信仰心の対極にあるにもかかわらず神学士を持っているクラウドリーフさんは、同じように、土を触れないにも関わらず農学の博士号を持っています。最近、とある事情があって、ほんの数日ですが、小さな植木鉢を家のなかに入れなければならなくなりました。いったいそれがどうしたというのでしょうか。普通のひとには分からないかもしれませんが、土を怖れるクラウドリーフさんにとっては生命の危険を感じる非常事態です。いえ、土そのものが怖いわけではありません。土のなかに潜む、あのあれ、あれあれ、口にだすことすら憚れる名状しがたきあの者どもが怖い。鉢植えのなかとか、想像するだにふんぐるいむぐるうなふという感じです。手のひらに載るような植木鉢ですが、もうそれだけで、その鉢植えを中心に家全体が不定形の悪夢に満ちた異界へと変貌します。気分はもうエイリアンのシガニー・ウィーバーです。「なーに、たかが有機体じゃないか」その有機体が怖いっつってんだよ! と彼は映画に逆切れします。
けれども、クラウドリーフさんはこれでなかなか才能ある魔法使いなのです。彼は台所に行くと何やら持ちだしてきて、さっそく植木鉢の周りを大きく取り囲むように結界を張りました。そう、塩です。ぼくの、いや違うクラウドリーフさんの苦手なあれは塩が苦手なので、出てきたとしてもびっくり、慌てて植木鉢へと引き返していくことでしょう。
これは、歴とした魔術です。クラウドリーフさんは、妙に座った目つきでそんなことを言います。彼は自分のことを20世紀最高の合理主義者などと思っていますが、同時に魔法を使うこともできると思っています。別段、それは彼のなかで矛盾するものではありません。というより、矛盾などあってあたりまえです。ぼくは本当に嫌いなんですけれども、何かっていうと「西洋」に対する「東洋」みたいなものを持ち出したり、あるいは「一神教」に「多神教」を対置したりすることってありますよね。で、たいていそういう文脈だと二元論はダメだみたいな話になるけれど、その主張自体が二元論だったりして、聞いているとその浅薄さに頭がどうかしそうになります。
もちろん、その混沌を混沌として受け止めるだけではなくて、そこに言葉でもってあるかたちを呼びだすこともできるし、ぼくらはつねにそうしている。でも、それだって立派な魔術です。それは理性なんかではなくて、何よりもまずはじめに魔術なんですね。言葉が持っている力というのは、そういうものです。混沌とした世界に全面的に触れているぼくらから生みだされるからこそ力を持つ。直感的にそのことを理解していないのであれば、結局のところそれは魔術を使うのではなく、魔術に使われているに過ぎない。そう考えてみると、研究者を名乗る多くの人びとがつまるところ式神のようなものでしかないということにも納得がいきます。
ある日、とある裏通りを歩いていました。すると何やら微かな噴出音とともに、化学的な匂いがただよってきます。「うっ!」クラウドリーフさんは呻きます。これは殺虫剤です。草生した敷地のむこうに古びたアパートがあるのですが、その一階の部屋で、おじいさんが殺虫剤を噴射しているようです。ゴキブリでもいたのでしょうか。少しもごもごした声で、おじいさんが「死ねよ」と言っています。クラウドリーフさんはこういうときだけ無駄に耳が良いので、微かに届く様々な音から、その部屋の光景をまざまざと思い浮かべることができます。「死ねよ」ふたたびおじいさんが冷静な憎しみをこめていいます。呟くでも叫ぶでもない、その自然な発声が逆に鬼気迫る雰囲気を生みだしています。ともかく、クラウドリーフさんはその言葉と殺虫剤によって死にそうになります。這う這うの体でそのアパートから遠ざかりました。
家に帰り結界を確認すると、どうやら最初から失敗していたらしく、大きく抜け道があることに気づきました。所詮、クラウドリーフさんの魔法なんてこんなものです。まあ、それはそれだと彼は諦めます。その抜け道から何がでてきたのか、そもそも植木鉢のなかには何かがいたのか? 彼には何も分かりません。家のなかは既に太古の恐怖に満ちた暗黒宇宙と化しています。だけれどもその混沌と恐怖が、彼にとってはなぜか心地よいのです。