来週からまた講義が始まります。前回よりは面白い講義にしたいので、それなりに資料を集めつつ、講義の準備をしなくてはなりません。今月締切の論文もあるので、なかなかに忙しいです。だけれどもまあ、それについてはどうとでもなります。一年近く……かどうかはもはや思いだせないのですが、ともかく長いあいだ関わっていた論文も、この10月半ばにはようやく出版されるそうです(そのなかの1章を書いているに過ぎませんが)。みなさんの目に触れることはまずないかと思いますが、このブログの雰囲気にかなり近い内容ですので、もしお読みいただければ、ああこれはあれが書いたものだなと、きっとお分かりいただけるだろうとも思ったりします。そういった偶然の出会いというか何というか、それがぼくは好きなんです。
名前とかって重いじゃないですか。ぼくは重いんですよね。声の大きさってつらいじゃないですか。ぼくはつらいんですよ(白目)。誰が、なんてことは本当にどうでもよくて、誰かさんでかまわないわけです。たまたま手に取った本のページの隙間から微かに聴こえてくる誰かさんの声。偶然それが誰それさんに届くことを夢想しているときが、何だかんだでいちばん幸福なのかもしれません。
話がずれていくわけですけれども、だから、ぼくはアイデンティティの危機云々というお話には、基本的にはほとんど関心がないのです。先日、相棒と二人でとある美術展に行ったとき、あるひとの作品に記されたサインが何故だか本当に嫌で嫌で、彼女とため息をついてしまいました。
アイデンティティなんてものは、在るとすればどうしようもなく在るのだし、同時に、別段なくたってどうということもないものです。もちろん、そんなことを言えるのは、「在るとすればどうしようもなく在るのだし、同時に、別段なくたってどうということもないもの」だと言いきってしまえる誰それさんだけであって、アイデンティティの危機に苦しむ誰かにとってそれは、在ることに確信を持てず、ないかもしれないことへの途轍もない恐怖を抱えているわけですから、話は平行線になってしまうのですが……。
ぼくは神を一切信じてはいませんが、人間の魂が不壊であることは知っています。この「ぼく」という、社会的に、言語的にあるいは生物学的に規定された特定の構造をはるかに超えたところにある、透明で無音で、だけれども荒々しくうねり、決して到達し得ない究極へと突き進み続けるナニモノかが在ることを確かに知っています。何か変な宗教みたいですね。
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最近あまりにも憂鬱なことが多いので、数日のあいだ、口をぱっくり開けて涎を垂らしながら、自分を自分だと意識している自分ってどこにいるのかな、などと身体のなかを探っていました。自分、要するに無音でも透明でもないこのぼくという有限で刹那的な誰かのことです。こういうのってチョータノシイ(裏声)! で、まあこれはあくまで主観ですけれども、どうも指先には「ぼく」はいないように感じる。肘とか腰にもいなさそうですし、背中にも肩にもいなさそうです。それはそうで、現代自然科学の影響下にあるぼくらは、それが頭にあると自然に思ってしまっている。でも頭といっても大きいわけで、もう少し場所を突き詰めたい。いや何のメリットもないのですが。
ぼくは頭痛持ちでして、頭痛が酷いときには脳の一部がブラックアウトしているのをリアルに感じます。他のひとはどうなんだろう……。で、そのブラックアウトしている部分というのは、頭の中心部分なのですね。あ、当然ですが、この話、一切の科学的根拠とかないですよ。もちろんブラックアウトしていても自分という意識はあって、それが、電源断で真暗になった脳の中心を眺めているのを感じます。誰、なんていう話は、所詮そんなものです。頭蓋骨の裏側をのたのた無様に這いまわっている幽霊みたいなもの。もちろん、だからこそ愛しいということもまた確かです。
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在郷軍人病ってご存知でしょうか。ぼくも知らないのですが、子供のころ、何かで読んだか聞いたかしたのです。いまWikipediaを読んでみると、1976年、ペンシルベニア州の在郷軍人会において、近くの冷却塔から排出されたエアロゾル経由で多くの人びとがレジオネラ肺炎となり、そこからこの名前がついたとのことです。どこでそんなことを知ったのかはもはや覚えていませんが、あるとき、ぼくは父に言いました。在郷軍人病って知っている? 父は即座に、そんな病気あるわけないよ、と言いました。確かに奇妙な名前ですが、どうもぼくの血筋というのは、根拠もなしに断言するひとが多いようです。ぼく自身そのサラブレッドなんですけれど、困ったものですね。ともかく、父に否定されたからといって大人しく引き下がるような子供ではありません。へへん、在郷軍人病も知らないなんてとんだ無知だね、困っちゃうね、恥ずかしいね。もちろん、そんなことを言うぼくだって、在郷軍人病が何かなんて知りもしないのです。昔はインターネットなどありませんでしたから、ちょちょっと調べることもできません。結局そのときは、互いの無知を憐れみあって終わりました。
それから何年もして、あれはもうぼくが会社に勤めたあとでしょうか。再びぼくは、父に在郷軍人病の話をしました。このときは、本だか新聞だか忘れましたが、ともかく何か資料があったのです。すると父は、ああそう、そういう病気があるの、ふーん、という極めて薄い反応しか示しませんでした。考えてみればこれは当然で、むしろあのときあるとかないとか言い争っていた必死さのほうが不思議なのですが、ぼくとしては何年か越しの怨念の持って行き場がありません。いやだってあのときあなた凄い否定したじゃないですか、と言っても、そうかしら、としか戻ってこないことの虚しさ、侘しさ。いやそこまで思っているわけでは無論なくて、コンコンチクチクコンチクショウ、くらいにしか感じてはいないのですが、それにしてもどうして在郷軍人病などという言葉がそこまでぼくにとって引っかかるものになったのか。
我ながら不思議ですが、いまでもぼくは、街を歩いていて空調の排気やら冷暖房の風がぶわっと吹いてくるところを歩くときなど(しかしこれ、関係があるのでしょうか、分かりません)、あっ、危ない、などと思いつつ、あの二度に渡る父とのやり取りを必ず思いだしながら息を止めて通り過ぎたりするのです。
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それは、確かにぼくのなかにある、忘れることのできない記憶のひとつです。だけれども、誰の頭のなかにあったって良いのです。父とのやりとりや、ぼくが街中を歩いているときの奇妙な習性、そういったすべてのことを含め、それは誰でも良い誰それさんの頭のなかにあって、誰もが知っている、けれど誰のものでもないここではないどこかを漂っています。誰かさんと誰かさんの共有した時間として、それは永遠に在り続けています。