drawing your face, drawing my eyes.

きょうは手洗いに立つとき以外はほぼ正座をしていました。ふと思ったのですが、これってなかなか凄いことではないでしょうか。食事のときも、椅子の上に正座をしています。どう考えてもおかしいのですが、最近笑いの少ない生活です。多少の可笑しさはあっても悪くはないでしょう。可笑しいといえば、先日眠っているとき、ふと気づくと腕を巨大なクモが這っていました。ぼくは土も虫も苦手ですが、フォルムのはっきりしている虫は平気です。なので、うわあこれは大きいなあと思いつつほいほいと放りだしたのですが、そのクモは、もう秋も終わりが近づいているからでしょうか、分かりませんが、だいぶ弱っており、足も4本しかありませんでした。可笑しさというものは、つねに、悲しみをともなっているものです。悲しくて、愛しいからこそ、可笑しさが生まれます。どうでしょう、伝わるかどうか分かりませんが、もちろんそれは、あははという意味ではありません。自転する地球の上のぼくらがみな大地とともに運ばれていくように、日が落ち、日が昇るたびに死へと向かって運ばれていくぼくらの人生を俯瞰する可笑しさです。

やれやれと思い、眼が覚めてしまったぼくは寝返りをうち、枕元のノートを開きます。暗い部屋のなかに蒼白い光があふれます。ヘッドフォンをして音楽を聴きつつブログなんかを書いたりします。それはきっと、外から見ればひどく閉じたものに見えるのかもしれません。でもほんとうにそうかな、といつも思います。モニタの向こうにあるのは何でしょうか。もちろん、ただの基盤です。でもやっぱり、それだけではありません。だけれども、そこにあるリアル、そこにある世界へとつながる経路というのは、なかなかに説明するのが難しいものです。芝生に寝っ転がって空を見上げて、背中がちくちくして風が心地よくて、日差しが眩しくてくしゃみをしたりして、でもそのリアルを、その空が地球上のどこにでもつながっていることの意味を、説明するのはとても大変なことです。

不思議なことに、きっとこの感覚は、こんなブログを読んでいる奇特な「きみ」にはおそらく何も言わなくとも通じるんじゃないかな、と「ぼく」は思うのだけれど、一歩アカデミズムの世界に入っていくと途端に通じなくなるのです。そこには何かユートピアなりディストピアなりがあり、そこに居ない人たちが語る世界にそこに居るはずのぼくはすっかり途方に暮れます。

でも、ぼくはここにあるリアルを知っています。知っている? いやそうではなくて、ぼくは感じています。それがリアルです。モニタとキーボードによってのみ接続された世界も、ノートを閉じて立ち上がり歩きだす世界も、どちらもシームレスにリアルな世界です。そうしてリアルな世界である以上、そこにあるのはただ苦痛だけで、のたうちまわるぼくらを、ぼくらは俯瞰して、そこに可笑しさと愛しさと、透明な寂しさを風のように魂と身体に受け取ります。

ぼくにとってのリアルを、きみにとってのリアルを、きみとぼくをつなぐリアルを、殺してほしくはないのです。だからぼくは、もう少しだけ、このくだらなくてどうしようもなくてでも「ぼくら」がそこに居るリアルとしてのインターネットについて、アカデミズムのなかで語ってみようと思うのです。

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