通りに信じているわけではない。要するにこれは物語だ。だけれど、同時にそれは、ぼく自身にとっての現実の世界を生みだすための真実の方法でもある。

* * *

生きるというのは、本当に面白い。その面白さは、生き残りゲームの面白さだ。生物学的な意味で生存しているということではなく、自分自身をかけ、自分自身を未来にどれだけ投げだし続けていけるかという究極の独り遊び。だけれどそこにただ何もない空白があるだけなら、ぼくらはぼくらを投げだしているのか投げ戻しているのかを判断することはできない。無数の誰かさんたちがそれぞれに自分を投げだしているからこそ、ぼくらは自らを位置づけることができる。みな自分を投げだし、時折投げ戻し、立ち止まり、投げる先を間違えてどこかへ転げ落ちてゆき、あるいはその場にとどまり続けてやがて腐る。

ただひとつだけはっきりしていることがある。もしぼくらがぼくらを投げださないでいるのなら、ぼくらは、最後の最後に自らを投げだしたとき、存在しない神にぶち当たることができないだろう。最後の問いを投げかけられることもついにないだろう。ぼくはぼくがそうなることを想像するとき、途轍もない恐怖に襲われる。それは恐怖を感じる自分が結局は存在できなかったことに対する恐怖だ。

きょう、何をしなければならなかったのか、まだ思いだせない。思いだす必要があるかどうかさえ、ぼくにはよく分からない。

書を捨てよ……捨てたらきっと、きみには何も残らないけれど

海外にいる友人がひさしぶりに一時帰国し、ここしばらく、友人と相棒と三人で何度か会っていた。ぼくにとって数少ない、スイッチを入れる必要のない時間。体力的には無理をしてしまったけれども、代えがたい時間だから、それはそれでかまわない。今回、なぜか分からないけれど、電子書籍(というのだろうか、興味がないから良く知らないのだけれど)についてずいぶんと話をした。友人はニュートラルな立場で、ああいったものが今後どうなっていくのか、純粋に興味を持っているようだった。ぼく自身も、電子書籍云々ということについては基本的にはニュートラルに、というより、どうでもいいと思っている。ただ、ぼくのなかでは、あれは読書ではない。否定するつもりはなく、単純に、電子書籍を専用端末で眺めるような行為を読書だといわれると、無性に不快になる。

読書というのは、あたりまえかもしれないけれど、ただ単にそこにある字を読んで理解するという機能によってのみ定義されるものではない。表紙や中紙の感触、頁を捲るときの微かな音、紙の匂い、それらのすべてだ。開いている頁の曲面に光が当たり、影を作る。データではなく「もの」として存在するそれは、複雑で繊細で、でも確かな感触をぼくらにもたらす。そこにはその本が作られてからぼくの手に届くまでの、ささやかかもしれないけれど歴史さえもが含まれている。自分にとって大切なある一冊の本を読んだときの記憶は、本とぼくを超え、そのときの周辺世界すべてを含め、その総体として、いつまでもぼくのなかに留まり続ける。ぼくにとっては、それが読書と呼べるようなものだ。

ぼくはいわゆる懐古趣味というものが嫌いだし、貴族趣味というものにも虫唾が走る。知識がより広く、より安く、より手軽に手に入るようになるのであれば、それ自体はすばらしいことだ。本読みとして、初版本に執着したり私家版に目の色を変えたりするのは、ひどく品のないことのように思える。もっとも、あまりに露骨な啓蒙主義というのも、それはそれで鼻につくものではあるけれど。だけれども、ぼくが思うのは、そもそもある側面において、レニングラード写本とグーテンベルク聖書を比べること自体がナンセンスだということだ。繰り返すけれど、電子書籍がどうなろうと、ぼくの知ったことではない。ただ、それを読書と呼ばれることに対する違和感があるということだけは確かだ。

……いや、違うな。電子書籍云々はどうでもいいのだ。紙媒体でそこに書かれている文字を読むというだけであれば、ぼくにとってそれもまた読書ではない。たとえば時折聞く読書教育など、ぼくはどうしても嫌悪感を感じてしまう。本を読む、ということは、教わるようなものではない。まして学校などというシステムの中で、さらにシステム化された方法で分かるものなどではない。第一、いかに「自由に読む」ことの重要性などが謳われたところで、それはシステムの許容範囲内における自由でしかない。そこでカーマスートラを音読しながら一人実技をしても良いというのだろうか。いやぼくだってそんなことをされたら困るけれど、その通りで、読書というのは本来、システムのなかでされたら困ることなのだ。例えぼくらが手に持っている本が、資本主義市場経済システムのなかで生みだされた商品でしかなかったとしても、読書というものがもしあるのだとすれば、それは軽々とそんな枠組みを逸脱していってしまう。

だから、いままでの話をぜんぶひっくり返してしまうけれども、(形式として)電子書籍と呼ばれているものを読むなかにも、きっと読書は生まれるのかもしれない。必然としてではなく、つねに偶然として。本の形態とかそういったものは置いておいて、それとはまったく独立してそこに通底して――メディアの固有性があることなどは分かり切っている――読書というものはつねに一回性を持って、天啓のように突然ぼくらの身にどうしようもなく降りかかってくる。その天啓を知らないひとを、ぼくは本読みだとは思わない。

もっとも、どのみち、読書などということは、それほど大したものでもない。というより、そもそも、他人に対して自慢するようなものではまったくないだろう。狂信者であれば、神の啓示を受けたと叫びつつ町を徘徊することには美しさと悲しさがあるのだろうが、たかだかシステムから脱落している程度でしかない人間が信仰とやらを声高にアピールする姿には、醜さと愚かさしか見てとることはできない。少なくともぼくは、所詮その程度の意味での本読みだ。

それでも、ぼくはけっこう、本が好きな人間だ。いつか、ぼくは持っているすべての本を処分しなければならないと思っている。

跳躍にはまだ足りないけれど

2ヶ月近くブログを書いていなかった。自転車の乗り方は忘れないというけれど、ブログの書き方なんて簡単に忘れてしまう。いや、そもそもぼくは、言葉の話し方でさえ、けっこう簡単に忘れてしまう。ともかく、書かないことには先に進まない。進み始めてしまえば、案外、自転車のようにぼくをどこかに連れていってくれるかもしれない。どのみち、どこかへ行かなければならないわけでもないし、いまさらどこかへ辿りつけそうな人生を送れるわけでもない。

しばらくの間は、学会の雑務と本職とに追われていた。それでも、とにかく学会発表を一つこなし――といってもぼくにとって学会発表というのは論文の構想を練る場としての意味合いしかなく、これはこれで問題なのだが――、9月に出版される本に載せる論文も一本、ほぼ書き上げた。本屋で、立ち読みでもいい、ラストだけでもいい、もしきみの目に留まってくれれば、これほどうれしいことはない。

昨日は執筆者の幾人かが集まり、それぞれの原稿を叩きあった。それなりに通じるところはあるし、通じないところもある。手の内を曝けだすところもあるし、隠し続けるものもある。自分が自分に何を隠しているのか分からないことさえある。だからこそ、語れば語った数だけ、書けば書いた数だけ、そこにはその瞬間だけ存在するかたちが浮かび上がってくる。

今回の論文では勇気という言葉をけっこう使った。だけれど、この勇気という言葉も、恐らくまったく伝わりはしないし、ある面においては、伝わらなくても良いと思って書いている。研究者としてはどうなのかという気もするが、そもそもぼくは研究者などと自己規定するつもりはない。

勇気という言葉には善なるイメージがつきまとう。だけれども、ぼくにとってはそうではない。勇気とは、究極的には、見知らぬ誰かに殺される瞬間に手を広げ受け止めることだ。そして、自分の人生には何の意味もなかったことを受け入れることだ。救いはなく、自分が塵屑であったことを認めることだ。だけれど、その殺される瞬間に、ぼくを殺す誰かさんが確かに存在し、恐怖と苦痛にのたうちまわるぼくが存在する。もちろんこれはメタファーだし、そして同時に、すべての瞬間において、ぼくらは存在しない神によってけれども殺され続けている。存在しない神をそれでもなお殺し続けている。その関係のただなかからこそ、またそこからのみ、責任=倫理とは何かということを問うことができる。

いったい何を言っているのだろうか。たぶん多くのひとには伝わらないし、ぼく自身にもきっと良くは分かっていない。そしてたぶん、分かるものではない。それでもそれはそこにある。

最近、また旧約聖書を読み直している。いろいろ好きな個所はあるけれど、なかでも好きなのは、やはり創世記とヨブ記だ。そこには、なぜかいつも戻ってきてしまう。自分が神学科などにいたから一般的な状況というものはよく分からないが、何も根拠がないことを承知で一般論をいえば、キリスト教徒ではない日本人の多くが、聖書などまったく読まないか、あるいは変にマニアックで歪んだ知識だけを持っていることが多いように思う。もちろん、ぼくだってそうなのだが、それでも地味に読み続けているうちに、何となく(自分にとって)見えてくることもある。ただ、それは積み上げれば見えるものではない。頭では分かっても感覚では理解しにくいこともあるし、逆に、感覚では理解していても、アカデミックな議論には耐えないこともある。レヴィナスの責任概念などを考えると、特にその難しさを感じる。どちらが正しいとかではなく、ただ、何だか面倒くさいなあと、最近漠然と感じている。

今季はあと二本論文を書かなくてはならない。学会誌の発行にかかわる雑務も一気に増えそうだし、後期の講義も、できればレジュメを大幅に書き直したい。いまから後期の惨状が目に浮かぶけれど、まあ、気持ちの上では余計なものとの接続をだいぶ断つようにし始めているし、どのみち、どうにかしなければならないことはどうにかしなければならない。どうにもならなければ、それはどうにもならなかったというだけのことだ。

何だか暗い雰囲気になってしまったけれど、そんなこともない。ぼくは徹底的に能天気な人間だ(何しろ、いかに取り立てられようと、ぼくらに支払えるのはたかだか自分の命に過ぎない。問題は、ぼくらが他者とつながるとき、それ以上のものをぼくらが手にしてしまうということだ。だからぼくらは、生きている限りにおいて生きるより他に選択肢を持ち得なくなる……)。相棒と二人で、近場に旅行に行こうなどと計画をしているし、今年の後半は再びN.Y.に行こうかなとも思っている。お金や時間をどうするかなどということは、まあ、その時に考えれば良い。しばらくは今回の論文に追われていて書く余裕がなかったけれど、また写真論についても読んでいきたい。少し長めの物語を書いてもみたい。

夜中、洗い物をしているとき、跳ねた水がシンクに足跡を残した。土踏まずの中に閉じ込められた気泡が消えるまでの間、マクロレンズを構え、写真を撮り続けた。

一瞬交差するぼくらの時間

相棒が陶器の小鳥をくれた。むくむくしていて小さくて、ちょっと尊大そうな顔つきが可笑しい。ぼくらが出会ってからの時間を記念してのものだという。

上の写真は、タムロンの60mmで撮ったもの。最近は細かな撮影データとかはどうでも良くなってきた。

昨日、注文していたマウントアダプターが届いた。数年前、彫刻家の家で発見した古いミノルタのAマウントレンズがα300に装着できたのには、(知識としては当然だと分かっていても)感動した。だけれど、父の遺したキヤノンのFDレンズが、いまぼくの使っているα700で使えるというのには、同じくらい感動する。感動というのは安っぽい言葉ではあるけれど、まあ、ぼく自身の感情が安っぽいものだから仕方がないし、安っぽいということが悪いことだというわけでもない。無論良いことでもなく、単にそうだというだけの話。安っぽさや嘘っぽさのなかにも、その奥に「どうしようもないこと」があるのなら、それはその言葉通り、どうしようもないことだ。

ともかく、下の写真は、そのFDレンズで撮った。ぼくが生まれた年に発売されたレンズ。描写の甘さとかなんとか、そういったことはあるかもしれないけれど、でもそんなことはどうでもいい。

相棒とであってから過ぎてきた時間、父がレンズを買ってから過ぎてきた時間、ぼくがみっともなく生き残ってきた時間。そういったあらゆる個別の、唯一の時間の流れが、ある写真の、薄っぺらい表面で、一瞬交差する。交差してまた離れ、それぞれの方向に向かって再びどこまでも流れていく。

ぼくが写真を好きなのは、きっと、ぼくら在るものがそれぞれにそうであるかたちの全体を、一葉の写真があらわしているからなのだとぼくは思っている。

黴て曇ったレンズの向こう

いつも通りノートを抱えて都心に出て、彼女の仕事が終わるのを待ちながら、喫茶店でブログを書いたりしています。のんきな生活。ストレスで耳が聴こえにくく、頭痛でしばしば吐いてしまったり(でも口から出したことはここ数年ないんだよ、と意志の強さを主張すると、むしろそれは頭がどうかしている感じだね、などと言われたりします)、階段から盛大に転げ落ちて足を捻挫したり。だけれど、それでも、ここ数年の柵を絶つなら絶ってしまって良いのだと思い極めてからここしばらくの生活は、わずらわしい雑務、片づけなければならない仕事が山積みではありつつ、どこか奇妙に静かでのんびりとしています。

ぼくは、春が嫌いです。などというと格好つけとか「人とは違う俺凄い」アピールとか思われて困ってしまうのですが、本当のことをいえば他人にどう思われようが困ることなど何もなく、ぼくは春が嫌いなのです。だけれど、小さな虫たちが元気に地面を這いまわり始めるのを見ると、やっぱり、それはそれで幸せだよね、などとも思ったりします。

こう見えて、クラウドリーフさんはけっこうしたたかなひとです。したたかって、強かと書くんですね。なんだか漢字で書くとちょっと印象が変わります。ともかく、忙しいとか体調が悪いとか、言葉通りに捉えない方が良いのです。彼はけっこう、嘘で自分の生活を塗り固め、ないところから時間を無理やり引きずり出し、彼女と旅行に行ったりもしています。普段彼は本を買う以外にお金のかかる娯楽というものを一切しませんし、身だしなみにも気を遣いません(洗濯はしていますが)。ですので、こういうときくらいしかお金を使うことはないのです。少しばかり値の張る旅館などに泊まって、でも、いろいろなものすべてがなんだか寂しくなって、彼女とふたりで、寂しいよね、などと笑いあったりします。

論文を書く暇もなく、仕事の合間に学会絡みの雑務を少しずつ片づけていきます。クラウドリーフさんは相棒が生きている限りは生きるつもりでいるのですが、彼女の家系は長命で、一方、彼の家系はそれほどでもありません。つき合うのはけっこう大変ですが、ともかく、下手をしたらあと60年以上は生きなければならない可能性もあります。いくら嘘に関しては、嘘に関してのみは天才的な技能を持つクラウドリーフさんでも、さすがにあと何十年かを嘘だけで乗り切っていけるだけの自信はありません。いったいどうしたものか。困ったものです。まあ、客観的には道に迷っていても、歩ける体力がある限りは迷ってはいないと思い込んでどこまでも歩いていく彼のことです。何かしらどうかしら、きっとなんとかしていくのではないでしょうか。

昨晩は少し疲れてしまい、公募用の証明写真を撮るついでに買ってきたクリーニングキットで、レンズの手入れをしていました。彼の部屋の押し入れには、昔彼の父が使っていたキヤノンのレンズが眠っています。父の晩年、既にそのレンズにはカビが生えていました。それでも、割れていない限りは、何かしら写るものです。クラウドリーフさんは、いくつかの理由からキヤノンが好きではありません。だけれども、父の若いころに使っていたレンズで何かを撮るというのは、それはそれで、ちょっとした冗談として――どのみち彼の人生など、相棒に関わる以外のことはすべて冗談なのです――洒落たものではないだろうか、などと思っているようです。

ネットで調べてみると、キャノンのレンズをαマウントに装着するためのマウントアダプターは、あまり種類がないようです。Fotodioxというアメリカのメーカーが出しているものがあるそうですが、これは日本で手軽に買えるという感じでもありません。あとは中国製のKT-MAFD-WLというのが手に入るそうで、早速注文してみました。来週には届くでしょうが、それが少しばかり楽しみです。届いたら、α700に父のレンズをつけ、ひさしぶりに御苑にでも行ってみようかと思っています。カビたレンズに無理やりのマウントアダプター。碌な写真など撮れないかもしれませんが、所詮、クラウドリーフさんの眼に映る光景など、世界がそうだから、ではなく、単純に彼自身が腐っているが故に、碌でもない光景ばかりです。

それでも、彼は彼なりにこの世界を愛していると言います。ほんとうかな、とぼくはちょっと疑ったりもしますが、彼の人生が相棒を中心としてまわっているものである以上、そこに冗談が紛れこむ余地はありません。そういった彼の狂気に若干恐怖を感じつつ、それでも、ぼくは彼のそんな生き方が、いまのところは気に入っているのです。

居場所がないなんて言うけどさ

思想系の良いところは……などと一概にいうことはできないけれど、特定のフィールドがなくとも研究ができるというのは、少なくともぼくは気に入っている。もし考えることがあるのなら、そして考えることがあるからこそこんなことをやっているのだけれど、必要なのは自分の頭。あとはせいぜいノートと鉛筆があればこと足りる。読みかけの本を鞄に入れ、都心に出て、どこかしら空いている喫茶店でも探せば、とりあえず数時間はそこが自分の研究拠点になる。いや、研究拠点はいつだって自分の頭のなかにある。

とはいえ、やはり自分の研究室を持てるのであれば、それはそれでとても魅力のある話。正直なところ、関われば関わるほど大学という空間にはほとほと愛想が尽きる。それでも公募情報に目を通したりしているのは、きっと自分の「部屋」を持ちたいからだ。いや、もちろんいまだって自分の部屋くらいはあるのだが、そういう意味ではない。この頭のなかにあるものの具現化。でも、つまらない願望でもある。ほんとうのことを言えば、本だっていらないし、何かを書きのこす必要もないし、場所を持つ必要もない。

いずれにせよ、これはもうはっきりしていることだけれど、千にひとつの偶然でどこかの大学に潜り込めたとしても、ぼくはきっと三年間で弾きだされる/自分を弾きだすことになる。相棒を唯一の例外として、ぼくはそれ以上の期間に渡って、誰かとまともな関係性を保つことができない。いままで所属していた研究室との関係性も、これ以上は続けていくことはできそうもないことがいよいよ明確になってきた。無論、義がある限りにおいては協力を惜しむつもりはないけれど、何人かとの個人的なつながりが微かにでももし残るのであれば、いまはそれで十分だ。

いったい、これは何なのだろうか、と思うことがある。ぼくはそれほど特殊な育ち方をした訳ではない。むしろ平凡の赤道直下を歩き続けてきたような人生だ。にもかかわらず、どこかに居つくことができない。そして、そのことを後悔したことも、苦しいと思ったこともない。いや、存在している以上は苦しいのはあたりまえで、ことさら苦しい苦しいと叫ぶ人間をみても、ぼくは侮蔑と嫌悪しか感じない。生きている限り、ぼくらには義務と苦痛と罪だけがある。義務と苦痛と罪がある限りにおいてのみ、ぼくらは生きている。ぼくは、そう思っている。

ぼくがいた研究室では、脱近代というのがキーワードのひとつだった。らしい。ぼくは落ちこぼれの上に外様だったので、結局最後までその辺の議論にはうまく波長を合わせることができなかったのだけれども、ともかく、そういうことらしい。それはそれで、きっととても重要な論点なのだろう。けれど、ぼくにはどうもそういうものが感覚的によく分からなかった。

ぼくらの生き方や考え方は、なるほど確かにぼくらが生きている時代、あるいは社会によって方向づけられ、制限されている。でも、どちらが正しいということではなく、ぼくは、社会や時代から語り始められる何かに、つまるところあまり興味がない。ぼくの目に映るのはただ、あるひとつの魂の痛みであり、恐怖であり、要するにその魂が存在するということ、それ自体だ。それはあらゆる時代や社会を超えてつねに普遍的に在り続けるもので、かつその瞬間瞬間にのみしか現れない、取り返しのつかないものだ。そこにあるのは価値でも善でも希望でもなく、どうしようもなく、取り返しもつかない、恐ろしいまでに単純な事実としての「在ること」でしかない。

脱近代の話に戻れば、ぼくは仕事柄もあるのか、近代というものに対する肯定的な立場にあるように思われているし、実際、そうなのかもしれない。ただ、本音をいえば、どうだって良いんだよね、とも思っている。どのみち、ネットによって可能になったコミュニケーションが……、などと語るとき、明らかにぼくが指しているものと、肯定否定を問わずそれを語る人びとが指しているものと、一致する部分はほとんどない。肯定的に語るときでも、ぼくに見えているのは、そこにあって剥きだしのまま傷つき、潰されていくひとつの魂だ。肯定的、という言葉自体が問題で、ぼくはそこに、しつこいようだけれども、希望や善をいっさい含むつもりはない。

最近ようやく気づき始めているのは、そして何をいまさらと言われそうだけれど、近代を問い、それに批判的なひとは、これは誤解をしてほしくはないのだけれど、責めているわけでも批判しているわけでもなく、きっと根っからの近代人なのだ。ぼくには、やはり良く分からない。風土や伝統や共同体。実際のところ、ぼくはそういったものの必要性を感じたことはない。場所も、歴史も、仲間もいないけれど、それでも、どうしようもなく「いま、ここ」にぼくの魂が在り、どうしようもなくきみの魂もある。

倫理というものは、究極的には、すべてを剥がされ、剥きだしになった状態で、存在しない神と対峙するときにぼくらに突きつけられる何ものかだ。ぼくらは存在しない神に対して、何もないにも関わらず、にも関わらずだからこそ、俺は俺だ、と答える。そうして、そのただ独りであるということには同時に、独りというものを照射するきみの存在が分ち難く映し出されている。その三角形それ自体にこそ、おそらく倫理が存在している。

***

この数年は、時折訪れる例外的な時期で、いま、ひさしぶりにぼくはぼくなりのかたちに戻りつつあるのを感じる。もちろん、雑務は相変わらずたくさんあるし、公募にだってしつこく応募していくつもりだ。だけれど、それは場所や帰属を求めてのことではない。誰もがそうであるように、ぼくもまた、どこにも結びついてはいないし、同時にどうしようもなくきみに縛りつけられている。真実は、たぶん、ただそれだけだ。

いま、喫茶店にいる。近くの席にはきたならしい声で何かを話している誰々さんたち。きたならしいというのは、声の質のことではない。その存在の在り方だ。

ぼくはもう、自分にとって醜いものに容赦をするのをやめることにした。