例えば苦しい思いをしている誰かに対して、私も昔はつらい思いをしてね、と語りかけること。もしかすると、それは意味があることなのかもしれない。それが誰かを救うことになるのかもしれない。けれども、ぼくはどうしても、そういった言葉に対して違和感を感じてしまう。なぜなら、だってあんた所詮は生き残っているじゃねえか、と思ってしまうからだ。無論、それは素晴らしいことだ、きっと。そうして、そういった言葉によって救われる誰かさんがいるとすれば、それも素晴らしいことだ。だけれども、やはり違うとぼくのなかの何かが呟いている。そのときそれは、結局のところ生き残った人間が生き残った人間に語った言葉に過ぎない。伝えられたという事実は、成功した、正義の、善意の、理性によって理解できる、分かりあえる、希望に満ちた言葉をしか残さない。
でもそうではない。ぼくらが本当に言わなければならなかったのは、聴かなければならなかったのは、ついに届くことのなかった言葉だったはずだ。ついに誰にも聴かれずに消えてしまった言葉だったはずだ。誰にも聴かれない言葉を残してこの世界から退場した誰かさんを前にして(しかしそれは決して前にできないという意味でのみ前にするということだ)、ぼくらは、生き残っているというただそれだけで暴力の波動を撒き散らしている。そうして時折、あるいはつねに、厚顔無恥にも言葉を発しさえする。きみを救う言葉などと思い上がり、残酷な暴力の塊を気分よく嘔吐する。
それはぼくとて同じことだ。ぼくにはどこかで、自分自身を含め、生き残った人間に対する憎悪がある。生きているということは、あまりにも醜い。それがぼくらの原罪だ。そして原罪である以上、ぼくらはそれを抱えたまま、なお生き残っていかなければならない。生きることは、生きている限りにおいて、ぼくらの義務だ。だからといってそれを当然のこととして居直るのであれば、それは本当の意味で救いのない醜さとなる。
「私も昔はとてもつらい思いをしてね……」「あのとき、あの言葉によって救われました」何れにせよ何にせよ、結局きみは生き残っているじゃないか。
最後には頭がどうかしていると思われるばかりだから、もう半分は伝わらないのだと諦めているけれど、ぼくがいつでも強迫観念のように追いつめられているのは、では、つらい思いをしてそこでお終い、死んでいった誰かさんはどうなのかということだ。あのとき、あの言葉によって、あの出来事によって、あの出会いによって救われなかった誰それさんはどうなのか、ということだ。だけれど、この世界から神を差し引いたとき、ぼくらは絶対にこの問いに答えることはできない。答えることができないから、ぼくらはそれを「議論の出発点」とか「解決すべき問題」とか「不幸な歴史」にしてしまう。そうして、聴こえない言葉は聴かないことにする。届かない言葉は言わないことにする。未来のことにだけ眼を向けることにする。だからぼくらには可能になる。恥知らずにも、きみを救うための言葉、などというものを発することが。
いや、きっとそれだけではないのだろう。もっと、人間性とやらを信頼すべきなのかもしれない。誰かさんが誰かさんに何かを言って、それで誰かさんが(それはどっちの誰かさんだろう)救われてハッピーエンド。でも、どうしてもぼくにはそこに意味があるように思えない。人間性があるから信頼するのであれば、それは当たり前のことだ。もし信頼というものに意味があるのであれば、それは人間性がないにもかかわらず信頼するからこそではないのだろうか。
コミュニケーションについても同様。もう聴くことのできない誰かさんに何かを語ること、もう語ることのできない誰かさんの言葉に耳を傾けること。それをコミュニケーションだとぼくは思う。その初手で、もう、論文でも学会発表でも、誰にも理解はされなくなる。だけれども、それでいい。ぼくもきみも、所詮は醜く生き残った人間だ。生きているだけでいまはもういない誰かさんたちに対して暴力を振るい続けるしかない原罪を背負った人間だ。
少なくともぼくは、自分が醜く生き残り、醜く生き残るしかないということを知っている。