証明写真のストックが切れたので、近所の写真屋さんに行ったのです。ひさしぶりにスーツを引っぱりだし、ネクタイを締めたりします(普段会社に行くときは、以前友人にもらったジャケットと黒ジーンズでごまかしているのです)。スーツなんぞを着るとまるで真っ当な社会人のようですが、下半身はカーゴパンツに登山靴です。はっきりいって不審者です。けれども、登山靴でがしがし歩くのは気分良く、どこまでもどこまでも歩いていけそうです。そういって彼は時折歩いて海まで出てしまったりするので要注意です。
彼の彼女はフィールドワーカーなのですが、登山靴のことを「ザングツ」などと言ったりします。プロっぽいね。彼はそう思います。彼は自分の分野でそういうプロっぽい感じの言葉使いができないかしらなどと考えたりします。マルティン・ハイデガーを「マルデガー」なんてどうでしょう。ちょっとキュートな感じがしませんか。しませんね。だいいち、マルデガーはナチだから嫌いなのです。あの業突親爺のような顔からして無理です。むりむりむりむり。何だかカタツムリの行列のようです。うふふ、カタツムリみたい、などと呟きながら、写真屋さんへと歩いていきます。ザングツにカーゴパンツ。ワイシャツにネクタイ。婉曲にいっても不審者です。
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良い学者というのは、あたりまえですが、良い顔をしているものです。これは本当。まず間違いなく、学者として本物かどうかは一目で分かります。だいたい、お勉強が得意なのを研究だと勘違いしている研究者などというものは、「リアル」のない顔をしている。けれどもそういう自分だって、証明写真を撮る前に鏡を見せられると、別段リアルがあるわけでもありません。まあ、ぼくの場合はお勉強が得意ということはまったくなく、ただそれだけが救いです。それでもやっぱり、写真屋さんのひとに「レンズを見て、レンズを見て、トートトト」と何やら鶏を呼ぶように声をかけられながら、コーティングされたガラスに映る自分の顔を見るのが苦痛です。何とまあ気迫のないのほほんとした顔つきをしていることか。
そう、ぼくは顔を見るのも見られるのも苦手です。講義のとき、何十人と居並ぶ女の子たちを前に、いったいどこに目を向けたら良いのかいつも困惑しています。しかたがないので、白目を剥きながら「見るなっ! 俺をミルナーッ!」と裏声で叫びつつ、黒板に、鬼に追われるキース・ヘリング的赤ちゃんを書いたりします。いったい何の講義なのでしょうか。この前はシュミラクラ現象について話をしました。黒板に点を3つ描き、「これ顔に見えるじゃん? 見えるじゃん? これ顔、顔に見えるじゃん? 消せないじゃん、罪悪感すげーじゃんうわあああ!!」と絶叫しながら黒板消しで3つの点を消したりします。でも本当のことをいえば大丈夫。実際、起きて講義を聴いてくれている子はほとんどいません。みな嵐に倒れる稲穂のようにばたばたと眠りについていきます。「あの先生声が良いよね、すごくよく眠れる」ぼくは挫けません。だいいち、みんな眠っている方がぼくは安心なのさ、などと油断して顔を向けると、ぼくを凝視している生徒さんと目が合って失禁したりします。ぼくは講義が大好きです。
などと考えているうちに、証明写真も撮り終わったようです。6枚くらい撮られ、好きなものを選べといわれます。正直、みな白目を剥いて涎を垂らしているので、どれでも同じだろうという気がしますが、無難にいちばん最後のものにしておきます。「良いのを選んだな、小僧。そうでなければ死んでいた」みたい表情をした写真屋さんに怯えつつ、これでまたしばらくのあいだは、お祈りをされるためだけに公募に出すことができるでしょう。お祈りをされ過ぎて、最近どうも後光がさしてきたようです。もう少しすればきっと、雲間からレンブラント光線だってだせるでしょう。
会社も、来季の契約を無事に更新できそうです。あと1年、という区切りで考えるのであれば、これでどうやら、またもう少しだけ生き延びることができそうです。パスポート以外には身分を証明するものなど一切ない生活ですが、そもそも保証された身分なんて幻想にすぎません。
ああ、早く何もかもが滅茶苦茶にならないかなあ! などと思いつつ、でもやっぱりそうじゃないよね、などとも思いつつ、その「そうじゃないよね」にかけられた気が狂いそうなほどの凡庸な苦痛だけを誇りに、毎日じみじみ生きています。